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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(2)

2013-05-15 18:58:32 | 日記
 『裸のランチ』に出てくる架空の都市「インターゾーン」のモデルとなっているのは、バロウズが1952年から1954年にかけて滞在した、モロッコのタンジールです。この頃のタンジールについては、山形浩生『たかが、バロウズ本』のp.112~p.115に分かりやすくまとめられています。また、同書p.112に「タンジールの位置づけと文化的な風土については、ミシェル・グリーンの名著『地の果ての夢タンジール ボウルズと異境の文学者たち』にかなり詳細に書かれているので本格的に興味のある方はこっちを読むといいだろう」と紹介されている新井潤美・太田昭子・小林宣子・平川節子訳『地の果ての夢タンジール ボウルズと異境の文学者たち』(1991年、邦訳は1994年・河出書房新社)は、当時のタンジールについてよく知ることができ、かつ、読み物としても魅力的な本でした。この2冊を中心に、「インターゾーン」のモデル、タンジールについてまとめてみたいと思います。
 まず、タンジールの基本的な情報を、『日本大百科全書(ニッポニカ)』(ジャパンナレッジ)から抜粋してみましょう。

 北アフリカ、モロッコ最北部のジブラルタル海峡に面した港湾都市。地中海の入口という戦略的位置から、強国の争奪の的となった歴史を持つ。〈略〉 19世紀にふたたびヨーロッパ列強の植民地化の波が押し寄せ、タンジールは鎖国体制にあったモロッコの外交都市となった。1905年第一次モロッコ紛争の発端となったタンジール事件が発生、12年モロッコはフランス、スペインの保護領として分割され、タンジールは特別にフランス、スペイン、イギリス3国の国際委員会の管理下に置かれた。23年にはイタリア、ポルトガルなど5か国を加えた委員会による国際管理地区となり、25年永世中立の国際都市を宣言し、タンジールは自由貿易港として発展した。40年に一時スペインが占領したが、45年アメリカが加わった国際管理委員会が復活した。1956年3月モロッコの独立に伴い、同年10月モロッコに返還された。

 第二次大戦後、国際管理地区(インターナショナル・ゾーン)となったタンジールは、関税がかからない自由貿易港として発展しました。自由貨幣が流通し、一方、密輸や麻薬取引が横行する街でもありました。『地球の歩き方 モロッコ』(2012・13年版)には、「ちょっと前まで、タンジェは国際商人でごった返し、密輸やスパイの舞台だった。エキゾチックで危うさの漂う町、しかしそこには自由がある……そんな魅力が、芸術家たちを引きつけた。マチスやドラクロワといった画家、ポール・ボウルズ、ピエール・ロティといった文学者などの創作に大きな影響を与えた」とあります。「1947年にボウルズがみずから進んでタンジールに落ちついてから、多くの西洋の知識人が続々とこの地に集まってきた」(ミシェル・グリーン『前掲書』p.13)というように、ボウルズはタンジールに滞在していた文学者の中でも代表的な人物でした。「殺人と強姦以外は何をしても許されるという風潮が蔓延していた」(同書p.12)タンジールには、知識人や金持ちに加え、ならず者も多く流れ込んできていました。例えば、「ゲシュタポのスパイでムッソリーニの拉致に関わったオットー・スコルゼニは、かつてナチス将校だった仲間と組んで、タンジールで武器供給業を営んでいた」(同書p.15)というように。
 バロウズが1952年にタンジールを訪れたのは、「ドラッグや同性愛方面の期待と同時に、ボウルズ夫妻がここにいるからだった。ボウルズは1948年の『シェルダリング・スカイ』で世界的な名声を獲得。バロウズは作家としてのアドバイスを求めてボウルズを訪ねた。」(『たかが、バロウズ本』p.114)という理由からですが、バロウズが求めた、タンジールの自由で背徳的な雰囲気は、タンジールがモロッコ独立運動の拠点となったことで変化していきます。モロッコが独立するのは1956年ですが、バロウズがタンジールを訪れた頃から、町のあちこちで政治紛争が起こるようになりました。『たかが、バロウズ本』p.114には「まさにバロウズがここにやってきたその年、1952年の暴動を契機に、タンジールは不況へと陥る。先行きの不安から投資も沈滞し治安の悪化を恐れて金持ち観光客も減少、それまでの華やいだ雰囲気は急速に薄れる」とありますが、このあたりの様子について、『地の果ての夢 タンジール』では次のように記されています(p.220~221)。

 もはや船ごとに、裕福な旅行者と野心的な移住者たちが到着するということはなくなった。がら空きのホテルと工事も半ばのまま放置された建物が並ぶ新市街には堅苦しい沈黙が襲った。港は、密輸業のほうはまだ利潤が上げられたにもかかわらず、最盛期の狂気じみた雰囲気を失っていた。〈略〉このタンジールの落ち込みぶりにウィリアム・バロウズはインスピレーションを感じたのである。〈略〉彼は、自分が目にしたこと、すなわち、すべての規則が一時停止し、退廃してぼろぼろになった町を題材に、無政府状態を小説化していた。「インターゾーン」はとてつもない人物が混在する話である。そこは、堕落した人々の交錯する地だった。貪欲な現地人と、感傷的な気取り屋と、夢に破れた人と、流れ者の強盗とが、それぞれ新しい人生をはじめるために必死になっている。幻影に目をくらまされて、バロウズの描く逃避者たちはその場が消滅しつつある場所であり、都市同様自分たちもやがてエントロピーのいけにえとなるであろうことを理解しない。彼は「インターナショナルゾーン」と題された初期のエッセイの中で、「タンジールはエネルギーがどこに向けても同じだけ発散しているため身動きがとれない。その結果、滅びかかっている宇宙のように衰えてきている」と書いている。

 ここで「インターゾーン」「インターナショナルゾーン」と呼ばれているバロウズの著作は、「晩年のバロウズが金に困って発表した、これまた『裸のランチ』の初期バージョンからの抜粋。もともと『裸のランチ』の作業タイトルは『インターゾーン/裸のランチ』だったが、最終的にまとめたものからはかなり削られた。そしてその一部が、アレン・ギンズバーグの資料の中から見つかってバロウズに送られ、その中の特に「WORD」という長めの章を中心に、当時書かれた小話をあわせて出版されたものである。」(『たかが、バロウズ本』p.66)を指していると思います(ウィキペディア(英語版)も参照)。
 『たかが、バロウズ本』には、「留意すべきなのは、バロウズがやってきてからタンジールの状況はひたすら下降線をたどっているということだ。ドラッグ環境の面でも、おそらくは物価面でも。「すべてはどんどん悪くなる」というバロウズの世界観は、おそらくこのタンジールでの経験にも裏打ちされている。そして悪くなったあげくに、ものすごい締めつけの警察国家が出現するというイメージも、ここの経験とおそらくは無縁ではない。」(p.114)とあります。こうしたタンジールの状況をふまえて、『裸のランチ』の「インターゾーン」の描写の一部を見てみたいと思います(p.154~155。なお、太字にしたところは邦訳では傍点が打ってあります)。

 ありとあらゆる国の麻薬を作るにおいが市の上空におおいかぶさっている。アヘンやマリファナのどろんとした樹脂のような煙、ヤーヘの樹脂脂質の赤い煙、ジャングル、海水、腐った川の水、ひからびたくそ、汗、生殖器などのにおい。
 山岳地方のフルート、ジャズ、ビーバップ、一本弦のモンゴル人の楽器、ジプシーの木琴、アフリカのドラム、アラビア人の風笛……
 市は猛烈な伝染病に襲われ、ほったらかしの犠牲者の死体は、街なかでハゲタカの餌食(えじき)になる。白子(しろこ)たちは日なたで目をしばたたき、少年たちは林の中にすわってものうげに自慰を行う。未知の病気にむしばまれた人びとは、悪意のある抜け目のない目つきで通行人を見つめる。
 市のマーケットの中には「ミート・カフェ」がある。エルトリア語でいたずら書きをする時代遅れのとてもありそうもない商売の信奉者、まだ合成されていな麻薬の常用者、〈略〉第三次世界大戦のやみ商人、テレパシーによる感受性をもった収税史、精神の整骨療法家、おとなしい偏執病の西洋将棋さしが告発した違反の調査者、幽霊省の官僚、設立されていない警察国家の役人、バングトット作戦――睡眠中の敵を窒息させる肺臓勃起――を完成した一寸法師の同性愛女〈略〉海底や成層圏の疾病、実験室や原爆戦の病気などの治療に熟練している医者……知られざる過去と不意に出現する未来とが音のない振動音のなかで遭遇(ミート)する場所だ……幼虫的実在物が生きた実在を持っている……

 これでもかという位の、醜悪な要素が遭遇する場所が「インターゾーン」で、行き詰まりの場所であるにもかかわらず、さらに悪い方へ向かっていこうとする負のエネルギーで満ちている、そんな印象を受けます。

「Interzone」――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ(1)

2012-10-10 20:59:35 | 日記
 ジョイ・ディヴジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』に収録されている「Interzone」の解釈をめぐって、イアン・カーティスとウィリアム・バロウズについてのいくつかの覚書を綴ってみたいと思います。

 「インターゾーン」はウィリアム・バロウズの『裸のランチ』に出てくる、架空の都市の名です。1952年に誤って妻を射殺してしまった後、バロウズが移住したモロッコのタンジールがモデルとされています。
 『裸のランチ』は、1959年にパリで、1962年にニューヨークで出版されました。舞台となっているのは、超警察国家の“併合国(アネクシア)”、自由な“フリーランド”、そしてこの二つの国の境界にある都市“インターゾーン”です。“併合国”は共産主義国家(ソ連)をイメージさせ、“フリーランド”は資本主義国家(アメリカ)をイメージさせます。勿論、どちらが住みにくく、どちらが暮らしやすいといった単純な話ではありません。「ここの住人たちは順応性に富み、協力的で、正直かつ寛大、とりわけきれい好きだ。」というフリーランドも、実は「表面は衛生的に見えるが内部ではすべてが良好というわけではない」のです。
 『裸のランチ』は、以前一度読んだことがあったのですが、その時読んだのは1987年に河出書房から出版された単行本(新装版)でした。この1987年の新装版には、本編の他に、訳者鮎川信夫氏による、1965年7月付の「解説」と、1971年2月付の「『裸のランチ』ノート(補)」が付されています。1965年に出版され(1971年に訳者のノートを追加)、1986年に鮎川氏が死去された後、1987年に私が読んだ新装版が出版されたのです。
 そして今回、2003年に出版された河出文庫版で読みなおしました。この文庫版は、1992年に完全版と銘打って刊行されたものの文庫化のようです。従来(完全版以前)の単行本と文庫版との大きな違いは、1959年にパリで出版された後に加わった序文と補遺が、山形浩生の補訳により収録されていることです。さらに、1959年の初版本出版後に行われた加筆と構成変更も反映されています。山形氏の文庫版の解説によれば、1965年初版の単行本は、1959年にパリで出版された初版本を底本としているらしく、文庫版は1986年にイギリスで出版されたものを底本としています。
 以前読んだ時の読後の率直な感想は、麻薬中毒患者の描写が非常に汚く、生理的に嫌悪感を催すこと、くらいでした。山形浩生『たかが、バロウズ本』(2003年 全文PDFファイル)の第2部第5章「他人の評価」に、バロウズの作品は「気持ち悪くて退屈でわけわからない」とある、まさにその通りでした。特に、生理的な気持ち悪さをかなり実感しました。また、分からなくて当然という前提で読んでいたようなところもありました。しかし、今回序文を読んだことで、かなり印象が変わり、この作品のテーマについて、自分なりに理解したいという意識が生じました。
序文の中から印象深かった一部を引用してみます。

 麻薬ピラミッドは、あるレベルがその一つ下のレベルを食い物にするようになっていて、(麻薬取引の上のほうの人間がいつも太っていて、路上の中毒者がいつもガリガリなのは偶然ではない)それがてっぺんまで続いている。そのてっぺんも一人ではない。世界中の人びとを食い物にしているさまざまな麻薬ピラミッドがあるからで、そのすべてが独占の基本原理に基づいてたてられている。(略)麻薬は独占と憑依の原型だ。
       序文 宣誓書――ある病に関する証言

 単に麻薬患者の悲惨さを描くというだけならば、併合国やフリーランド、インターゾーンといった設定は不要なはずです。こうした悲惨な状況が生じ、あちこちで繰り返される世界の構造が、『裸のランチ』には示されているのではないかと思えてきました。麻薬中毒患者は、人間社会の悪の象徴のようにもみえます。併合国であろうとフリーランドであろうと、違うのはそのシステムの在り方だけで、どんな形態の国家であれ、人間は、大きな力によって操られ、支配され、中毒患者になっていく――そんな人間社会の構造が表されているように感じました。
「『現在』の牢獄にとじこめられた人間の醜悪さと現代文明の底に横たわる地獄の恐ろしさを大胆に描き出した。」「いかなる人間もジャンキーと変りないものだという認識は、現実を回避したがる多くの人びとに嫌悪を催させ、身慄いさせるかもしれない。」(訳者あとがき)ということは、例えば「ベンウェイ」と名づけられた章(従来の単行本では独立した章にはなっていませんでした。加筆により新たに立てられた章で、1987年の新装版では32ページから61ページ)から特に実感できました。
併合国で「完全道徳頽廃」という任務を遂行したベンウェイ医師は、フリーランドに顧問として招かれ、“再条件化更正センター”を管理しています。そこでは例えば精神分裂病患者をジャンキーに“更正”するという治療が行われています。それは、「私は長い医者稼業を通じて、精神分裂病の常用者を見たことは一度もない。常用者はたいてい肉体分裂病なのだ。だれかの何かを治したかったら、その何かを持っていない人間を見つけ出すことだ。では、精神分裂を持っていないのはだれだ? 常用者が持っていないではないか」(p.61)という理由からです(「常用者」に「ジャンキー」のルビが付されています)。
ここにはジャンキーの他にも、様々な「逸脱者」が患者として収容されていますが、ある日、その患者たちが外へ出されてしまうという事件が起きます。ベンウェイはその報告を聞き、「驚異的だ! すばらしい!」と、屋上からその光景を眺めます。患者たちは「レストランのテーブルの前を取り巻いて、あごから長いよだれをたらし、胃をごろごろいわせている。また、女たちの姿を見て射出する者もいる。(略)麻薬中毒者はドラッグストアの強奪をやって、いたるところの街角で注射を打ち……緊張病患者は公園の装飾物になり……興奮した精神分裂病症患者は、人間ばなれのしたわけのわからぬ叫び声を上げて、街路を走り回っている。」といった、「前代未聞の恐怖の光景」「フリーランドに跋扈している言語道断な状態」の描写が延々と続きます。そして、この章の最後は、この騒ぎを何とかくいとめようとする「商工会議所」の、「『どうか落ち着いてください。暴動を起こしたのは狂った場所からきた少数の狂った人間だけなんです』」という呼びかけで結ばれています。この言は、逆接的に、「こうした人々は一部の少数の人間だけということではすまされない」ということを示していると思われました。これらの人々は、“ピラミッドのてっぺんにいる人間”が意図的に作りだし、社会に送り出しているもので、不幸な偶然から生まれたものではなく、必然的な存在だとも読み取れます。こうしたことをふまえると、この小説に描かれているぞっとするような醜悪な人間の姿が、単なる嫌悪感だけではなく、もっと恐ろしい、身近なものとして捉えられてきました。
 
 さて、ジョイ・ディヴィジョンの1stアルバム『Unknown Pleasures』に収録されている「Interzone」についてですが、バロウズの『裸のランチ』の影響であることは間違いないでしょう。タイトルに文学作品の影響が読み取れるのは、このほか「Dead Souls」(ニコライ・ゴーゴリの同名の小説、邦題『死せる魂』)、「Atrocity Exhibition」(J・G・バラードに同名の短編集、邦題『残虐行為展覧会』)があります。前記事「プラン・Kでのイベント」で紹介したバロウズのファンサイト、Reality Studioには「Ian Curtis, Reader」という項目があり、イアンの読書についてのいくつかの証言が書かれています。はじめに紹介されているのが、8 January 1980, in Alan Hempsell, “A Day Out With Joy Division,” Extro, Vol.2/No.5. で、 1980年1月8日付のアラン・ヘンプセルによるインタビューからの抜粋です(インタビューの全文)。

 私はイアンに、彼がJ・G・バラードとウィリアム・バロウズの作品を愛好していることについて尋ねた。彼が、バラードの『クラッシュ』(私の個人的お気に入りだ)、『終着の浜辺』、『残虐行為展覧会』、『ハイ・ライズ』、バロウスの『ソフト・マシーン』、『裸のランチ』、といった作品を含む、二人の作家の選集を読んでいたことを私は知っていた。彼はまた、『APO-33 』と呼ばれるバロウズの小冊子をたまたま持参していた。私はそれをながめ、とても興味深いと思った。私はこれらの本がイアンの詩に与えた影響について尋ねた。

「たぶん、潜在的にこびりついていると思うけど、意識はしていない」

 Reality Studioにはここまでしか引用されていませんが、元記事の方はこう続きます。

“Welcome To The Atrocity Exhibition”についてはどう?明らかにバラードの影響では?

「実は違う、あの詩は『残虐行為展覧会』を読む前に書いたもので、タイトルを考えていたんだ、時々、いいタイトルを思いつけないことがあって。とにかく、ちょうど本の冒頭のタイトルを見て、詩の観念とぴったりあうと思ったんだ。詩を書いた後や、歌が出来上がった後で本を読んで、本の中に詩と類似した観念があって、符号することは時々あるんだ。」

 Reality StudioのサイトのIan Curtis, Readerの記事は続けて、イアンが高校時代に通っていた、マックルズフィールドの本屋について記しています。David Britton と Michael Butterworthが経営していたこの書店は、コミックやSF小説、ドラッグ関連、広告など、普通の書店にはない、ちょっと変わったものが置いてある書店だったようです。まず、ジョン・サヴェージが『ガーデン』誌に書いた記事からの引用で、「イアンはスティーブン・モリスとともに、店の常連だった。」「イアンは、バロウズやバラードが特集された雑誌『New Worlds』を中古で買っていた。」「口を開けばバロウズ、バロウズ、バロウズの話をした。」という、 Michael Butterworthのコメントが記されています。また、Michael Butterworth自身の、2008年4月付のEmailによる証言が載っていて、イアンの読書の好みについて、「カウンターカルチャーやSFを好んでいた」とあります。
 一方もう一人の経営者David Brittonは、2008年3月13日付のEmailで、「イアンはジョン・サヴェージが言っているような読書家ではない、よく言っても“A skimmer(表面をざっと読む人) ”だ、しかし、本質をつかんで引用することに長けていた。マックルズフィールドの奴にしては大した能力だと思う。」とコメントしています。

 熟読していたのか、斜め読みだったのかは分かりませんが、“自分が詩にこめた観念と文学作品の中にある観念が反応することがあり、時にその作品のタイトルをそのまま詩のタイトルにしていた”、という発言からみて、イアンが文学から受けた刺激をもとに詩を書いていたことは間違いないと思います。そして、バロウズはイアンにとって、最も刺激的な作家の一人ということなのでしょう。イアンが書いた「Interzone」と、バロウズの『裸のランチ』に描かれている都市「インターゾーン」は、表面上あまり共通しているようには見えません。『裸のランチ』との共通点を“ここだ”と指摘できるような箇所はありません。表面的な部分ではなく、内面的な観念が響き合っているのだと考えられます。
 イアンの「インターゾーン」を読むと、描かれている都市はマンチェスターなのではないか、という印象を強く持ちます。また、「Shadowplay」と似ていると思われるところがいくつかあり、「Shadowplay」は「インターゾーン」を煮詰めたような作品ではないか、と感じます。
 次に『裸のランチ』の「インターゾーン」の描写と比べながら、整理してみたいと思います。

プランKでのイベント――イアン・カーティスとウィリアム・バロウズ

2012-02-08 21:48:11 | 日記
 プランKは、ベルギーのブリュッセルにあったイベント・ホールです。砂糖の精製所を改装した建物で、複数のパフォーマンススペースがあり、観客は音楽・ダンス・映画・美術など様々なジャンルのアートを楽しむことができました。
 1979年10月、プランKのオープニングセレモニーとして企画されたイベントの興行主だったのが、のちにイアンの愛人となるアニック・オノレと、ジャーナリストのミシェル・デュバルです。ジョイ・ディヴィジョンは、同じファクトリー・レーベル所属のバンド、キャバレー・ヴォルテールとともに出演しました。このイベントにはウィリアム・バロウズが招かれ、自身の著作『第三世界』を朗読するというライヴを行いました。
 イアンはバロウズの愛読者で、信奉者でした。 

 イアンはバロウズの大ファンだった。彼の作品は脱工業化(ポスト・インダストリアル)の悪夢的なもの。内容はというと――偏狭で道徳感が欠如していて、皮肉で悪意に満ち、全体主義的で暗く欲深い、異常な西欧社会。知覚の奥義、カットアップ……すべてかみ合ってた。そして示唆してもいた。アートや文学の発想を取り入れたら粗悪なグラム・ロックやプログ・ロックさえマシになるんじゃないかと。(ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』)

というジェネシス・P・オリッジの発言は、イアンがバロウズに惹き付けられた理由を窺わせます。
 そして、「そのフェイバリットに〈プランK〉でむべなく追い払われたエピソードはピーターの語る定番ネタ」と、ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』のパンフレットにはあります。映画でのピーター・フックの発言は次のようなものです。

 イアンはバロウズから本をもらおうと考えた。著作を全部読んでたので、タダでもらえると思ったんだ。なぜだかね。俺とバーナードは面白がって付いてった。バロウズは朗読を終えるとサイン会を始めた。イアンは行き、俺たちは柱の影でクスクス笑い、バロウズが何か言った。聞こえたのはひと言“うせろ、ガキ!”
 俺たち笑ったの何の、イアンは赤っ恥だ。

 このエピソードについて、バロウズのファンサイトReality Studioは「バロウズと親しい者なら誰しも、彼がファンに対して“失せろ”と言うなど考えられない。バロウズは常に礼儀正しくあろうとし、古風とさえ言えるようなマナーで接していた。ファンや信奉者に寛大で、カーティスのように若くてハンサムだったらなおさらだった。なぜそんなやりとりになったのか? カーティスがバロウズを侮辱したのか? バロウズの機嫌が悪かったのか?」という疑問を呈し、検証を試みています。ここには、イアンが高校時代に通っていた書店の経営者が、イアンのバロウズへの熱狂ぶりを語るメールインタビューなどもあり、興味深いのですが、今回はとくに、プランKでのバロウズとイアンについて、気になった証言を取り上げてみたいと思います。
 まず、アニック・オノレとともにイベントの興行主であったジャーナリストのミシェル・デュバルの証言です。2008年4月22日付の、Emailでの返答です。

 僕はあのプランKでのギグを企画し、バロウズとジョイ・ディヴィジョンにインタビューをした。インタビューは、プランKで、イベントの前に行われた。バロウズはとても愛想がよく礼儀正しく……イアンとロブ・グレットン(ジョイ・ディヴィジョンのマネージャー)、そして、カット・アップでいうとCabs(キャバレー・ヴォルテール)がいた。ショウの最後にイアンがバロウズに抱き留められていたことをよく覚えている。何を話していたかは分からないが。

 イアン自身の発言としては、1980年1月8日の“A Day Out With Joy Division,” Vol.2/No.5.に載ったインタビュー記事の抜粋が載せられています(元記事はこちらで読むことができます)。イアンはこの件に関しては、「バロウズに本をもらえるかどうか頼んだけれども、彼は持っていなかった」とだけ言っています。アニック・オノレは2008年4月21日付のEmailで、「ブリュッセルでのバロウズについて、特に何も覚えていないし、後でイアンから聞いたこともない」と答えています。
 そして、キャバレー・ヴォルテールのリチャード・H・カークの2008年4月28日付のEmailでの返答から、いくつか抜き出してみます。

 ウィリアムがイアン・カーティスに「失せろ」と言ったかはかなり疑わしいと思う。僕はバロウズにプランKで会った。ウィリアムの知り合いだったThrobbing Gristleが、僕をジェネシス・P・オリッジの友人だと紹介した。バロウズは僕のことを知らず、キャバレー・ヴォルテールのことも知らなかった。しかし、とても友好的で、礼儀正しい老紳士だった。キャバレー・ヴォルテールのバッジをあげたくらいだよ。彼はそれをポケットに入れていた。これがバロウズとの初対面だった。

 プランKでの忘れられない思い出は、イアンやバロウズ、そしてジョイ・ディヴィジョンやキャバレー・ヴォルテールの他のメンバーたちと同じテーブルに座っていた時のことだ。イアンはウィリアムにSuicide(バンドの名)についてどう思うか尋ねた。バロウズは自殺という行為のことだと思ったようで、「賛成しない」と言ったんじゃなかったかな。

 それから、ジョイ・ディヴィジョンのローディーだったテリー・メイソンの証言が上げられています。これは、"Torn Apart―The Life of Ian Curtis"からの引用です。"Torn Apart"にはp.164~p.165にわたってプランKのイベントについての記述があり、テリーの発言はp.165に記されています。

 次の日、僕たちはギグに行き、イアンはバロウズが朗読しているところに行こうと決めた。大ファンだったから。イアンはバロウズに自分がどれだけバロウズのことを偉大な人物だと思っているか伝えようとした。説明を繰り返しながら、イアンはバロウズが自分について何かしら知っていないかと期待していたけれど、バロウズはイアンのことを全く知らず、大勢の中の誰かという感じだった。

 ドキュメンタリー映画でのピーター・フックの発言だけでは分からない、当時の状況が、これらの発言から窺えるように思います。イアンが本をもらおうと考えて断られたという出来事以外にも、イアンとバロウズの間には交流があったようです。初対面の時は、もしかしたらリチャード・H・カークがそうであったように、友好的に接してもらえたのかもしれません。そして、本をもらおうと考え、頼んだところ、断られた、ということではないでしょうか。“バロウズが自分について何か知っているかもしれない”と期待していたというところに野心家だったというイアンの一面が表れているようにも思います。
 ミシェル・デュバル、リチャード・H・カークが伝えるプランKでのバロウズの印象はReality Studioの主張する「バロウズは常に礼儀正しくあろうとし、古風とさえ言えるようなマナーで接し、ファンや信奉者に寛大」というバロウズ像と合致します。
 また、バロウズと様々なゲストとの対談をまとめた『ウィリアム・バロウズと夕食を』(ヴィクター・ボリス編 梅沢葉子・山形浩生訳 思潮社 1990年刊)には、フランスの出版者モーリス・ジロディアスのこんな発言があります。
「私はビル・バロウズの大ファン。文壇で今まで出会った人たちの中で一番感じが良かった。ものすごく繊細で。彼のイメージや評価に伴う様々な神秘さを解明する、繊細な何かがある」(p.41「書くことについて」)一方で文学史家でバロウズの著作目録の著者であるマイルズの、「ビルはとても近寄りがたい存在だった。彼とどうやって話をすればよいのかわかるまで一苦労したし、イアン(サマーヴィル。当時のバロウズの共作者であり、付き人だったが、ビルの六十二歳の誕生日に自動車事故で死んだ)が調子を合せて「今夜のウィリアムはちょっと神経質になっている」と言ったりした。彼がハイになっているものと思っていた。心ここに在らずという感じだった。」(p.81「ロンドンのバロウズ」)という発言もあります。バロウズ自身は「確かに一人でいることが多いし、あまり社交的じゃない。これといった目的のない雑多な集まりやパーティーに行くのは苦手だね。パーティーというのは大方間違いだ。規模が大きくなればなるほどひどい。……本当に親しい友人には定期的に会っている。たくさんの人には会わないしあまり出掛けることはない。」(p.100「ニューヨークのバロウズ」)とも言っています。バロウズは(当然だとは思いますが)、こうした面を持ちつつ、努めて人には礼儀正しく誠実に接しようとしていた――対談集を一読してそんな印象を持ちました。
 ドキュメンタリー映画『ジョイ・ディヴィジョン』を見た時点では、私はバロウズについて、エキセントリックな人物というくらいの印象しか持っていなかったので、ピーターの発言から、いかにも気むずかしいアーティストとしてのバロウズの印象を強くしました。しかし、必ずしもそれだけではないようです。イアンもまた、人当たりがよく礼儀正しいと言われています。バロウズに対していきなり無礼な態度をとったとは考えられません。しかし、憧れの人に会うという気負いと、ちょっとした気持ちの行き違いなどがあって、もしかしたらバロウズを不快にさせてしまったのかもしれません。或いは、ただ単に本をもらおうとしたイアンが断られた、ということが多少誇張されている可能性もあるかもしれません。
 ところで、ピーター・フックが、イアンがバロウズに「失せろ」と言われているのを一緒に見て笑っていたというバーナード・サムナーですが、ドキュメンタリー映画の中で、この件について何も発言していません。今回調べた中にも出てきませんでした。

「Insight」――夢の終わり(3)

2011-10-12 21:06:51 | 日記
 第3連の第5、6行目「Yeah we wasted our time, (そう、僕らは時間を無駄にした)/We didn't really have time, (本当に時間が無かったんだ)」には、これまで無意味なことに時間を費やしてきたという厳しい反省が表れています。このような、自分のこれまでの生き方は間違っていた、生き方を改めなければならない、早くしなければならない、時間がない、といった言葉は、以後の詩にたびたび出てくるようになります。

Get weak all the time, may just pass the time,    いつも弱いまま、ただ時間が過ぎていくようだ 
『I Remember Nothing』(1979年)

Through childlike ways rebellion and crime,      子供のようなやり方で反抗し罪を犯した
To reach this point and retreat back again.      ここに到達するために そして再び後退する
『From Safety to Where...?』(1979年)

See the danger,                   危険に目を向けろ
Always danger,                    常に危険は存在する
Endless talking,                   終わりのない会話
Life rebuilding,                   人生の やり直し
……
Worn like a mask of self-hate,          自己嫌悪を身にまとい
Confronts and then dies.             対立し そして滅びる
『Atmosphere』(1979年)

See my true reflection,              僕の本当の姿を見てくれ
Cut off my own connections,           僕のいろいろな関係を断ってくれ
I can see life getting harder,            人生がどんどんつらくなるのが分かる
『The Sound of Music』(1979年)

Made the fatal mistake,              致命的な失敗を犯した
Like I did once before,               以前にもやった気がする
『The Only Mistake』(1979年)

I'm ashamed of the things I've been put through,   自分がやってきたことを恥じている
I'm ashamed of the person I am.             僕という人間を恥じている
『Isolation』(1980年)

This is a crisis I knew had to come,           これは必ず来ると思っていた危機
……
I was foolish to ask for so much             あんなにも多くを望むなんて僕は馬鹿だった
『Passover』(1980年)

Oh how I realised how I wanted time,           ああ、どれだけ僕に時間が必要だったか、どこまで分かっていたのか
Put into perspective, tried so hard to find,        将来を見通そうと、懸命に見つけようとした
Just for one moment, tought I'd found my way.     ほんの一瞬、自分の道を見つけた気がした
……
Now that I've realised how it's all gone wrong,         今全てが悪くなっていることが僕には分かっている
Gotta find some therapy, this treatment takes too long,   治療法を見つけなくては、治療は長くかかりそうだ
……
Gotta find my destiny, before it gets too late.       僕の運命を見つけなくては、手遅れになる前に
『Twenty- four Hours 』(1980年)

Cry like a child, though theese years make me older,  子供のように泣く、ここ数年で僕はずいぶん年をとったのに
『The Eternal』(1980年)

Weary inside, now our heart's lost forever,        内側から疲れ果て、今僕たちの心は永遠に失われた
『Decades』(1980年)

How can I find the right way to control,          どうしたら見つけられるのだろう、正しく制御するやり方を
All the conflict inside, all the problems beside,      内なる葛藤の全て、横たわる問題の全て
As the questions arise, and the answers don't fit,    疑問がわき上がるけど、答えは合わない
Into my way of things,                     僕の対処の仕方では
Into my way of things.                     僕の対処の仕方では
『Komakino』(1980年)

 詩集を初めて読んだ時は、何故ここまで自分を恥じなければならないのか、そして、二十代前半という若さで、何故時間がないと思うのだろうか、いくらでもやり直しはきくのではないか、などと思ったりもしました。しかしそれは、苦しんでいる人に対しての傍観者の意見でしかないと思います。例えば、前の記事で引用したニーチェのツァラトゥストラに出てきた、蛇にのどをかみつかれて苦しんでいる人のような状況において、そんな悠長なことは言っていられないのです。イアンの詩に繰り返されるこうした言葉の数々は、危機的な状況が自分に訪れることを彼が予感していたこと、そしてそれが現実となり、何とかしなければならないと必死だったことを窺わせます。苦しみの中で自分があまりにも無力であることを実感した時、これまでの自分の生き方が厳しく反省されたのではないでしょうか。
 『Passover』に、「I was foolish to ask for so much(あんなにも多くを望むなんて僕は馬鹿だった)」とありますが、この「Insight」の内容と合わせると、自分がかつて抱いていた夢、野望が間違っていた、ということではないかと思います。イアンはバンドでの成功を誰よりも望んでいました。しかし、そのさなかに発病し、生活は激変しました。重い病気に直面すると、否が応でも「いかに生きるべきか」という問いがつきつけられます。イアンのこれらの言葉には、生きることや存在そのものへの問いが滲み出ているように感じます。「But I remember when we were young. (だけど覚えている、僕らが若かった時のことを。)」(『Insight』)や「Cry like a child, though theese years make me older,(子供のように泣く、ここ数年で僕はずいぶん年をとったのに)」(『The Eternal』)といった言葉は、実年齢ではなく精神的に、苦しみにより大きく年をとってしまったという実感から発せられたものでしょう。物理的な時間はそれほど経っていなくても、過去と現在は大きく隔てられてしまったのです。
 『Insight』の第2連の6行目「I keep my eyes on the door, (ドアを見つめたまま)」というフレーズから、私は、彼が自宅の創作部屋に独りこもっている姿を連想します。ドアを出ると、これまでと同じ生活が繰り返される、何かが間違っていると分かっているのに――そんなジレンマに陥っていたのではないかと思います。現実逃避ではなく、ニーチェが説くような、ニヒリズムを克服し、生を肯定すること、そんな根本的な解決法をイアンは欲していたのではないでしょうか。彼の詩には、乗り越えるためにすべきことが分からない、見つけられないという焦燥感が表れています。そして、それなのに間違った生活を繰り返さなければならない、という悲しみや憤りを感じさせます。
 第4連の1~4行目「And all God's angels beware, (神の天使たちよ、気をつけろ)/And all you judges beware,(全ての裁く者たちよ、気をつけろ)/Sons of chance, take good care, (強運の子たちも気をつけろ)/For all the people not there, そこにいない全ての人々のために)」には、苦しんでいる人たちは見過ごされがちだ、分かってもらえないということを表しているのだと思います。イアンは仕事で社会的な弱者を多く見ていました。「持病について――(2)」の記事で紹介したイアンの書簡には、自身の病気への不安とともに、毎月仕事で訪れていた、癲癇患者の治療施設について書かれていて、そこにいる最悪のケースの癲癇患者の子供たちについて「何て絶望的な状況にいる、可哀想な子どもたちだっただろう」と記しています。「『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――(7)」で引用したデボラの記述に、「空いた時間の全てを人間の苦難について読んだり考えたりすることに費やしているように感じられた」とあるように、ホロコーストの犠牲になった人々、そして仕事で出会った障害者たちなど、苦しみを背負い、社会の陰で生きている人々への思いは元々強かったと思います。しかし、実際に自分に迫ってきた苦しみは、創作面に大きな変化をもたらしました。混乱や葛藤が率直に綴られ、内省的な傾向がいよいよ強まっていきます。「Insight」は、ちょうどそうした転換期に位置する作品だと思います。

「Insight」――夢の終わり(2)

2011-09-28 21:11:27 | 日記
 第2連1行目の「Those with habits of waste,」の「waste」は、金銭を無駄に使うというだけではなく、第3連5行目に「Yeah we wasted our time,」とあるように、時間の浪費という含みもあると思います。
 続く第2連2~3行目には「Their sense of style and good taste, /Of making sure you were right,」とあります。センスとか趣味の良さとか、うわべを飾るだけのことに時間やお金を費やす生き方を指し、4行目「Hey don't you know you were right?」には、そんな生き方に満足しているのは自己満足に過ぎないという批判が込められているようです。そして、第3連5行目「Yeah we wasted our time,」で「僕ら」といっているように、批判の対象には自分自身も含まれていて、「Hey don't you know you were right?」には、自嘲の念も込められているのではないでしょうか。
 さて、この詩の中で最も分かりにくく、また、印象深かった一節が、第3連3行目~4行目の「Reflects a moment in time, /A special moment in time, 」です。第3連1行目と2行目は、妻に向けた感傷的な言葉のように思われたのですが、続くこの一節との関係が不可解です。この「Reflects a moment in time, /A special moment in time, 」は、どう解釈したらよいのかと考えてみて、思い当たったのが、イアンが熱心に読んでいたというニーチェの思想です(『An Ideal For Living』とドイツ第三帝国――7で、デボラがイアンの愛読書を挙げた記述を紹介しましたが、そこにニーチェが挙げられています)。あくまで私の推測・妄想ですが、ニーチェの「永劫回帰」を参考に解釈を試みてみたいと思います。
 「永劫回帰」について、平凡社の哲学辞典にはこう説明されています。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』Also sprach Zarathustra(1883-91)を構成する根本思想。宇宙は永劫にくり返す円環運動であるから、人間の生もこの地上の歓喜と苦悩をつつんだまま永劫に回帰して止まることがない。かれは「すべてのもの逝きすべてのもの再び還り来たる。存在の車輪は永劫に回帰する。すべてのもの死しすべてのもの再び花咲く。存在の歳は永劫に馳せ過ぎる」といっている。したがって来世も彼岸もあるわけでなく、ただ現世の瞬間瞬間の充実があるのみだとする。この思想は神、理想主義の徹底的な否定から生まれ、時間の不可逆性の表現として、運命論となる。一見、超人思想、権力意志説と矛盾するようにみえるので、この解釈には諸説がある。(以下略)

 永劫回帰の思想は、『ツァラトゥストラ』のうち、とくに第三部の第二「幻影と謎」で、様々な比喩や象徴を駆使して述べられています。「瞬間」と名づけられた門でのツァラトゥストラと小びとの“永劫回帰と現在の瞬間についての対話”や、“蛇にのどを噛まれ身もだえする牧人との出会い”など、魅力的な物語の形式をとっています。引用すると長くなりますので、ここでは、『ツァラトゥストラ』に先だって永劫回帰の思想が表明された『悦ばしき知識』(1882年)を引用します。これは『ツァラトゥストラ』の前年に書かれたもので、ニーチェは「この本の第四書の最後から二つ目の文にはツァラトゥストラの根本思想が示されている」(『この人を見よ』ちくま学芸文庫 ニーチェ全集15 p130)と書いています。以下、第四書の三四一を引用します。太字で示した部分は邦訳(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集8)では傍点が付されているのですが、ブログでは傍点が付けられないので太字にしました。

 最大の重し。――もしある日、もしくはある夜なり、デーモンが君の寂寥きわまる孤独の果てまでひそかに後をつけ、こう君に告げたとしたら、どうだろう、――「お前が現に生き、また生きてきたこの人生を、いま一度、いなさらに無数度にわたって、お前は生きねばならぬだろう。そこに新たな何ものもなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思想と嘆息、お前の人生の言いつくせぬ巨細のことども一切が、お前の身に回帰しなければならぬ。しかも何から何までことごとく同じ順序と脈絡にしたがって、――さればこの蜘蛛も、樹間のこの月光も、またこの瞬間も、この自己自身も、同じように回帰せねばならぬ。存在の永遠の砂時計は、くりかえしくりかえし巻き戻される――それとともに塵の塵であるお前も同じく!」――これを耳にしたとき、君は地に身を投げだし、歯ぎしりして、こう告げたデーモンを呪わないだろうか? それとも君は突然に怖るべき瞬間を体験し、デーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答えるだろうか。もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは粉砕するであろう。何事をするにつけてもかならず、「お前は、このことを、いま一度、いな無数度にわたって、欲するか?」という問いが、最大の重しとなって君の行為にのしかかるであろう! もしくは、この究極の永遠な裏書きと確証とのほかにはもはや何ものをも欲しないためには、どれほど君は自己自身と人生とを愛惜しなければならないだろうか?――

 例えば、死後天国に行き神によって救われるとか、そういった来世の救いを一切想定せず、この人生が永劫に繰り返される――これは「最大の重し」のであり、徹底したニヒリズムと言えるでしょう。この一切の救いを否定するところにおいて、人間が救われる可能性はあるのでしょうか。「君は突然に恐るべき瞬間を体験し、デーモンに向かい「お前は神だ、おれは一度もこれ以上に神的なことを聞いたことがない!」と答える」という「恐るべき瞬間の体験」は、人間がニヒリズムを克服する瞬間です。「もしこの思想が君を圧倒したなら、それは現在あるがままの君自身を変化させ、おそらくは粉砕するであろう。」というように、この思想は単に時間が円環するという時間論ではなく、人間がいかに生きるべきかということを説いたものです。中公文庫の『ツァラトゥストラ』の第三部の第二「幻影と謎」の冒頭に付されている、この章についての短い説明の言葉を借りれば、「厭世観をも噛み切って、高く笑って生へと決意させる」ことがこの思想の中心だと思います。第三部「幻影と謎」の後半、ツァラトゥストラは“蛇にのどを噛まれ、けいれんし、身もだえする牧人”に出会います。ツァラトゥストラは牧人に向かって「かみ切れ、かみつけ!」と叫びます。ついに牧人は蛇の頭を噛み切り、遠くへ吐き捨てます。そして、牧人は、高く跳躍し、「一人の変化した者、一人の光に取り囲まれた者として、彼は笑ったのだ!」(ちくま学芸文庫 ニーチェ全集10 p.29~30)という状態に達します。これは、ニヒリズムを克服し、生を肯定する瞬間の体験の象徴だと思います。
 「今まで人に然り(ヤー)と言われてきたすべてのことに対して、あきれはてるほど否(いな)を言い、否を行なう者が、しかもなお、いかに否を言う精神の反対たりうるかという問題。最も重々しい運命をにない、使命という一つの宿命をになっている精神が、しかもなお、いかに最も軽快にして最も彼岸的なる精神でありうるか」(『この人を見よ』ちくま学芸文庫 ニーチェ全集15 p.143)というニーチェの思想は、イアンにとって魅力的なものだったのではないかと想像します。もし「Reflects a moment in time, /A special moment in time,」の背景に「永劫回帰」の思想をあてはめることが可能であれば、「ある特別な瞬間」はニヒリズムを克服し、真に生を肯定する瞬間のことであり、ここにイアンの、その瞬間を人生に反映させ、「upheaval(激変)」しなくてはならない、という意志が読みとれるのではないかと思います。