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愛語

閑を見つけて調べたことについて、気付いたことや考えたことの覚え書きです。

「Atmosphere」の解釈──(3)

2010-03-18 21:53:43 | 日記
 そこで注目したいのは、2連の「Worn like a mask of self-hate」です。「自己嫌悪(の仮面)を身にまとう」とは、どういう意味なのでしょうか。
 自己を嫌悪しているようなふりをしている、とは、本当は自己嫌悪なんてしていない、ということになります。そして、続く「Confronts and then dies」の「Confronts (対立)」は、「自己嫌悪の仮面を被った自分とそうでない自分が『対立』している」ことのように読めます。だとすると、これは「Dead Souls」にある「A duel of personalities」=「(内なる)人格同士の闘い」と同じでしょう。
 自己嫌悪を身にまとっている自分と対立するのはどんな人格なのでしょうか。それが、「Naked to see/Walking on air.」=「無防備なまま/浮かれている」自分なのではないかと思います。
 「People like you find it easy」の「you」を「コントロール」は「君たち」と複数形で訳し、他の二つは「君」と訳しています。「君たち」とすると、特定の人物ではなく、世間一般の人々を指すニュアンスが強くなります。「多くの人々は『常に危険は存在する』という真実から目をそむけて浮かれている」、しかしそれは「自分はそうではない」ということではなく、「自分も含めて」そうだという自己批判なのではないでしょうか。
 そこから「川や通りの中に何かを求めても/もはや意味がない」という無常感が導き出されるように思います。「コントロール」のパンフレットにあるように、これは思い切った意訳ですが、直訳すると前後とつながらず唐突な印象を与える「川のほとりでハンティングし/通りを過ぎて/どの角もすぐに見捨てられて行き」とは、無常を象徴する風景として解釈できそうです。
 最後は「どうか行かないで」という呼びかけが再び繰り返されます。この呼びかけは、誰に向けてのものなのでしょうか。これは、日常に浮かされている自分を見捨てて去っていってしまう自分、つまり自分を見張って戒めてくれる「君」が去って行ってしまうことを食い止めようとする呼びかけのように思えます。
 イアン・カーティスはファン雑誌のインタビューで、「詩はどう解釈されてもかまわない。いろんな意味にとれるしね。好きなように解釈すればいいのさ。」と語っていたと、デボラは『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』に書いています。
 「イアン自身、いつも他の人の詩を読み解くのを楽しんできた。私たちはよくルー・リードの『パーフェクト・デイ』の最後の行の解釈を巡って議論したものだ」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)
 確かに、「Atmosphere」は、いろいろと想像力を掻き立て、解釈について考えさせる詩だと思います。

 ジョン・ライドンは、セックス・ピストルズのドキュメンタリー映画「No Future」で、パンクが生まれた1970年代の後半、ヒットチャートにあふれていたラブソングや、形骸化したロックについて、「恐ろしく退屈だった」と言っています。
 反骨精神を表すロックも、型にはまると反逆ではなくなります。型にはまった表現は人々の心に「何かを考えさせる」ということはありません。誰にでも同じような感じ方を、記号のようにわかりやすく伝達するのが型(パターン)です。ジョン・ライドンは、「君に伝えたい 愛してる ベイビー」という、パターン化されたヒットソングの言葉について、「くだらねえ。『君に伝えたい くたばりやがれ』他人の歌を歌うならねじまげるさ」と語っています。「言葉は俺の武器だ。暴力は得意じゃない。」というライドンの怒りの言葉、そして「俺たちの音楽は正直な音楽だ。この15年間で一番正直な音楽だ」という音楽に人々は熱狂しました。ピーター・フックは、1976年、マンチェスターで行われたセックス・ピストルズのギグを見たときのことを、「ショックだった。まるで車の事故だ。あんなバンドは初めて見た」と、ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で語っています(このセックス・ピストルズのギグを見た翌日、バーナード・サムナーとともにパンクバンドを結成します。これがジョイ・ディビジョンの始まりです)。しかし、そのパンクも、皆が同じようにスタイルを真似ると、表現は型にはまり、人の心を煽動する力は失われていきます。
 ドキュメンタリー映画「ジョイ・ディヴィジョン」で、トニー・ウィルソンはこう語っています。
 「パンクでは『くたばれ』と叫べる。だがそこから先へは進めず、毒のある短い怒りのフレーズを発するだけ。ロックの再燃には必要だったが、遅かれ早かれそれ以外の突っ込んだ表現が現れてしかるべきだった。それを最初にやったのがジョイ・ディヴィジョンだ。パンクのエネルギーと単純さを使って、複雑な感情を表現した」
 ジョイ・ディヴィジョンの表現は「ポスト・パンク」を代表するものとして注目されます。イアン・カーティスの内省的な歌詞は、こうした背景のもとで、支持を得ていったようです。
 この詩はとても抽象的ですが、彼の詩には、実生活に即した私小説のようなものもあります。代表的なのが「Love will tear us apart 」です。

「Atmosphere」の解釈──(2)

2010-03-11 20:19:03 | 日記
 「コントロール」のパンフレットが、唐突で意味がわかりにくく、歌詞対訳でかなり苦労したと指摘する
  Hunting by the rivers
  Through the streets
  Every corner abandoned too soon
  Set down with due care
の部分ですが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』では、こう訳されています。
  川のほとりでハンティングし
  通りを過ぎて
  どの角もすぐに見捨てられて行き
  十分注意して 取り決める
 サントラ盤は先に記したコントロールのパンフレットの引用にもある通り、
  川のほとりで狩りをして
  通りをぬけて
  どの街角にも あっという間に人通りがなくなる
  よく注意して書き留めてほしい
となっています。「Every corner abandoned too soon」を『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』は「どの角もすぐに見捨てられて行き」と訳し、サントラ盤は「どの街角にも あっという間に人通りがなくなる」と訳しています。前者の〈街角が見捨てられる〉を、後者は〈街角に人がいなくなる〉と解釈したという違いはありますが、どちらもほぼ直訳です。
 これを思い切って前の部分と合わせて「川や 通りの中に 何かを求めても/もはや意味がない」と意訳したのが「コントロール」です。「abandoned」=「見捨てられる」の主語を単に「街角」とするのではなく、作者の心情に目を向け、街角も作者も「すぐに見捨てられる」──「もはや意味がない」が他と違うのは、その点にあります。こう訳されると、「Hunting by the rivers」「Through the streets」が、作者の内面を表すものとして読めてきます。〈あちこちに行っていろんなことをしても、意味がない〉という心情としてまとまってきます。
 そして、「Set down with due care」「これだけは覚えていてくれ」は、〈こんなことをしていても意味がない〉ことを強調するものとして、前のフレーズとつながってくるわけです。「Set down」とは、「心に刻む」ことなのだと理解することができます。
 「十分注意して 取り決める」「よく注意して書き留める」では、何を「取り決める」のか、「書き留める」のかよく理解できず、浮いてしまいます。
 直訳したのではよくわからない「Hunting by the rivers/Through the streets/Every corner abandoned too soon/Set down with due care」をこのように解釈してみると、これは、その前にある「Naked to see/Walking on air.」「無防備なまま/浮かれている(=真実から目をそむけて有頂天になっている)」ことの比喩として、しっかりつながってきます。
(ちなみに、サントラ盤では、「Aching to see /Walking on air.(痛みを感じながら目を向けて/宙を歩いて)」となっており、いよいよわかりません。「Naked」を「Aching(痛む)」と聞いてしまったようです)。
 このように、よくわからないまま、一つ一つのフレーズをバラバラにしてしまうのではなく、つながりに注意しながら読み込んでいくことで、全体を貫くテーマのようなものが見えてくるように思います。他の多くの詩と同じように、この詩には心象が描かれていて、内省的な内容であると思われます。「Atmosphere」は1980年にフランスで限定販売されたシングルですが、同時収録されている「Dead Souls」に、「A duel of personalities」「(内なる)人格同士の闘い」というフレーズがあります。この「内なる人格同士の闘い」が「Atmosphere」のテーマではないかと思うのです。
 「コントロール」には、ステージでのパフォーマンスについて「自分じゃない誰かが自分のふりをしているようで」というイアン・カーティスのセリフがあります。ドキュメンタリー映画では、カーティスが、自分自身の心情について、「人が抱いているイメージと実際の自分は違う。それがどんどんイヤになってくる。イアンは2人いる。1人はメディアの存在、バンドの歌手。もう1人は実際のイアン。傷だらけで怒れる──孤独な人間。もし本当の自分を見せたら、人はソッポを向くだろう」と話していたと、ジェネシス・P・オリッジ(1950-)が語っています。いろいろな話をしたけれども、彼がよく話していたのは、自分の心情についてののことだった、と。「Atmosphere」には、こうした内面の葛藤が表れているように思うのです。(続く)

誤りの訂正

2010-03-11 20:06:49 | 日記
「イアン・カーティスの詩について調べることの意味」の記事で、松浦美奈さんが、「「イアンの歌詞は、彼がその時、心の奥底で感じていたことを極めて詩的に綴ったものが多いので、映画を観た人が、イアンがどういう心情でこの歌詞を書いたのか? 少しでも判りやすく伝えたい!」-このような努力を惜しまなかった翻訳者と出会えたことは、詩にとってとても幸運だったのではないかと思います。」と書いたのですが、これは、パンフレットを読み直したところ、私の誤解でした。これは制作サイドの意志で、この意志をふまえて松浦さんが訳した、ということです。

また、「イアン・カーティスの死についての見解」の記事で、「カーティスはちょうど死の一月ほど前に癲癇の治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こしていますが、バーナードは、それよりも前に、リストカットによる自殺未遂をしていた事実をドキュメンタリーで語っています。」とある部分ですが、DVDを見直したところ、リストカットについての自殺未遂について映画で語っていたのは、「バーナード」ではなく「ピーター・フック」でした。どちらも、記事の方は訂正してあります。こうした間違いを見つけると恥ずかしいのですが、気付いたら、その都度断ってから訂正するようにします。

「Atmosphere」の解釈──(1)

2010-03-03 22:02:01 | 日記
 「Atmosphere」は、映画「コントロール」のクライマックスに流れます。字幕担当の松浦美奈さんの訳がいかに工夫されているか、パンフレットには次のように解説されています。

 さて、最後の曲「Atmosphere」の歌詞。これはもう、あのラストシーンのあとに流れるわけですからこの映画のキモです。松浦さんのは、ググっと感情もっていかれるので、イイですね~。特に「Don't turn away」が「背を向けないでくれ」になっているのは、グ~です。サントラ盤は、「顔をそむけないでくれ」になってましたね。
 この歌詞対訳部分でかなり苦労したのが、「Hunting by the rivers」「Through the streets」「Every corner abandoned too soon」「Set down with due care」の部分。サントラでは「川のほとりで狩をして」「通りを抜けて」「どの角にも あっという間に人通りがなくなる」「よく注意して書き留めてほしい」とありましたが、単に歌詞としてではなく、物語の最後に来ることばとして見た場合、まずいきなり川に出かけて狩をする意味がわからない。唐突に通りを抜けるのも、街角からあっという間にいなくなるのも、ちょっと突然。イアンの歌詞は、彼がその時、心の奥底で感じていたことを極めて詩的に綴ったものが多いので、映画を観た人が、イアンがどういう心情でこの歌詞を書いたのか? 少しでも判りやすく伝えたい! そんな配給サイドの意向を汲んだ松浦さんが、多少意訳だとは知りつつ、よりエモーショナルな歌詞をつけてくださいました。「ハンティング=狩り」を「川や通りの流れに何かを求めても」と訳し、“イアンは自分の心を埋めるために、自然の中にも、街の中にも、どこかに転がっているだろう【何か】を求めていたのだ”と訴えたところに、松浦流が凝縮されていると思います。

 「Atmosphere」はこの指摘にもあるように、ところどころ抽象的でわかりにくい歌詞です。それでは、テキストと「コントロール」の字幕を見てみましょう。そして、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』、「コントロール」のサウンドトラック盤の訳(後に出た「ザ・ベスト・オブ・ジョイ・ディヴィジョン」コレクターズエディションも同じ訳です)と比べながら、読んでみたいと思います。


Walk in silence,              歩いていく 静寂の中を
Don't walk away, in silence.       行かないでくれ 沈黙したままで
See the danger,             危険に目を向けろ
Always danger,               常に危険は存在する
Endless talking,              終わりのない会話
Life rebuilding,               人生の やり直し
Don't walk away.              立ち去らないで

Walk in silence,              歩いていく 静寂の中を
Don't turn away, in silence.       背を向けないでくれ 沈黙したままで
Your confusion,              君の混乱
My illusion,                 僕の錯覚
Worn like a mask of self-hate,      自己嫌悪を身にまとい
Confronts and then dies.         対立し そして滅びる
Don't walk away.              立ち去らないでくれ

People like you find it easy,        君たちにとっては簡単だろう
Naked to see,                無防備なまま
Walking on air.                浮かれている
Hunting by the rivers,            川や
Through the streets,            通りの中に 何かを求めても
Every corner abandoned too soon,     もはや意味がない
Set down with due care.          これだけは覚えていてくれ 
Don't walk away in silence,        どうか行かないで 沈黙したままで
Don't walk away.               立ち去らないでくれ


 シンプルで短いフレーズで構成されているので、訳し方でかなり印象が変わります。
 まず「コントロール」は「Walk in silence」を、「歩いていく 静寂の中を」としていますが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』は「黙って歩く」、サントラ盤は「歩く 沈黙の中を」としています。「walk」は現在進行形ではありませんが、ただ「歩く」とするよりも「歩いていく」とする方が、「歩く」という動作が目の前で行われているように、生き生きと感じられます。
 続く「Don't walk away, in silence」の「silence」を他の二つは「沈黙」と訳しています。「コントロール」は「silence」を「静寂」と「沈黙」と二種類の言葉で訳しています。〈歩いている人が何も言わない〉のと〈静寂の中を歩いていく〉のとでは、後者の方が辺り一面の静寂を感じさせ、世界に広がりがあります。
 そして、パンフレットに指摘されている2連目の「Don't turn away」ですが、『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』もサントラ盤も「顔をそむけないで」と訳しています。これが「背を向けないで」となっているところがイイ、というのですが、確かに、「背を」となっていることで、静寂の中、後ろ姿がどんどん遠ざかっていく様子を、はっきりとイメージすることができます。
 言葉から具体的な、生き生きとしたイメージを心に抱くことができるかどうか、さらに、そこから豊かな想像力が喚起されるかどうかは、詩を鑑賞するうえで重要な要素になると思います。「Atmosphere」は一見抽象的に見えますが、静寂の中を歩く人物の具体的な像が、超俗的な詩の世界の象徴となり、余情を感じさせてくれるように思います。(続く)

イアン・カーティスの死についての見解

2010-02-26 21:10:52 | 日記
 イアン・カーティスの自殺の原因については、持病の癲癇の悪化、女性問題などが理由とされていますが、結局「遺書はなく、動機も不明なままであった」(小学館ジャパンナレッジ『日本大百科全書』「ジョイ・ディヴィジョン」項)としか言えません。しかし、残ったメンバーたちが、長い間多くを語らなかったこともあり、イアン・カーティスの死は様々な憶測をよび、《好きなように》語られてきたように思うのです。

 「コントロール」でカーティスを演じたサム・ライリーは、「彼は普通の人間でした。人々を魅了したのは、彼が若くして死んだからです」と言っています。23歳という若さ、そしてアメリカツアーに出発する直前での謎の死によって、彼はまるでイコンのように神話化されました。現在でも一部にカルト的な人気を集めています。
 1988年に、“Atmosphere”が再リリースされた際にアントン・コービンが撮ったプロモーションビデオは、イアン・カーティスの巨大な写真を宗教的な装束をまとった人たちが掲げ歩くという、イアン・カーティスを偶像として崇拝するような内容です。その過剰な思い入れに、マネージャーのロブ・グレットンが激怒した、とドキュメンタリー映画のパンフレットには記されています。
 一方こうした偶像化に反発するかのように、自殺は突発的なもので「たいした意味はない」と軽く扱おうとするような傾向があるようです。例えば、「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」とか、「自殺の原因は単に女性問題なのだ、愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけなのだ」とする見方です。
 事実の検証よりも前に、主観的な理解をしているという点では、どちらも共通しているのではないでしょうか。結局は「不明」なのだとしても、検証を試みる必要は、あるのではないでしょうか。

 ドキュメンタリーでは、彼の持病の癲癇について、当時どれだけ偏見があったかを含めて伝えています。癲癇患者の苦しみについては、例えば、日本癲癇協会編『新・てんかんと私』に載せられている癲癇患者たちの手記が参考になるでしょう。発作の苦しみだけではなく、発作を他人に見られることが、患者にとっては発作以上に苦しいことなのです。カーティスが発病したのは22歳の時、自殺の1年5ヶ月前のことです。成人してからの発病は珍しく、過度のストレスのせいではないかと言われています。発作の症状は人それぞれなのですが、彼の発作は全身が痙攣し、意識が失われる重度のものでした。スタッフの一人が、「イアンには悪魔が憑いてる」と怯えたほどの激しい発作をしばしば起こしました。「イアンのダンスはオフステージの時の彼の発作の悲惨なパロディーのようになってしまった。目に見えない糸巻きを巻いているかのように腕を振り回し、足をぎこちなくピクつかせる姿は、無意識のうちにやる彼の動きとほぼ同じような印象を与えた。」(『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)とデボラ・カーティスが書く発作は、ギグの回数に比例して増え、症状も悪化していきました。安静で規則正しい生活をすることが発作を抑えるための大切な要素なのですが、彼の生活はそれとはほど遠く、ついにステージで発作を起こしてしまいます。大勢の人に発作を見られたことは、相当な負担となったようです。
 当時も今も、癲癇に対しては基本的に薬で発作を抑えるという対処法が行われます。イアン・カーティスは、どの薬が効くか分かるまで大量の薬を毎日飲み続けるという治療を受けていました。バーナード・サムナーは、大量の投薬を受けるようになってから、カーティスの精神状態は不安定になり、癲癇の薬が、病気そのものよりも健康状態に悪影響をおよぼしたと主張して、「薬が彼を殺した」と語っています。これは、ドキュメンタリーでバーナード自身が語り、先に記した3冊の著作にも引用されています。先に挙げた「バーナード・サムナーが『イアンの自殺は単にドラッグのやりすぎだ』と片付けた」、という誤解は、この発言がゆがめられて伝わったものだろうと思います。
 また、自殺の原因が単に女性問題なのだとすること――愛人アニック・オノレとの恋愛が破綻しただけだとすることが適当ではないことも、これらの事実を見ただけでも明らかでしょう。カーティスはちょうど死の一月ほど前に癲癇の治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こしていますが、ピーター・フックは、それよりも前に、リストカットによる自殺未遂をしていた事実をドキュメンタリーで語っています。当時カーティスが抱えていたのは女性問題だけではありません。他にも様々な問題を抱えていて、状況はもっと複雑です。精神状態といい体調といい、彼が鬱病であり休養が必要であったことは明らかですが、ジョイ・ディヴィジョンは新興で弱小だったレーベル、ファクトリー・レコードの看板であり、多くの人の生活もかかっていました。

 “Bernard Sumner: Confusion”で、当時ローディーを務めていたテリー・メイソンという人物(バーナードとピーター・フックの中学の同級生で、のちにバンドからは離れることになります)がこんな発言をしています。以下要約します。「レコードの売り上げだけでは十分ではなく、何といってもギグをやらなければならなかった。体調を考えれば、もしイアンが「できない」と言えば誰も反論できなかっただろう。でも、彼はやらなければならなかった。自分の家族だけではなく、いろんなものが肩にかかっていた」。スティーブン・モリス(1957-)は、「彼(イアン)は人が聞きたいだろうと思うことを言った。自分は大丈夫だといつも言っていた。すると、なんとなく彼の言葉を信じてしまい、そのままやり過ごしてしまうんだ」(『クローサー』コレクターズ・エディション所収の、バーナード・サムナー、ピーター・フックとの鼎談)と語っています。
 テリー・メイソンは、ドキュメンタリー映画でも関係者の一人として出演しています。DVDに特典としてついている、本編未収録のインタビューでは、「自分がかつてジョイ・ディヴィジョンに関わっていたことがわかると、周囲の人間が何か聞き出そうと大騒ぎになった。イアンにはなにかとんでもない秘密があると思って……そんなものはない。いい奴だったが追いつめられていた。それだけだ」と声をつまらせ、怒りを露わにしています。
 イアン・カーティスは、いったいどんな状況に追い込まれていたのか、それを検証し、そして、「彼の意志と感情はすべて歌詞の中にあった」(デボラ・カーティス『タッチング・フロム・ア・ディスタンス』)という詩を理解することが、彼の死についてきちんと考えることに通じるのではないかと思っています。「よく分からないけれどすごかったらしい」過去のものとして風化させるのではなく、「Touching from a distance, Further all the time」(時を超えてより深く触れ合う)ことのできる作品の作者として捉えられれば、「イアンは死んだからカルトになったのではない。すばらしい歌をいくつも書いたからだ」(「ロッキング・オン」2008年4月号)というバーナードの言葉が、実感を持って受け入れられるのではないでしょうか。