◇今年8月に《国際プロレス》が崩壊して,丸30年を迎える。日本でプロレスが産声をあげてから50有余年……これほどまでに団体が無くなってもまだ語り継がれ,専門誌に幾度となしに取り上げられているケースも珍しい。
『週刊プロレス』の中カラーで何度か”特集”が組まれたり,昨年8月にはDVD《国際プロレス クロニクル》が発売されたりしてるが……新しいところでは『Gスピリット』や『紙のプロレス』でも国際プロレスが取り上げられていた。
『Gスピリット』では,毎号<実録・国際プロレス>のタイトルで,かなりのページを割いている。過去には飯橋リング・アナウンサーやストロング小林,鶴見五郎……らが登場してるが,昨年暮に出たVOL.18には”デビル紫”が紹介されていたのです。
国プロの崩壊と共に,リングから姿を消していたので,公の場に姿を現したのは実に30年振りという事になりますが……。私が記者時代に親しくさせてもらっていただけに,当時を思い出しながら懐かしく読ませて頂いたが,そのまま歳をとられた感じなのだ。
覆面太郎が”短命”に終ってるだけに(笑)ある意味”本格的”な日本人マスクマンの第一号と言えなくもない。そんな村崎さんは海上自衛隊の出身という変わり種だった。そして,手先が器用な事もあって商売道具の”デビル紫”のマスクは自分自身の手で作っていた程だ。
’72年10月から4年間に渡ってアメリカ,カナダ,メキシコ,スペイン,フランス,西ドイツ,スイス,オーストリア……と,転戦。’76年10月の帰国を機に,村崎さんはマスクを被って”デビル紫”へと変身した。
私は’73年だったか,”生傷男”ディック・ザ・ブルーザーのAWAで,ミツ・アラカワとタッグを組んでいた時の”グレート・サキ”をインディアナポリスに尋ねて行った事があった。試合後はここに書けない様な事を経験もした。(笑)
村崎さんの”デビュー戦”の相手は,大剛鉄之助の仙台 剛だった。そして大剛さんの”右足切断”という大事故が起きた時にもタッグ・パートナーとして村崎さんは傍にいた……。『Gスピリット』最新号を読めば,その時々の村崎さんの”心事”が分かるかと思う。是非ご一読を!<茨城>
※写真は現役時代のデビル紫
『週刊プロレス』の中カラーで何度か”特集”が組まれたり,昨年8月にはDVD《国際プロレス クロニクル》が発売されたりしてるが……新しいところでは『Gスピリット』や『紙のプロレス』でも国際プロレスが取り上げられていた。
『Gスピリット』では,毎号<実録・国際プロレス>のタイトルで,かなりのページを割いている。過去には飯橋リング・アナウンサーやストロング小林,鶴見五郎……らが登場してるが,昨年暮に出たVOL.18には”デビル紫”が紹介されていたのです。
国プロの崩壊と共に,リングから姿を消していたので,公の場に姿を現したのは実に30年振りという事になりますが……。私が記者時代に親しくさせてもらっていただけに,当時を思い出しながら懐かしく読ませて頂いたが,そのまま歳をとられた感じなのだ。
覆面太郎が”短命”に終ってるだけに(笑)ある意味”本格的”な日本人マスクマンの第一号と言えなくもない。そんな村崎さんは海上自衛隊の出身という変わり種だった。そして,手先が器用な事もあって商売道具の”デビル紫”のマスクは自分自身の手で作っていた程だ。
’72年10月から4年間に渡ってアメリカ,カナダ,メキシコ,スペイン,フランス,西ドイツ,スイス,オーストリア……と,転戦。’76年10月の帰国を機に,村崎さんはマスクを被って”デビル紫”へと変身した。
私は’73年だったか,”生傷男”ディック・ザ・ブルーザーのAWAで,ミツ・アラカワとタッグを組んでいた時の”グレート・サキ”をインディアナポリスに尋ねて行った事があった。試合後はここに書けない様な事を経験もした。(笑)
村崎さんの”デビュー戦”の相手は,大剛鉄之助の仙台 剛だった。そして大剛さんの”右足切断”という大事故が起きた時にもタッグ・パートナーとして村崎さんは傍にいた……。『Gスピリット』最新号を読めば,その時々の村崎さんの”心事”が分かるかと思う。是非ご一読を!<茨城>
※写真は現役時代のデビル紫
もう少しマトモな方と思ってました。