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<東日本大震災>で被災された皆さまに心からお見舞い申し上げるとともに一日も早い復興をお祈り申し上げます。

国際プロレス Requiem Ⅴ

2011-03-13 04:00:24 | 日記
◇今年8月に《国際プロレス》が崩壊して,丸30年を迎える。日本でプロレスが産声をあげてから50有余年……これほどまでに団体が無くなってもまだ語り継がれ,専門誌に幾度となしに取り上げられているケースも珍しい。
『週刊プロレス』の中カラーで何度か”特集”が組まれたり,昨年8月にはDVD《国際プロレス クロニクル》が発売されたりしてるが……新しいところでは『Gスピリット』や『紙のプロレス』でも国際プロレスが取り上げられていた。
『Gスピリット』では,毎号<実録・国際プロレス>のタイトルで,かなりのページを割いている。過去には飯橋リング・アナウンサーやストロング小林,鶴見五郎……らが登場してるが,昨年暮に出たVOL.18には”デビル紫”が紹介されていたのです。
国プロの崩壊と共に,リングから姿を消していたので,公の場に姿を現したのは実に30年振りという事になりますが……。私が記者時代に親しくさせてもらっていただけに,当時を思い出しながら懐かしく読ませて頂いたが,そのまま歳をとられた感じなのだ。
覆面太郎が”短命”に終ってるだけに(笑)ある意味”本格的”な日本人マスクマンの第一号と言えなくもない。そんな村崎さんは海上自衛隊の出身という変わり種だった。そして,手先が器用な事もあって商売道具の”デビル紫”のマスクは自分自身の手で作っていた程だ。
’72年10月から4年間に渡ってアメリカ,カナダ,メキシコ,スペイン,フランス,西ドイツ,スイス,オーストリア……と,転戦。’76年10月の帰国を機に,村崎さんはマスクを被って”デビル紫”へと変身した。
私は’73年だったか,”生傷男”ディック・ザ・ブルーザーのAWAで,ミツ・アラカワとタッグを組んでいた時の”グレート・サキ”をインディアナポリスに尋ねて行った事があった。試合後はここに書けない様な事を経験もした。(笑)
村崎さんの”デビュー戦”の相手は,大剛鉄之助の仙台 剛だった。そして大剛さんの”右足切断”という大事故が起きた時にもタッグ・パートナーとして村崎さんは傍にいた……。『Gスピリット』最新号を読めば,その時々の村崎さんの”心事”が分かるかと思う。是非ご一読を!<茨城>

※写真は現役時代のデビル紫

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3 コメント

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ガッカリ (あんたのぉ~)
2011-03-14 01:52:53
アナタの(笑)って表現キライです。

もう少しマトモな方と思ってました。
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相変わらず馬鹿だなぁ (ミスターピーコ)
2011-03-15 11:59:20
Gスピリットでは無くGスピリッツだよ(-.-;)
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くだらない奴らばかりだ! (山本庸一)
2011-03-15 23:00:33
くだらないよ! ちょっと間違えたぐらいで,それが何だって言うんだ。鬼の首を取ったみたいに,よっぽどアンタ暇なんだね。ミスター・ピーコだって,オカマかよ! 名前も名乗れない様な奴,どうせウジウジした性格なんだろ?
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