事実に対し、多かれ少なかれ人間が介在すれば、
それはメディアでありアートなんだろう。
戦後、その役割を新聞が担い、画家や詩人が担った。
佐喜眞美術館で丸木位里、俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」を見て、
圧倒的なメッセージと、「絵というメディアが最も適している事実」
について思った。
ノーベル平和賞の候補にまでなったというこの夫妻を、
知らなかった。
佐喜眞さんが、この絵を飾るために、と美術館づくりに
発起された気持ちがよく分かる。
沖縄戦の図の端には、
「恥ずかしめを受けぬ前に死ね
手りゅうだんを下さい
鎌で鋤でカミソリでやれ
親は子を夫は妻を
若ものはとしよりを
エメラルドの海は紅に
集団自決とは
手を下さない虐殺である」
と書かれている。
「もの思う空間」としてつくられたこの美術館も、
一種のメディアなんだろうと思う。
沖縄戦について伝え、現代芸術家の解釈を伝える。
天井の階段を上りきると、隣り合わせの普天間飛行場。
沖縄戦終結の6月23日の夕日が落ちる方向に、向かって伸びている。
何が言いたいのかというと、
事実を、後からまとめたり回顧したり解釈を与えたり疑問を呈したりという
仕事は、
こういう美術作品や、美術館、その他本などが「得意」とするんだろうということ。
その分、即応性は低いし、市民も求めてはいない。
その反対を行く新聞は、やっぱりその場その場を追いかけなくてはいけないんだろう。
その日のうちに出すニュースと、その1ヶ月とか半年とか。
研究者が結果をまとめられる前におぼろげな見解を交えつつ、
議論の発破をかけるような文章を書く。
なんでもかんでも新聞に載せたっていいけど、
そこらへんの得意不得意を意識しないといけない。
余談ですが、やるなあと思ったのは、沖縄タイムス。
このときにかかっていた絵の作家は、初期に、大半が沖縄タイムスの主催する
作品展で入賞をしている。
関係ないけど、この日たまたま手に取った沖縄タイムスのブックレット
『観光再生-「テロ」からの出発』が面白くて、
ひとつの国としてだいぶ独立してしまっている、すなわち
県が発展したり衰退したりするのに影響する制約条件が、
国や「地方」ではなく県であることの多そうな
沖縄県紙で仕事するのは面白そうだなと思いました。
実際、沖縄タイムスを読んでいれば、他紙を読まなくても
いいような気がしてくる。
その感覚は、もちろん慣れ不慣れの問題があるが、
中日以上のような感じ。
さて、なぜ沖縄には県紙が2紙あるのでしょう。
戦中の「一県一紙運動」が行き届かなかったのかしら。
掘れば掘るほど沖縄です。
それはメディアでありアートなんだろう。
戦後、その役割を新聞が担い、画家や詩人が担った。
佐喜眞美術館で丸木位里、俊夫妻が描いた「沖縄戦の図」を見て、
圧倒的なメッセージと、「絵というメディアが最も適している事実」
について思った。
ノーベル平和賞の候補にまでなったというこの夫妻を、
知らなかった。
佐喜眞さんが、この絵を飾るために、と美術館づくりに
発起された気持ちがよく分かる。
沖縄戦の図の端には、
「恥ずかしめを受けぬ前に死ね
手りゅうだんを下さい
鎌で鋤でカミソリでやれ
親は子を夫は妻を
若ものはとしよりを
エメラルドの海は紅に
集団自決とは
手を下さない虐殺である」
と書かれている。
「もの思う空間」としてつくられたこの美術館も、
一種のメディアなんだろうと思う。
沖縄戦について伝え、現代芸術家の解釈を伝える。
天井の階段を上りきると、隣り合わせの普天間飛行場。
沖縄戦終結の6月23日の夕日が落ちる方向に、向かって伸びている。
何が言いたいのかというと、
事実を、後からまとめたり回顧したり解釈を与えたり疑問を呈したりという
仕事は、
こういう美術作品や、美術館、その他本などが「得意」とするんだろうということ。
その分、即応性は低いし、市民も求めてはいない。
その反対を行く新聞は、やっぱりその場その場を追いかけなくてはいけないんだろう。
その日のうちに出すニュースと、その1ヶ月とか半年とか。
研究者が結果をまとめられる前におぼろげな見解を交えつつ、
議論の発破をかけるような文章を書く。
なんでもかんでも新聞に載せたっていいけど、
そこらへんの得意不得意を意識しないといけない。
余談ですが、やるなあと思ったのは、沖縄タイムス。
このときにかかっていた絵の作家は、初期に、大半が沖縄タイムスの主催する
作品展で入賞をしている。
関係ないけど、この日たまたま手に取った沖縄タイムスのブックレット
『観光再生-「テロ」からの出発』が面白くて、
ひとつの国としてだいぶ独立してしまっている、すなわち
県が発展したり衰退したりするのに影響する制約条件が、
国や「地方」ではなく県であることの多そうな
沖縄県紙で仕事するのは面白そうだなと思いました。
実際、沖縄タイムスを読んでいれば、他紙を読まなくても
いいような気がしてくる。
その感覚は、もちろん慣れ不慣れの問題があるが、
中日以上のような感じ。
さて、なぜ沖縄には県紙が2紙あるのでしょう。
戦中の「一県一紙運動」が行き届かなかったのかしら。
掘れば掘るほど沖縄です。