26日で仕事納め。研修中の身なので休日出勤はない。来月は別の障害者支援事業所へ。
1か月半、社会的養護の事業所と、障害者の就労継続(作業所)と生活介護(デイサービス)の事業所を曜日ごとに行き来して感じるのは、「恋愛パワーの大きさ」だ。就労継続に来ている子たちは、外見では知的障害が分からない子もいるし、体型やしぐさで分かる子もいるが、コミュニケーションは交わせる子が多い。社会的養護の女の子たちも、知的にはそんなに高くない子も多いし、なんせ15,16歳などと若い(幼い)ので、社会的スキルや知的水準においてけっこう就労継続の子たち近い。でも彼女たちの間の大きな違い、特に生きるエネルギーの違いは、恋愛が身近にあるかどうかではないかと感じている。
社会的養護の子たちは、女の子向けの施設ということもあるが、ほとんどの子は男に目がない。15歳の子から20歳まで。性的虐待を受けていた子でもそうだ(とはいっても虐待の内容は個々に違うので、男の子とのかかわり方にいろんな個人差はあるのだけど)。男性からのアプローチこそが、自分の存在価値を実感させてくれるものなのかもしれない。避妊、妊娠にも無頓着で、妊娠の話題もしょっちゅう上がる。素直におめでとうと言えない妊娠は、当然彼女たち、その子どもたちにとって(祝福されるものであってもそうなのだから)大きな試練だし、それによって貧困に陥ったり、仕事が続けられなかったりと不幸な面も出てくる。それでも、これまで親に愛されずに愛着障害を抱えて生きている彼女たちには、「男性に好かれる」ということが、かけがえのないことなのだと思う。
知的障害のある人も、人に好かれたい気持ちは強い。あの手この手で職員を取り合う。もっと踏み込んで、恋愛がしたい、性的行為に興味がある、という人も当然多い。でもそこに、あきらめの気持ちがあって、それが職員へのアプローチやコミュニケーションの手法にも表れている。ネガティブなこと(お腹が痛いとか、仕事ができないとか)を口にしてしまうのだ。「そんなことではかっこ悪い=モテない」ということを、社会的養護の子たちは分かるのだが、作業所の人は分からない・・・。
恋愛は、コミュニケーションの最良の勉強場所だ、おそらく。障害のある人も、そういう人こそばんばん、恋愛をしてほしい。障害のない人でさえ(現に私の大学の友人たちも)難しいし、成就しない、結婚したくてもできない、ということはある。だから、よりいっそう背中を押して、支援してでも恋愛の場に彼ら、彼女たちを置くことが、人生を豊かにするのに大いに貢献するのではないかなと思う。たとえ結婚に至らなくても、恋はしていたいじゃないですか?