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精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

ホーチミンでちょっと考えたこと5

2010-05-26 23:12:09 | Private・雑感
●ベトナム戦争について考えさせたのはお兄さんだった

 「1975年に終わった」ということだけがなんとなく強烈に頭にはあった。
たぶん、カンボジアの内戦がベトナム戦争終結とともに始まったことを覚えていたからだ。
確か、1975年は、ポルポトらがプノンペンをロン・ノル元首らから「奪還」し、
歓声に沸いた。ポルポト派はベトナム戦争に勝利した南ベトナム解放戦線たちと同志で、
支援を受けていた。で「奪還」してそのまま、独裁、大量虐殺、内紛、、、と
なっていったのだった気がする。カンボジアに行ったとき、1975年に始まり、
1979年に終わったというこの戦争の近さ、時間的距離の近さが衝撃的だった。

 行動日の1日目に、「戦争証跡博物館」なるものに行った。写真の展示が多い。
何度見ても、枯葉剤の被害を受けた人たちの写真は、人がやったものとは思えない戦い方だと
思わされる。いくつものいくつもの写真、アメリカの投入する戦費の増え方や、
投入された爆撃の量などのグラフもあった。「しっかり勉強しなくちゃ」と思ったのだけど、
「なぜこれほどの写真が残っているのか。どんな立場のカメラマンが、どうやってこの場所に
 立ったのだろう。従軍記者というのは、同じヘリコプラターに乗ったのだろうか。
 参戦していない日本のカメラマンたちは、自らジープかなんかで移動したのだろうか」
そんなことを考えてしまった。あまりにも近い、目の前の景色ばかりだったからだ。

 最終日、最後の訪問地は統一会館(Independent Palace)。フランスがサイゴンを占領し、
アメリカが南ベトナムの統治拠点とした大統領官邸。広い広い庭園付きで、近代的な広々とした
邸宅。1階は、国賓らを招いたという会議室や応接室。地下には対北ベトナムの司令基地が
そのまま残っている。ここを訪れた後、持ってきていた電子辞書(の百科事典)で
一通りのこと勉強した。このときはさすがに、「今しなくちゃ」と強く思った。
いつ、なぜベトナム戦争が始まり、どのように進んで、どう終わったのか。

 それは、ベトナム人のガイドのお兄さんだ。たぶん、バスツアーのガイドなんだけど、
私はそれとなーく、付いていって英語のガイドを聞いていた。熱心でかっこよいガイドだった。
英語についていけないところも多かったけど、最後の方には「あと2分で次行くからね」と
声をかけてくれ、「私、聞いててもいいんだ」と嬉しかった。最後には握手までしてくれた。
 こういう歴史的場所のガイドさんは本当に、なんというか心動かされることがある。
アウシュビッツで説明してくれたお姉さんの顔は、今でも覚えている。すばらしい仕事。
ここまで、環境がお膳立てしないとベトナム戦争が上手に頭に入ってこないことは情けないが、
(しかも、前に『ベスト&ブライテスト』も読んだのになあ)
また、お兄さんの顔を思い出しながら勉強したり、確認したりすることがあるだろうと思う。

ホーチミンでちょっと考えたこと4

2010-05-26 22:42:59 | Private・雑感
●私の英語はフィリピンレベル

 行動日初日の夜、観光市場(?)らへんに出る屋台レストランでご飯を食べた。
ふとしたことで、ベトナム出身でフロリダに住むというベトナム人家族(父は50代、
息子は同い年ぐらい、あと母と娘)+彼らの友人のアメリカ人男性と一緒に食べることに。
まあ別にたわいもない話だったけど、けっこう聞き取りづらくて半分聞いてるっていう
感じになってしまった。話が別に面白くなかったのもある。

 途中で気づいた。たぶんこのお母さんは英語がしゃべれないか苦手なのだ。ベトナム語の
時しか話に入ってこない。会話は、そのアメリカ人男性もいるのでほとんどが英語の中で。
途中には、その男性に「Are you OK?」なんて言われてる。(この男性がなんだかデリカシーが
なくて嫌いだった)。
 「こうはなるまい」と思わずにはいられなかった。日本人が英語を話せないと言うことは
こういうことなのだと、よく理解できた。

 メコンデルタツアーでは、前述のフィリピン人グループが仲間に入れてくれた。
はっきり言うと、その隣の席の男性の方が私より上手だった。それでも、楽しく会話はできる。
「ベトナムは台風が全然こなくて、フィリピンは平均20回以上来る。だからベトナムの米は
 質がよい」
「そういうこともあって、ベトナムのサトウキビ農家を見たかったのだけど、彼らは60歳以上に
 なったら1ヘクタールくらいを与えられるらしい。その仕組みのおかげで大規模農家はなく、
 学ぶべきものはなさそう」
「フィリピンに是非おいで。危ないのは南のミンダナオ島だけ。僕たちのいるイロイロ州は
 飛行機でマニラから1時間くらいだ」
 等々・・・。お昼ご飯を食べたところでは、イスラエルからの男の子2人が一緒で、
「18歳になったら、男は3年、女は2年軍隊に入らなくちゃいけない」
「年間2万5000ドルがもらえる。その後大学にも。軍隊に入る前に旅行中なんだ」
といったことを話した。同じ席にいた日本人男性はだまったまま。

 いやーこれはやばいな、と。小学生になって、夏休みと学期はじめの数週間まで犠牲にして
英語留学に行くという韓国の流れを聞いたときは強い違和感を持ったけど、
自分にしろ、今の子どもたちにしろ、どーにか「英語は普通」にしないとやばいと思った。
かっこわるくてもいいから、効果のあることを早くやらないといけない思う・・・政府が?家庭が?
that s the matter...

ホーチミンでちょっと考えたこと3

2010-05-26 22:26:10 | Private・雑感
●人は暇だから新聞を読むのか

 行動日3日目の昼ごろ。私の旅のリズムからいって、2日も観光すれば
「ちょっと休憩」と1日くらい昼寝で過ごしたい気分になる。この日の夜には
帰らなくてはいけないのだけど(笑)。町の脇(?)くらいにある大きな動植物園
にサンドイッチを持って入りました。8000ドン=40円くらい。

 この日は火曜日、のはず。昼過ぎの13時とか14時とかくらいだったと思う。
私が陣取ったキリンとダチョウの園の横、屋根があってわりと大きなテーブルと椅子が
並べられたその場所には、3組ほどの家族。みな1~2歳ほどの赤ん坊がいて、
お母さんと、お父さんもいる。ときには姉やらほかの女性もいる。
赤ん坊を机の上に寝かせて、一人(母だったり父だったり)が子どもに内輪みたいなモノで
扇いで風を送っている。ほかの人も横で寝たり、椅子で寝たり。
 この日は、火曜日、、なんだったと思うのだけどなあ。それで、新聞を読んでいる人も。

 町の至る所で新聞を読んでいる人がいる。なぜかと言えば、道ばたで客を待つ暇そうな
バイクタクシーのおじさんたち。食べ物を売るおばさんたち。靴磨き先を探す子どもたち。
結構熱心に読んでいる。前述の友人の旦那によると、スポーツ紙が多く、集合住宅では
戸別配送もしているらしい。VetNam Newsは1部5000ドン=25円くらい。

 そうか、人は暇だから新聞を読むんだなと思った。そんなこと考えてなかったけど、
ああそうだな、大きな要因だなと思った。「面白いから、必要だから、情報を欲してるから」
新聞を読むんだとなんとなく思っていたけど「時間があるから」というのを忘れちゃいけない。
つまり、忙しくなると読まないのだ。そうだ、日本人は忙しくなったから、必要なこと以外は
2の次になったわけだ。

 暇なのは、いいことだなと思った。これは新聞ではなく子育ての話で、平日の昼下がり、
とてもピースフルな気持ちに浸った。


ホーチミンでちょっと考えたこと2

2010-05-26 22:10:04 | Private・雑感
●東アジアの携帯電話事情?

 到着は夜の11時だった。タクシーを捕まえようと混み合うタクシー乗り場で、
29歳くらいのベトナム人のビジネスマンと、その彼女と一緒に町まで乗ることに。
ふと見た彼の携帯は、赤いiPodだった。デンマークとかでは、古くて重たい携帯を
せっせと中古屋とかで買う人もけっこういた。こういうのって国ごとの事情があるし、
なんというか、そんなに簡単に最新iPodをベトナムで見ると思わなかったから
ちょっと驚いた。

 行動日2日目は、メコンデルタツアーに申し込んだ。隣に座ったのは、フィリピンの
サトウキビ農家組合のグループの一人。彼は、「こっちがグローバル、こっちが国内」
といって二つの携帯を見せてくれた。二つともNOKIAで、高度なカメラ機能付き。
「これが僕のところのSuger caneさ」と広大な農場を携帯電話画面で見た。
リッチなグループなんだろうけど、私と同じCANONのIXYの人、サイバーショットの人、、
この日の夜に立ち寄った家電製品屋(ビックカメラみたいなとこ)も大盛況。
こういうところがまた夜10時とかもうちょっと遅いくらいまでやっている。
液晶テレビ、携帯電話、カメラ、、子どもを引き連れ、家族連れでにぎわっていた。

 何を「考えた」かというと、消費市場の隔たりのなさ、広まりの早さだ。
思うに、デジカメとか携帯電話とかは、古来の生活の中になかったもの。
どの国でも、文化的な衝突無く、「便利だし、ほしいよね」と一気に広まる素地が
あるのかな。テレビもそうかも。
 一方、洗濯機とか、冷蔵庫とか、クーラーとかは何かしらの「代替機」。
「まだ我慢できる」というラインを超えないと購買には結びつかないのかもしれない。
「もし、革命的におもしろい携帯ゲームアプリなんかを開発したら、ものすごいことに
なるな」と可能性を感じたりもしました。

 付け加えると、メコンデルタに悠々と浮かぶ船は、ほとんどが貨物の運搬船兼休憩所という感じだったけど、
いくつかは「住んで居るんだろうな」というものも。
船からも、せっせとテレビのアンテナが立っていました。

ホーチミンでちょっと考えたこと1

2010-05-26 21:50:39 | Private・雑感

ベトナムのホーチミンに行ってきた。
ゴールデンウィークの振り替え連休を使い、3泊5日。
短すぎる旅だけど、考えたこともある。
時系列だと疲れて断念しそうなので、いくつかのトピックを
時間のある限り書いてみます。

●ホーチミンの建設ラッシュ

 「リッチな人が住んでいる場所に行ってみたい」
 そんなリクエストで、1日目をめぐった。

 ホーチミンの近くが出身の友達がいて、彼のお姉さんが住んでいるというので
初日のお相手をしてもらった。結局、その旦那さんがバイクでいろいろと回ってくれた。

 その目的地となったのは、District7(7区)。ホーチミンという街は、メコン川の
支流、サイゴン川の川沿いや、中州に成り立っている。
一番栄えているのは、川沿いに帯状に広がる街だが、7区は大きな中州を越えて
小規模の中州になっているところ。昔は「nothing」だった、とか、ただ
だらだらとした農地だったらしいが、大規模に整地が進んでいる。
大きなマンションも川を望むように建ち、この国では画期的な「駐車場付き」の
戸建てが並ぶ地区も。「Sunrise City」と看板が囲った場所には、
オフィスやマンションが並ぶ街ができる予定とか。
衝撃的なのは、道を行けども行けども、整地中とか建設中とか、できたばかり、とか
っていうところが並んでいるのだ。
「こういうところに住める人口も増えているのか」と想像するだけで
ベトナムという国のイメージが少し変わってくる。
 翌々日の「VietNam News」(現地の英字新聞)によると、
ベトナムの消費者物価指数は年初より4.55%上昇し、「それでも過小評価だ」
という記事。ちなみに、日本は今年の3月、前月比は0.3%の上昇。前年同月比は1.1%の下落、という状況。

 連れて行ってくれた彼によると、「前は何も無かったけど、ここ10年でこの辺は変わった」とのこと。新しい大学もあり、大学は市の周辺部に増えているという。
日本のセメント会社が、ベトナムの工場の生産能力を2倍に引き上げたのもうなずける。
東京もそうだったのかもしれないが、平野が続き、街がどこまでも膨張できる余地が
まだまだある。「新興都市」とはこういうものか、と見せつけられる思いだった。
ちなみに、ホーチミン市の人口は624万人(2005)。

土門拳の写真展

2010-05-18 08:47:20 | Private・雑感

「やっぱりモノクロが好きなのよ」と
大石芳野さんが言っていたのを、正直よく理解できないでいた。
写真を見ていて、彼女の写真の背景が、荒廃した戦地の緑と土が混ざったような
ものが多かったからかもしれない。
カラー写真の方が私には迫力がある気がした。

四日市のとなりの菰野町にあるパラミタミュージアムで、
土門拳の写真展がやっていた。
「ああ、やっぱりこれはモノクロじゃないと」というのがよくわかった。
モノクロのほうが、美しくてリアリティがあった。
なぜかと巻が手見たのだけど、写真はどうしたって過去のことだから、
モノクロの方が、突然時を止められた感じがよく出る気がした。
秀逸だと思ったのは、当時の文化人の肖像画。
http://www.domonken-kinenkan.jp/domonken_img/sakuhin/fubou.html

これは面白い!と思った。
これをじっくり見ていれば、一流とはどういうことかがわかりそうな気がした。
彼は、被写体が怒り出すぐらいに粘り、時間をかけて撮影していたとのこと。
私も仕事の中で、人の顔の写真を撮ることがたくさんある。
「説明的な写真」が写真の目的の100%のときもあるけど、
そうでないときもある。個人にスポットを当てて、
わりと自由な文章と自由な写真が出せるとき。
これは頑張って損はない、写真は、ポートレートはいろんなことを表現する
ものだなあと改めて思った。



この間の週末、父と母が初めて四日市を訪れた。
コースは、私の自宅→ジネンジョ料理の店→御在所ロープウェイ→土門拳写真展
→四日市港ポートビル→居酒屋まっさん

私ももう26歳ですか。
何でも出来る年だけど、何かしなきゃ何も出来ない年だなと思います。
あと、今週末からベトナム・ホーチミンに行きます。
3泊5日くらい。
おすすめの場所やらなんやらあったら教えてください。

淡路島・徳島へ

2010-05-05 22:04:58 | Private・雑感

仕事を始めて、地図をよく見るようになった。
四日市市・菰野の地図、いなべ市・東員町の地図。
ついでに、御在所岳の山岳地図も。

反動で(?)他の地域は見なくなってしまっていたことに気づいた。
先日、金沢からの車の帰り、尼御前SAでもらった中部・関西の広域地図を
広げて、「四日市-金沢って、四日市-淡路島くらいに匹敵するんじゃない?」
と急に西に目を向けてみる。
行けそうだ、と思って、GW中の休みだった2日間で行ってきた。
初淡路島!

朝6:40くらいに出発、10時ころには淡路島に上陸していました。
新名神高速道路のおかげ☆
大きな大きな明石海峡大橋を渡ったとき、「来て良かった」と思いました。

今回学んだ豆知識。
本州・兵庫と淡路島をつなぐ明石海峡大橋、淡路島と四国・徳島をつなぐ大鳴門橋は
前者が全長約4キロ、後者が約1キロ。
つまり淡路島は、徳島の方が近い。
しかも、前者は1998年完成、後者は1985年完成で、やはり徳島とのつながりが
強い。

さて。淡路島と聞いて最初に思い浮かんだのは、やはり阪神・淡路大震災。
地震でできあがった「野島断層」というのを保存している、
「北淡(ほくだん)震災記念公園」というものがあり、行ってみました。
棚田などの農地に走るこの野島断層は、活断層としては(学者らには)認知されていたが、
住人たちは知らなかったという。2000年周期で活動があるとかで、
実際、前回の活動は2000年ほど前と言っていた気がする。
「そんな単位のものに対し、防災、というより減災をどう啓発したらいいんだろう」。
断層を歩道で囲み、日本各地の断層を紹介する地図を貼ったりと
ちょっとあっけらかんとした館内で少し途方に暮れるような気持ちになった。
確か、淡路島では39人の死者が出たと書いていた気がするが
そちらを詳しく紹介するべきでは・・・
と思ったら、そのような趣旨では神戸に「人と防災未来センター」というのが
あるという連れの話。
http://www.dri.ne.jp/kanran/index.html
近いうちに行ってみたいと思う。

島の西部、海沿いの道を通って南下。
いくつもの漁港があり、その回りに寿司屋がちょこちょこある感じ。
ちなみに、淡路島は人口14万7000人ほど。ちょうど桑名市(14万1000人)ほどか。
3つの市があって、北から淡路市、洲本市、南あわじ市となっています。
お寿司屋さんで、名産のタコの蒸したヤツとか、穴子の箱寿司とかを食べて
元気になりました。

司馬遼太郎の『菜の花の沖』は1巻か2巻くらいしか読んでいない。
高田屋嘉兵衛(1769~1827)についてはうろ覚え&中途半端に前半の生い立ちしか知らない、
という感じだった。
彼が生まれたという淡路の旧五色町に、小さな記念館がある。
江戸末期の人だから、彼が置いていた屏風とか、ロシアにとらえられていた際に
親戚に送ったとされる手紙とか(これはレプリカだったかも)あって
興味を高めるには十分。
説明してくれたおばあさんの嘉兵衛への惚れ込みっぷり(こういうところの
解説の人はだいたいそうだけども)にも押されて、菜の花の沖を読みたい気分に
なっています。
とにかく、嘉兵衛は廻船問屋として成功し、蝦夷開拓に乗り出し、政府からの
仕事を多く請け負うようになる。それでさらに大成するのだが、
年表を見ると、1822年に蝦夷地が幕府の直轄地でなくなり、松前藩のものとなったことで松前藩の御用達になる。
1827年の彼の死後、高田屋の船がロシアと密貿易をしていると嫌疑をかけられるなどして
1833年には弟の金兵衛が追放、もう一人の弟は廻船事業停止、財産没収となってしまう。
彼は、財閥を作らない、という選択をしたということになるのかわからないが、
同じ時代の岩崎弥太郎らへんとの後世への影響の違いなどがふと気になった。

その後さらに南下。地域の温泉に入り、濃霧の大鳴門橋を渡って徳島入り!
1人3000円の宿だったが、割に心地よし。
阿波踊り会館で夜の踊りに滑り込み、
「阿波尾鳥」のやきとりと、鰹やグレのお造りを食べて、Tシャツで行動した
夏休みの1日を終えました。

2日目。GW最終日とあって渋滞予測を横目で見つつ、帰路に。
朝方、眉山に車で登り、徳島新聞を手に朝ご飯を食べました。
東北・北海道を車で巡った毎日を思い出しました・・・毎朝コンビニ飯&
公園らへんで朝ご飯だったような。

帰りは、大鳴門橋の「1階」にある「渦の道」をちらっと見てきた。
本当は電車が通るはずだった大鳴門橋の1階部分を、遊歩道にして
渦潮展望台にしています。
10年前に徳島県が作ったのだそう・・・「県立渦の道」とあったから
県が作ったに違いない。

ふー。
そんなこんなで昼には京都でソバを食べて四日市に帰ってきました。
太陽浴びまくりで、楽しくリフレッシュした2日間。
次はもうちょっと勉強要素の多い旅にしたいなとも思いつつ。
それでも、西日本の近さ、初夏という季節の魅力、健康的な海の姿、
など感じたものはある。
栄養補給ばっかりしてないで、しっかり自分自身を働かせないとなあという
健全な切迫感もオマケに。
そういう瞬間をしっかり生かすためにも、もうちょっとちゃんと
書き留めたいな、とブログを書いた次第です。