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ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

この人―――(同期入社の)Y.Yさん

2008-06-28 11:50:32 | Public
新聞記者でなければ、医療関係の仕事をしようと思っていた。
「人の命、人生に関わるという点では一緒。人間というものが好きなんだと思う」。
この春新聞社に入社。
現在名古屋で記者研修中である。

短めのボブカットに、相手を真っすぐにとらえる目。
活発な人という印象だが、高校まで他人と交わるのが苦手だったと言う。
それが浪人時代に変わった。

いろいろなことが重なった。
祖母の死去、失恋、知人の引きこもり―― 一人で考える時間もたくさんあった。
「人間には思いがけないことが起こるものだ」と知ったとき、人間への興味が深まった。
「受験勉強そっちのけで一人哲学してましたね」と笑う。

もうひとつの転機は大学時代、オーストラリアへ半年間留学していたときだ。
成人式を迎える日本人留学生に、こっそり彼らの両親から手紙を取り寄せ、渡すというイベントを企画した。
読み上げるたびに再現される、それぞれの思い出の場所、時間。
いつしか会場全員が思いを共有し、涙していた。
「言葉ってすごい」。ビジュアルでなく、言葉にしか伝えられないものの重み。
自然と記者の仕事にたどり着いた。

「事件の被害者などの、埋もれがちな事実や思いを書きたい。
 読者が行動を変えるきっかけとなれば」と事件記者を目指している。
埼玉県出身、二十三歳。


・・・
研修中の課題で、新人同士が取材しあい、『この人』コラムを書いた。
よく新聞で見る、ある人を取り上げてのどかに描く囲み記事である。

取材については、普段はまじめに、遠慮せずに根掘り葉掘り聞けないことを聞けて、
ワクワクする瞬間がいくつもあった。
書いてみての反省は、「ストーリー性」、論理性みたいなものに
いつのまにかこだわりすぎていたような気がする。
50行で、その人そのまま描くのは難しい。ある面、個別のストーリーに固執するのは
仕方ない、とも思う。

取材されてみての感想。ナイーブなこと、本質的なこと(どういう人間か、
どうして新聞社か、といったこと)を聞かれると、
本能的に(?)理解してもらいたい、と思ってしまった。
普通の会話では「まあ、わかってもらえなくても別にいいけど」と思う部分って多い。
その部分を「こういう体験もあって、このときこう考えたことが、こう影響して
こういう判断をしたんだと思う」といったようなこと、全部言ってしまう・・・質問されなくても。
一方で、なるべく質問されてないことは答えないようにもしていたけど(なんとなく)。
だから、私のことを取材して書いた彼女は、けっこう混乱というか、変な、つじつまの
合わない人のように私のことを思ったかもしれない。

彼女が書いた原稿を読んだら、まずすごく文章が上手で、読ませる文章だった。
感服、というか・・・。
内容について取材された側としては、「まるで私、超インテリみたい」と感じた。
彼女は彼女で、私の一部分を切り取ったんだろう。

人間、一面だけを知っても、面白くないものだ。
複数面あって、その組み合わせの意外性と言うか、「そうきたか」というところが
面白いのだと思う。
細身で静かな声で話す、家ではヒーリング音楽聴くような彼が、
上級テニスプレーヤーだったり、
常に歩くのが早くて、早口でばしばし取材している先輩が、
登山好きだったり。

と考えると、「この人」という毎日新聞で載る欄で
「犬と散歩が至福のとき」とか、趣味や家族のことによく触れているのは
納得できる。
私はどうすれば、取材相手の彼女の「違う側面」を書けたかなぁ。

以上、研修報告でした。

日本の原発導入の舞台裏

2008-06-28 09:58:57 | Book

日本は、世界で唯一の被爆国となった。
加えて、1954年には「第5福竜丸」という漁船がビキニ環礁で
アメリカ水爆実験の「死の灰」をかぶり、被爆。
やがて日本全国に反米、反原子力の運動が広がり、
署名は3000万人に上ったほどの規模になった。

その6年後の1960年、日本は原子力の平和利用といって
東海村に発電所の建設に着手

―――あの反米感情はどこへ行ったのか?なぜ原子力利用が実現したのか?
(この工事への着手は、イギリスよりちょっと遅く、フランスやカナダなど
 他の戦勝国とほぼ同じくらいの早さだった。)

答えは、
 ・アメリカの原子力政策が、戦後「原子力知識、技術の国外流出厳禁」というものから
  「Atoms for Peace」、すなわち「平和利用のためなら、知識も技術も、
  ときにはお金もお貸ししますよ、平和利用万歳」というものへ変わったから
  名づけて原子力のマーシャルプラン。
  その裏には、ジェネラル・ダイナミクス社といった原子力大手の企業がかかわっていた。
  1954年にはIAEA設立

 ・それはソ連が、1949年、1953年とそれぞれ原爆、水爆の開発に成功したと
  公表したことが直接的原因。ソ連の先を走り続けるより、知識・技術を開放して、
  その教授先の国の研究をコントロールする方が得策と考えたから。  

 ・日本(とドイツ)には本気で技術供与をするつもりはなかった
  (戦前の技術力からして、アメリカを超える可能性も大きかったから)

 ・が、第5福竜丸事件など、大反米、反原子力の風潮は困る。
  原子力メーカーにとっては日本は大きなマーケット。

という背景の中で、日本の中の反原子力潮流を変え、原子力発電の導入に動き、
実現させた人物―――が、正力松太郎。警視庁警務部長、読売新聞の経営者、
日本テレビ設立、衆議院議員、初代科学技術庁長官の、正力である。
アメリカ側のお膳立てが、CIAだった。

その方法は、お察しのとおり、というところか。
「ついに太陽をとらえた」とする原子力平和利用の是を説いた連載をしたり、
ディズニーが『わが友 原子力』という映画を作ったり、それを正月に放映したり。

それにしても、正力松太郎しかり、務台光男しかり、渡辺恒雄しかり。
こういう人間でないとトップになれないということか。

なんだか、単純明快に利己的人間過ぎて、面白みのない読み物ではあった。
ひとつの常識なんだろう、覚えていて損はないかも。

――――『原発・正力・CIA――機密文書で読む昭和裏面史』/有馬哲夫