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ほっぷ すてっぷ

精神保健福祉士、元新聞記者。福祉仕事と育児で「兼業」中。名古屋在住の転勤族。

『Web進化論―――本当の大変化はこれから始まる』梅田望夫(2006)

2007-09-17 21:16:51 | Book

「なぜ人はこんなにもブログを書くのか?」

と、mixiが広まって、周りにもmixi人口が急速に増えたときに切実に思った。いかにも自己表現が好きそうな人たちが書いているわけではない。誰も彼もが書いているのである。

もしかしたら、これは何か大きな変化の始まりなのかも・・・?とぼんやりと思いながらここまで来た。本書が教えてくれるところでは、「Webの進化による表現や開発参入のコストが下がれば、人間の行動は想像以上に大きく変わる」ということである。みんなが表現好きになったわけではない、他人における本来の表現願望は、私の想像以上だったということである。

本書の柱は3つである。

1つは、Webの世界の創造性における新しさ―――知的財産権なんてどこ吹く風、開発した技術をオープンにし、Web世界全体が急速に発展する仕組み

2つめは、グーグルの成功の意味―――「こっち側」と「あっち側」(PC上の機能開発とWeb上の機能開発)の分類において、誰よりも早く「あっち側」に視点を移したこと、実際に全ての機能の「あっち側」への移行、超エリートで知的好奇心の塊のみを採用する経営の方法など

3つめは、Web進化がもたらす民主主義形態の変化―――表現コストの低減、権威に頼らずとも発言できる社会(情報の淘汰機能も発達してきた)

である。ちなみにこれは私のなかの「3つの」柱であって、実際はもっと多くの柱があったと思う。

そして本書を貫く姿勢は、「このインターネット社会の善の部分をもっと直視して評価しよう、肯定的に、楽観的に、この変化に対応して楽しもう」というものだ。どうやら「悪」にばかり目が行くのが日本的な姿勢であるらしく、本書の姿勢がシリコンバレーの空気らしい(著者はシリコンバレーで仕事をしている)。開いて数ページのところに書かれていたこの姿勢が、私にこの本を読ませたと言っていい。もしかしたら、日本の既存メディア(新聞やテレビなど)があまりにも権威的であるために、「悪」の空気を充満させているのかもしれない。いずれにしろ、少なくとも私は本書でインターネットやその未来について考え方が変わった。積極的な関わりにより肯定的なイメージを持ったし、「最低限、自分がやりたいことについて使いこなせればいいや」という姿勢から、「何がインターネットで実現できるのか、それは何を意味しているのか」ということに敏感になった方が、面白そうだと思えるようになった。

私の感想では、パソコンやインターネットに強い、詳しい人は男の子に多い。「よくわからないけど面白そう」と飛び込んでしまう勢いは、どうやら男の子に先天的なものなのかなと思う(他の話題でも然り)。私も、楽天性では他人に負けないつもりだったけど・・・実際ITには保守的だったようだ。

ただ、このWeb進化において懸念すべきは、さまざまな場所で聞かれる「完全競争市場達成の、負の部分」である。インターネットの悪の部分として言及されるのは、対人コミュニケーション能力の低下だとか、オタク化だとか、匿名社会だとか、そういうところだが、それは本書の指摘するような楽観論をとるにしても、「完全競争市場」、「完全な完全競争市場の達成」は念頭に置いておかなくてはならないと思う。

これは、前に読んだ『市場を創る』によっても触れられていたし、特に『勝者の代償』で鋭く指摘されていた。すなわち、製品やサービス、情報の情報コストゼロ、参入コスト低下、多数の消費者、供給者、という完全競争市場の仮定(通常は理論上の非現実的な仮定)を満たすということが何を意味するかということだ。『勝者の代償』では、情報コストの低下→消費者の価格比較能力上昇、オークションメカニズムの適応、価格低下、生産者圧迫→「労働者は消費者としては潤うが、生産者として不幸になる」といったシナリオを描いていた。多くの指摘が当たっていて、それはつまり、Web進化の世界で忘れてはならない側面を提供していた。

とにかく、面白い新書だった。著者の頭のよさも感じられるすっきりした文章もよかった。去年よく売れた本らしいですが、読み過ごさなくて良かった。


『世論(上・下)』/W.リップマン(1922)

2007-09-17 10:39:09 | Book
 「両大戦間」という時代は、想像するに非常に思想的に、危うい時代だったのではないだろうか。1914年に第一次世界大戦が勃発し、欧米諸国を巻き込む死闘が繰り広げられた。1917年にはロシア革命が起こる。1919年の終戦、不当にドイツの賠償金が課せられたとされる、ヴェルサイユ条約が調印された。国内だけでなく、国際的な情報、報道、人々の議論が交錯した時代だったのかもしれない。前に読んだ『大衆の反逆』といい、この『世論』といい、ちょうど両大戦間に書かれた物であり、他にもトーマス・マンやマックス・ウェーバーなどもこの時代に書いたり発言したりしている。情報や「偉い人」たちの言葉に一喜一憂し、簡単に過剰にナショナリズムが台頭していたのかもしれない。ここらへんは想像に過ぎない。

 本書を説明する上では、先に書いたような時代背景が大きく関係していると思う。そして著者・リップマンが生粋のジャーナリストであり、研究者や政治家でなくジャーナリストとして生き抜き、文章をリアルタイムで書きながら、それこそ「大衆」に対して発言してきた人だという事実が重要だと思う。彼の指摘した社会分析のフレームワークを少し紹介しよう。これが本書の一番の貢献だと思うからである。

 オルテガと同じく、リップマンも、「大衆はどのように考え、判断しているのか」に興味を持っているようである。彼によれば、それは「ステレオタイプ」、すなわち複雑で自らの生活圏からは距離のある現実、環境に対して「こうであるに違いない」という仮説を立てる。その仮説によって出来上がったイメージの塊みたいなものがステレオタイプである。その仮説には「ほんのちょっとした事実」「創造を伴う想像力」「信じる意志」が作用している。

 ここで重要なのは、ひとつは、その仮説をたてるにおいて人々は「見えるものしかみない」「見てから定義するのではなく、定義してから見る」ため、現実とはかけ離れた仮説を立てることが多い。もしくはいちいち考え直すのが面倒なので、前に起きた事象や他の国の事象のステレオタイプを流用し、簡単に同一視してしまうことがあるということである。結果として現実的でない世論が形成され、そして「見えないもの」は永久に無視され続ける。多くの場合「見えるもの」は権力とか、ジャーナリストとかの意志、情報操作が影響を及ぼすため、「見させられているもの」しか議論されなくなる。真にジャーナリスト、新聞に求められているものは、この「見えないもの」を見せることである、と著者は言う。

 もうひとつは、このステレオタイプそのものが現実を変化させるということである。これはオルテガの言う大衆の反逆と同意であるかもしれない。これを踏まえてプロパガンダという単語を定義すれば、「一つの社会様式に代えて別のものにするために、人々が現在反応している社会像を変える努力」となる。彼らは現実を、ではなくステレタイプを変化させることで、現実を変えようとするのである。

これらの記述は、通常描いている新聞やマスコミの役割、政治のしくみなどと非常に近い。『大衆の反逆』に比べると、新しい概念の量としては負けるが、新聞記者らしく、読者への訴えかけ方が上手いと思った。

 彼の中で、新聞記者の仕事は「ニュースは一つの事件の存在を合図するに過ぎぬ、隠されている諸事実に光をあて相互に関連付け、人々がそれに基づいて行動できるよう現実の姿を描き出すこと」であると言う。確かに、学者や政治家と違って、ジャーナリストの使命は、意見や予測ではなく、現実にこだわること、現実を描くことであるのかもしれない。上下の二巻であるが、上巻の一章、五章だけでも十分に面白いと思う。(他の章が、内容的に物足りなかった。)