3月16日に私は岩波書店からの郵パックを受け取った。その中にこの本が入っていた。「出淵敬子様からの依頼によって送付する」旨のメモが入っていた。
岩波文庫板の中村健二・出淵博訳による外国の作者による作品であった。その外国の作者の名はイーヴリン・ウオー。本の名前は「愛されたもの」。
私は出淵博と出淵敬子という私にとってひどく懐かしい名前を、ただしばらく見つめていた。
私が言うまでもなく、出淵博氏は東京大学名誉教授。英語、英文学を教えていた。出淵敬子氏(女史といわず氏という敬称を使わせていただこう。)は日本女子大学名誉教授。英文学を教えておられた。出淵敬子氏は出淵博氏の夫人である。お二人は英文学会のおしどり夫婦と言われていたようだ。
この文庫本の最後には、2013年3月15日第1刷発行とある。
出淵博氏は私の大学の教養課程での学生寮で同室だった畏友である。私達文学の素人から見ても素晴らしい才能と感覚の持ち主であった。しかも親切でやさしいく礼儀正しい寮生であった。残念ながら東京大学教授を定年で退官した後、成蹊大学文学部教授在任中の1999年に逝去している。
共訳者の中村健二氏による巻末の解説によると、1969年刊の金星堂で対訳としてこのお二人による共訳が出版されており、それを今回岩波文庫として発行されたという経緯がわかった。
出淵博著作集2(みすず書房刊)の中の出淵博年譜によれば、中村健二氏は東京大学大学院で出淵博氏の1年先輩であったようである。
中村健二氏は出淵博氏の遺族の出淵敬子氏と打ち合わせの上、旧版での出淵博氏担当の範囲については明らかな脱落をのぞいて一切手をつけず、中村健二氏担当であった部分についてのみ必要に応じて改訳をほどこしたということである。しかも、同じ人物の話しの調子などは自分の訳を必要に応じ出淵博氏のものに合わてこの岩波文庫での改訳版ができているということである。
ということは、私は出淵博氏の訳をそのままの形で味わうことができるのである。
共訳がどのような打ち合わせや約束のもとにおこなわれるのかは、全く畑の違う私には想像するしかないが、共訳者の一人が死去しているこの場合には、打ち合わせにはさだめし出淵敬子夫人の役割が大きかったことであろう。大学院生活でも家庭生活の中でも同じ英文学者として出淵博氏の気持ちを本人と同じように最も良く承知しているのは敬子夫人であったろう。
その結果、読者が出淵博氏の訳の部分をそのままで読むことができることになっているのであろう。
出淵博氏をしのびながらじっくり読ませて頂こうと思っている。 (つづく)
画像:「愛されたもの」イーヴリン・ウオー作 中村健二・出淵博訳 岩波文庫 2013年3月15日第1刷発行
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