勘違いの構造

2005-11-13 21:50:42 | Weblog
 「恥の多い生涯を送ってきました」というのは、太宰治
の「人間失格」の冒頭であったと記憶するが。

 太宰治ほどの才人がこのように書くのは、反語的な意
味合いも強く、なんか慇懃無礼というか傲慢不遜というか、
そんな感じがするのも否めない。が、わたしがそのように
書いた場合、反語的な意味合いもクソもなく、もう真っ向
から時速160kmのストレート、「ベイスターズのクルーンも
びっくりさ」なのである。いや、マジで「恥の多い人生を送
ってきました」なのだ。

 これは以前よりネタにしていることだが、葬式饅頭を葬
式の時に食うのと同じ意味で、「ほうじ茶は法事の時に
飲む」と思いこんでいた。ほうじ茶の「ほうじ」と「法事」と
がまったく無関係だと知ったのは、30少し過ぎてからだ
というのが情けない。親戚の法事に出席したことがこれ
までの人生ですでに十回以上、なのにほうじ茶をふるま
われたことなど一度もない。この時点で気がつくべきなの
だ。

 競馬場では無料の給茶器が備わっていて、そのメニュ
ーは「緑茶」に「冷水」、それに「ほうじ茶」だ。法事の時に
飲む飲み物が、いくら家族連れで行ってもおかしくない場
所になったとはいえ、基本的には博打場である競馬場で、
無料で供されるはずがない。そういうところにも気づかない
わたしの頭のアレさ加減、馬鹿につける薬はないとはこう
いうことを言うのであろう。

 あと漢字の読み方などもやっぱり馬鹿。「暴露」という熟
語を、大学出た後もずっと「ぼうろ」と読んでいた。「ばくろ」
という言葉は知っていて、「秘密を相手の意に反して露見
さすこと」という意味も知っていたのに、その言葉と「暴露」
という字とが結びつかなかったのだ。で「ぼーろ」。卵味の
する菓子みたいでんな。

 この原因を考えてみるに、「ばく」といえば何よりまず第一
に「爆」という字が頭に浮かび、なまじ「暴」と似ているため、
「『暴』は『爆』とよく似ているが、『暴』は『ぼう』で『爆』は『ば
く』だ」というのが頭に刷り込まれてしまい、「暴」を「ばく」と
読めなくなったのであろう。恐ろしいのは一方的な思い込み
である。

 以上ふたつはとりあえず「誤りに気づいた」例なのだが、ま
ず間違いなく現在も変な勘違いをしている事柄があると思う。
さて、どんな恥ずかしい勘違いなのか、知りたい気もするが
一生知りたくない気もするのだ。