予測と予言

2005-11-07 04:59:26 | Weblog
 「予測」なるモノは現代社会において必須のモノであり、
これをご飯の種にしている人間はたくさん存在する。経済
予測を作成することが仕事ってひと、役所やらシンクタン
クやら、世界中でものすごい数がいるのではなかろうか。

 もひとつ「予言」というモノがある。これは上記の「予測」
とは違い、背広にネクタイのひとびとではなく、筮竹や水
晶玉が小道具となることが多い。従事しているひとの数は、
「予測」に従事しているひとよりもはるかに多いかもしれな
い。

 予測の方はたいてい「科学」の衣をまとっており、予言の
方は「神秘」の領域とたいていは思われがちであるが、未
来のでき事を「こうなるであろう」と想定し、それを他人に語
るという意味において、「予測」と「予言」に違いはない。

 ただ大きく異なることがあるとするなら、「予測」というのは
「過去の実績に基づく」ということであろう。「42才の人間が
1000人いる。社会の状況が変化しないとして、1年後、こ
のうちの何人が死ぬか」という予測は、結構な精度で答えが
出るはずである。実際、生命保険の会社などこの手の予測
の精度が悪かったら、保険料が決められない。この10年で、
国内の生保会社がどんどん破綻したが、これは投資の失敗
であって、上記のことが原因ではない。

 ただこれが「特定のひとりの人間の運命」だと予測のしよう
がない。「今年までなんとか病気せずに生きてきた。だから
今年も大丈夫に違いない」などという理屈は成り立たない。
「こうすれば、ああなる」という因果律が、個人ではほとんど
適用できないからだ。芥川龍之介も、「侏儒の言葉」の中で、
「人生の苦しみというのは一定の法則が適用できないこと」
と書いていた記憶がある。

 だからまあ、「個人の将来に対する断定」てのは、眉に唾
つけて聞くことが肝要であろう。いくら論理的に詰めているよ
うに見えても、個人の運命というのは「偶然」によりかかる部
分があまりにも多いから。といっても、他人の予言を無視する
にあたり、「どんな無茶しても結果オーライということがある」
と考えるか、「どんなに最悪の事態を考え、準備万端整えて
も、想定を超える不幸がやってくる」と考えるかは、それも個
人の資質による。後者のように考える人間てのは、やっぱ幸
福を存分に味わえないかもしれない。