何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

「詩(うた) ふたり一緒のとき」

2016年04月27日 | 悲しい


俯いて歩く癖がついた。

徒歩でも、自転車を引きながらでも、俯いて俯いて歩く。

何かを探している?

いや、そうじゃない。祥一郎が居ないこの世をまともに見ていたくないから。

次から次へと溢れてくる、あいつへの想いで頭と心がいっぱいになり、下を向く。

そして涙が地面を濡らす。

ときおり、前を向いて歩く。

どこの誰とも知れない人とすれ違う。

何の根拠も無く、「この人は、私が今感じているような悲しみには縁がないのだろうな。」などと思う。

ごくたまに、空を見上げる。

青い空だろうと曇り空だろうと、空いっぱいにお前の顔が見えやしないかと、見上げてみる。

でも、そこに見えるのは何も変わらない、普通の空。



振り返る癖がついた。

祥一郎がよく居た公園のなだらかな坂道を登る時や、一緒によく歩いた道を歩く時、何度も何度も振り返る。

でも、そこに見えるのは家族連れや、仲の良さそうなカップル、垣根や家並み、猫が居る屋根の下や、イチジクや柿の木達。
でもそこには、その風景の隣には、祥一郎と私、二人一緒の姿はもう見えない。

それでも何度も振り返る。あの頃の二人が居るのではないかと。



溜息が増えた。

以前の溜息は、疲れていたり、生活の苦しさからだった。

今は違う。仕事の合間、部屋で家事をしている時、風呂に入っている時、祥一郎はもう居ないのだと思うと、深い溜息が出る。



ひとり、部屋に居ると音が良く聞こえる。

雨の降る音、風の吹く音、時計の音。

部屋の外を通る車の音や、お喋りしながら歩く誰かの声。

祥一郎が居た頃は、私とあいつが立てる音、生活している音で満たされていたから、他の音など耳に入らなかった。

今は、私はひとりぼっちなのだと言い聞かせるように、あらゆる音が大きく聞こえる。



日常の何気ない行動や瞬間が様変わりしてしまった。

何をしても、何もしなくても、孤独というベールに包まれ、そこから逃げ出せる事は無くなった。



でも、たったひとつ、何も気にせずにできることがある。どんな癖がつこうと出来る事がある。

それは祥一郎を想い、大声を上げて泣く時だ。

その時だけは何も耳に入らず、他の事には気を取られることも無く、ただ祥一郎を想い、泣き叫ぶ。

このままずっとこうしていたいと思いつつ、泣き叫ぶ。

天まで届けと言わんばかりに、泣き叫ぶ。

今夜もそんな夜になりそうだ。

嬉しい。そんな夜だけは、祥一郎と私はまだ一緒に居るような気がするから・・・・・・・


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