何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

奪われるのは、もういい・・・・・・・・

2016年04月01日 | 何故死んでしまったの
別にもう夢も希望も無い。

50もとっくに過ぎて、あとはどう枯れていくかを考えるこの数年だった。

ただ、祥一郎とともにどう歳を重ねて行くか、それだけが後の人生の課題だった。


それがたがを外された・・・・・・・祥一郎の死によって。


何故だ、何故こうも私の人生には禍々しい影ばかりがつきまとう・・・・・・


両親の愛も知らず(というか初めから無かったようなものだが)、根を張るつもりが住む場所も転々とし、今度こそはと覚悟を決めた仕事にも見放され・・・・・


そしてやっと家族と思える人とも死別してしまった。

唯一の温かいものを手に入れたと思い、共に白髪の生えるまでと決めていたのに、それさえ奪われてしまったのだ。

奪われていくものばかりのここまでの人生だった。


あと、私には何が残っているのだろう。

このくたびれ果てた命だけじゃないか。


そんなもの、いつでも奪っていくがいい。何が、どんな存在が奪っていくのか知らないが、熨斗をつけてくれてやる。


こんな、こんな思いをするのなら、もっと先に私の命を奪って欲しかった・・・・・


祥一郎・・・・・・

こんな愚痴をこぼす私は間違っているかい?

立ち直って、前を向いて生きろと言うのかい?

僕の分も生きて欲しいと言うのかい?


おっちゃんはもう疲れたんだよ・・・・・・・

この世は修行の場だと言うのなら、もう十分修行はしただろ?

悲しい、痛い、苦しい、切ない思いはもう十分しただろ?

まだ生きろというのなら、何に縋って生きて行けばいいんだい?

祥一郎・・・・・・・・


疲れたよ・・・・・・・・・・・

お前がそっちに居るのなら、手を差し伸べておくれ・・・・・・・・・・


また一緒に暮らそう。何の不安も心配も無い世界で・・・・・