何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

在日コリアンの私  日本人の祥一郎

2016年04月21日 | 何故死んでしまったの

私が在日コリアンであることは、特別祥一郎にカミングアウトした覚えも無く、肩肘張らして「実は・・・・」なんて告白したことも無い。

長年連れ添っていたら、そんなことは隠しようはなく、二人の間ではいつの間にか周知のことになっていた。


私も別に隠すつもりも毛頭無く、生活の中でコリアンらしい面を普通に出していた。

キムチは欠かさないとか、何か感嘆したときに「アイゴー」とつい口に出たり、テレビに出てくるハングルを普通に読んでみたり。

祥一郎もそんな私の属性をごく普通に受け止め、興味深いことが有ったら私に尋ねてきていた。

「これ、なんて読むの?どう言う意味?」

「おっちゃんの本名は何て言いうの?」

「このキムチは美味しいね。」

「あの韓国コスメ、ちょっと粗悪品だね。」

等々、日常的に在日やコリアの話題で会話していた。

まあ偏見や差別的感情があったら、20数年もの年月を一緒に暮らせはしないだろう。

私の影響も多少はあったのだろうか。

あの韓流ブームの時期には、祥一郎は韓国ドラマにかなりはまっていた。

まずはやはり、「チャングムの誓い」から始まる。
まあゲイというのは、女同士のドロドロとした足の引っ張り合いが常の、大奥のようなドラマが好きだからというのも理由だろう。
必ず録画して、二人一緒にドラマに出てくる女優をああでもないこうでもないと批評していたものだ。

次は「ファン・ジニ」とか「イ・サン」とか、次々にはまっては喜んでいた。

同時期に、韓国コスメにも興味を持ち出し、まあ安いというのもあったのだろうが、通販で購入したり、新大久保に出掛けて行ったりしていた。

私はというと、まあ「チャングムの誓い」はそれなりに興味を持って鑑賞していたが、他の韓流ドラマやましてやコスメなどには興味は無く、在日コリアンにとって今更何をという立場だったが。


おかしくも、数奇な運命だと思う。

世が世なら、私は韓国で生まれそのまま韓国人として人生を送っていたはずだが、何の因果か、日本で韓国人として生まれ、そして日本人の祥一郎と出逢い、何十年もの暮らしを共にすることになった。

男女の関係であれば、国際結婚になったかもしれない。


日本人と韓国人、或いは在日コリアンのゲイカップルもそれなりに居るらしいが、私の周囲には居ない。

ともかくも、私は人間としての祥一郎を愛していたし、祥一郎もそれは同様だろう。

二人の間に、国籍や民族などが立ちはだかる余地など無かったのだ。

それはやはり強い絆があったからだと私は信じている。

ただ、祥一郎が亡くなる何カ月か前、生活の面で何かと有利な面があるので、ある人の提案で養子縁組の話を進めてみようかと思ったことが有り、外国籍の男性に、日本人が養子に入る場合、国籍がどう関係してくるのか考えたことはある。

結局それはあまりにも悲しい結末で、叶わぬこととなってしまったが。


「ほんとに、これだからチョンは。キムチ臭いのよね。」

「何を言うジャップ。お前こそぬかみそ臭いわよ。」

などと、聞く人が聞いたらびっくりするような差別用語でふざけ合ったりしたことも。
そこには侮蔑など微塵も無く、単に戯れていただけなのだが。

そして、どちらかと言うと祥一郎の方が、私の中にある、異文化的価値観を興味を持って楽しんでいたのだろう。

私は今でも、韓国料理、例えばチヂミやソゴギクッ(韓国式肉スープ)をたまに作る。
彼の死によって激痩せしたが、韓国料理ならなんとか少しは食欲が出る。

しかし一緒に食べてくれるあいつはもう居ない・・・・・・

私に「チョン。」と言ってふざけるあいつはもう居ない・・・・

コスメの箱に書かれたハングルを読んでくれと言うあいつはもう居ない・・・・


祥一郎・・・・・

本当はね、いつかおっちゃんも行ったことの無いソウルへお前を連れて行って、明洞辺りのコスメ店をハシゴさせたかったんだ。

なんやかんや言いながらでも、きっと喜んでくれたはずだ。

ソウルくらいなら、貧乏なりにちょっと無理すれば行けたかもしれないね。

ごめんね・・・・そんな楽しい小旅行はもうできなくなってしまったね。

できていたら、最高の想い出になったかもしれないのに・・・・・・・

祥一郎よ、おっちゃんと再会したら、空を飛んで韓国へ行こうね。

二人で、手に手をとって・・・・・・・・・


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「メゾン・ド・ヒミコ」を観て 不幸な人がガンになる?

2016年04月21日 | 悲しい
「メゾン・ド・ヒミコ」
という映画を御存知だろうか。

とあるゲイの男性が銀座でゲイバーを経営して、その後引退してゲイ専用の老人ホームを立ち上げ、その入居者とそれにまつわる若者たちの人間模様を描いた映画。

祥一郎がまだ元気だった頃、ケーブルテレビで放映していたその映画を最近何度も何度も観ている。

別に自分の老後を重ね合わせているわけでもなく、ストーリーにさほど感動してるわけでもなく、なんとなく観ているわけだが。

しかしその映画の中で、そのゲイ男性に捨てられた女性の娘が言う一言が妙にいつまでも引っ掛かる。

要するに捨てられた女性はそのゲイ男性の妻だったわけだが、ある日カミングアウトされて夫だった男性は消えてしまう。そして妻だった女性は心労のためほどなくしてガンで死んでしまう。

その捨てられて死んだ女性の娘がゲイの父に言った一言、「お母さんがガンで死んだのは、不幸だったからよ。」

そのフレーズが妙に引っ掛かる。

私の周囲にも、ガンになるのは良い人ばかりよ。周囲に気を使ってばかりいたり、苦労の絶えなかった人がガンになりやすいのよ、という説をとなえる人が何人か居る。

私は親戚付き合いは殆ど無く自分から避けて生きてきたが、そこそこ仲の良かった同じ歳の女性の従姉妹が居た。

自己主張が強く我の強い従兄弟達の中で、唯一その同い年の従姉妹だけは毛色が違い、おっとりして周囲に気を配り言いたいことも控える人だった。33歳の若さで大腸がんで亡くなったが。


祥一郎が亡くなる何年か前、私にとってゲイの世界で唯一といっていい親友もそうだった。

苦労人だった上、八方美人で気配りばかりする人だった。その後骨髄腫というガンで亡くなった。

少なくとも私の周囲では、苦労人で良い人と言われる人、気配りの出来る人、言いたいことも堪える人がガンで亡くなっているケースが多いような気がする。


祥一郎はどうだったのだろう。

私には言いたい事を吐き出せていたのだろうか。

私の前では、素の自分で居られたのだろうか。

20数年一緒に暮らしてそんなこともわからないのかと言われても、何十年も連れ添ったカップルでも、本当の、心の奥底の本音まで理解し合えていたと自信をもって言える人はどれほど居るのだろう。

祥一郎・・・・あの子は極端な内弁慶だった。あまり接点の無い人や、関係性の薄い人には妙に外面が良かった。

そして私の元へ帰って来ては、本音を出して愚痴を垂れ流すところがあった。そういう面では私には素の自分を曝け出せていたのだろう。

でも、100パーセントそうだったのかと考えてしまう。
ひょっとして私にも言えない、愚痴れない、甘えられない事をいくつか抱えていたのではないか。

私に気を使って、本当は言いたいことがもっとあったのに、言えずじまいだったことは無かったのだろうか。

家族同然だったのにあんなに近くに居たのにいつも一緒だったのに・・・だからこそ言えなかったことを抱えていたのではないんだろうか。

それがストレスや精神的な重荷になっていなかったのだろうか。

あいつの死んだ原因がガンだとして、それが遠因になっていたのだとしたら・・・・・・

あのメゾン・ド・ヒミコという映画の女優の一言が妙に引っ掛かるのは、最近そんなことを考えるからなのだ。

あまりに近すぎて言えなかった、それはやはりある意味不幸な事だろうと思う。

そして言おうとしてもあまりに突然の別れだったために言えなかった、そこまで考えるのは穿ち過ぎだろうか。

そう、あまりに突然の別れ。

それが故に、お互いに伝えたかった事はもう無いと、誰が言えるだろうか・・・・・。



祥一郎・・・・

少なくともおっちゃんは、ここに書ききれないほどお前に伝えたかったことが山のようにあるよ。

だから少しずつでもここに書き残していくつもりなんだ。

でも、お前がおっちゃんにまだ伝えたかったことがあるのなら、それはおっちゃんがそちらの世界へ行くまで聞くことはできないね・・・・・・・・・

それが切なく、悲しい・・・・・

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