何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

花冷えの少し寒いこんな日は・・・・・

2016年04月03日 | ひとりぽっち
きょうは私のオフの日。 少し寒い。花冷えというのか。


遅く起きた私は、まだ歯磨きや洗顔もすること無く、煙草を口に咥え、ソファーにどっかりと座ってぼーっとしている。

祥一郎はというと、私より早目に起きて、いつものようにパソコンで自分のブログやツイッターのチェック。

それが終わると、私のパジャマ件部屋着をむりやり引っぺがして、自分の汚れものと一緒に洗濯機に放り込み、掃除機をかけ始める。

私はというと、掃除機をかけやすいように足を上げて、取り溜めたケーブルテレビの映画なぞを鑑賞中。

それから祥一郎は朝シャンだ。
風呂の掃除をしながら、頭を洗い、髭を剃る。困ったことに湯水を大量に使うクセがあった。

さて、散歩でもするかと、私は顔を洗って出掛けて行き、赤羽界隈の激安商店で何かお買い得が有ったら買い込み、ついでにお菓子屋に寄り、自分の分と祥一郎の好きそうなスナック菓子などを購入。

日用品で必要なものが有ったら、ドラッグストアで買い足し。何が無かったっけと分からないときは祥一郎に電話して確認する。
「カミソリの刃と、ティッシュも無いで。」とか言われてそれも購入。


帰ると祥一郎は洗濯物を干し終り、昼を回った頃に、冷凍チャーハンで昼ごはん。

私は昼を抜き、さてきょうの晩飯は何にするかと考えを巡らす。

「きょうはちょっと寒いし、また冬がくるまでの最後のおでんにでする?」と聞くと、祥一郎は「またおでん?」とかなんとか。


その後祥一郎は体操の日であれば、それが終わるまで待ち、その後二人でいつものスーパーで一週間分の食料と、晩飯の材料を買い回る。

二人でチャリを荷台代わりに、えっさほっさと坂道の多い道を帰る。


食料を冷蔵庫に放り込み、また二人はそれぞれ好きな事をして過ごし、やがて私は夕食の準備にとりかかる。

その後一服してから、祥一郎の入れてくれた風呂に入り、午後7時くらいに夕食開始。

終わると祥一郎は洗いもの、私は料理で疲れたから、またビデオを鑑賞しながら晩酌をしている。

洗いものが終わった祥一郎は風呂に入る。彼は空腹で風呂に入ると気分が悪くなるらしく、いつも食後に入る。

明日が仕事なら私は晩酌もそこそこに寝床に入る。

祥一郎はまだパソコンと格闘中。

そして遅れて彼も就寝。



きょうみたいなちょっと寒い日は、そんなふうに二人で過ごしただろう。
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今は・・・・・・・・・朝も昼も殆ど何も口にせず、やっと夜に安い弁当を一人で腹に収め、ビデオを鑑賞しようとするが、まったく集中出来ず、

日中の半分くらいは、祥一郎の座っていた椅子で、前かがみになって畳の目をじっと見ている。あの子のことを考えながら。

涙がジンワリ滲んでくることも有れば、本格的に泣くこともある。そうでなければ溜息ばかりついている。

孤独でどうしようもない感情の持って行き場が無いので、睡眠薬を飲んで早目に寝床に潜りこむ。いわゆる寝逃げというやつだ。

祥一郎の遺影をまくらの横に起き、「お休み。」と言いながら、(お願いだからこのまま目が覚めないで)と願いつつ、やがて眠りに入っていく。


祥一郎・・・・・・・・・おっちゃんはもう廃人になったような気分だよ・・・・・・・

それでもおっちゃんの生は続いていくんだろうか・・・・・・・

覚悟がある人になれなかった・・・・・・・・・・・・・

2016年04月03日 | 何故死んでしまったの
祥一郎がもしガンだと本人も私も分かっていて、入院してそれなりに闘病生活をして、その後逝ってしまっていたなら、私はどう思い、どう感じていただろう。

(もしかしたら祥一郎は、もう駄目かもしれない。)

という覚悟が出来て、心の準備が整っていただろうか。 謂わば覚悟がある人になれただろうか。

それとも、これだけやるだけ一生懸命やったのに、何故逝ってしまったんだ?という悔しさや悲しみが湧き上がって、覚悟もなにも吹っ飛んでしまっていただろうか。


もしも、の話でしか無いけれど、そんなことも想像してみる。

死別した方の中でも、期間は様々あれど、闘病と看病の末、最愛の人を亡くした方もいるだろう。


そいういう方と、私のように覚悟も何も無く、あまりに予想だにしなかった結末を迎えた者との悲しみの種類は違うのだろうか。


前日まで、明日病院にかかれば何とかなる、まさかその日の朝に亡くなるなんて思いもしなかった。
そして突然倒れ、断末魔のような叫び声の後、私の膝の上で大量吐血しながら息絶えて行った祥一郎。

そんな経験を、場面を目の前で見てしまった私の、その後の感情の推移と、ある程度覚悟があった人たちとのそれは何か違う面があるのだろうか。


聞いてみたい気もする。


心の中では、「私の悲しみは貴方達よりもっともっと深い。」などとどこかで思っているのかもしれない。


でも実際は、違いは多少あるとしても、愛する者を亡くした悲しみ苦しみの大きさは、なんら変わる事はないのだろうなとも思う。

隣の芝生は青く見える、でも実際はそれほど変わらない、そういう事なのかもしれない。


今、グリーフカウンセリング、要するに最愛の人を亡くした人が受けるカウンセリングだが、それを受けようかどうしようか迷っている。

亡くし方はそれぞれ違いはあれど、似たような経験をした人達と語り合う事で、なにかヒントになればと思っているのだが。

そして、その後の生き方に違いがあれば、何故違うのか、違っていることでお互いに参考になることがあるのか、それも知りたいと思っている。


実際に本当に受けるかどうかはわからない。

ある程度お金もかかるし、金儲けの臭いがプンプンするような団体も有るようだし、さりとて安い費用でカウンセリングを受けても、それなりにしかならないような気もする。


とにかく4月頃には結論を出そうと思っている。


話は変わるが、
さきほど通院している心療内科に行って来た。


「先生、私は鬱なのでしょうか。」という問いかけに医師は

「抑うつ状態であるのは確かですね。」とのこと。

「あまりに大きなストレスが外部からかかってしまった為、そうなったのです。」とも。


では、私は普段どのように生活をしていったらいいのでしょうかという質問には、

「とにかく、家に一人で居ないことです。ますます落ち込みますからね。誰かと逢うなり、会話するなり、それができないなら、喫茶店でお茶を飲むだけでいいです。表に出ましょう。」


と。まあこちらの予想通りの答えで、わかりきった答えでしかなかった。

そんなことが休みの度にできたら苦労はしないのだけれど。

喫茶店でお茶を飲む?祥一郎が亡くなってから何度かそうしたけれど、楽しそうに会話する他の客を呆然と眺めて、よけいに疎外感、喪失感が大きくなったので、以来喫茶店のような場所には一人で近づかないようにしている。

結局、ひとりで部屋に居てもなんとか過ごせるように、間違ってもリストカットなどしないように自分自身で慣れていくしかないのだろう。

私の帰る場所は、この祥一郎と暮らしたこの部屋しかないのだから。

祥一郎の肌着を引っ張り出して、泣きながら眠りについた昨夜のようなことを繰り返しながら、
この環境になんとか折り合いをつけていくしかないのだろうな。

気が遠くなるような気もするが・・・・・・・・


祥一郎・・・・・・・・・・・・・・・ 逢いたいよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・