何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

ダイレクトメール  生きていることになっている祥一郎・・・

2016年04月30日 | ひとりぽっち



階段下の、ポスト、祥一郎の名前がもう消えかかっている。

あいつは毎日自分宛ての物がないか確認していたけれど、私はあまりしない。

三日か四日に一度くらいだ。
どうせ請求書と、くだらないチラシくらいしか入っていないから。

でも・・・・・

ときおりまだ、祥一郎宛てのダイレクトメールが届く。

もうこの部屋に、この世に居ない祥一郎に届く。

殆どがコスメ関係の会社からのものだ。

あいつはそれはそれは多くのコスメを通販で買ったり、ネットで試供品を申し込んだりしていたから、
今だに届くのだ。


それを手に取り、わたしはどうしていいのか迷う。

すぐ処分するのもなんだか切ないし、かといって取っておいても祥一郎はもう居ない。

結局はしばらくテーブルの上に放っておいて、やはり処分する事になってしまう。

先日 再春館製薬という会社からのDMが届いた。あのドモホルンリンクルの会社だ。

何を思ったのか、わたしはそのDMに書いてある電話番号にかけてみた。

「すいません、〇〇祥一郎宛てに届いたDMの事なんですけど。」

「はい、いつも有り難うございます。本日はお買い上げですか?」

「いえ、実は・・・・・私はこの〇〇祥一郎の同居人なんですけど、彼はもう亡くなったんです。」

「・・・・そ、それはそれは・・・・お悔み申し上げます。あの、念の為御住所を確認させて頂いてもよろしいですか?」

私は住所を伝え、

「そう言う事なので、お宅に会員登録しているのなら、抹消して頂きたいんです。」

「はい、かしこまりました。わざわざ有り難うございます。この度は本当にお悔やみ申し上げます。今までありがとうございました。」

・・・・・・・・
・・・・・・・・

というようなやり取りがあり、電話を切った。

切った後、やるせなくて切なくて涙が溢れて止まらなかった。

これからも別のDMがときおり届くだろう。

祥一郎の住所なり会員番号なりがまだ登録されていてまた届くだろう。私の知らないところで、祥一郎はまだ生きていることになっているのだ。

それを思うとなんとも言えない感情に襲われる。

やはりDMが届く度、上で書いたようにちゃんと報告した方がいいのだろうか。

その度に哀しくなるが、かといってそれをしないとまた届いてしまってその封筒を見るとはやり哀しくなる。

祥一郎・・・・・・・

おっちゃんはどうしたらいいんだい?

どっちにしても悲しい思いをすることになるよ。

だから、だからあまりポストの中を見るのが嫌なんだ・・・・

祥一郎・・・・・・切ないよ・・・・


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ジャスミンの薫る頃  祥一郎が教えてくれたもの

2016年04月29日 | 喪失感

まったくの赤の他人同士が出逢って、何十年も共に暮らすこと。

当然ながら、最初はお互いの価値観や主義趣向、趣味や嗜好がぶつかり合う事も有る。

それが年月が経つうちに、相手のそれを受け入れ、譲歩し、認め合う。

そうやって絆は深まるんだ。

勿論私と祥一郎もそうだった。

当初は箸の上げ下ろしまで気になったものだが、一緒に暮らすうち、我慢できない事も我慢出来るようになり、なんとなくお互いの一線がわかってくる。
一線を越えた時は喧嘩になったりもするけど、それを越えない限りうまくやっていける。
赤の他人同志が家族になるというのはそういうことなんだ。

それを祥一郎との暮らしは教えてくれた。

お互いがお互いの世界観を持っていて、それを教え合い認め合うことが絆というものかもしれない。


祥一郎、お前はおっちゃんになにを教えてくれただろう。

〇コスメ
若い頃から化粧品などまったく興味の無かった私に、世の中にはこんなにも男性用の化粧品やら、男女とも使用可のもの、香水、その辺の石鹸とはまるで違うコスメ石鹸、その他諸々があることを教えてくれた祥一郎。
私が足に豆が出来やすいことを知って、豆が出来ないように角質がとれるクリームを塗ってくれたね。
そうそう、スイカの匂いのする化粧水をくれたときはびっくりしたよ。こんなものがあるのかって。
顔面パックなんかもときおり一緒にやったよね。二人で笑わせあって台無しにしたりして。
祥一郎の化粧品、石鹸、まだ残っているよ・・・・・。

〇ミュージカル
これもまったく興味も、観る機会も無かった私に教えてくれた祥一郎。
最初に観たのは「美女と野獣」。あの時のあいつの喜びようったら・・・・・
後は「李 香蘭」「クレイジー・フォー・ユー」「マンマ・ミーア」「エビータ」その他諸々。

祥一郎に強く背中を押されて全く縁の無かったミュージカルなるものに、こんなに何回も行ったとは。
個人的に「ライオンキング」に一緒に行きたかったけど、もうそれは出来ない・・・・

〇テレビゲーム
最初はプレイステーションだった。
これも私の知らない世界だったけど、祥一郎が初期のプレイステーションを買ってきて、ゲームを始め、ちょっと私も触ってみたら、けっこう暇つぶしになるし、段々面白くなってきて、新型のプレステが出ると私自ら買ってきたりしていた。
最初にやったゲームはズバリ、「バイオハザード」。いやあこれは面白かった。特に「バイオハザードⅡ」が秀逸だった。二人でプレステの取り合いで喧嘩したり、どこまで進んでいるのか競争したり、楽しいゲームオタク生活を二人で楽しんだ。いったい何度中古ゲーム屋に足を運び、何枚ゲームソフトを買ったことだろう。いまだにそれは殆ど残っている。誇りを被ったプレイステーションⅡと共に。祥一郎と遊んだ想い出とともに。

〇入浴の楽しみ方。
およそ入浴剤など、入れて風呂に入る事が無かった私だったが、祥一郎はやれバスロマンだのバスクリンだの、その辺のドラッグストアに売ってるものだけでなく、どこから仕入れてくるのか、ハーブの強い匂いのするものや、泡だらけになるもの、夏は肌が冷えるものや、冬は身体を芯から温めてくれる物など、あいつの入浴に対する拘りは私など足元に及ばなかった。
お湯の色が真っ赤になっていたときはびっくりしたものだ。いったいどんな入浴剤を入れたんだろうと。でも良い香りがした。
今はひとりしか入らない風呂。でも、入浴剤を入れる習慣は残った・・・・・・・。

このように、祥一郎は私の世界観を色々な面で広げてくれた。


そしてまだある。あいつが教えてくれた物の中でとても大事なものが。

〇人を愛すること愛されること、人の温もりを感じること、いつも傍にいてくれる安心感、私はひとりじゃないという心地良さ。

語るまでも無いけれど、祥一郎が教えてくれたものでこれらが一番私にとって美しく、かけがいのない、
失いたくないものだった。

そしてそれらは、夢のように突然無くなってしまった。

どんなに探しても、どんなに望んでももう手に入れることはできなくなった。


祥一郎・・・・・・

お前が残したコスメや、ミュージカルに行った時に買ったグッズ、ゲーム機やゲームソフト、入浴剤を持って、「はい、忘れものだよ。」と言ってお前の元へ戻れる日は来るんだろうか。

いや、いつか来ると信じて生きよう。

そうするしかないんだよ、おっちゃんは・・・・・・・・・・。


家の周りに、あの白っぽい花が咲く季節になったよ。甘い薫りのするあの花だ。

お前が、「おっちゃん、あれはジャスミンの花だよ。知ってた?」って教えてくれた。

お前にもあの薫りは届いているだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・


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月命日  そして皮肉な誕生日

2016年04月28日 | 菩提を弔う

祥一郎・・・・・

4月28日、四度目の月命日だ・・・・・・・・・

東京は冷たい雨だよ。

自分で勝手に思ってる。おっちゃんの涙雨だと。

この四カ月・・・・長い長い四ヶ月だった。
人間歳をとると月日は早く過ぎるというけれど、この四ヶ月はまるでぬかるみに足を取られて歩いているような、粘るゼリーの中でもがくような、そんな日々だった。

お前が急激に体調を悪くして、そしてそのまま天に召されて行き、その後の地獄のようなおっちゃんの時間、それらはまだ連綿と続いている。あの時からのお前の死とそれに関連した出来ごとの真っただ中にまだ居るんだ。

本当はお前の霊前で、一日ゆっくり過ごしたいけれど、きょうは仕事だからごめんね。

そのかわり明日は休みだから、新しい花を供えて、お前の好きだったものを買って一緒に食べよう。なに、いつもそうしているけど、ちょっと明日は豪華にね・・・・

一日お前の為に過ごすんだ。お前の為だけに・・・・・



そして・・・・・・・
きょうはおっちゃんの誕生日でもある。なにか皮肉だね。

28という数字になにか因縁でもあるんだろうか・・・・・・・

お前が初めて誕生日にくれた手袋・・・ありがとうね。バイクで通勤していたあの頃、寒くないようにってくれたんだよね。

それからも、毎年ささやかに祝ってくれてありがとう。

お金が無い時も、小さなケーキや、煙草を買ってくれたり、お前がその時できる精一杯のことをやってくれた・・・・・・・・・

もうおっちゃんの誕生日を祝ってくれる人は居ない・・・・・

こんな歳だから今更どうでもいいんだけど、お前が傍に居ないことで、何より悲しい誕生日になってしまった。

毎年こんな思いをするんだろうか・・・・・きっとそうなんだろうね。

今強く思うのは、おっちゃんの寿命がまだあるのなら、それをお前に分けてやりたかった。
そして、天に召されるのなら、できるだけ時間差が無いようにしたかった。置き去りにされる月日が短くなるようにね。

祥一郎・・・・・・・
お前は今何処に居るんだい?

お前を感じたい・・・・お前の気配を、温もりを、息づかいを、存在を・・・・・・

きょう明日は、お前が来てくれることを祈ります・・・・・・・・・・・・・

雨が強くなってきたよ・・・おっちゃんの悲しみの深さを表すように・・・・・・


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再掲  「祥一郎 突然の死」

2016年04月28日 | 死別体験
きょうは祥一郎の月命日です。
あの時を忘れないように再掲します。


読者の皆様、はじめまして。

私けいはこの度、20数年苦楽を共にした相棒を突然、あまりに突然悲惨な形で亡くしてしまいました。彼の名は祥一郎と言います。


12月中ごろから下血が始まり、本人はイボ痔だと言っていて、以前にもあったからその内治ると言っていました。痔の薬を塗布し、やり過ごしていました。

しかし20日頃から今度は腹部の張りが見られ、高熱が出るようになりました。
それでも本人は大丈夫、今に治るからと言っていました。

下血は止まらず、パンツが汚れるのでオムツを買い、熱さましも買い、痔でも座れるクッションも買い、痛み止めも買い、なんとかやり過ごそうとしましたが、それでも症状が治まりません。ときおり酷い寒気や震えも見られるようになりました。

これはやはおかしいと思い、私はなんとか無料か定額で受診できる算段を模索しました。何分にもふたり食べていくのがやっとで、私にも彼の診療費を出す余裕が無く、保険証は会社のものなのでそれを貸すわけにもいかず。

27日に病院のソーシャルワーカーにも相談し、とにかく生活保護の医療扶助を受けるように動いて、病院としては来た患者を断るわけにはいかないので受診して、お金のことはその後相談しましょうとのことでした。

私は更に、住んでいる地区の共産党の議員に生活保護の医療扶助受給に協力してほしいと相談をもちかけ、その場で28日の午前中に福祉課に一緒に行きましょうとの言質を頂きました。

思えばその二日くらい前、珍しく祥一郎が「おっちゃん、手を握って。」と言ってきました。

なにを今更と思い、「さすがに弱気になったの?大丈夫、おっちゃんがなんとかするから。病院行けるようにするから。」といって軽く彼の手を握ってやりました。彼は少し涙ぐんでいました。


祥一郎は28日前夜から変なしゃっくりが止まらず、寝室でも少量嘔吐していました。本人は「昨日食べたチョコレートを吐いちゃった。」といい自分で処理してました。

そして当日です。
私も殆ど心配で寝られず、午前中に議員と福祉課に行って、その後祥一郎を近所の病院に連れて行く算段でした。

しかし早朝7時前ごろ、祥一郎は起き出してきましたが、台所でドスンという大きな音、そして悲鳴のような叫び声のような声が聞こえ、駆け付けると仰向けに倒れた祥一郎が目に入り、抱き起そうとしましたが、突然の大量吐血。
私の膝の上で大量吐血しました。とにかく血を吐き出さそうとして私は祥一郎を横向けにし、背中をタッピングしました。しかし目の焦点は合っていず、呼吸もしていません。私はあわてて介護職の現場で習った心臓マッサージを行いました。マウスtoマウスも行いましたが、意識は戻らず、119番しました。その後もマッサージを行いましたが、祥一郎は戻って来ません。
救急隊員が到着、処置を施しましたが、それでも意識は戻りません。

そして祥一郎と私は救急車の車上の人となり、病院に到着、引き続き救急処置をおこなっていましたが、無情にも医師から、「残念ながら、心臓の鼓動は戻りませんでした。」との死刑宣告を受けました。


皮肉にも、生活保護受給に関して必要になる、千葉在住の彼の実父、弟の連絡先を前夜に詳しく聞いていたメモが手元にあり、迅速に連絡をとることが出来ました。

その時点で私は何が起こったのか、これは現実なのか、動物園の熊のように冷たい病院の廊下を行き来し、ミクシイで知り合った友人に事の顛末を連絡しました。彼は遠い横浜からかけつけてくれ、もうひとり都内の友人も駆け付けてくれました。どちらも祥一郎のことは殆ど知りません。

時間が経過し、やっと実父と弟が到着。
初めて会う得体のしれない私を見て、困惑しているようでしたが、そうも言っておられrず、私は経過を説明しました。
その前に刑事に、事件性の有無の調査でふたりが同性愛の繋がりで有ったことは説明したので、それは二人とも知っていたのでしょう。

二人とも嘆き悲しむどころか、淡々としていました。
私にはあずかり知らぬ肉親の関係性があったのでしょう。しかしその後の言葉に耳を疑いました。

「葬式はせず、明日火葬します。」

なんと、厳粛なお別れをしないというのです。

しかし肉親の言う事、私には猛然と反発することも出来ず、諦めるしか有りませんでした。


その後実父と弟と連絡先を交換し、翌日の火葬場には私も行くことになりました。

祥一郎の死に顔を見ても未だ信じられぬ私は、後ろ髪を引かれる想いで、病院を後にしました。その間ずっと横浜の友人は付き添ってくれました。その後二日間一緒に居てくれました。血だらけになった部屋の片づけも、遺品整理も手伝ってくれました。


翌日の火葬の場。
実父と弟から聞いた話では、祥一郎の死の原因は上部消化管出血によるショック死との事でした。
なぜ出血したのかは、消化管のどこかに潰瘍かガンがあったのではないか、詳しくは解剖しないとわからないとのこと。肉親に希望によって解剖は行わないことになっていました。私の意志など関係ありません。

そして火葬終了後、なんとか分骨をさせてもらえました。

弟さん曰く、「ひょっとしたら兄はその辺で野垂れ死にしたかもしれないのに、私たち肉親よりもずっと長く過ごしたけいさんに看取られて、兄もよかったと思います。」
弟さんも何か感じるところが有ったのでしょう。その言葉で少し救われた気がしました。

火葬前にも、実父が泣きじゃくっている私の背中をさすってくれていました。


その後横浜の友人と4人で、私と祥一郎の過ごした部屋へ戻り、遺品を肉親に手渡しました。

ゆっくり話す間もなく、実父と弟は帰って行きました。

遺品整理しても祥一郎の写真がほとんど見つからず、唯一最近の写真で免許証の写真を引き伸ばして、私にも送ってくれるとのことでした。

あまりのもあっけなく終わった、祥一郎とのお別れの儀式。

その後、私はがらんとした部屋で、まだまだ残った祥一郎の痕跡に囲まれながら、悲しみと苦しみと慟哭に苛まれています。

かたっぱしから友人知人に連絡し、私をひとりにしないでほしいと喚き散らしました。

それに呼応した優しい友人たちは、遠くは栃木からを始め都内からも何人も私の部屋を訪ねてくれました。電話やメールも頂いています。

それに縋って私はまだ辛うじて、心身を保っています。

思えば私は年末の21日から29日まで、1月にある介護福祉士の勉強のため長期休暇をとっていました。
それに合わせるかのように祥一郎は状態を悪化させ、まさに受診の当日の早朝に逝ってしまったわけです。

そしてあんなに嫌がっていた、肉親に知られることになる生活保護受給の件もやっと観念し、連絡先を私に教えて、その後逝ってしまったのです。

これは何かの筋書きなのかと思われてなりません。死神の意志に沿った筋書き。


もっと早くに私が動いていれば、もっと早くにあの子の状態を把握していれば、何ヶ月か前に血圧が高いと言って目眩がすると言っていた時点で動いていれば………悔やんでも悔やみきれるものではありません。

どうしても私の見通しが甘かったと思えてなりません。また、祥一郎本人も今まで体調が悪くなっても医者にはかからず、なんとかやり過ごしてきたという過去があったのかもしれません。

様々なことが遅すぎ、そしてあと一歩遅かった.。


祥一郎はもう居ません。

20数年の私たちの紛れも無い家族の歴史は、一瞬で閉ざされました。

お互いがお互いしか居ませんでした。

どんな時も、私がどんな境遇に陥っても祥一郎はいつも傍らに居ました。

祥一郎は逝ってしまいました。

残された私は、未曾有の悲しみと苦しみと慙愧の念と共に生きて行かねばなりません。


時間は過ぎて行きます。

いつか祥一郎の死が記憶になるまでどれほどかかるのか。それを考えながら私は茫然としています。


巨大な悲しみのために、あまり涙を流すことも出来ないでいます。

いっそ狂ってしまえばいいとも思っています。彼の記憶が無くなるように。

私は、私は、もう祥一郎無しでは生きていけないかもしれません。


運命や神という概念が本当にあるのなら、私はそれを呪います。


ひっそりと都会の片隅で肩を寄り添い、貧しくつつましく助け合って生きてきた祥一郎と私に、何の咎があったのでしょう。

誰か教えてください。誰か………


祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎、祥一郎…………


どこに行ったの?早く帰っておいで。

はやく病院に行かなきゃ。後のことはおっちゃんにまかしとき。

そしてはやく治って、またいつもの暮らしに戻ろう。

二人はいつも一緒だよ……いつも一緒だよ………

「詩(うた) ふたり一緒のとき」

2016年04月27日 | 悲しい


俯いて歩く癖がついた。

徒歩でも、自転車を引きながらでも、俯いて俯いて歩く。

何かを探している?

いや、そうじゃない。祥一郎が居ないこの世をまともに見ていたくないから。

次から次へと溢れてくる、あいつへの想いで頭と心がいっぱいになり、下を向く。

そして涙が地面を濡らす。

ときおり、前を向いて歩く。

どこの誰とも知れない人とすれ違う。

何の根拠も無く、「この人は、私が今感じているような悲しみには縁がないのだろうな。」などと思う。

ごくたまに、空を見上げる。

青い空だろうと曇り空だろうと、空いっぱいにお前の顔が見えやしないかと、見上げてみる。

でも、そこに見えるのは何も変わらない、普通の空。



振り返る癖がついた。

祥一郎がよく居た公園のなだらかな坂道を登る時や、一緒によく歩いた道を歩く時、何度も何度も振り返る。

でも、そこに見えるのは家族連れや、仲の良さそうなカップル、垣根や家並み、猫が居る屋根の下や、イチジクや柿の木達。
でもそこには、その風景の隣には、祥一郎と私、二人一緒の姿はもう見えない。

それでも何度も振り返る。あの頃の二人が居るのではないかと。



溜息が増えた。

以前の溜息は、疲れていたり、生活の苦しさからだった。

今は違う。仕事の合間、部屋で家事をしている時、風呂に入っている時、祥一郎はもう居ないのだと思うと、深い溜息が出る。



ひとり、部屋に居ると音が良く聞こえる。

雨の降る音、風の吹く音、時計の音。

部屋の外を通る車の音や、お喋りしながら歩く誰かの声。

祥一郎が居た頃は、私とあいつが立てる音、生活している音で満たされていたから、他の音など耳に入らなかった。

今は、私はひとりぼっちなのだと言い聞かせるように、あらゆる音が大きく聞こえる。



日常の何気ない行動や瞬間が様変わりしてしまった。

何をしても、何もしなくても、孤独というベールに包まれ、そこから逃げ出せる事は無くなった。



でも、たったひとつ、何も気にせずにできることがある。どんな癖がつこうと出来る事がある。

それは祥一郎を想い、大声を上げて泣く時だ。

その時だけは何も耳に入らず、他の事には気を取られることも無く、ただ祥一郎を想い、泣き叫ぶ。

このままずっとこうしていたいと思いつつ、泣き叫ぶ。

天まで届けと言わんばかりに、泣き叫ぶ。

今夜もそんな夜になりそうだ。

嬉しい。そんな夜だけは、祥一郎と私はまだ一緒に居るような気がするから・・・・・・・


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