何故死んでしまったの…祥一郎の生きた証

私は2015年12月28日、20数年共に暮らした伴侶である祥一郎を突然喪いました。このブログは彼の生きた証です。

フラッシュバック 

2016年05月19日 | 喪失感


それは突然、何の前触れもなく襲ってくる。


朝起きて来て突然聞こえた祥一郎の悲鳴。そしてドスンという倒れる音。

倒れた祥一郎を助け起こすが、わたしの膝の上で大量に吐血し、急激に意識を失くしていき、目の焦点が合わなくなっていく。

大声で名を呼び、一生懸命心臓マッサージをする私。反応しない祥一郎。鳴き叫ぶクロ。

救急車を呼び、隊員たちが救急処置を行うのを呆然と見ている私。

あの時の光景がリアルに質感を持って眼前に現れるのだ。


部屋でぼんやりしている時、あても無くそぞろ歩きしているとき、電車に乗っている時、買い物をしている時、仕事をしている時。

時と場所を選ばずそれは襲ってくる。

そうフラッシュバックだ。

突然目の前で最愛の人が死んでゆくのを見てしまった人は、きっと誰もが経験するのだろう。


そんな時私は、ただでさえ俯き加減で過ごしているのに、更に顔を下に向け、目を閉じ、歯を食いしばり、眉間にしわを寄せ、ときに「うーーーー・・・・・」という唸りのような声を上げて耐える。

先日などは、部屋でひとりでじっとしていても塞ぎこむだけなので、友人の家へ行こうと思い電車に乗ったその時に襲ってきた。

電車内は座席が空いておらず、ドア付近に立っていた私はその場にしゃがみこみ、できるだけ他の乗客に気付かれぬよう声を押し殺して唸っていた。

何人か怪訝な顔をした乗客も居たようだが、声をかける人は居なかった。

あの時もし誰かに声をかけられたら、私は感情が爆発して大声で声をかけてくれた人に泣きついていたかもしれない。

それを想像すると、かえって声をかけられなくて良かったとも思う。

明らかにPTSD(心的外傷後ストレス障害)によるフラッシュバックなのだが、普段精神安定剤でふつふつと沸騰している大きな悲しみや孤独、
喪失感に無理矢理蓋をしているだけなので、ときおりそれが吹き出してしまうのだろう。

今のところ、フラッシュバックに決定的に効く薬は無いそうだ。

一番困るのは、仕事中にそれが襲って来た時だ。

何度か有るのだが、そんな時はこれ以上ないくらい感情を押し殺して、機械的に身体を動かしている。

何度か職場のご利用者に、「あなた、すごく赤い顔しているわねえ。怖いわ。」などと言われたことも有る。
我慢が過ぎて血流が顔に集中していたのだろう。そして心の中で、「落着け、落ち着け。淡々と淡々と仕事するんだ。」と呟いている。

このままで介護の仕事を続けられるのだろうか。不安でもあり、諦めている面もある。
自ら今の仕事を辞すか、解雇されるか、その内どちらかになるかもしれない。


しかし、こんな状態の自分を私は今すぐに抜けだしたいとは考えない。

最愛の人をあんな形で亡くした者にとって当然のことだと思っているから。

それだけ祥一郎を亡くしたことは私の人生において最大の試練であるし、そしてそれほどまでに祥一郎を愛していたその証なのだから。

私は病気なのかもしれない。いや、確かに精神的に病んでいるのだろう。

いつかこの状態を脱した時、私はどう思うのだろう。

もうフラッシュバックも起こさなくなるほど、祥一郎を亡くしたことを記憶の彼方に押しやってしまって罪悪感を感じるだろうか。

私は思う。
罪悪感を感じるくらいなら、今の状態のままでもいいのではないかと。

それは異常なことなのだろうか。治さねばならないことなのだろうか。

私は未だ、その答えを見つけられない。

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大喧嘩をしても 二人は一緒 その二

2016年05月09日 | 喪失感


大喧嘩をしても 二人は一緒 その一の続きです。



祥一郎はもう帰ってこない、そう諦めて寝入ったころ、何か物音がする。

どこから聞こえてくるのだろうと聞き耳を立てると、どうやら押入れの中だ。

「ぐーーーー、ずーーーーー・・・・」

開けて見るとなんと、祥一郎が押し入れの中で寝ていた。私はへなへなとその場にへたりこんだ。

目の前の光景を見て、びっくりするやら安心するやら腹が立つやらで、祥一郎を思い切り揺さぶって起こした。

「あんた、どこ行ってたんや!どんだけ探したと思うてんねん。このアホ!」

祥一郎はバツの悪そうな、寝起きの顔でだんまりを決め込む。出て行ったものの、金も無く行くあても無いので、こっそり戻って来たのだろう。

私は私で(はあ、良かった。何事も無くて。)と思い、じんわり涙さえ滲んでくる。

その後やや落ち着いた二人は、喧嘩の原因を少しテンションを下げて話し合う。

私の方は、祥一郎を責めるような言葉ではなく、諭すような、優しく説きふせるような言葉で話しかける。

祥一郎は祥一郎で、大見得を切ったものの戻って来た自分に色々感じることもあったのだろう。
大人しく私の話を聞いている。

その内二人とも段々疲れ、眠くなってくるので、結局はいつの間にか喧嘩も中途半端なまま寝てしまう。

翌日から二、三日はお互いまだしこりが残っているので殆ど口をきかないが、その内祥一郎の方から
日常の会話が出てくる。

「おっちゃん、黒門市場歩いとったらあのオカマが猫を肩に乗せて歩いとったわ。」
「あの店で、ユーミンのアルバム、安売りしとったで。」

などなど。
これがもう仲直りの合図。

その後はいつもの暮らしに戻り、大喧嘩など無かったような生活が続いて行く。

祥一郎と私の喧嘩のパターンはいつもこのようなものだ。

出て行く祥一郎を引きとめたり、本当に出て行ってしまったら探し回るのはいつも私。

一緒に暮らし始めてから何年か経ったころ、私は自覚していたのだ。
どちらかが居なくなったとしたら、寂しくて悲しくて後悔するのは私の方だと。

そして更に年月を経ていく内、その後も何度か出て行けがしの喧嘩はあったけれど、結局より相手に依存していたのは私の方だと認めざるをえなかった。
祥一郎が本当に居なくなったら困るのは私の方なのだ。

あいつはブチ切れたらどうにでもなれと覚悟を決められるタイプだけれど、私はくよくよと引き留め、説得し、後悔し、何とか宥めようとする。

たった一人の家族。たったひとりのパートナー。たったひとりいつも傍に居てくれた人。
私がどんな状況になろうとも。そんな人を失うのが怖かったのは私の方なのだ。

以前の日記に書いたことがある。最愛の人を喪った悲しみに耐え切れる方が残されると。

そんな馬鹿な話があるか!

誰がいつどうやって耐え切れるなどと決めるんだ。冗談じゃない。

耐えてなどいない

悲しみ、苦しみ、自殺願望を抑えきれず、ただただそれを抱えて耐えて生きている。

いや、耐えているなどという前向きな生き方ではない。そうやって生きるしかないのだ。

死ぬことが出来ずにその勇気を持てずに、祥一郎を喪ったありとあらゆる想いや感情に一方的に鞭打たれ、抵抗できずに生きているだけなのだ。


祥一郎・・・・・・・
おっちゃんはもうずっと前から、お前との喧嘩に負けていたんだよ・・・・・・

「おっちゃん、うちが死んで寂しいやろ?」と、お前がおっちゃんに言ってる

そうだよ。その通りだよ。そこから見えるだろ?おっちゃんの負け方が・・・・・

お前が居なくなって、人生そのものに負けたおっちゃんの姿が・・・・・・



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大喧嘩をしても 二人は一緒 その一

2016年05月08日 | 喪失感

祥一郎と私、20数年暮らしている内には、当然ながら何度かもう俺達は駄目なんだろうかという危機はあった。

これも当然ながら原因は様々。

恥ずかしながら、私がろくでもない他の男に横恋慕したことや、祥一郎が電話代の事でちょっとしたおいたをしたこと、お互いの友人の非難をしたことが理由になったり、飼えもしない猫を祥一郎が買ってきたこと、生活が苦しくて私が祥一郎に八つ当たりしたことで揉めたこともある。

その他些細なことも含めて、数限りなく喧嘩はした。

ひとつのケース、あれは大阪で二人で住んで居た頃だった。

原因はなんだったか、はっきりとは覚えていないが、やはり日々の苦しい生活の件で険悪な雰囲気になっていたのが理由だったと思う。

二人の喧嘩はいつも私が説教じみた事を言い出して、それを黙って祥一郎が返事もせずに聞いている。

「何とか言ったら?」と私は言うのだが、それでもあいつはいつまでも黙っている。

私は年長でもあり、水商売もしていたのでそれなりに口が立つから、形的には祥一郎を言葉で追い詰めていく。

そしてそれを黙って憮然として聞いていた祥一郎は、とうとうブチ切れる。

ブチ切れてしまうともう止まらない。私が何を言おうが聞く耳を持たない。

「そや、うちが全部悪いんや。」
「もう無理や。やっぱり一緒に暮らすのは無理なんや。」
「おっちゃん自分が全部正しいとどうせ思ってるんやろ。いつもそうや。自分も同じようなことやってるくせに。」
「もうええ、もうええ。うちが居らんかったら丸く収まるんやろ。出て行くわ。」

そんな激昂した台詞を次々と吐きながら、物は投げるわ壊すわ、足蹴にするわ、こうなったらもう手がつけられない。

殆ど何も持たずにプイと夜の街へ出て行ってしまった。

私は私でその時点ではもうどうでも好きにすればいいと思っているので黙って横を向いて知らんぷりを決め込む。

そして時間がある程度経過する。

私は少し落着いて考え始める。

(待てよ、あいつあれだけしか持たんと、それに大阪に知り合いなんか殆どおらんやろし、どうするつもりやろ。歩いて千葉の実家まで帰るつもりやろか。)
(あいつ、ほんま感情の激しやすい奴やから、何をしでかすかわからんな。)

事実祥一郎は、一時問題になった「完全自殺マニュアル」なんて本を持っていて、おまけに注射器まで隠し持っていた事が有った。これは以前の喧嘩で発覚したのだがこれには私も驚き、こいつ、いつか本当に自殺でもしかねんな、と思ったことがある。

とにかく私は段々心配になり、重い腰を上げて夜の大阪の街を、あいつの行きそうな所を探してみる。

とにかくもう一度あいつを落着かせて、もう一度話し合ってみようと思いながら、僅かな祥一郎の知人にも行方を聞いてみる。

どこにも居ない。いくら待っても帰ってこない。

何度も何度も部屋と夜の街を行き来し、足を棒にして探し回る。

その内、こんなに心配して探してやってるのに人の気も知らないで、と段々腹も立ってくる。

夜が白々明ける頃、わたしは(もうええわ。どうにでもなれ。もう二人は終りなんや。)と無理矢理自分を納得させ、朦朧とした睡魔に耐えられず、ひょっとして帰ってくるかもと期待しつつも、寝入ってしまった。

暫く寝入っていた私はふと目が覚める。何か変な音が聞こえるのだ。

(続く)

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ジャスミンの薫る頃  祥一郎が教えてくれたもの

2016年04月29日 | 喪失感

まったくの赤の他人同士が出逢って、何十年も共に暮らすこと。

当然ながら、最初はお互いの価値観や主義趣向、趣味や嗜好がぶつかり合う事も有る。

それが年月が経つうちに、相手のそれを受け入れ、譲歩し、認め合う。

そうやって絆は深まるんだ。

勿論私と祥一郎もそうだった。

当初は箸の上げ下ろしまで気になったものだが、一緒に暮らすうち、我慢できない事も我慢出来るようになり、なんとなくお互いの一線がわかってくる。
一線を越えた時は喧嘩になったりもするけど、それを越えない限りうまくやっていける。
赤の他人同志が家族になるというのはそういうことなんだ。

それを祥一郎との暮らしは教えてくれた。

お互いがお互いの世界観を持っていて、それを教え合い認め合うことが絆というものかもしれない。


祥一郎、お前はおっちゃんになにを教えてくれただろう。

〇コスメ
若い頃から化粧品などまったく興味の無かった私に、世の中にはこんなにも男性用の化粧品やら、男女とも使用可のもの、香水、その辺の石鹸とはまるで違うコスメ石鹸、その他諸々があることを教えてくれた祥一郎。
私が足に豆が出来やすいことを知って、豆が出来ないように角質がとれるクリームを塗ってくれたね。
そうそう、スイカの匂いのする化粧水をくれたときはびっくりしたよ。こんなものがあるのかって。
顔面パックなんかもときおり一緒にやったよね。二人で笑わせあって台無しにしたりして。
祥一郎の化粧品、石鹸、まだ残っているよ・・・・・。

〇ミュージカル
これもまったく興味も、観る機会も無かった私に教えてくれた祥一郎。
最初に観たのは「美女と野獣」。あの時のあいつの喜びようったら・・・・・
後は「李 香蘭」「クレイジー・フォー・ユー」「マンマ・ミーア」「エビータ」その他諸々。

祥一郎に強く背中を押されて全く縁の無かったミュージカルなるものに、こんなに何回も行ったとは。
個人的に「ライオンキング」に一緒に行きたかったけど、もうそれは出来ない・・・・

〇テレビゲーム
最初はプレイステーションだった。
これも私の知らない世界だったけど、祥一郎が初期のプレイステーションを買ってきて、ゲームを始め、ちょっと私も触ってみたら、けっこう暇つぶしになるし、段々面白くなってきて、新型のプレステが出ると私自ら買ってきたりしていた。
最初にやったゲームはズバリ、「バイオハザード」。いやあこれは面白かった。特に「バイオハザードⅡ」が秀逸だった。二人でプレステの取り合いで喧嘩したり、どこまで進んでいるのか競争したり、楽しいゲームオタク生活を二人で楽しんだ。いったい何度中古ゲーム屋に足を運び、何枚ゲームソフトを買ったことだろう。いまだにそれは殆ど残っている。誇りを被ったプレイステーションⅡと共に。祥一郎と遊んだ想い出とともに。

〇入浴の楽しみ方。
およそ入浴剤など、入れて風呂に入る事が無かった私だったが、祥一郎はやれバスロマンだのバスクリンだの、その辺のドラッグストアに売ってるものだけでなく、どこから仕入れてくるのか、ハーブの強い匂いのするものや、泡だらけになるもの、夏は肌が冷えるものや、冬は身体を芯から温めてくれる物など、あいつの入浴に対する拘りは私など足元に及ばなかった。
お湯の色が真っ赤になっていたときはびっくりしたものだ。いったいどんな入浴剤を入れたんだろうと。でも良い香りがした。
今はひとりしか入らない風呂。でも、入浴剤を入れる習慣は残った・・・・・・・。

このように、祥一郎は私の世界観を色々な面で広げてくれた。


そしてまだある。あいつが教えてくれた物の中でとても大事なものが。

〇人を愛すること愛されること、人の温もりを感じること、いつも傍にいてくれる安心感、私はひとりじゃないという心地良さ。

語るまでも無いけれど、祥一郎が教えてくれたものでこれらが一番私にとって美しく、かけがいのない、
失いたくないものだった。

そしてそれらは、夢のように突然無くなってしまった。

どんなに探しても、どんなに望んでももう手に入れることはできなくなった。


祥一郎・・・・・・

お前が残したコスメや、ミュージカルに行った時に買ったグッズ、ゲーム機やゲームソフト、入浴剤を持って、「はい、忘れものだよ。」と言ってお前の元へ戻れる日は来るんだろうか。

いや、いつか来ると信じて生きよう。

そうするしかないんだよ、おっちゃんは・・・・・・・・・・。


家の周りに、あの白っぽい花が咲く季節になったよ。甘い薫りのするあの花だ。

お前が、「おっちゃん、あれはジャスミンの花だよ。知ってた?」って教えてくれた。

お前にもあの薫りは届いているだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・


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面影を探し、死を理解する

2016年04月22日 | 喪失感



道行く人々の後ろ姿。

あいつの面影を探す。

短髪で小柄な男性を見かけると、早歩きして振り返る。

私がチラと見ているのを気付かずに通り過ぎる人、私が見ているのに気付き、怪訝な顔をする人。

そんなときは急いで目を逸らし、何もなかったフリをする。


前方から色黒の若者が歩いてくる。

凝視はしない。横目で焼け具合や顔立ちを確認する。どこかに似たところがないかと。

目鼻立ちのはっきりした男性が歩いてくる。

あいつの大きかった目や鼻と比べる。別に似ても似つかぬことに残念になり情けなくなる自分。


知らない街を歩く。

もしかしたらあいつがこの街のどこかで歩いているんじゃないかと見まわす。

だって、私の居る所、あいつが居たんだから。

何年も、何十年も。

あいつが生きていたからひとりで出掛けてもどんなに遠い街に行っても、絆は弧を描いてビルや山や海を越えて繋がっていたんだ。

帰ったらこんなことがあったよと話そう。

帰ったら、この疲れを半分持ってもらおう。

そしてあいつの背中を見て、なべてこの世はことも無しと感じよう。

私の出掛けた先の話をすることも無く、あいつの話を聴こう。

そうやって二人で生きてきた。



孤独・・・ひとりきり・・・あの頃の二人に無かった言葉。

今はそれのみ。

それのみが私の周囲を覗きこむ。じっと私を凝視している。

私を押さえつける。もっと俯け、もっと項垂れろと。

私はそれに抗えず、首や肩が痛くなるのも構わず、アスファルトの地面を凝視しながら歩く。

まるで小さな虫けらのように、地面のみをみて歩く。

違うのは、何かを探しているからではない。

前を向いても、上を向いても、祥一郎の姿はもう永遠に見えないから。

祥一郎は私の心の中に生きている?
では、そうであれば、心の中で生きているのであれば、何故こんなに悲しいのだろう。なぜこんなにも寂しいのだろう。なぜこれほど後悔しているのだろう。

もうあいつの肉体が無いのは理解している。声も聞けず肌の温もりも感じられないこともわかっている。

でも心の中で生きているのなら、少しは前を向けるはずではないか。

やはり祥一郎は死んでしまったんだ。
どんな意味であろうと死んでしまったんだ。

心の中にあるのは、膨大な祥一郎の想い出と面影だけだ。

あいつが生きているのなら、きっとどこかの世界で生きているのだろう。

私はそれを探さねばならない。

私が生きていても死んでしまっても、祥一郎が生きている世界を探さねばならないんだ。

そして必ず探し当てて、泣きながら喜びながら小躍りしながら祥一郎を強く抱きしめるんだ。

祥一郎・・・・

その時まで待っていてくれるよね・・・・・・