日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書Ⅳ 9~12章

2022年06月12日 | Weblog

イザヤ書 Ⅳ 9~12章
はじめに




9章: 「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先にはセルブンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った(9:1~2)」。セブルンの地、ナフタリの地とはともに北イスラエルの地です。その地がアッシリヤによって辱めを受けたのです。アッシリヤによる侵入を指します。しかし、アッシリヤを用いたのは、主ご自身でした。セブルン、ナフタリの地は、ガリラヤの地と言い換えられています。この地は先には、辱めを受けますが、後には光栄を受けるのです。腐敗堕落したユダヤ民族は、主の裁きを受けますが、後に、主によって贖われるのです。6節から7節にかけて、その状況が預言されています。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(9:6)」のです。このみどりご(インマニュエル)、こそが、ダビデの末裔、新約聖書の神の子イエス・キリスト(メシア)なのです。イエスはガリラヤで生まれ、その活動の拠点をこの地においています。「今よりとこしえまで、万軍の主の熱心さがこれを成し遂げるのです(9:7B)」。預言的完了形で書かれています。未来において確実に起こることが語られています。
民の悔い改めを求める主の怒り
主は3つの定型句を用いて主の怒りを現しています。その定型句とは「それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている」と言うものです。9章の12,17,21節に示されています。この定型句は5章25節、10章4節にもあります。汚れた民は充分に罰せられているのに、それでも神の怒りは収まらないのです。
1,8~12節;民の虚勢に対するさばき:主がヤコブ(イスラエル)に一つの言葉を送られた。それはイスラエルに落ちた。この民エフライムとサマリヤに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思いあがった。そこで主はレツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムが、西からは、ペリシテ人が、イスラエルを頬張って食らう。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
2,13~17節:イスラエルの指導者に対するさばき:しかし、この民は、自分を打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで主は、イスラエルから、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は、迷わすものとなり、彼らに導かれるものは惑わされる。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
3,ユダを攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばき:マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らは一緒にユダを襲う。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
10章 :9章の8節~10章の4節までは、北イスラエルに対して語られた主のことばです。10章の5節からは、アッシリヤについて語られています。
「不義の掟を制定するもの、災いを引き起こす判決を書いている者たち」とは北イスラエルの指導者たちです。この指導者たちが織り成す不義とそれに対する刑罰が、この10章1~4節に描かれています。この指導者たちの行う不義とは、社会的弱者(寄る辺ない者、悩む者、やもめ、みなしご、たち)に対する抑圧です(10:1~2参照)」。主は言います。「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたはどうするのか。誰に助けを求めて逃げ、どこに栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足元に膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ(10:3~4A)」と。刑罰の日=主のさばきの日を指す。具体的にはアッシリア(あらし)の侵攻です。このとき、アッシリヤは主のさばきの道具に過ぎません。主を忘れ人に頼るイスラエルは滅びる以外にはないのです。北イスラエルは、この時アッシリヤに屈し捕囚の民となり辱めを受けるのです。それでも御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている(10:4B)。主の怒りの激しさが現わされています。
北イスラエルは滅亡し、以後アッシリヤに関して語られていきます。アッシリヤはアラム(シリア)イスラエル連合を打ち破り南王国ユダにまで迫ってきた国ですが、このアッシリヤについて3つのことが語られています。
1,アッシリヤの高ぶり(10:5~15)
2,高ぶるものへの裁き(10:16~19)
3,頼れるものは主以外になし(10:20~34)
1,アッシリヤの高ぶり:主は、様々なものを用いて、罰や恵みを与えます。今回は、アッシリヤを用いてエルサレムやサマリヤを罰しています。「ああ。アッシリヤ、あなたは怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを、神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる(10;5~6)」。このように、あくまでもアッシリヤは罪深き民を裁くための、主の道具にすぎません。しかしアッシリヤはこれを理解しません。「私は自分の手の力でやった、私の知恵でやった、私は賢いからだ(10:13A)」と。すべては自分の力で成し遂げたものであり、これに抵抗するものなしと誇り高ぶります。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることが出来ようか。のこぎりは、それを引くものに向かって、おごることが出来ようか。それは人が、それを振り上げる人を動かし、枝が木でない人を持ち上げるようなものではないか(10:15)」と、神の前では謙虚であれと警告しています。
2,高ぶるものへの裁き:「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する(10:12)。「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上って、そのおどろと、いばら(アッシリヤ)を、一日のうちになめ尽くす(10:17)」。「主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいもからだも滅び尽くす。それは病人が痩せ衰えるようになる(10:18)」。アッシリヤの衰えが語られています。 
3,ただ主のみを頼れ:「その日になると、イスラエルの残りのもの、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つものに頼らず、イスラエルの聖なる方、主にまことをもって、たよる。残りのもの、ヤコブの残りのものは、力ある神に立ち帰る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りのものだけが立ち帰る。壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:20~22)」。
 その日:アッシリヤが倒れた日であると同時に世の終わりを指す。
 残りのもの:海の砂のように、多くのものは主に従わぬ者たちであったが、その中にあってわずかではあるが主に従うものが見られた。彼らを残りの者と呼んでいる。「壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:22)」壊滅するのはアッシリヤであり、残りの者の義はあふれんばかりだったのです。主は一人でも自分に義なるものがいる場合、これを救います。だから主は言います「アッシリヤを恐れるな」と。アッシリヤが主の道具としての役割を果たして、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返った日に、道具としての立場を忘れ、高慢になったアッシリヤを主は滅ぼすのです。勿論主は自分の手は汚しません。復興した新バビロニアを使います。「その日になると、彼(アッシリヤ)の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首からのぞかれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる(10:27)」のです。その日とは、アッシリヤの滅びを指すと同時に、サタンの滅びの日でもあるのです、神の国の到来を告げています。主は自分を頼るものには恵みを与え、より高い場所へと引き上げてくださるのです。
 11章:エッサイの根 アッシリヤによってイスラエルと言う木は切り倒されます。しかし根こそぎにされたわけではありません。切り株は残されイの根たのです。ここに主の恵みを見ることが出来ます。切り株がある限り、そこから新芽が生まれ、美しい花を咲かせるからです。この花こそ、エッサイの子ダビデの子孫イエス・キリストです。「その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目と耳によってさばかず、正義と、公正をもって寄る辺なきものや、貧しきもののために判決を下す(11:2~4参照)」のです。ダビデの世継ぎの子イエスがメシア(キリスト)になるのです。ここには、神との契約があります。アブラハム契約です。この契約は片務契約であって、無条件契約です。イスラエルに大地を与え、子々孫々に渡って、その増大繁栄を約束しています。この契約がある限り、イスラエルは多くの困難を乗り越えることが出来、それゆえ、神は、彼を保護されるのです。
 そして次に、千年王国の平和と平安が預言されています(11:6~9参照)。猛獣(獅子、豹、熊、コプラ)と、犠牲獣(子羊、小山羊、雌牛、子牛、肥えた家畜)の共生が語られます。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、損なわない。幼子は何の危険も感じず大地を飛び跳ねます。以上のように、主の知識(信仰)が海を覆う水のように、行きわたると、完全な平和が訪れるのです。
 国々の旗:「その日(キリストの再臨の日)、エッサイの根(キリスト)は国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く(11:10)」。世界の人々がキリストを自分の避け所、栄光とします。
 二度目の帰還:一度目は、11:16B参照。出エジプトを指します。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(11:11~12)」のです。いわゆる捕囚からの解放です。主のさばきは、ユダヤ人を諸国に散らすことで終わりますが、主の回復は、ユダヤ人を帰還させるところから始まります。「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない(11;13)」。同じ民族、同じキリスト教徒は、和解するが、異民族、異教徒に対しては、主は、厳しく対処します。イスラエルは西のペリシテ人を襲い、東の人々をかすめ奪い、エドムとモアブにも手を出し、アモン人も従わせます。かつて、自分たちを苦しめていた異教の国々を逆に支配します。
残りの者:歴史的に見る時、破局の後に生き残って、その民族の将来を担う数少ない者と言うより、神の救いと選びに預かった数少ない信仰の人と言う意味付けが強い。終末的文脈で語られることが多い。「残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上ってきた日に(主)がイスラエルのために備えられたように(11:16)大路が備えられたことと、エジプトの川が浅くなったことは、捕囚の民の帰還を容易にし、妨げる者がいないことを現しています。
12章:主の救い: 1、賛美:「その日、あなたは言おう。『主よ、感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくだいさいました』(Ⅰ2:1)」。主の怒りは、イスラエルを滅ぼすためではありません。主はイスラエルを愛しています。そのイスラエルが自分を裏切ったのです。その悲しみからくる怒りです。その怒りは去ります。しかしその条件として「悔い改め」を要求していません。すでにキリストの十字架の死によって、贖われているからです。さらに、そこには無条件の契約があります。子々孫々の増大繁栄が約束されています(アブラハム契約)。イスラエルの民は言います。「見よ。神はわたしの救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私の褒め歌。私のために救いとなられた(12:2)」と。救いは主に対する「信頼」から生まれます。これはイザヤ書が一貫として掲げている教えです。ただ主にのみより頼むとき、すべての恐れは消え失せ、平安が与えられます。主は私のために救いとなられたのです。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水をくむ(Ⅰ2:3)」。私たちの喜びの源は、主の救いから出て来ます。私たちは罪人であるにもかかわらず、神が一方的にあわれんでくださり、キリストの贖罪によって私たちを救ってくださったのです。この事実からくる喜びです。
2:宣教:賛美の呼びかけの声から、宣教への呼びかけになります。
「その日、あなたがたは言う『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。その御業を、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主を誉め歌え。主は素晴らしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる。大いなる方。』(12:4~6)」。主は素晴らしいことをされた:我々の罪を贖ったことを指します。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる:主は、常に。われらと共にあります。
令和4年6月21日(火)報告者守武 戢 楽庵会
 

 
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イザヤ書Ⅲ 苦しみの所に 6~8章

2022年06月11日 | Weblog
  
イザヤ書Ⅲ 苦しみの所に 6~8章
 はじめに:アッシリヤ:「北部メソポタミアのティグリス河の中・上流を中心とし、全オリエントにわたる統一帝国を築いた民族。前2,000年紀初めに勃興し前612年に滅びるが、特に第1イザヤの時代に最盛期を迎え、残忍な征服者として恐れられた。ティグラト・ピレセル3世の治世(前744~721)に、シリア・パレスティナへの遠征を繰り返し、これを侵略して貢物を取り立てた。従わなかったアラムを前732年に、北イスラエルを前722年に滅ぼす。サルゴン2世の時代(前721~705)には、ペリシテ諸都市を中心とする反アッシリヤ連合を粉砕する。さらにセンナケリブの治世(前704~681年)では、バビロニアの反乱を鎮圧し、この時代に初めて表立ってアッシリヤに反旗を翻したユダには、前701年に来寇し、多額の賠償金を課す。こうした歴史の諸段階を反映した記述がイザヤ書の随所にみられる。首都はアシュル、カラハ、ニネベと変わった。なお王宮や神殿を飾ったレリーフや彫刻は、芸術的にも歴史的にも価値が高い」。関根清三訳 岩波書店「イザヤ書」より。
 6章: ウジヤ王の死んだ年に、イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見た。主は天使の一人セラフム(人の罪を清める天使)に守られて章:いた。セラフィムとは、天使の一人であり、天使の9つの階級のうち最上位とされています。彼らはそれぞれ6つの翼をもち、おのおのその2つで顔を覆い、2つで両足を覆い、残りの2つで羽ばたく、と言われています。
彼らの歌う合唱によって、神殿は土台から揺らぎ、たちまち煙でいっぱいになります。イザヤは怖くなって叫んだ。「ああ。私は、もう駄目だ。私は唇の汚れたもので、唇の汚れた民の中に住んでいる。しかも万軍の王である主をこの目で見たのだから」と。イザヤは自分の罪を自覚し、絶望します。このイザヤ罪をセラフィムの一人が救ったのです。このセラフィムは言います。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪は贖われたのです(6:7B)」と。      次に、主によって罪を贖われたイザヤへ召命が下ります。イザヤは主の召命の呼びかけに積極的に応じます。イザヤの本格的な預言活動はこれより始まります。それまでの活動は準備段階であったのです。
 しかし主がイザヤに与えた民への言葉は「聞き続けよ、だが悟るな、見続けよ、だが知るな」と言うものでした。ここには主の民に対する不信が語られています。民との接触を勧めながらも彼らの過ちに影響されるなと、主は、イザヤに警告しているのです。しかし、主は、イザヤに対して、こんな民に「悔い改めを求めよ」とは言っていません。逆に、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くさせ、その目を堅く閉ざさせ、自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返って癒されることのないように(6:10)」せよ、と命じます。非常に奇妙な命令です。いわゆる頑迷預言と言われるものです。民を頑迷にするために主によって、預言者(イザヤ)が遣わされたのです。イザヤの意図は一貫として民の救済を探求し、同時に罪の悔い改めを実現することによって、頑迷預言の撤回を主に期待したのです。それゆえ、「主よ、いつまでですか」と、問うているのです。これに対して、主は「すべてが滅びるまで(6:11~12参照)」と応じています。しかし、「すべてが滅びるまで」ということは頑迷預言の撤回ではなく、成就を意味します。しかし、すべての木が切り倒されても「切り株」は残るのです。「聖なるすえこそ、その切り株(6:13B)」この切り株から新しい若芽が生えてくるのです。主はこの若芽に期待したのです。若芽とはメシアです。主は。頑迷預言のかなたにメシア(イエス・キリスト)を見ていたのです。
 7章: 7章には、主によるイスラエルに対する審判預言が語られています。BC734年のこと、アハズ王の時代。北の大国アッシリヤが攻めてくると言う報告に接し、脅威にさらされたアラムと北イスラエルはパレスチナの諸国を糾合して連合を造り、南ユダにも参加を求めました。しかし、南ユダはこれを拒否します。これに怒った諸国連合は南を攻めたのです。しかし、勝つことは出来なかったが、負けてはいなかったのです。エフライムの地にとどまって南を窺っているという報告を受けます。アハズ王もその民も動揺します。主はイザヤに言います。『息子シェアル・ヤシュブと共にアハズ王に会え。そして言え「気を付けて静かにせよ、恐れるな、彼らは煙る、燃えさしに過ぎない。だから心を弱らすな」と。主は彼らの滅びを預言しています。しかし、「彼らは言う『我々はユダに攻め入り、占領し、タベアルの子を擁して傀儡政権を造ろう』と」それに対して主は言う「そのことは起こらないし、ありえない。それどころか65年のうちにエフライムは粉砕されて民ではなくなる」と。主は彼らがアッシリヤの大軍に滅ぼされることをいみじくも預言したのです。それは現実のものとなったのです。しかしこの言葉はあくまでも65年後の預言です。主は再びイザヤを通じてアハズこう言われた。「「あなたの神、主から、しるしを求めよ。黄泉の深み、あるいは、上の高いところから」と。アハズは応えて言います。「『私は求めません。主を試みません』と。アハズ王は厳しい現実の前に立ち、主を信じることが出来なかったのです。「主を試みません」と一見信仰的姿を示しますが、実際には、アハズは主を拒否したのです。婉曲に断ったのです。救いを神に求めるよりも、人に求めたのです。その人とはアッシリヤ帝国だったのです。アハズはアッシリヤの助けを借りて、当面の敵アラム(シリヤ)・エフライム連合には打ち勝ちます。しかし、その後、アッシリヤの脅威にさらされます(7:16参照)。「昨日の友は、今日の敵」、なのです。
そんなアハズ王に対してイザヤは言います。「「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を生み、その名を「インマニュエル」と、名付ける―――」。インマニュエルはイエス・キリストの呼び名の一つです。「主は、われらと共にあり」と言う意味であり、救いのしるしを現しています。人に頼るアハズに対して、「真の救いは主のほかになし」。と、イザヤは言っているのです。
「この子(インマニュエル)は、悪を退け、善を選ぶころまで、凝乳と蜂蜜を食べる(7:15)」。キリストは、その贖いの死まで、主に対して義なる存在であったことを示しています。更に、貴重な食べ物である凝乳や蜂蜜を食することのできる平和な環境(神の国)が生まれてくることも預言しています。それはメシアの到来の日です。そしてこの子がキリストとして成長する以前に、アハズ王に敵対していた二人の王(レッィンとペカ)は、滅びます。残るは、アッシリヤの脅威です。
 18節以降、イザヤは、「その日(7:18,20,21,23)になると」と言う言葉を用いて、主の審判を語ります。救済預言(16節以前=インマニュエル預言)と審判預言(18~25)の間にアッシリヤ来寇預言(7:17)があります。アッシリヤの来寇は、エルサレムの罪に対する神の審判なのです。
 「その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあの蠅、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。すると彼らはやって来て、みな険しい谷、岩の割れ目、すべての茨の茂み、すべての牧場に巣くう(7:18~19)」。地上のどんなに巨大なものも神の掌中にあります。エジプトであれ、アッシリヤであれ、その支配から免れることは出来ないのです。イスラエルの罪を裁くために主は彼らを使ったのです。主はアッシリヤを使って、その日、残酷の限りを尽くし、その尊厳を傷つけます(7:20参照)。また、「その日になると、一人の人がやって来て雌の小牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる(7:21~22)」。イエスは、5個のパンと2匹の魚で男だけで5000人の人の食欲を満たします(マタイの福音書14:14~19)。同様に、イザヤも、わずか、雌の小牛一頭と羊二頭で、国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食するようにしたのです(7:21~22)」。主の恵みは人の意識を超えて偉大なのです。審判預言の中でこの部分だけは救済預言です。審判の中に救済もあることを、この部分は語っています。
 次も審判預言です。「その日になると、ぶどう千株もある銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろ(藪)のものとなるのです。全土がいばらとおどろになるので、耕作地は捨てられ、人は弓をとり、狩人になり獣を狩る以外にないのです。そこは牛の放牧地、羊の踏みつけるところとなる(7:23~25参照)。これは、主がないがしろにされ、人の力があがめられた結果なのです。
 8章:1、神が共におられる
 この章の初めに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と言う言葉が出て来ます。これはイザヤが主から与えられた第二子の名前です。その意味は「分捕り物を急ぎ、戦利品を速やかに」と言う意味です。略奪者(アッシリヤ)が来てアラムとエフライムを滅ぼし、財宝を奪っていくことを、この子を通して預言しているのです。事実まだこの子が小さいうちに、この預言は実現しアハズに敵対するシリヤ(アラム)と北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、その財宝は略奪されたのです。アハズはこれを喜びます。しかし皮肉なことに、今度は自らが、アッシリヤに攻められることになるのです。しかし、アッシリヤは、多くの死者(18万5千人)を出し、その包囲網を解き退散したのです(37:36~37参照)。そこには神の恵みがあったのです。
 主はイザヤに言います。「この民は、ゆるやかに流れるシロハの流れをないがしろにしてレッインとレマルヤの子を喜んでいる」と。シロハの流れとは、エルサレム東方の丘にあるギボンの泉から湧き出た水を、エルサレムの町に沿って運ぶ水道であり、住民にとってはいのちの水なのです。主の守りと導きの象徴です。この水(主)をないがしろにし、レツィンとレマルヤの子の滅亡を喜んでいる民に対して主は怒ります。ユーフラテス(アッシルヤ)を溢れさせ、ユダに流れ込ませ、洪水をおこし、民を溺死させるのです。ユダは、陥落寸前にまで追い込まれます。
 「インマニュエル。その広げた翼は、あなたの国一杯に広がる(8:8B)」。インマニュエルと言う言葉があります。それゆえ「その広げた翼」とは主を指します。「国々の民よ。うち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯して、わななけ。わななけ。図り事を立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それはならない。神が、私たちと共におられるからだ(インマニュエル)」。どんなに主に逆らっても、主は契約の民を守られるのです。「国々の民」とは、アッシリヤ、アラム、北イスラエルをさします。
 2、主が、聖所となられる(8:11~16)
 私たちは絶えず主を恐れるか、人を恐れるかの選択に迫られます。私たちが恐れなければならないのは「万軍の主」なのです。この方を恐れ、この方をおののきとしなければならないのです。
 「この民の道に歩まないように(主)はわたしを諌めて仰せられた。『この民が謀反と呼ぶことを謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを、恐れるな、おののくな』」この民の道とは、アハズおよび、その民の歩んだ道を指します。彼らは主をないがしろにして、裏切られるのも知らず、アッシリヤを選んだのです。その道を歩むなと言うのです。そして助言します「万軍の主。この方を、聖なる方とし、この方をあなたがたの恐れ、おののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまづきの岩、エルサレムの住人には罠となり、落とし穴となる。多くのものがそれにつまずき、倒れて砕かれ、罠にかけられて捕らえられる」。
 聖所:主が共におられる場所。主の臨在する安全な場所。
 イスラエルの二つの家:アマルとエフライム(シリヤと北イスラエル)。
 この同じ方(主)が聖所になったり、つまずきの石になったりします。信仰するものか、不信仰のものかによって分かれます。
「このあかしを束ねよ。この教えを、わたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」主のあかしと教えを心に束ねて、しっかり蓄えておくようにと、イザヤは言います。主の、御言葉のみが私たちの道を照らし進むべき道を導いてくださるのです。聖書の言葉を、確信をもって、また聖霊をもって受け入れ、信じていくときにこそ、私たちは自分が主に愛され、選ばれた者であることの確信を得ることが出来るのです。
 3,主を待ち望め(8:17~22)
 ヤコブの家から身を隠しておられるお方:当時のイスラエルの状況を現しています。ヤコブの家=イスラエルは不信仰者に満ちていました。主は、怒って地上から身をお隠しになったのです。それゆえに、イザヤは主の恵みを求めます。この方を待ち望み期待をかけたのです。「見よ。私と主が私に下さった子供たちとは、シオンの山に住む万軍の主からの、イスラエルでのしるしとなり不思議となっている(8:18)」と語ります。主が私に下さった子供たちとはシェアル・ヤシュブ(7:3)とマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(8:3)を指します。彼らは不信仰者で満ちたイスラエルにおいては信仰のあかしであり、また不思議な存在だったのです。「人々があなたがたに『霊媒や、さえずり、口寄せ、を尋ねよ』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか(8:19)」と主は仰せられます。霊媒、さえずり、口寄せ、とは、あくまでも偶像であって、これらに尋ねよということは、死んだ神を崇拝する偶像崇拝になるのです。それに対して人は教えと、証し、を尋ねなければならないのです。「この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない(8:20)」のです。「彼は迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神を呪う。地を見ると、見よ、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者(8:21~22)」。主をないがしろにする者は厳しく裁かれるのです。     
 
令和4年6月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会











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イザヤ書Ⅱ イザヤの檄文2 3~5章

2022年06月11日 | Weblog

イザヤ書2 イザヤの檄文2 3~5章
はじめに: 5章の8~9節は、宗教界の外に。まったく別の世界が生まれてきたことが語られています。それは貨幣経済の浸透です。ウジヤの時代、近隣諸国からの貢物と、王の支配下にあった大土地所有者のもたらす富でユダ王国は富んでいました。王自身も大土地所有者の一人でした。小農は収奪され、その土地は大土地所有者の手に集められました(5~8参照)。大土地所有から生み出す富は自給を超え、余剰を生み出します。分業が促進され、その余剰が商品化されたのです。貨幣経済が始まります。成金たちは土地を買い占め、富を蓄積します。その富で。交通網は整備され、拠点には問屋が出来、商品交換を促進します。海外貿易も盛んになります。ぜいたく品が、国に流入します。小農は、土地を失い、没落し、農奴となったり、都会に出て、職を求めます。失業者が巷に溢れます。階層分化が進みます。一方に富が蓄積し、他方に貧困が増大します。その富に目を付けたのがバビロンでありアッシリアだったのです(5:26)。貨幣経済のおおもとは大土地所有にあります。これは、土地は神のものであるという旧約聖書の宗教理念に反し、また、同胞間の平等の精神にも悖るものでした。
3章: エルサレムがつまずきユダが倒れたとき、すなわち、アッシリヤやバビロンによって分裂したイスラエルが滅亡に瀕したとき、主はこれを「彼らの舌と行いとが主に背き、主のご意向に逆らったからである(3:8)」と結論しました。そしてアッシリヤやバビロンが彼らの生活から支えと頼りを取り除いたことを、神の怒りの現れと示されたのです。責任のすべてを、彼らの主に対する不信仰に帰しました。2章の終わりに主は「鼻で、息する人間を頼りにするな、そんなものに何の値打ちがあろうか(2:22)」と、彼らの受けた災厄を神をないがしろにした結果であると結論付けます。主は論争するために立ちあがり、民を裁くために立つ(3~13)」のです。「わが民よ、あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す(3:12B)」、「なぜあなたがたは、我が民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか(3:15参照)」「まことに見よ、万軍の主、主はエルサレムとユダから支えと頼り(パンや水、軍人、預言者、裁判官、占い師、長老、等々)を除かれる。これらは、民にとって必要不可欠なものです。主は、なぜ、これら必要なものを取り除いて、その生存を脅かそうとするのでしょうか。「イスラエルの民は、主が守り、保護すべき契約の民ではないのか」と言う疑問は当然起こってきます。しかし、この契約には、「我に対して全きものであるなら」と言う条件付きであることを忘れてはならないのです。イスラエルの民は、今迄、見てきたように、主に対して罪を犯し続けてきました。その状況がこの章に語られています。主は、罪に満ちた民に、「わたしは、若い者たちを彼らの司とし、気まぐれものに彼らを収めさせる(3:4)」と述べています。さらに「わが民よ、幼子が彼を虐げ、女たちが彼を収める(3:12)」。とも言っています。若いものや気まぐれもの、幼子や女は、統治能力のないものを象徴しています。主はこの状況を「わが民よ。あなたの指導者は迷わすもの。あなたの歩む道をかき乱す(3:12B)」者と見做します。ここには、その生活を人に頼り、神をないがしろにするイスラエルの民(彼)の罪(悲劇)が語られています。本来、国のリーダーたる者は、人々の繁栄のために、しもべとなって、仕えなければならないのです(サーバントリーダー)。
その日、主は、もろもろの飾り(足飾り、神の輪飾り、三日月型の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、礼服、羽織、外套、財布等々)を、イスラエルの民から取り除く、侵略者による略奪を意味します。さらに「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ(3:25)」、さらに、人々は捕囚としてバビロンに連れ去られたのです。「その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す(3:26)」のです。イスラエルの被った災厄を、主はその不信仰に帰しています。主は、心から民が信仰に戻り自分と共にあってほしいと願っておられるのです。
4章: 「その日、7人の女が1人の男に縋り付いて言う『私たちは、自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちを、あなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください』(4:1)」と。戦場で多くの男性は死んでいきました。1人の男性を求めて多くの女性(7人の女)が群がります。彼女たちの生活は、何とか安定しています。彼女たちが求めるのは男性です。しかも、同じ名前で呼ばれることを願っています。人妻になりたいという願望です。寡婦となって奴隷的な保護を男に求める卑屈さ(世間のそしり)を拒否します。しかし、本来、彼女たちが求めなければならないのは、主であって男(人)ではないのです。
「その日、主の若枝は麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる(4:2)」。
ここに「主の若枝」が登場します。7人の女を民衆と見做すならば、主の若枝とは、民衆が心から求めているメシアを指します。「主の若枝」とは、数あるメシアの呼び名の一つです。
地の実とはエルサレムを指します。
のがれた者とは侵略者と戦って生き残ったものを指します。主を信じています。「シオンに残された者、エルサレムに残ったものは、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である(4:3)」。
「いのちの書」:天国に導かれるための救いの書です。「イエス様は、悪霊を追い出して戻ってきた弟子たちに対して『ただあなたの名が天に書き記されることを喜びなさい』と言われました(ルカ、10:20)」。
「主が裁きの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき(4:4)」、
焼き尽くす火:主の審判は「焼き尽くす火」で、象徴されることが多い。
シオンの娘の汚れ:女性の出血(月経)を現す。当時出血する女性は不浄な者と見做されました。
エルサレムの血を洗い清めるとき:エルサレムの罪(不浄)が解放される時。
 「主はシオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、覆いとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける影となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ(4:5~6)」。
昼は雲、夜は燃える火:出エジプトのとき以来、昼は雲が、夜は燃える火が、主の臨在と庇護を象徴したのです。
5章:5章は次の言葉から始まります。「さあ、我が愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑について、わが愛の歌を。我が愛するものは良く肥えた山腹にぶどう畑を持っていた(5:1)」我が愛するぶどう畑とは、イスラエルのことです。主はイスラエルをこよなく愛していました。主は良いぶどうを造るために精魂込めて土づくりをし、良いぶどうの種を植え、監視のためのやぐらを立て、ぶどう酒を造るために酒舟まで用意したのです。良いぶどうが出来るのが期待されました。しかし、実ったのは酸いぶどうでした。酸いぶどうの実った責任はどこにあるのか。主は自分の作業に誤りがあるなら、「わたしを裁け」と言います。主の成されることに誤りはありえないのです。わたしに、その責任が無いならは、あなたがたにあるのだ、と怒りをあらわにします。主はその後のぶどう畑に対する面倒を一切見ず、荒れるに任したのです。「まことに万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び(5:7)」。ここには主とイスラエルの民との間の葛藤が描かれています。和解は成立していません。侵略者の成すに任せます。
次に6つの忌まわしい罪が「ああ、」と言う言葉とともに始まります。
1, 富に安住する罪(5;8~10)
2, 道楽にふける罪(5:11~17)
3, 公然と主を侮辱する罪(5:18~19)
4, 価値観を逆転する罪(5:20)
5, 悪の正当化と、その理論武装の罪(5:21)
6, 大酒飲みの罪、強い酒を混合させる罪、賄賂をとって公正な裁判を行わない罪(5:22~23)
 3つ目から6つ目までの忌まわしい罪は、みな、道徳的、また霊的な忌まわしさです。これらはみな「み教え」をないがしろにして、聖なる方の、み言葉を侮ったゆえの罪になるのです。
 このように、彼らが、万軍の主の御教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方を侮ったゆえに、そこに主が裁きをもって介入されるのは至極当然なことなのです。主の怒りは大地震を起こしてその罪を裁かれます。それでも主の怒りは収まりません。主が、遠く離れた国(バビロン)に地の果てから来るように合図すると、彼らは速やかに来ます。そして、イスラエルの地を蹂躙します。救おうとしても救い出す者はいません。「地を見やると、見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる(5:30B)」。のです。
楽庵会



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イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章

2022年06月10日 | Weblog

イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章
 はじめに:「イザヤ書」は旧約聖書の一書で、三大預言書(「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」」)の一つです。聖書自身の自己証言と伝承ではBC8世紀の預言者イザヤの作とされています。66章からなり「詩編」に次いで第2に長い書簡です。イザヤ書は「イザヤの福音書」「第5の福音書」といわれ、メシア誕生から、メシア受難の預言、さらに主の日=患難時代と主の再臨の預言までを含んでいます。
イザヤ書は歴史的背景から次のように分類されています。
1、 第1イザヤ書(1~39章)
2、 第2イザヤ書(40~55章)
3、 第3イザヤ書(56~66章)

※イスラエルの堕落を前にして、イザヤには国と民族の運命がはっきりと見えていました。このままでは滅亡は近いと、悲しみ、人々に向かって警鐘を鳴らします。イザヤ自身の檄文です。歴史を踏まえ、現状を睨み、さらに目のあたりに描いた幻を交え、嘆きながら、あるべき姿を訴え、王と民に檄文を飛ばしています。
以上のように、イザヤ書は相当長い期間にわたって描かれています。イザヤがその間生存していたとは思われないので、後の2つはイザヤの弟子たちが先賢(イザヤ)の衣鉢を継いで綴ったものだと言われています。
イザヤ  BC8Cのイスラエルの預言者。神ヤハウェの正義と救い主の出現を説いて、王や民に神への信頼と改心を説いています。イザヤの意味は「救いは主の者」、「救いはヤファエのもの」と言う意味です。この主張をイザヤ書は一環として教えています。
 BC8C後半のユダ王国の預言者。祭儀偏重の宗教や社会の不義を糾弾し強大国アッシリアやエジプトへの迎合政策を批判した。その預言を集めたのが旧約聖書のイザヤ書(1-39章)です。後のキリスト教において、彼が預言した理想の王(メシア)の到来はイエスと結びつけられました。月元
 バビロンの捕囚:
バビロンの捕囚がイザヤ書の背景にあります。
 イスラエルの南王国ユダが新バビロニア王ネブカドネザル2世の2度にわたる攻撃(BC599~BC588)の結果、ダビデ、ソロモンと栄華を誇った、さしものイスラエル王国は滅亡します。首都エルサレムは崩壊、魂のよりどころであった神殿も炎上します。さらに、イスラエルの民の大部分は捕虜としてバビロンに移されたのです。これが「バビロンの捕囚」です。この運命は、BC538年ペルシャ王キュロスによって解放されるまで続きます。しかし、捕囚の民の多くがエルサレムに帰還したのは、解放の100年後であったと伝えられています。彼ら多くは技術者で、生活は比較的安定しており、帰還が遅れたのは、バビロンに定着したものが多かったからだと想像されます。
 イザヤ書と聖書の一致:
 イザヤ書を2つに分けたとき、前半部分は1章から39章までです。この部分はイザヤの作になります・主の懲らしめと、裁きが中心に描かれています。40章では「慰めよ、慰めよ。」と言う言葉があります。後半部分の40章から66章までは慰めと回復のメッセージです。具体的には、ユダとエルサレムに対するメッセージです。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には癒され、救われるという流れになっています。 ちなみに、聖書の書物の数は、旧約聖書が39巻、そして新約聖書が27巻です。合計すると66巻です。章の区分は後につけたものですから霊感を受けているわけではないのですが、イザヤ書の前半部分が39章で、後半が27章です。両方合わせると66になります。聖書と一致しています。内容も旧約聖書が神のさばき、そして新約聖書に慰めがあることでも一致しています。これは単なる偶然なのでしょうか。神の導きを感じます。
南ユダ王国 歴代統治者一覧 
在位には諸説ありますが、ここでは最も広く受け入れられているウィリアム・オルブライトの説によります。年号はすべて紀元前です。
• 922年 - 915年 レハブアム
• 915年 - 913年 アビヤム
• 913年 - 873年 アサ
• 873年 - 849年 ヨシャファト
• 849年 - 842年 ヨラム 暗殺される。
• 842年     アハズヤ 北イスラエル王国のイエフによって殺害される。
• 842年 - 837年 アタルヤ 先王アハズヤの母、唯一の女王。ヨアシュを擁立した大祭司ヨヤドに暗殺される。
• 837年 - 800年 ヨアシュ 配下に暗殺される。
• 800年 - 783年 アマツヤ 暗殺される。
• 783年 - 742年 ウジヤ
• 742年 - 735年 ヨタム
• 735年 - 715年 アハズ アッシリア王ティグラト・ピレセル3世に臣従。
• 715年 - 687年 ヒゼキヤ このころアッシリア王センナケリブ活躍。
• 687年 - 642年 マナセ
• 642年 - 640年 アモン 地の民に暗殺される。
• 640年 - 609年 ヨシヤ 申命記改革行われる。エジプト王ネコ2世とのメギドの戦いで戦死。
• 609年     ヨアハズ(エホアハズ)
• 609年 - 598年 エホヤキム カルケミシュの戦い起こる。
• 598年     エホヤキン 次王ゼデキヤと共にバビロニアへ連行され、37年間にわたって拘禁される。その後開放。
• 597年 - 587年 ゼデキヤ 目を刳り出されてバビロニアへ連行された。
 1章:イザヤ書一章は天での裁判の様子(原告と裁判長、神と被告人、イスラエル、証人、天と地)が描かれています。
「アマツの子、イザヤの幻。これは、彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤの時代に見たものである(1:1)」。
 ユダとは分裂後の南ユダのことです。エルサレムはその首都です。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤとは分裂後の南の初代王レハブアムから数えて10~14代目の王たちを指しています。
1,1~9節まではイスラエルの罪と罰が語られています。特に2節ではイスラエルの神への反逆が宣告されています。「子らはわたしが大きく育てた。しかし、彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」。子らとはユダヤ民族を指しており、ユダヤ人個人を指す言葉ではない。主が大きく育てた者とは、ヨシヤ、士師、ダビデ、ソロモンのことです。主はイスラエルの不義を怒るが、しかし、一人でも神に義なるものがいる場合、これを救われるのです。ソドムとゴモラの町のように。
2,10~15節では、神は、イスラエルの捧げものが虚しいものであると証言します。「もう、虚しい捧げものを携えてくるな。―――これに私は耐えられない」。血に染まり、心のこもらない捧げものは無信仰のあかしだからです。主は心のこもらない偽りの信仰を虚しきものと拒否します。
3,主はイスラエルの民に8つの命令を下します。1、洗え、身を清めよ。2,わたしの前であなたがたの悪を清めよ。3,悪事を働くのをやめよ。4,善をなすことを習え。5,公正を求めよ。6,しいたげるものを正し、7、孤児のために正しいさばきをなせ、8、やもめのために弁護せよ。このように主はイスラエルの民に恵みとあわれみを差し出し、「もし喜んでこの命令を守るなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることが出来る。しかしそむくなら罰せられる。」とイザヤは主を代弁します(1:16~20参照)。
4,「どうして、遊女になったのか。忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ(1:21)」。遊女:霊的姦淫をするもの。=偶像崇拝をする者。お前の銀は金粕になった。お前の良い酒も、水で割ってある。イスラエルの不順が示されます。お前の司たちは反逆者、盗人の仲間。皆、わいろを愛し報酬を追い求める。孤児のために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。イスラエルの指導者たちに対する神による有罪判決が下されています(1:21~23参照)。
5、以上のように、もはやイスラエルの有力者たちは、主にとっては仇であり、敵に過ぎないのです。その者たちに、主は手を伸ばし、これを清め、その後、彼ら町を正義の町、忠信の都にかえられるのです。このように、ここには、神に裁かれるイスラエル(1:24~26)が描かれています。次に、贖われるイスラエル(1:27~31)が、描かれます。シオン(エルサレム)は公によって贖われ、その町の悔い改める者は、正義によって贖われる(1:27)」のです。「慕った樫の木」や、自ら「選んだ園」は共に偶像を象徴しています。それらを崇拝するものはそむくものになり、罪びとととなり、主を捨てるものとなるのです。このような偶像崇拝の結果、彼は、恥を見、辱めを受けるのです。偶像は取り除かれ、「つわものは麻屑に、その業は火花になり、その二つとも燃え立って、これを消すものがいない(1:31)」。つわもの
はどんなに戦いに巧みであっても神の裁きを免れることは出来ないのです。
2章:第一章は。「終わりの日」の前夜が語られています。イスラエルは、まさに罪を犯す国であり、咎多き民で満たされています。彼らは主を捨て、主を侮り、背を向けています。まさに信仰深きものにとっては苦難に満ちた日々です。これに対して二章では、イエスの再臨の希望が語られています。「終わりの日」の後半です。主が再臨し、「主は国々の間を裁き、多くの国々の民に判決を下すのです。その結果、「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を挙げず、二度と戦いのことを習わない(2:3~4参照)」のです。平和の民に変えられるのです。しかし、これはあくまでもイザヤの将来に対する夢であり、幻なのです。現実の世界はイザヤの夢や幻が実現しているとは言えません。そこにあるのは真逆の世界です。それゆえ、イザヤによるイスラエルの民族的改心への勧めがなされています。神の国(千年王国)の到来が望まれています。「来たれ、ヤコブの家(イスラエル)、私たちも主の光に歩もう(2:5)」。」とイザヤは声高に叫びます。
 2章は、おそらくウジヤ、ヨタム、の時代(1:1参照)の預言とされています。当時、ユダ南王国は軍事的には富国強兵に努め、商業的には海外貿易で栄え、東方諸国との交易が盛んでした。その結果、東方諸国に蔓延していた偶像崇拝の悪弊がユダ国内に流入し、広められ、本来の神が退けられたのです。「金」や「銀」と言う財力、「馬」や「戦車」という権力、人の手や指で造られた「偽りの神々(偶像)」が、南ユダの人々を支配していたのです。しかし、ヨタム王の晩年には、権勢を誇った南ユダも衰退に向かい、政治や社会は腐敗し、混乱し、アッシリヤや、バビロンの大国に脅かされ始めます。
 終わりの日には、主の裁きの結果、高ぶるものはかがめられ、高慢のものは低くされ、主一人だけが高められ、偽りの神々はモグラや蝙蝠に投げやられて消え失せるのです。
 今から2000年ほど前は、人類にとっては苦しみが最もひどい時であったと聖書は語っています。しかし、それは、人々が恐れているような世界の終わりではありません。多くの苦難は現れても、それは、キリストが再現し、裁きと救いを成就したのちに、神の国が現れるという予兆でした(2:21参照)。   「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避けて、岩の割れ目、巌(いわお)の裂け目に入る(2:21)」のです。悪は消滅します。「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか(2:22)」。頼りになるものは「主」以外には存在しないのです。
楽庵会

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ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)

2022年06月10日 | Weblog

ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)
 はじめに:今回をもって、ヨブ記のレポートを終了します。ヨブは自分の正しさを確信して、「義なる自分」が、なぜ「災厄」に会わねばならなじめに:いのか、と神に問い続けます。三人の友人とエリフが、この間に現れ、自分の意見を述べます。3人は「因果応報」を語り、エリフは「災厄」の「教育的効果」を語ります。しかし、それはヨブを満足させるものではありませんでした。それで、ヨブの目は神に向きます。しかし、神はヨブの問いかけには沈黙を守って応じませんでした。それが、嵐の中、突然現れ、ヨブに自分の摂理を語ります。神は自分の万能性、無限性、永遠性を語り万物の支配者であることを誇ります。人の支配の及ばない世界を語り、この世界が神のみ心で成っていることを証ししていきます。しかしヨブの問う「なぜ」には応えはありません。ヨブは神のみ心に触れ、何が神のみ心に触れるものかを知ります。ヨブは神の大きく強い愛に触れ、自分の小ささを悟って、神の前にひれ伏します。強く、大きな神の愛の前には、ヨブの善悪は小さな問題であり、取るに足りないものなのです。ヨブは、「我は義なり」と叫ぶ執着心を「知識もなく摂理を覆い隠すものであった(42:3)」と悟ります。神は、最終的には、自分の恵みとあわれみをお示しになります。ヨブは信仰によって生きる力が与えられたのです。神はヨブと三人の罪を赦し、ヨブには2倍の恵みを与えます。この後ヨブは140年生き、長寿を全うして死にます。。
 40章:40章には神の第一の語り掛けに対して、ヨブが答える場面と、さらにそのヨブに対して神の第二の語り掛けが記されています。第一の語りかけ対してヨブは恭順の意を示しています。それにも拘らず、神はなぜ二度も、嵐の中、語り掛ける必要があったのでしょうか。
 第一の語り掛けとは「非難するものが全能者と争おうとするのか、神を責める者は、それを言い立ててみよ(40:1~2)」という言葉です。非難するもの、責めるものとは、勿論ヨブのことです。「それお」とは、「神に義なる自分が「なぜ」災厄に会わねばならないのか、とその不合理かつ不条理な災厄に対して、「なぜ」と神に問い、その答えを求め続けたことを指します。。
 しかし、ヨブは先の章で示されたように自然の営み、様々な野生動物の生態、天体の動きなど自分の成しえないことのすべては、神の御業であると知り、自分の小ささを悟り、「知識もなく言い分を述べ立てて摂理を暗くする者は」は自分自身だと認めます。そして「ヨブは応えて言った。「ああ、私はつまらないものです。あなたになんと口答えできましょう。私は、ただ口に手を当てるばかりです。一度私は語りましたが、もう、口答えしません。二度と私は繰り返しません(40:3~5)と、反省の言葉を語ります。しかし、この反省の言葉を神は無視します。そしてヨブに言います「さあ、あなたは腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしの裁きを無効にする気か。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか(40:7~8)」と。わたしの裁きとはヨブの受けた災厄を指し、その意味を深く考えよ、と言うのであり、義なる我を罪に定める、あなた(神)こそ罪びとだとヨブよ、言うのかと、神は自らに対するヨブの高ぶりを叱責しています。
 神は自分を罪に定めようとするヨブに言います。「あなたは神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴を轟き渡せるのか。さあ、誉、気高さを現す法服で身を装い、尊厳と威光を身に着け神の法廷であなたの激しい怒りを吐き散らし、すべての高ぶるものを見て、これを低くせよ。すべて高ぶるものを見てこれを抑え、悪者どもをその場に踏みにじれ。そしてかれらを黄泉の国へとおとしめよ。そうすれば。わたしはあなたをたたえて言おう。「あなたの右の手があなたを救える」と。この文章も、また反語です。そんな神と同じ力があなたには、ありますか。あるまい。と神は言いたいのです。
 次に河馬について述べられています。河馬も野生動物の一種で、家畜としては存在していません。人と共に神によって造られた第一級の獣です。体は頑丈に作られており、堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、人にこのような生き物を造ることが出来ません。神の傑作です。彼らは静かに草を食み、山のもたらす産物を楽しんでいます。野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしています。彼らは普段は沼地でのんびりと過ごしています。ハスや、葦や、柳は水辺で彼らに安らぎを与えます。河馬は平和の象徴であり、戦いを好みません。たとえ激しい雨が降り注いでも、ヨルダン川があふれても、それを飲み込んで慌てません。こんなおとなしく平和な動物を「誰が罠にかけて、その鼻を突きとおすことが出来ようか(40:24)」。
 41章:41章は、レビヤタンについて語っています。
 1、レビヤタンとは旧約聖書に登場する竜または蛇のような巨大な水中怪獣で、鰐(わに)の類と考えられています。
 2、その姿は強大かつ強靭な皮膚におおわれ、強さと威厳に満ち何物をも近づくこと許しません。剣も槍も投げ槍も矢尻も、受け付けず、跳ね返します。その口からは炎を吐き出し、どんなに力あるものもこれに太刀打ちできません。河馬(40章参照)が第一級の獣なら、レビやタンは、すべての獣に対する誇り高き王です。
 3,人はそんなレビやタンに優しさを期待することも、捕らえて奴隷にすることも、契約を結んで和解することもできません。勿論、戦って、勝つこともできません。それゆえ、「二度と手を出すな」と神は言います。
 神は言います。「天の下にあるものはみな私のものだ。私以外にこれ(レビヤタン)に勝つものはいない」と。レビヤタンは、神に対抗する諸勢力の比喩的表現です。実態は、悪魔です。これに勝つものは神のみです。 河馬が平和の象徴ならば、レビヤタンは、神に敵対するもの(悪魔)の象徴です。共に神の支配下にあります。神は、被造物のすべてを支配されています。それゆえ、レビヤタンは、人の太刀打ちできる存在ではありません。
42章:1,ヨブの悔い改め「ヨブは主に応えて言った。「あなたは、すべてが出来ること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなく、摂理を覆い隠すものはだれか。まことに私は自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を(42:1~3)』」と。自分では悟りえないことを告げていたと、ヨブはその行為を反省しています。ヨブが自分の無罪を主張し「我は義なり」と主張し「神が間違っている」と叫んだ時にヨブの罪が明らかになります。ヨブの主張の真偽は、神にしか知り得ないものだからです。その主張は、明らかに神に対する不遜であり高ぶりだったのです。
 そして神は言います。「さあ、聞け、わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ(42:4)」と。
 ヨブは神を求め続けました。しかし、神は沈黙を続け、その姿をヨブは見ることは出来ませんでした。「うわさで聞いていただけです(42:5)」。しかし、今、ヨブはその姿を見たのです。神との出会いの体験こそ、人を真の信仰者にするのです。十字架で逃げた弟子たちが集められたのも復活のイエスとの顕現を通してでした。そして、神はその反省した姿を「わたしに示せ」と命じています。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で、悔いています(42:6)」とヨブは反省します。災厄の苦しみの中で、ヨブは神を受け入れたのです。神とヨブの間に和解が生じます。
2、ヨブの回復:神はヨブの悔い改めを受け入れるとともに三人の友人たちを叱責されます。神はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたが、わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかったからだ(42:7)」と。ここで神は友人たちの主張する「応報論」を否定し、ヨブの正しさを明らかにしたのです。しかし神は友人たちを罰することはせず、ヨブとの和解を望んだのです。ヨブが友人のために取り直しの祈りをしたとき、神は、ヨブの苦難を取り除かれ、元の境遇に戻し、2倍の財産を保証しました。彼の子、兄弟、姉妹、雇人、のすべては復活し、隣人たちと共にヨブを祝福しました。神はヨブの前の半生よりも、後の半生を、もっと祝福されたのです。「この後ヨブは140年生き、自分の子とその子の子たちを4代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ(42:16~17)」のです。
 この結論は、神学的には甘いという説もあります。ヨブは最後まで突き放された方が、イスラエルの神を理解するためには、良かったのです。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままでよいのではないか。救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難や不条理の意味が変えられることにあるのです。ヨブは信仰によって変えられ、生きる力を与えられたのです。ヨブの苦しみは、イエスの痛みに通ずるものがあります。イエスの十字架の死と復活は、ヨブの苦しみと復活に通じるものがあります。それはこの「ヨブ記」のテーマでもあったはずです。
令和4年3月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

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ヨブ記11 嵐の中から主の顕現 38~39章

2022年06月10日 | Weblog

ヨブ記11 嵐の中での主の顕現1 38~39章</strong>
 はじめに:「主は嵐の中からヨブに応えて仰せられた。『知識もなく言い分を申し立てて、摂理を暗くするこの者はだれか』(38:2)」と。神はヨブの問う「なぜ」と言う疑問には応えず、質問と言う形をとってヨブと向き合います。質問と言う形をとっていても、神はヨブのすべてをご存じです。それは強調形です。「われは義なり」と繰り返すヨブは神にとっては「摂理を暗く」する者なのです。そのヨブの執着は、神にとっては高慢であり不遜なのです。そんなヨブに対して、神は、「あなたは勇士のように腰に帯を締めよ、私はあなたに尋ねる。私に示せ(38:3)」と、身を引き締めて我と向き合えと言っているのです。その後、神は、ご自身の摂理と創造の御業を語っていきます。天と大地と海が作られ、人が生まれます。「この時、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちは、みな喜び叫んだ(38:7)」のです。「しかし、あなたは、わたしが地の基を定めたとき、どこにいたのか(38:4)」と、神はその創造の御業を語り、それと無関係で喜び叫ぶことのできなかったヨブを論難します。ヨブは、神の万能性、永遠性、無限性を知り、自分が知識もなく摂理を覆い隠すものだったと悟ります。そして言います。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています(42:6)と。これが最初に神がヨブに下した命令(38:2~3)に対する答えなのです。ヨブは神の前に自分を無(空)にしてひれ伏します。
 38章:神は37章の終わりに「だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしいものを決して顧みられない(37:24)」とおしゃっています。主は嵐の中からヨブに応えて仰せられたのです。と言うことは、神はヨブを、神を恐れ、かつ心のこざかしいものではないと認めて、顧みられたのです。ヨブを認めているが故の災厄であり、論難なのです。そうでなければ、神が沈黙を破ることはなかったでしょう。神は言います「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ(38:3b)」。「わたしが地の基を定めたとき、あなたは何処にいたのか」。また言います。「あなたに悟ることが出来るなら告げてみよ(38:4b)」、「あなたは知っているか。誰がその基の上に世界を造ったか(38:5~6参照)」を。いずれも神の御業であり、ヨブの関知しえないことなのです。ヨブの高慢、不遜に対する神の痛烈な皮肉と考えることが出来ます。
 さらに神は自分の御業を語っていきます。海の怒りである津波について書かれています。神はこれを区切って境を定め、閂と戸を設けて、言います。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ(38:11)」と。神は津波とヨブを同格においています。ヨブの神に対する高ぶりに警告を与えているのです。
 闇はいつまでも続くものではない。いつかは色鮮やかな世界が到来します(38:12~15)。これは一般論であると同時に、災厄に苦しむヨブに神が語ったものです。「あなたが生まれてこのかた朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、これに地の果てを捕まえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか(38:12~13)」と。朝や暁は、夜中に次いで現れる自然現象であり、明るさを現しています。それに命じるということは、闇に明るさを求めるということです。神は言います。「暗闇に紛れて悪を行うものを一掃せよ」と。あなたはこれを行ったことがあるか。これも反後です。行ったことはあるまい。と続きます。地は最初こそ、闇に包まれていますが、朝や暁が到来し、太陽が昇るにつれてこの世は色鮮やかに彩色され、「悪者からは、その光が退けられ、振りかざす腕はおられる(38:15)」のです。すべての闇は、退けられ、その後に神の栄光が現れます。朝や暁は何を現すのか。信仰であり、希望であり、愛です。
 黄泉の国は地の底、海の底にあると言われています。神はヨブに言います。「死と直面した限界状況の中で、あなたは何を知っているのか」と。神の創造された世界(天、大地、海、黄泉の国、神の国等々)の広さ、深さをあなたは体験したことがあるのか。そのすべてを知っているなら、我に告げてみよ。光の住むところ=神の国、闇のある場所=黄泉の国、そこにあなたは私を連れて行こうというのか。そこに至る道を知っているというのか。これもまた反語です。光と闇を分け、その秩序を付けているのは神の御業です。あなたが年を得た賢者であっても、神の摂理を知りうる立場にはない、と神は言います。
 雪も雹も雨も、人の創造しえない自然現象であり、神の御業です。雪も雹もいくさと戦いのためにユダヤのために神は備えており、出エジプトの時、エジプトに雹の災いを下し、ヨシュア記でも敵を追うヨシュアたちに神は雹を降らせました。この後も神はその創造の御業を語っていきます。神は人の生活の上に多くの恵みを与えています。光や東風は、地に恵みを与える代表であり、光は大水を生み、稲光を生み、人に災厄をもたらしますが、それらを災厄から恵みに変え(分け)人の生活を潤します。大水のために水路を通し、稲光を通電させて災厄を地中に流します。雨は大地を潤し、若草を生やします。恵みの雨には父がおり、この母こそ主であり、露のしずくを生み、氷を生み、空の白い霜を生みます。水を凍らせ、堅い氷とする。主は災いを恵みに変えるのです。ヨブよ、心して神を敬え。
次は、地球を離れて、神による宇宙の創造と、その支配を語ります。これも人(ヨブ)には成しえないことです。「あなたは、スバル座の鎖を結び付けることが出来るか、オリオン座の綱を解くことが出来るか、あなたは十二宮をその時々に従って引き出すことが出来るか、牡牛座を、その子の星と共に導くことが出来るか、(38:31~32)」と、神はヨブに「あなたにーーが出来るか」と、神にしかできないことを語ります。この神秘な宇宙も、天の法令(秩序)に従って動いています。あなたは「天の法則を知っているか、地にその法則をたてることが出来るか」と、天の法則も神の御業です。人間中心に物事を見ようとする立場に対して、自分を無(空)にしてものを見ることの必要性を神は説いています。神と人との違いは、天と地ほどです。神は人(ヨブ)の限界を語ります。
次いで、神は自然現象である雨について語ります。「あなたはその声を雲にまで上げ、雨を降らせることが出来るか」「稲妻に命じて向うに行かせ「私はここにいます」と、その存在を示すことが出来るか。それらはすべて私のわざであり、あなたのわざではない。あなたは、雨に大雨を降らせたり、止めたりする知恵や悟りを与えることが出来るか。地が乾燥し、人の手に負えなくなったときに、これに心を配り配慮して雨を降らせることが出来るか。それが出来るものは、わたし以外にはいない。神による雨の創造と支配が語られています。
 この章(38章)の終わり(38:39~41)から次の章にかけて神は人の手に負えない野生動物について語ります。獅子も烏もその一種です。人には手に負えなくとも、これら野生動物も神の支配下にあり、かつ、愛されています。獅子も烏もその生命は神によって保障されているのです。
 39章:39章には、様々な野生動物(野やぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、鷹=鷲)が語られています。野生動物は、人が管理・支配できない動物たちです。しかし、神はこれらの動物を被造物として支配し管理し愛しておられます。私たち人も同じ被造物として、自分を神の主権の中に従わせるとき、そこに私たち人間が、造られた神の目的を知ることが出来ます。神の目的とは、神ご自身のご計画を達成することにあります。
 1,野やぎ:野やぎは、苦しんで産んだ子を放り出す。しかし、にも拘らず、その子らは強くなり、荒野で大きくなる。出て行って、元のところに戻らない。
 2,野ろば:野ろばは荒れ地や不毛の地を住みかとして、たくましく生きる。山岳地帯はその牧場であり、青草を、すべて食することが出来る。
 3,野牛:野牛は力が強いからと言って決してあなたに従うことはない。自由に生きている。
 4,だちょう:神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったから、卵を地に置き去りにし、これを砂に温めさせ、野の獣が踏みつけようと、餌として食そうと関知しない。しかし絶滅することはない。神に守られえているからである。速力は馬に勝る。
 5,馬:次は馬です。勿論、野生の馬もいますが、ここで扱われている馬は、人に飼われた軍馬のようです。軍馬は、戦いの時すぐれた勇士として戦います。その恐れなき雄姿は人の力によって身に着けたものではなく、神の与えた本能です。ここでも人の力の虚しさが語られています。
 6,鷹(鷲):(タカ目のうち小・中形のものをタカと呼び、大形のものをワシと呼ぶ)。鷹が舞い、翼を広げるのは、あなたの悟りによるのか、鷲が高くに上りそこの巣を作るのはあなたの命令によるのか。否、それは神の御業である。鷹は肉を食らい血を吸う獰猛な猛禽である。
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楽庵会

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ヨブ記10

2022年06月07日 | Weblog

ヨブ記10 若者エリフの弁論2 35~37章
 はじめに 37章をもって、3人の友とエリフの弁論は終わります。38章で、今まで沈黙を守っていた神が登場します。ヨブに直接語り掛け自らの永遠性と無限性を語ります。
 ここでヨブ記の復讐をしてみたいと思います。
 ヨブ記は2つの災厄から始まります。この災厄は、天上における神とサタンの談合の結果、信仰深いヨブの家族が被ったもので、一つ目の災厄で、ヨブは家族とすべての財産を失い、第二の災厄で、全身に悪性の腫物ができ、大きな苦しみに会います。ここでの疑問は、一つ目の災厄でヨブは家族と雇人とすべての財産を失ったのに、彼の妻だけは生き残ったことです。なぜ彼女だけが生き残ったのでしょうか。それは、彼女がサタンに仕える身であり。ヨブが神に逆らう役割をサタンから与えられていたのです。あたかも蛇がエバを誘惑したように、エバは誘惑に負けましたが、ヨブは彼女の誘惑を退けたのです。そこにはヨブの神に対する信仰と希望と愛がありました。
 もう一つの注目すべきことは「一切のものは空なり」と言うことです。人の行い、形あるものはすべて空しいものである、いつかは消滅します。ヨブ一族の消滅は、まさに、この空を現しています。
 神の教えに従って行動することのみが正しいのです。神は目に見ることが出来ません。まさに空です。キリストは神であるのに自らを無(空)にして、人の姿をしてこの世に現れました。我々の罪を贖うためです。しかし、一切のものは、善も悪も、夜も昼も、この世もあの世も、すべて神のコントロール下にあります。ヨブは、最終的には、災厄から解放されて、2倍の復活を受けます。天の恵みは私たちの思いをはるかに超えて大きいのです。その意味するところは、キリストの十字架と、復活です。
 このようなヨブのもとに、3人の友人(エリファズ、ビルダデ、ツオファル)が現れ、「災厄は神罰なり」と、「応報論」を展開します。ヨブはこれに対して「我は義なり」と反論します。ヨブは神に対しても「義なる自分が、なぜ災厄に会うのか」と、問い続けます。地をさまよい、神を捜し続けます。しかし、神はヨブとの出会いを拒否して、沈黙を守り、応答しません。
3人の友人とヨブの論争は、友人たちの沈黙によって、ヨブは勝利します。その後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子エリフです。彼は、ヨブが神よりもむしろ自分を義としたとし、神との対等性を主張したヨブを激しく糾弾します(32~37参照)。38章では、神が今までの沈黙を破って突然現れ、ヨブと向かい合います。これが「ヨブ記」のあらすじです。
 35章:エリフはヨブの言う「我は義なり」と言う主張に疑問を示し「私(ヨブ)の義は神からだ」とでも言うのかと怒ります。神の超越性、絶対性を説くエリフにとっては神が自分の問いかけを無視して、沈黙を守っていることに対して「なぜ」と問い続けるヨブの神に対する執着心が許せないのです。自説(われは義なり)への執着は、神に対する高慢であり、不遜なのです。救いに至る道なのです。「しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか((35:15)」と、エリフはヨブの災厄を神罰と考えています。それゆえに、ヨブに与えられた災厄を正当化します。まさに応報論です。   「我は義なり」と確信するヨブにとっては、神の沈黙は自分の正しさを否定するものなのです。これに対してエリフは応えます。「天を仰ぎ見よ、あなたよりはるかに高い雲を見よ。神にとっては、あなたがどんなに正しくとも、またどんなに罪びとであっても、あなたは神に対して何もできないし、何も与えることは出来ない(35:5~7参照)」と、神を人とは無縁な存在にします。神と人との断絶が語られます。そして言います「あなたの悪は、あなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子にかかわりをもつだけだ」と。
 「人々は、多くの虐げのために泣き叫び、力ある腕のために助けを叫び求める(35:9)」。しかし、真の救い主である神に救いを求めません。神を求めずに泣き叫んでも、答えは得られません。力ある悪人がおごり高ぶっているからです。「神は決して空しい叫びを聞き入れず、全能者はこれに心を留めない(35:13)」のです。救いをこの世の力に求めず、真の救い主(神)に求めよとエリフは、人々に諭しています。
 ヨブが神を求めても神は応じません。沈黙しています。しかし、ヨブの訴えは「神の前」に届いているのです。だからその答えを、身を清くして忍耐強く待て、今はその時にあらず、とエリフはヨブを諭します。しかし、「ヨブは、いたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べ立てる(35:16)」と、エリフはヨブを非難します。エリフにとってヨブは相も変わらず罪びとです。
 36章:エリフは「まだ、神のために言い分がある(36:2)」と、その弁論を続けます。あなたが全能なる神と向き合っているように、私も向き合っている。「私の知識は神から来ているがゆえに、私の言葉には偽りがない。神はその力を行使し、いかなるものに対しても卑しめることをしない。神は悪者を生かしておかず、虐げられた者には権利を与える。神は正しいものから目を離さず、彼にふさわしい報いを与え高められる(36:1~7)」「もしかれらが鎖に縛られ、悩みの縄に捕らえられると、おそらく彼らは何らかの罪を犯したのであろうから、神はかれらのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶった、そむきの罪を告げ知らせる。神は彼らの耳を開いて戒め、悪から立ち帰るように命じる。彼らがその戒めに従い仕えるなら、恵みを与え、逆に聞き入れなければ、その罪を裁かれる。彼はその罪を理解せずに息絶える。心で神を敬わない者は怒りを蓄え、神が彼らを縛ると、彼らは神に救いを求めず、別の力あるものにすがる。それゆえに、彼らの魂は若くして死ぬ。彼らの命は腐れているからだ。神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広いところに導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。神の与える災厄は、彼を幸いに導くためにあるのです(36:6~16参照)。エリフは「災厄の教育的効果」を語っています。「しかし、あなたには悪者が受けるさばきに満ちている。神はあなたを悩みから救い出そうとしているのに、あなたは応答しようとしない。だから、神のさばきが待っている(36:16~17参照)。「そして、神のさばきの前に贖い代持ってきて、救いを求めて叫んでも神によって聞き入れられることはない(36:18~19)」。「人が不正に踏みにじられ、悲しみのうちに打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。悪に向かわないように注意せよ。あなたは悩みよりこれ(悪)を選らんのだから(36:20~21)」。苦境の中、で、悩みか悪かの二者択一を迫られ、ヨブが「悪」を選んだとエリフは言います。「万能な神は、あなたの犯した罪をご存じです。それゆえ、あなたを教え諭し、その罪を清めようとしておられます(教育的効果)。あなたの罪を罰し、懲らしめ、滅ぼそうとしているのではありません。神は、慈愛と親しみに満ちた「アバ父」なのです。その神にだれが「不正をした」と言うことが出来るでしょうか。逆にその御業を誉め歌って賛美すべきなのです。人はこれを遠くから眺めることが出来るのみなのです。神はいと高く、その存在も、その年も知ることは出来ません。神は永遠かつ無限のお方だからです。
 次にエリフは自然の摂理について語ります。自然の摂理は神の摂理です。神は大地を造り、太陽を上らせ、雨を降らせ、四季を造り、大地を循環させました。人はその恵みを享受しない限り生きていけません。すべてを創造した神と人は共に歩まねばならないのです。神の沈黙に対しては静かに待て、その先には素晴らしい栄光が用意されている、とエリフは言うのです。
 37章:自然の摂理は、神の御業であるとエリフは言います。人は神の前ではちっぽけな存在です。「神は心で自分を敬まわない者には怒りを貯え、これを裁く」のです。エリフはこの神の怒りの声を聴いて恐れおののき言います。「神の声である雷の声を聴け、稲妻と雷鳴が神の威厳を知らせる」と。神の驚くべき御業を語ります。この時、すべての人は、恐れおののいて、神に祈り、獣は巣穴に逃げ込み静かに神を見る。「神が息を吹きかけると川が凍り、雲に水分を含ませると稲妻をまき散らし、それを地に行き巡らせる」。「これらの自然の変化は、神の懲らしめであり大地のためであり、我々に恵みを与える。ヨブよ、よく聞け「これらの神の御業をじっと考えよ。どのようにして神が自然に命じて、その摂理を行わしめるか(37:15~17参照)」を。しかし、我々には、それ(摂理)を知ることは出来ない。なぜなら、雨雲の上にそれが輝いているからです。しかし、一陣の風が吹き抜けると。これを取り去り、清め、黄金の輝きが現れ、その尊厳を見ることが出来るのです。その風が吹くのを待てとエリフは言います。雨雲が神と人とを隔て、一陣の風がこれを吹き払い、神と人とを結びつける。この風こそ、神の愛であり、人の信仰のあかしなのです。
 次章では、一陣の風が吹き、それに乗って神が現れます。神はその沈黙を破りヨブの前に現れます。エリフは神の出現を予測していたのです。
 これで32章から37章まで続いたエリフの弁論は終わります。このエリフの弁論には、神も、ヨブも応答しません。
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令和4年1月11日(火)報告者守武 戢 楽庵会

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ヨブ記9 エリフの弁論 32~34章

2022年06月04日 | Weblog
ヨブ記9 若者エリフの弁論1 32~34章
はじめに:31章でヨブと3人の友人との論争は終了しました。ヨブが神のみ前で自分の正しさを実証したからです。その結果「この3人の者は応えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。(32:1)」と作者は言います。31章で述べたように、ヨブはヘブライの慣習にそって「無実の実証」を神への誓いをもって行いました。神の前で偽りは赦されないのです。神はすべてをご存じだからです。ヨブのことばが真実である限り、3人の神学「応報論」は無力です。「我は義なり」というヨブの確信は3人のいう「災厄は神罰なり」という応報論に勝利したのです。3人は沈黙します。この舞台から撤退せざるを得なかったのです。また、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。神もまた3人の友を退け。ヨブに軍配を挙げるのです。
この3人の後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子、若者のエリフです。彼はヨブたちの論争に参加すべく、その議論を注意深く傾聴していました。おそらく、3人の友人の撤退はエリフにとっては想定外のことだったと思います。ここから若者エリフの弁論が始まります。
ヨブたちの論争は、ヨブの勝利をもって終わりました。エリフは自分の発言の機会に恵まれ、自分の言い分を語りだします。32~37章まではエリフの弁論です。勿論、彼の弁論は3人とは異なります。「私はあなたがたの言い分(応報論)では彼(ヨブ)に応えまい(32:14)」と、「応報論」とは、別の言い分を語っていきます。
この別の言い分とは何か、その特徴とは何かが、32章から37章にかけて、語られていきます。
32章:エリフは論争への参加を前にして、ヨブたちの論争を注意深く傾聴していました。その結果、両者に対して激しい怒りを燃やします。ヨブに対しては、神よりも自分自身を義として、神をないがしろしたからであり、友人たちに対しては、ヨブを罪びとと定めながらも、それを証しすることができず、その弁解として「ヨブに勝てる者は神だけだ(32:13)」と、うそぶいて論争の舞台から撤退したからです。
友人たちが語らず、沈黙したので、いよいよ、エリフが舞台に登場します。エリフは、彼なりの立場からヨブの言う「我は義なり」という主張にも、また友人たちの「災厄は神罰なり」という応報論にも異議を感じていました。
エリフは論者の中では一番年が若いゆえに年長者である論者に忖度して、その発言を控えていたのです。「しかし年長者が知恵深いわけではないし、老人が道理を弁えているわけでもない。(32:9)」のです。「人の中には、確かに霊がある。全能者の息が、人に悟りを与える(32-8)」。年齢は関係ないのです。「だから私(エリフ)は言う『私の言うことを聞いてくれ、私もまた私の意見を述べよう』(32:10)」と。エリフは自分の意見は、全能者の息吹の中から生まれたものだと言いたかったのでしょう。その意見は自分自身の言い分であって、3人の友人たちの言う「応報論」に非ずと主張しているのです。
エリフは論争に加わるにあたって、聖霊に満たされて元気一杯です。「私は語って気分を晴らしたい。唇を開いて応えたい」「私は誰もひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから、そうでなければ私を造ったお方は今すぐ私を奪い去ろう(32:21~22)」。これからエリフは聖霊に満たされて新しい見方を、だれにも忖度せずに語っていきます。
33章32章では、エリフの経歴と、発言に至った経緯が語られました。33章からは、エリフの弁論が始まります。エリフは発言を前にして3章:言います。「神の霊が私を送り、全能者の息が私に命を与える(33:4)」と。私のことばには、真実と清さがあると主張しています。神の代弁者のごとく考えています。そしてヨブに言う。「(私を神と考えて、)私の前に立て。そして、私に返事をせよ(33:5)」と。あなたは次のように言う。「我は義なり、それなのに神は私を責める口実を見つけ、私を敵のように見なされる。神は私に枷をはめ、私の歩みをことごとく見張る(34:8~11)」と。これに対してエリフは応えます。「このことであなたは正しくない。神は人より偉大だから」と。「なぜあなたは神と言い争うのか」、「神が、自分のことばに沈黙を守っているからと言って」。
ここからエリフは神の沈黙の意味を語っていきます。「沈黙は空に非ず」だからです。神は自分なりの方法(ある方法、ほかの方法)で語られるが、人はそれに気付かないだけなのです。エリフは神の啓示について述べていきます。それは夜の幻や、夢の中や、深い眠りや、寝床の中でまどろむとき等々、神は人の耳を開き警告として語られるのです。神は恐ろしい姿で人に近づき人を怯えさせるのです。神は人に畏敬の念を抱かせ、悪いわざを取り除くのです。このようにして、神は人から高ぶりを遠ざけるのです。
神は人に対して2つの方法で救いの御業を行われます。
1,「神は人の魂が黄泉の穴に入らないようにし、その命が槍で滅びないようにされる(33:18)」
2,神は人を床で痛みによって責め、その骨の多くを痺れさせるのです。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる」。その魂は黄泉の国に近づき死は目前にあるのです。もし、一人のみ使いが現れ、その人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで、「彼を救って、黄泉の国に下っていかないようにせよと仰せられる。彼は、災厄以前の昔の姿を取り戻す。「彼が神に祈ると受け入れられる。彼は喜んで御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。「一人のみ使い」とはイエス・キリストをイメージしています。キリストは人に代わって十字架にかけられたのです。人の罪を贖ったのです。
ヨブの3人の友人がヨブの苦しみを「災厄は神罰なり」と見做すのに対して、エリフは、ヨブの災厄を「神の懲らしめ、訓練である」と考えています。ヨブが罪の中にいて滅びに至ることがないように、苦しみを与え、肉体の痛みを通じて神に立ちかえるようにしてくださる、のです。教育的効果を狙っています。この考えは、それ自体は正しくても(へブル書Ⅰ2:5~6参照)、ヨブにとっては正しくありません。ヨブは、前に述べたように既に救われているからです。しかしこれは神のみが知ることであり、ヨブもエリフも知らないことなのです。
エリフの弁論を読むとき、気を付けなければならないことは、これはあくまでもエリフの考えであり、必ずしも神の霊に導かれて語ってはいないということです。それゆえ、正しいこともあれば過ちもあるのです。
エリフは言います。「彼(ヨブ)は人々を見つめて言う『私は罪を犯して正しいことを曲げた。しかし神は私のようではなかった。神はわたしのたましいを贖って、黄泉の国に下らせず、わたしの魂は光を見ると』「見よ。神はこれらすべてのことを二度も三度も人に対して行われる。人の魂を黄泉の穴から引き戻し、命の光で照らされる。神は忍耐をもって何度も何度も私たちに語り掛けられます。それほどに私たちを愛しておられるのです。一度語って振り向きがなければあきらめるような方ではありません。
31~33節までは、律法から信仰への転換が語られています。
エリフは高飛車にヨブに語ります。ヨブたちに忖度して自分の発言の順番を待っていた敬虔な姿はそこにはありません。神のごとく「ヨブよー」と命令します。「もし言い分があるなら私に言ってみよ。あなたの正しいことを示して欲しいからだ、それが出来ないなら、私に聞け、私がその知恵を教えよう」。「あなたの正しいこと」とは律法のことであり、「その知恵」とは主イエス・キリストへの信仰を現します。「それが出来ないなら」は律法の否定です。確かにヨブは痛みを通して、もっと神に近づくことが出来るし、代言者イエス・キリストの働きをもっと深く知ることが出来るでしょう。
34章:前にも書きましたが、エリフのことばには、正しいものもあれば、偽りもあります。我々はそれを見分ける知恵を持たねばなりません。
エリフは知恵のある人々、知識のある人々に語り掛けて言います。「口が食物の味を知るように、耳は言葉を聞き分ける」「さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見極めよう」と。
同じように、私たちもエリフがヨブのことばとして引用した言葉の真偽を見極める知恵が必要です。
それを挙げると
1、「私(ヨブ)は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は治まらない(34:5-6)」。友人たちの攻撃、神のヨブに対する無視など、ヨブの心に打ち込まれた矢傷は癒えていないのです。
 2,「彼(ヨブ)はあざけりを水のように飲む(34:7)」。
 3,ヨブは、「不法を行うものと良く交わり、悪人たちと共に歩んだ(34:8)」。
 4,ヨブは言う「神と親しんでも、それは人に役に立たない(34:9)」と。
1は正しい。2~4は偽りです。ヨブのことばではありません。
 いずれにしても、ヨブが神の仕打ち(神がヨブに与えた災厄)に対して不満を感じていたことは事実です。
エリフはヨブの不満(罪)を、二つに分類しています。
一つ目は、「私は正しい、神が私の正義を取り去った(34:5)」というものです。われは義なり、それなのになぜ私は苦しまねばならないのか、という不満です。二つ目は「神と親しんでも、それは人の役には立たない(34:9)」と言うものです。神と友になっても何一つ良いことはない。その証拠に神に義なる私に災厄が与えたではないかとヨブは不満を語ります。しかし、これは、あくまでもエリフのヨブに対する見解です。
エリフはヨブのことばとして上記2~4の行為と言葉を、神を汚すものとして挙げています。しかし、これらは先に述べたように偽りです。述べていません。エリフはこの偽りのことばを、ヨブのことばと見做して自説を展開していきます。
エリフは、ヨブの示したと思われる2つの不満(罪)に対して、それを事実として、分別ある人々に対して、自説を展開していきます。
「神が悪を行うなど、全能者が不正を行うなど、絶対にそういうことはない。神は、人の行いをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる(34:10~11)」と。エリフは、神(全能者)は罪のない絶対者であると、ヨブのことばを否定します。エリフの言うこのことば自身には誤りはありません。しかしヨブの語っていないことを前提としている限り、このことばは偽りです。前にも述べたようにエリフのことばはその真偽を正しく判断する知恵が必要です。一般論としては正しくとも、ヨブ個人に対しては誤りであることが、エリフの文章には散見しています。
「誰が、この地に神をゆだねたのか、誰が全世界を神に任せたのか(34:14)」。神の主権が語られています。そして、もしもこの主権者である「神がご自分だけに心を留め、その息と霊とをご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え人は塵に帰る(34:14~15)」のです。と、エリフは述べています。神がその霊と息とをヨブに注ぎ、ご自分に心をとどめたなら、すべての肉なるものは生まれる前の塵に帰る、というのです。神の絶対性と、人の相対性(従属性)が語られています。
34章の16節から呼びかけはあなたがた(分別ある人)から、あなた(ヨブ)に代わります。それにもかかわらず、34節までヨブの名前は出て来ません。ということは、ここに登場する「王」「高貴な人」を「ヨブ」と呼び変える知恵が必要となります。エリフはヨブに言います。「あなたに悟りがあるならこれを聞け」と。「公義を憎む者が、(民)を治めることが出来るか、正しく力あるものをあなたは罪に定めることが出来ようか。人が王に向かって『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって「悪魔」と言えるだろうか(34:17~18)」と。地上の高貴な人を非難することでさえ、憚れることなのに、ましてや、力ある神を非難するとは何事か、とエリフはヨブを怒ります。「人」とは災厄以前にヨブの共同体に所属していた人をさします。彼らはヨブを敬愛し、尊敬し、親愛の情を示していました。なぜならヨブは彼らに対して、えこひいきをすることのない公正な人物だったからです。そして彼の行動は、「神の手の御業」に導かれていたのです。この義なる人ヨブに突然災厄が訪れたのです。舞台は光から闇に暗転します。これがヨブの被った災厄だったのです。「彼らは真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらず取り去られる(34:20)」「神の御目が人の道の上にあり、そのすべてを見ておられるからだ。不法を行う者どもの身を隠せるような、闇もなく暗黒もない」。神の御業で行われたすべてが、神によって否定されるのです。神による自己否定です。そのようなことがあり得ないならば、ここにエリフの言葉の自己矛盾があります。一方では善なる人が栄え、他方ではその同じ人が罪びととなる。善なる人の中にも罪が隠れている、ヨブよ、それを神に問え。そしてそれを知って、その罪を贖え(34:31~32参照)、そうすれば赦されると、エリフは言います。応報論を否定するエリフ自身が応報論に陥っています。ヨブは不条理な災厄に「我は義なり」と抵抗します。エリフは、応えて言います。「彼のことばには思慮がない」と。そして「彼は自分の罪に背きの罪を加え私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする」と。エリフもまたヨブを罪に定めています。ヨブは孤独です。                
        
令和3年12月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

     


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ヨブ記8章 30~31章

2022年06月04日 | Weblog
ヨブ記8 30章~31章
はじめに:ビルダテの登場をもってヨブと友人たちの論争は終わりました。ここで生じる素朴な疑問は、エリファズとビルダデの2人は3度登場するのにツオファルだけは2度しか登場していないのは、なぜかということです。1回足りないのです。そこで27章を2つに分けて1~6節をヨブ、7~23節をツオファルと主張する聖書学者もいます。確かにその部分は、ツオファルの考えと似ています。しかし私は聖書に忠実でありたいと思います。聖書は完璧な書だからです。しかし、では、なぜ2回なのかという疑問は残ります。おそらくツオファルにはヨブと争う意思も気力も失ったからだと考えられます。ヨブは友人たちの根拠のない告発に対して、理屈をもって応答するのではなく。神への誓いをもって「無実の立証」を行っています(31章参照)。それゆえ、ツオファルはヨブとの論争に敗北を認めたのです。不戦敗です。
30章:厳しすぎる現実: 29章でヨブは「昔日のごとくであれば良かったのに」と、かつての繁栄を語りました。この章(30章)ではそれらの日々と、今の境遇の落差を嘆いています。権威のある存在として、尊敬され、親しまれ、愛されていたのに災厄に会い、すべてを失い身は崩れ、醜い姿に変わった時、人々の反応は厳しいものだったのです。その態度を180度転換させたのです。ヨブより若い世代はそんなヨブを見てあざ笑ったのです。「彼らの父は、私(ヨブ)が軽く見て、私の群れの番犬と一緒にさえしなかったものだったのです(30:1)」とヨブは述べています。彼らは社会からはじき出され、住むところを持たず、谷の斜面や土や岩の穴に住み、藪の中でつぶやき、イラクサの下に群がっていたのです。彼らは、痴れ者の子たち、つまらぬものの子らで、国から、むちで叩きだされた敗残者であり、ヨブがかつて、面倒を見ていた者たちだったのです。「それなのに、今や私は彼らのあざけりの歌となり、その笑い種になっている(30:9)」「神が私の綱を解いて、私を卑しめられたので、彼らも私の前で手綱(慎み)を捨てた(30:11)」のです。これが、かつての権力者、富んだ者が落ちぶれたときに示す、世の人の自然の姿なのです。おそらく彼らも「災厄は神罰なり」と思っていたのでしょう。これは人の罪です。ヨブは何の罪もないのに罪びととされたのです。「彼らはわたしを忌み嫌い、私から遠ざかって、私の顔に情け容赦もなく、唾を吐きかける(30:10)」。正しきものが苦難を受ける。これはイエス・キリストの姿と重なります。「彼らは私の右に立ち私に向かって滅びの道を推し進め、今やそれを押しとどめる者はいない」それゆえに、「恐怖が私に降りかかり私の威厳をあの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った(30:15)」「私があなたに向かって呼ばわってもあなたはお答えになられない。私が立っていてもあなたは顧みられない(30:20)」とヨブは、不条理な災厄を恨みます。ヨブは四面楚歌の中、孤独地獄に苦しめられています。
ヨブは肉と心の痛みに苦しみます。一つは、肉体の崩れであり、二つ目は不条理な災厄に対する神の沈黙です。この二つはヨブにとっては痛みとして現れます。ここでは主に肉体の痛みに関して述べられています(30:16~31)。「心を自分に注ぐ(30:16)」とは肉体の痛みを指します。ここではヨブが肉体の病によって苦しむ姿が描かれています。その苦しみは激しく、永遠に続くかのようです。ヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならぬのか」と神に問います。「災厄は神罰なり」という応報論には納得できないからです。しかし、神は応答しません。沈黙を続けます。これはヨブにとっての試練なのです。忍耐を持って対処しなければならないのです。神は、この時、ヨブにとっては、残酷な存在以外の何物でもなかったのです。ヨブを攻め立てます。神の意図を推測してヨブは言います。「私は知っています。あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家(黄泉の国)に帰らせることを(30:23)」と。しかし神はサタンに命じています。「傷つけても、死に至らすな」と、ヨブと死とは無縁なのです。このような死を直前とした限界状況の中で、ヨブは、神に問います「自分は善を行ったのに、なぜ悪が訪れたのか、光を待ち望んだのに、なぜ暗闇が来たのか(30:26)」と。「律法の行いから、神への信仰へと」、という真摯な気持ちを持ちながらも、ヨブはその苦しみゆえにそれに徹することが出来なかったのです。ヨブは、神の沈黙と、友人たちのあざけりに対して怒り、腹わたは煮えくり返り、悩みは募り、嘆き悲しんで、野に生息するジャッカルや駝鳥のようになり、自由を求めて歩き回り、集いの中に立って叫び求めたのです。ヨブは神の支配からのがれようとしたのです。しかし、その望みはかなうわけがなく、当然の報いとして、「私(ヨブ)の皮膚は黒ずんで剥げ落ち、骨は熱で焼けている(30-30)」そして「私の立琴は喪のためになり、私の笛は泣き悲しむ声となった(30-31)」のです、
 このように、ヨブにとっての不条理な災厄はやむことなく続きます。
 31章では、ヨブはその受けた災厄に対し、その不当性を語り、身の潔白を証ししていきます。この章(31章)でヨブのことばは終わります。後にエリフが登場し、その神学を語ります(32-37章)。
 31章:無実の実証(1~40):31章は「潔白の誓い」というヘブライの慣習法に従ってヨブが自分の無実を主張する章です。「潔白の誓い」とは、被告人が証人を得るのが困難な場合に適用されるものであり、証人がいないがゆえに、必ず真実でなければならないのです。後にそれが虚言と判断された時、厳しい罰を受けてもよいという約束のもとに成り立っています。
 今、ヨブにとって必要なことは「災厄は神罰なり」という友人たちの主張を覆して自分の無実を実証すことにあります。この章においてヨブは具体的に自分の潔癖さを証し、していきます。

1、 若い女(1-4):私は自分の目と契約を結んだ。「誰でも情欲をもって女を見る者は、心の中で姦淫を犯しているのです(マタイ5:28)」。ヨブは、この罪から離れていた。
2、 偽り(5-8):正しいはかりで私を測ればよい。そうすれば、私の潔白が証明される。
3、 姦淫(9-12):私の心が女に惑わされたら、私の妻を粉ひきにしてもよい、他人が彼女と寝てもよい。ありえない現実を言う。
4、 不公正(13-15):私がしもべや、はしためと争ったときは、私は権力を使わず、公正に調査しその意見をないがしろにしない。神の前ではすべての人は平等だから。
5、 無慈悲(16-23):私は世の社会的弱者(みなしご、やもめ、貧民など)に対して慈悲の心を忘れたことはない。
6、 富への愛(24-25):私には富に対する欲はない。金銭からも、物からも自由である。
7、 偶像崇拝(26-28):照り輝く日や月の光を見ても、唯一神を忘れて拝んだことはない。
8、 復讐(29-30):私は、自分を憎む者に下される災いを喜んだこともなければ、その命を求めたこともない。
9、 差別(31-32):私は異国の人を差別し、天幕の戸口を閉めることなく開放している。
10、 罪の隠蔽(33):私はアダムのように罪を犯し、それを隠蔽したことはない。
11、 人への恐れ(34):私はピラトのように群衆の怒りを恐れ、自分の意志曲げてイエスに死刑判決を下したような罪は犯してはいない。
12、 神に対する罪(35-40):私に対する告訴状があれば、それを身に着け、全能者に近づきたい。罪咎があるなら、その裁きを受けたい。しかし私の良心は潔白である。着服の罪もない。
 これでヨブのことばは終わった。
3人の友人は口を閉ざします。ヨブに抗弁できなかったのです。
 「主はサタンに仰せられた。『お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないのだが』(ヨブ記1:8)」と。このようにヨブは最初から救われており、目に見える形をとって「無実の立証」を行ったのです。
令和3年12月7日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
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ヨブ記7 25~29章

2022年06月03日 | Weblog
ヨブ記7 25章~29章
はじめに:これから25章以下を読んでいきます。25章はシュア人ビルダデの3度目の登場です。わずか6節の短い文章です。この章でヨブと3人の会話は終わります。両者の間にあったのは平行線です。ヨブは「我は義なり」と主張し、3人の友人たちは「災厄は神罰なり」とその応報論を変えようとはしません。ヨブはもはや友人たちの神学を自分に対するあざけりと見做し、これを否定します。その目は神に向かいます。しかし神は沈黙を貫きます。この後、ヨブの長い独白(27~31章)が続きます。ヨブは神への誓いをもって、友人たちに「我が身の潔白」を主張します。「我に罪あればそれを知らせよ」と神に訴えます。3人の友人たちは、ヨブの罪を数え上げました。しかしそれはヨブにとっては身に覚えのないものだったのです。ヨブの独白の後、若きエリフが登場します。彼は3人の友人たちとは別の角度からヨブを責めます。最後に神が登場してめでたしめでたしです。
沈黙は空白ではありません。沈黙によって神はその痛みを分け合う(義人に災厄を与えたことを指す)気持ちや、愛を込めることが出来るのです。そして、それは相手に伝わるものなのです。黙っていても、相手に伝える感情を大切にすることが、相手の気持ちを尊重することになるのです。それが証拠にヨブは言います。「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10B)」と。そして、その唇をもって罪を犯さなかったのです。ヨブは神の沈黙の中にその意思を読み取っていたのです。神が、痛みを分け合うには、痛む心の近くにいることが必要です。神は、永遠に、痛みを分け合った者(ヨブ)に寄り添い、慰め、励まし、その苦しみを共にし、見守っておられるのです。神はわれと共にあり。

25章:シュアハ人ビルダデの登場
 「聖書」における「ヨブ記」の存在価値とは何か。そのことを25章のビルダデのことばと、26章のヨブのことばを通して探ってみたいと思います。結論を先に言えば、ヨブ記の存在価値は「キリストの出現」を予定していることの中にあります。
25章はわずか6節からなる短い文章です。
その主張は、神と人との2元論です。その間の断絶を語ります。「主権と恐れは神のもの、神はその高き所で平和を作る。その軍勢の数ほどのものが、ほかにあろうか、その光に照らされない者が、ほかにあろうか(25:2~3)」。
人はどうして神の前に正しくあり得ようか。女から生まれたものが、どうして清くあり得ようか。ああ、神の目には、月さえも輝きがなく、星も清くない。まして人間は蛆虫で、人の子は虫けらだ(25:4~6)」。前半は神について、後半は人について語っています。
この考えの基本は、グノーシス主義です。人間やその他の物質は、基本的には、悪であり、汚れているのです。人は蛆虫であり、虫けらなのです。神は光であるから、そのような世界には介入しないのです。それゆえ光であるイエスは、肉体(汚れ)を宿しているのではなく、実態を持たない仮像に過ぎないのです。神であるキリストは人であってはならないのです。三位一体の神(父と子と聖霊)は否定されます。
主キリストがお生まれになった時、「インマニュエル」と呼ばれました。「神は、我らと共にあり」という意味です。主はわれらと離れた存在ではなく、常に共にいる存在です。ビルダデの言うように主は単に人に対して超越的な存在ではなく、慈愛に満ち満ちておられます。人は、罪びとであっても、決して蛆虫でもなければ、虫けらでもないのです。ビルダデのように、ヨブの受けた災厄を神罰とみなすのは、神の御業を否定することになるのです。主の本質は、愛だからです。主は良いお方です。
26章:ヨブはビルダデに言います。「あなたは無力の者をどのようにして助けたか、力のない腕をどのように救ったか、知恵の無い者をどのようにいさめ、豊かな優れた知性を示したのか。あなたは誰に対してことばを告げているのか、だれの息があなたから出たのか(26:3~4)」と。無力な者、力のない腕、知恵の無い者とは、ヨブ自身を指しています。ヨブ自身が彼らのことばを代弁しているのです。その私(ヨブ)に対してあなたがたはどのような豊かな、優れた知性を示されましたか、と皮肉を込めてヨブは苦言を呈します。そしてあなたのことば(知恵)は神から出たものでなく、あなた自身の知恵(独りよがり)ではないかとあざ笑っているのです。その証拠にあなたがたの知恵など何一つ私には役には立っていないと、ヨブはその知恵の浅薄さを処断しているのです。神の叡智に較べれば、あなたの知恵など取るに足りないほど小さなものだと語っているのです。
この後、ヨブは、人の知恵に較べて極めて大きな創造主の御業と摂理について語っていきます。創造主の御業を見て探求するとき創造主の無限の叡智、豊かさ、深さを知ることが出来ます。創造主は、宇宙を創造し、その一環として地球を創造されました。
3000年以上も前に、ガリレオもニュートンも存在していなかった昔に、ヨブが宇宙の摂理を知っていたことは驚くべきことです。地球は宇宙空間に浮いており(26:7)、地軸は傾いており、さらに球体であること(26:10)を知る叡智を、また、神に敵対する「海」「ラハブ(海獣)」「逃げる蛇」を神は収めていることを知る智慧をヨブは持っていたのです。
しかし、これだけでも神の万能性を知るに十分なのに、これは神の外側の理解に過ぎないのです。外側があるということは内側があるということです。それこそ、愛であり親しみです。人はこんな神を敬慕し、信仰します。これはイエスキリストの出現によって完成します。イエス・キリストはヨブの時代には存在していません。しかし、メシアとしては存在しています。「アバ父よ」と親しまれ愛されている存在です。
先にも述べましたが、聖書における「ヨブ記の存在意義」とはキリストの存在を予定していたことです。
27章:ヨブは確固とした信念をもって「我は義なり」と叫びます。それは神も認めていたことなのです。だからヨブの受けた災厄は、彼にとっては、不条理なものだったのです。だから、彼はなぜ、なぜと問い続けたのです。それにもかかわらず神に対する信仰をヨブは捨てませんでした。ヨブの主張から学ぶべきことは「ゆるぎなさ」です。
1、良心による誓い(27:1~7):ヨブはまた自分の格言を取り上げて言った。
ヨブの格言的主張:へブル詩特有の美しい修辞法である「パラレリズム」を通してヨブの主張を見ていきたいと思います。ちなみに、パラレリズムには3つのパターンがあります。
① 同義的パラレリズム:ある文節と同じ意味する内容を、別の語彙を使って言い表します。
② 反意的パラレリズム:ある文節とは反対の意味の内容を次節で言い表します。
③ 総合的パラレリズム:ある文節を次節ではそれを補足する形で言いあらわします。
27章2~7節の個所では「同義的パラレリズム」と「総合的パラレリズム」が使われています。以下にその例文を挙げます。
1,同義的パラレリズム
2節;私の権利を取り去った神
   私のたましいを苦しめた全能者を指して誓う
   神=全能者
 「私の権利を取り去った」、とは、自分の潔白さを訴える権利が神から与えられていたとしても、それに対する神の沈黙は、その権利が取り去られたのと同じことで、それがヨブの魂を苦しめているのです。
3節:私の息が私のうちにあり
   神の霊が私の鼻にある限り
   息=霊
4節:私の唇は不正を言わず
私の舌は決して欺きを告げない
唇=舌
不正=欺き
 7節:私の敵は不正をするようなものになれ
    私に立ち向かうものは、よこしまな者のようになれ
    私の敵=私に立ち向かう者
    不正=よこしま
 2、総合的パラレリズム
    5節:あなたがたを義と認めることは、私には絶対に出来ない
       私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。
  友人を義と認めることは自分の罪を認めることになる。
    6節:私は自分の義を堅く保って、手放さない
       私の良心は生涯私を責めはしない
反意的パラレリズムの例文は27章には出て来ません。
「私は、神に誓って言う。私は息絶えるまで、自分の潔白を主張する。それゆえ、私を罪に定めようとする、あなたがた3人の義を認めることは決して出来ない」、あなたたちこそ私には敵であり、よこしまな者たちである」。  3人の友は、今や、ヨブの敵にまでなり下がったのです。
格言:深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めのことば、金言、箴言を云う。ヨブが神への誓いをもって語ったのでこの言葉が使われた。
2,聞かれない叫び(27:8~12):そんな人を神は顧みられない。彼らが苦しんでも、彼らの声を神は聞かれない。「私は、神のみ手にあるものを、すべてあなたがたに教えた。それにもかかわらず、なぜあなたがたはそれを悟らず、空しいことを言うのか」と、ヨブに対する無理解を暴き立てます。
3、相続財産(27:13~23):悪人は罰せられ裁かれても、子孫ややもめにまでは害は及ばない。富者の蓄えた財は、正しい罪のない者が引き継ぎ、富者が自ら建てた家に寝ても、目を覚ませば、その家は取り払われている。恐怖が彼らを襲い、御手からのがれようとするが、東風(神)が彼を吹き払う。人々は彼に向かって手をたたき、彼をあざけって、そのいるところから追い払う。その限りにおいて因果応報論は正しい。悪人は滅ぼされる。しかし私は違う。私は悪人ではない。「我は義なり」。
28章:次にヨブは「知恵」と「悟り」について語ります。
「知恵はどこから見出されるか、悟りのあるところはどこか(28:12)」。
これがこの章の中心課題です。
ヨブによる神の「知恵」と「悟り」を得ることの学びが、鉱石(金、銀、銅、鉄、しまめのう、サファイヤ、水晶、トパーズ等)を得るために地中深く穴を掘っていくことに例えられています。単に掘り出すだけでなく、掘り出されたものを純化するために製錬することも言及されています。その価値の高さと、それを得ることの難しさも併せて述べられています。
人はこの世では貴重な宝(知恵と悟り)を、見出すことが出来ないからです。いかなる宝石も尊すぎてそれと比較することが出来ないのです。
「では知恵はどこから来るのか、悟りのあるところはどこか(28:20)」。それは地上のすべての生き物には隠されていて、うわさに聞いているのみなのす。そして神のみがそれをわきまえておられ、そのある所を知っておられるのです。その時、神は知恵を見て、これを見積り、これを定めて、調べ上げられた。こうして、神は人に仰せられた。「見よ、主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである(28:28)」と。「主を恐れることは「主を信じる」ことと同義であり、これが「知恵」だと神が語っています。また「悪から離れる」ためには、神にとって何が良いことであり、何が悪いことかを識別できる能力がなければなりません。これが「悟り」だと神は語っているのです。神こそ「知恵」と「悟り」の源泉なのです。
29章:ヨブはまた自分の格言を取り上げて言います。「ああ、できれば昔日のごとくであればよいのに」と。昔日とは災厄以前の神に守られていた日々を指しています。この時、ヨブは一つの共同体の長(首長)であり、政治、経済、福祉、風俗などのすべての分野を統治していました。その統治は知恵と悟りに導かれており、神の前で何一つ恥ずかしくないものだったのです。ヨブは全能者と共にあり、悪者に対しては威厳をもって、これを厳しくさばき、さらに、貧しき者、みなし児、やもめ、障碍者などには手を差し伸べてこれを助けるなど、弱き者の父となり、民に対するより良き統治と福祉に努めていたのです。それゆえ、その信用は厚く、慕われ、その言葉に逆らうものはなく、逆にその言葉は日照りの時の雨のように待ち望まれていました。当然、この共同体が子々孫々までに伝えられ、その栄光が、日々新しくなることをヨブは期待していたのです。このとき、ヨブに災厄が訪れ、この素晴らしい共同体が破壊されると、だれが想定できたでしょうか。
ヨブは言います。「私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆くものを慰める者のようであった(29:25)」と。
ヨブは偉大な権威者であり、さらに穏やかで優しい、嘆くものを慰める存在でした。やさしさに満ち「アバ父よ」と呼ばれるに値する人であり、これがヨブの自負心だったのです。その彼に不条理な災厄が訪れたのです。
>令和3年11月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会



























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