日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

146回芥川賞受賞作品 田中慎弥作 『共食い』 惰性からの解放

2012年04月29日 | Weblog
★第146回(平成23年度下半期)芥川賞受賞作品は田中慎弥作「共食い」と円城塔作「道化師の蝶」の2作品に決定した。最初に田中慎弥作「共食い」について述べ、次に円城塔の「道化師の蝶」について解説する。

146回芥川賞受賞作品・田中慎弥作「共食い」 惰性よりの解放
テーマ セックスと暴力
共食い 同類の動物などが、互いに食い合い、または害し合うこと
生活環境 下関。プアー・ピープルの住む停滞した街「川辺」。
登場人物
 篠崎遠馬=17歳、高校生  
 会田千種=18歳。女子高生
        2人は セックスフレンド(恋人)
 篠崎円(まどか)=篠崎遠馬の父親。セックス時に女性に暴力を振るわないと性的興奮を得ることのできない奇癖を持つ男。解体業か、回収業か、トラック一台で商売する得体のしれない男。
 篠崎仁子=円の妻、遠馬の実母。戦災で腕を失い、鉄製の義手をしている。夫の暴力に耐えかね別居し、魚屋を経営している。
 琴子=仁子が出た後、後釜に入った飲み屋に勤める女。男の暴力に喜びを感じる、マゾ的性格を持つ女。
 アパートの近辺で客待ちをする娼婦=多くの男と関係を持つ。円も。遠馬も、その一人に過ぎない。
 子供たち=遠馬に祭りの踊りの手ほどきを受ける仲良し。

  梗概
 時代は昭和63年、昭和最後の年である。この年の1月7日に124代昭和天皇が崩御された。年号は昭和から平成に変わる。
 下関の地方都市「川辺」という河口にある町が、この物語の舞台である。「川辺」は海岸や駅の近くにある地域と違って、戦後の開発から取り残され、暫時、貧乏を凌ぐために集まった人々がそのまま居ついてしまったプアー・ピープルによって構成される、陰気で、暗く、生気の無い、停滞した街である。下水道の施設すら完備しておらず、家庭から出る生活排水がそのまま川に流れ込み、その他の粗大ゴミ等と混じり合って、川を汚し、異臭を放っている。この汚れた川のほとりに遠馬の父・円の妻仁子が魚屋を営んでいる。しかしこの川で獲れた魚を売っているわけではない。食用に耐えないからである。釣り人たちも釣りは楽しむものの、釣れた魚を食用にはしない。しかし円はそんな事には気にもせず、旨い、旨いと云って、釣れた鰻を食べ、頭の骨までしゃぶりつくす。
 この年の7月に誕生日を迎えた篠崎遠馬(17歳)がこの作品の主人公である。遠馬の実母、仁子は父・円の暴力に耐えかね家を出る。その仁子が出た後、後釜に琴子が入り、父・円、遠馬の3人暮らしとなる。彼は1歳年上の会田千種というセックスフレンドを持ち、その旺盛な性欲を満たしていた。セックスに習熟していない千種は「痛いだけ」とあまり関係を好まない。あるとき千種と関係を持った遠馬は、いつか彼女の首を絞めていることに気づき愕然とする。自分が父の血をひいていると気づくのである。父・円はセックス時に相手に暴力を振るわないと性的興奮を感じないという奇癖の持ち主である。それ故遠馬の実母の仁子も、後釜に入った琴子も体中痣だらけである。その後、遠馬は千種に関係を迫るが、その暴力に脅威を感じた千種は、これを拒否する。遠馬と千種の関係のない関係が暫時続き、その間、遠馬は風呂場で自慰行為を行うことによって、その旺盛な性欲をみたしていた。その精液は川に流れ込み汚れた川を更に汚していた。遠馬は千種だけでなく琴子にも性的魅力を感じており性的接触を望んでおり、自慰行為の時、千種だけでなく、琴子の顔も心の中に描いていた。しかし、一端、セックスを経験した人間にとって自慰行為では満足する筈もなく、その上、父親と琴子のセックスと暴力の場面を目撃した彼はその性欲をいやがうえにも募らせる。さらに、千種に拒否された寂しさもあって、そのやり場のない性欲を、アパートの前にたたずみ、客待ちをする娼婦と関係を持つ。暴力もふるう。目をつぶり千種を思い浮かべながら、セックスに及ぶ。娼婦は千種の代用品に過ぎなかった。終わった後、虚無感が全身を覆っていた。この女は父親とも関係があって、「あなたは父親と違ってその暴力は大人しわね」と笑う。父・円はこの娼婦との関係においても暴力をふるっていたのである。二人の関係を知った父・円は「おれのことは気にするな、やりたいだけやれ」と唆す。
 性欲は愛なのか?暴力は愛なのか?性欲をみたすためには女なら誰でもよいのか?僕がまだ若かった頃、童貞を失う最も多い年代は18歳だといわれていた。しかも相手はほとんどが商売女だった。そこには愛はない。欲望の充足があるのみである。勿論軟派学生もいて、女子部の学生に手を出していたものもいたが、今ほどの自由はなかった。一番性欲が強く、しかし制約も強い世代が高校生であった。今は知らない。
 子供たちがいる。性には関心があるが、まだその能力はない。その子供たちに、かつて、遠馬と千種は、社の境内でのセックス場面を目撃されている。彼らは盛んに囃し立てる。遠馬は子供たちの踊りの先生でもある。祭りには貴重な存在である。だから仲は良い。そんな子供たちが、遠馬を迎えに来る。社の境内に千種が待っていた。遠馬を拒否したものの、彼女の心には遠馬がいた。しかし、遠馬は怒りをぶつける。彼女がいないことで、どんなに性的に不自由をしたことか。「あさってここで待っている」という彼女の言葉を後ろにして遠馬は去っていく。「あさって」は祭りの日である。その「あさって」に事件が起こる。その日、激しく雨が降っていた。
 父・円は、琴子と居酒屋の客との間を疑っている。居酒屋の周辺をかぎまわってもいる。琴子は笑って相手にしない。琴子は妊娠する。父・円は琴子の腹を触って「おれの子ができた」と言って、喜ぶ、しかし遠馬は子供が産まれたら自分は、この家を出なければなるまい、と思う。陰気なこの町からも出たいと思う。琴子は父・円と別れたいと云う。子供が生まれるのになぜ?と、遠馬は思う。しかし琴子の決心は固い。自分がいなくなるまで絶対にこのことは父・円には言うなと、遠馬に口止めをする、父・円の暴力を恐れているのである。そして雨の激しく降る祭りの日に琴子はいなくなる。父・円は半狂乱になる。「わしの子、持ち逃げしやがってから。」と、下駄を履き、激しく降る雨の中を駈け出していく。遠馬は、ただ茫然と立ちすくんでいる。例の子供たちが駆け込んでくる。遠馬を待っていた千種が、父・円に犯されたという。千種は社の中に連れ込まれて、中から鍵をかけてしまったので、子供たちは何もできなかったという。駆けつけた遠馬は父・円に会う。「遠馬あ、遠馬あ、」「琴子がおらんそじゃあ、どこを探しても。」「千種は?千種はどうしたんか。社で何をしよったんか。」「ほじゃけえちゃ、琴子探してあっちィこっちいィ行ってみよったら、社の鳥居のところに子供らあが溜まちょってから、馬あ君まだか、千種ちゃん待っちょるのに、云うもんじゃけぇ上まで行ってみたら、あの子がおったけえちゃ、ほんとうは琴子がよかったんじゃけど遠馬、ほじゃけど、お前も分かろうが、ああ?我慢出来んときは、誰でもよかろうが。割れ目じゃったらなんでもよかろうが。お前、あの子、まだ殴っちょらんそか。」父・円の言葉を後ろに、遠馬は駈け出す。社の扉は開けられ、内に千種がうずくまっていた。髪は逆立ち、口の端が裂け、鼻血を垂らし、頬には爪の跡がついていた。そこには父・円による強姦の跡が歴然としていた。遠馬は云う「おまえ、雨、降りよるのに、なんで来たんか。こんなんで、祭りあるわけないやろうが」「うち、まっちょるって言うたやろ。子どもたち、止めてくれようとしたんやけど。こん中入れられて、内側の鍵、かけられて、駄目やった。すぐ、終わったけど。」遠馬は自分が来ていさえすれば何事もなかったのにと激しく自分を責める。「俺は親父を殺す」と、遠馬は腰の抜けた千種を支え起こす。冷たい手をお互い、しっかりと握りあう。そこにはセックスだけでない愛情があった。二人は仁子の家に着く。仁子は怒り、義手を右手に、包丁を左手に持ち、激しく降る雨の中を駈け出して行く。遠馬は後を追おうとするが千種は引き留める。「止めんって、いうたやろ。殺してくれるんならだれでもええんやけえ。」
 千種が戻ってこないと云って千種の両親が警察に捜索願を出し、警察が探していたところ、川で男の死体を発見する。父・円の死体には、仁子の鉄製の義手が深々と突き刺さっていた。社の石段の一番上のところに腰をかけて煙草を吸っていたところを発見され仁子は逮捕された。遠馬は自分さえここに来ていれば千種は犯されず、父・円は殺されず、実母の仁子は殺人者にならなくて済んだのにと、激しく後悔する。
 父・円は殺害され、その妻仁子は逮捕され、琴子は行き先知らず、アパートの角にたたずむ娼婦の髪の毛は真っ白に変わっていたが、相変わらず、声をかける男を待っていた。千種は親の勧める転校を拒否した。頬にはまだ爪痕が痛々しく残っていた。遠馬は千種との、セックスに際しての暴力を慎むことを宣言し、二人の仲は元に戻った。
 仁子への面会はなかなか認められなかったが、起訴された日に、やっと認められた。魚屋は主がいなくなったので閉店しようと仁子は言ったが、遠馬は「俺が継いじゃる。」と言いたかった。父・円は殺され、犯人のその妻仁子は刑務所暮らし、琴子は行方不明、一人ぽっちになった遠馬は養護施設から高校へ通うことになった。面会が終わり、「差し入れ出来るみたいやけど、欲しいもんない?」「なあんもない。」生理用品は拘置所が出してくれるだろうと遠馬は思った。ここでこの作品は終わる。
 作者田中慎弥は、この陰鬱で、生気の無い、停滞した社会を、この作品に登場する人々の心情風景として描いていく。彼らはこの陰鬱な風景の一部として同化している。風景そのものである。この地「川辺」という街に住む貧しき人々は、限られ、切り取られた社会の中に安住している。そこから出ようとはしない。それが彼らにとって最も安全かつ安易で安心できる空間だからである。耐えきれないほどの状況に迫られなければ決して動こうとはしない。これが、この地に住む人々の実態である。その生活は惰性が支配し、単調な繰り返しとしての循環があるだけである。そこには出口はない。
 この作品の筋には直接には関係しないが、重要な意味を持ちものに、動物たちがいる。鷺、蝸牛、赤い犬、虎猫、蝉、鰻この動物たちの生活にも変化はない。陰鬱、停滞、無気力、惰性の象徴として現れる。
 こんな陰気で停滞した世界から、遠馬も、仁子も、琴子も抜け出したいと思う。彼らは出口を求めていた。女たちは男の暴力に対して抵抗する。仁子は夫から離れて別居する。琴子は、円の子を妊娠する。遠馬は琴子に子ができたら一緒には住めないと思う。家を離れ、さらにこの町からも出たいと思う。琴子は身ごもりながらも、円から離れて、自立を考え、去っていく。仁子は夫・円が千種を強姦したと聞き、怒りを爆発させ、彼を殺害する。これまでの惰性としての生活から、それぞれがそれぞれの立場から出口を求め、新しい状況を作り出そうとする。そして実行する。そこには自己の解放があり、自己の再生がある。
 この作品では、それが「共食い」という形で表現される。仲間を傷つけ、害することによってしか自己の解放、再生はない。
 最後に一言書きたい。そのセックス描写はエロ本のごとく、微にいり、細にいっている。うんざりさせられる。それが文学だと云うのであろうか?「秘すれば華」。セックスとは、あくまでも秘め事である。

       次回は円城塔の「道化師の蝶」について述べることにする。

     田中慎弥作「共食い」月刊「文藝春秋」3月特別号より
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谷崎潤一郎作『細雪』変わるものと変わらぬもの

2012年04月11日 | Weblog
  細雪 谷崎潤一郎作
 時は第2次世界大戦(1937~1941年)前夜、欧州においてはヒットラーがケレンスキー内閣を倒し、政権を握り、着々と戦争の準備を進めていた。ロシアでは革命後内戦がおこり、赤軍と白軍との戦いが、赤軍の勝利に終わり、多くの白系のロシア人が、各国に亡命した。妙子の人形作りの弟子になったカテリーナ・キリレンコとその家族は、この白系の亡命ロシア人の一人である。彼女は、離婚した元夫のイギリス人のもとに引き取られた娘を奪い返すために訪英する。日本も長引く日中戦争の中、市民の生活は窮屈になっていく。そんな中、隣家に住むドイツ人シュルツ一家は、その影響を受け、商売がうまくいかなくなり、ドイツへと戻っていく。このように「細雪」の世界(昭和10年代)は、時代の大きな波に洗われていた。
この作品は、大阪船場に古い暖簾を誇っていた蒔岡家の4人姉妹、長女の鶴子、次女の幸子、三女の雪子、そして、こいさんの妙子の繰り広げる人間模様を描いている。時は昭和の10年代。この作品は、関西の上流社会の 、四季折々の風景、生活を中心に描かれる絵巻物である。
長女の鶴子と、次女の幸子は既婚者で、本家と分家に別れて生活している。雪子と妙子は独身である。本来なら本家に住む筈の雪子も妙子も義兄を嫌って、分家の幸子夫婦のもとで暮らしている。本家と分家はそのことでしばしば諍いを起こしている。雪子は仕方なしに、本家に戻ることはあっても、じきに分家の方に戻ってくる。分家には悦っちゃんという可愛い、幸子の一人娘がいて雪子とは「相思相愛」の中である。悦ちゃんは母親より雪子になついている。妙子は決して戻ろうとはしない。夙川に人形作りの仕事場を借り、そこで仕事に精出している。
雪子は純日本風の美人で、和風姿が似合い、立ち居振る舞いも優雅である。30路には入ってもいまだに独身で姉たちをイライラさせている。全てに渡って消極的で、縁談の話も、姉たちにまかせっきりである。
それに反して、妙子は、雪子とは対照的で、恋愛においても自由奔放にふるまう。貴金属商を父に持つボンボン奥原啓三郎と付き合いながらも身分的には格下のカメラマンの板倉や、バーテンダーの三好とも付き合っている。奥原の敬坊は、お金持なので利用されているにすぎない。妙子は、そんなちゃっかりした面を持つ近代女性である。蒔岡家という、由緒正しい家柄を誇る蒔岡家の鶴子も、幸子も、そして雪子までも、そんな妙子を苦々しく思いながらも、彼女に振り回されている。妙子は自活を図り人形作りや、洋裁で身を立て、挫折はしたものの、留学まで考えていた。自活するために職業婦人になって生きようとする妙子に、鶴子と幸子は悩まされる。職業婦人など由緒ある蒔岡家にとっては、もってのほかである。女性はしかるべき家柄の夫人になり、貞淑な妻として生活することが、当時の上流階級の風習であった。そんな姉たちの気持ちなど妙子は全く意に介そうとはしない。
「不易」と「流行」、変わるものと、変わらないもの、古い伝統と、それを否定する近代、日本と西欧、これら相反するものが、雪子と妙子の中にそれぞれ存在する。古い日本を代表する雪子と、新しい日本を代表する妙子と、その中に葛藤が見られる。谷崎潤一郎は文明批評を試みているのです。
新潮文庫の「細雪」は上・中・下の三巻に別れている。上巻では、ほとんどが雪子中心に描かれ,中巻では妙子が中心で,下巻では蒔岡家という家族が中心です。
この作品は、月刊誌「中央公論」に1942年から掲載し始めたが、1943年、時の軍部から「内容が戦時にそぐわない軟弱なもの」として掲載を差し止められる。しかし、戦後1948(昭和23)年に京都鴨川べりに住まいを移し谷崎潤一郎は、この作品を完成させている。
このように「細雪」は戦時に執筆をはじめ、出版差し止めというなか、戦後に何とか完成させたのではあるが、戦時の制約の中、自由に書きすすめるわけにいかず不自由な思いをしたと谷崎潤一郎自身は語っている。「例えば関西の上流、中流の人々の生活の実相をそのまま写そうと思えば、時として「不倫」や「不道徳」な面にも亙らぬわけに行かなかったのであるが、それを最初の構想のままにすすめることはさすがに憚られたのであった。----------------、今云うように頽廃的な面が十分にかけず、綺麗ごとで済まさねばならぬようなところがあったにしても、それは戦争と平和の間に生まれたこの小説の避けがたい運命であったともいえよう」と述べている。
しかし戦後制約のとれた中でも改定されることなくそのまま出版されている。
軍部の評価がいかなるものであろうと谷崎潤一郎の作品は戦後、評価され、毎日文化賞、朝日文化賞など数々の賞を受賞し、その中でも「細雪」は、近代日本文学の代表作と見なされている。

「細雪」は、大阪船場で古い暖簾を誇る、上流階級・蒔岡家の四人姉妹、「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の繰り広げる物語です。鶴子と幸子は既婚者で「本家」と「分家」に分かれています。三女の雪子と四女の妙子は独身です。本来なら本家に住む筈の雪子も妙子も本家を嫌って、分家の幸子夫妻のもとで暮らしています。本家と分家はそのことでしばしば諍いを起こしています。雪子は仕方なしに本家に戻ることもありますが、すぐに分家の方に戻ってきます。しかし義兄を嫌う妙子は決して戻ろうとはしません。
雪子は純日本風の美人で、和服が似合い、立ち居振る舞いも優雅です。30路に入っても、嫁げず、いまだ独身です。全てに渡って消極的で、縁談の話も姉たちにまかせっきりです。
これに反して四女の妙子は、雪子とは対照的に、恋愛に対しても自由奔放です。ボンボンの奥原啓3郎と付き合っていながら、身分は格下のカメラマンの板倉や、バーテンダーの三好とも付き合っています。奥原は利用されているにすぎません。そんなちゃっかりした面をもった近代女性です。由緒正しい家柄を誇る鶴子も幸子も、そして雪子も自分たちを、てこづらせ、悩ます彼女に翻弄されます。自活を目指し、人形作りや、洋裁で身を立てようと、挫折はしたものの、留学までして自活の道を探しています。職業婦人など、もってのほかと怒る本家の気持ちなど全く意に介しません。
「不易」と「流行」という言葉があります。変わらないものと、変わるもの、伝統と、それを否定する近代、日本と西欧、この相反するものが雪子と妙子の間に存在します。ここには「痴人の愛」の中で述べた古い日本と新しい日本の葛藤が見られます。谷崎潤一郎は文明批評を試みているのです。
 この物語は雪子の見合いから始まります。若いころは降るほどあった見合いの話も30路を過ぎたころから、めっきり少なくなります。顔に知性が無いとか、田舎紳士だとか、地方に住みたくないとか、縁者に精神異常者がいるとか等々、我が儘ばかり言っていた結果、あの家のお嬢さんは「ちょっと」、と敬遠されるようになり、紹介する人もいなくなってきたのです。そして折角あった話は、相手から断ってきたのです。従来なら考えられないことです。待っていても降るようにあった時代ではなくなったのです。姉達、特に次女の幸子は、懸命に紹介してくれるように様々な人に声をかけます。
30を過ぎた女性の相手は限られています。30代後半か、40代からせいぜい50代までです。その年齢の男性は、もう、ほとんどが既婚者です。子供も2~3人はいます。奥さんと生き別れたとか、死に別れたとか、そんな男性しか残っていません。この年齢で、初婚の独身男性というのは、よほどの変わりものです。だから雪子の見合いの相手もほとんどが、元妻帯者だったのです。この時代(昭和10年代)上流階級では見合い結婚が一般的でした。だから4女の妙子などは例外中の例外だったのです。上流階級では恋愛結婚などは、はしたない事だったのです。
しかし、雪子は何とか結婚にこぎつけます。相手は子爵の庶子(妾の子)御牧実という45歳の男性です。若いころ放蕩の限りを尽くし、趣味に生き、財産を使い果たし、いまだに定職をもたない無頼の徒です。しかし、人柄はおおらかで、交際上手で、人を引き付けて離しません。魅力たっぷりの人物です。海外生活が長いせいか女性の扱いにも慣れています。その上初婚です。しかし、幸子の夫・貞之助は、定職のないこと、付き合うのには最良でも、雪子の夫として相応しいか、どうか危惧します。しかし、就職は、今回の結婚に尽力した知人で社長の国嶋氏が世話を見ることになり、将来的には建築の知識を生かし設計事務所を開くといいます。この時雪子は35歳、贅沢を言っているときではないのです。結婚は決まります。まずはめでたしめでたしです。
 しかし、このようなめでたい話の反面、暗い話もありました。妙子とバーテンダーの三好との間に出来た子は死産だったのです。二人も結婚を決め田舎に戻っていきます。
 谷崎潤一郎は古いものと新しいものとを比較して述べていきます。そして最終的には古き良き伝統に軍杯を挙げます。
 妙子は、三好と付き合う前にも、写真家の板倉と付き合っていました。制作した人形や、展示場の写真の撮影を依頼していたのです。この板倉に妙子は、大水害、それから生じた山津波のため、洋裁学園に取り残された時に命を救われたのです。それ以来2人の仲は急接近します。婚約者を気取る奥畑のボンボン、本家の鶴子。分家の幸子はイライラします。身分的には格下の人間との結婚など、由緒正しい家柄を誇る蒔岡家としては、決して許されないからです。しかし、板倉は死にます。その不幸を悲しみながらも、鶴子も幸子も、反面ホッとします。しかし、その後妙子はバーテンダーの三好と付き合いを始めます。これも家柄的には格下の人間です。こんな妙子に鶴子も、幸子も振り回されます。しかも婚外妊娠までしたのです。堕ろすことを妙子は拒否します。世間を憚り、幸子夫婦は、秘密裏に田舎の病院に入院させます。この期に及んで幸子の夫・貞乃助は、妙子のような性格の女性は旧弊な、伝統を重んじる旧来の形式を取るのではなく、もっと自由な結婚をさせるのが、本人にとっても、周りの人間にとっても幸せになる道であると判断し、本人の希望通り結婚を認めます。しかし、死産だったのです。
 雪子と妙子、そこにはあまりにも対照的な人生がありました。
 谷崎潤一郎は関西を古いものの代表に、そして東京を新しきものの代表に選びます。そして、関西を肯定的に。東京を否定的に描きます。宮城以外に東京には良いところなしと極論します。そして、関西の情景、人情、などを、しっとりと、叙情豊かに描いていきます。
   
 谷崎潤一郎作『細雪』上・中・下 新潮文庫 新潮社刊

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