日常一般

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イザヤ書Ⅳ 9~12章

2022年06月12日 | Weblog

イザヤ書 Ⅳ 9~12章
はじめに




9章: 「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先にはセルブンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った(9:1~2)」。セブルンの地、ナフタリの地とはともに北イスラエルの地です。その地がアッシリヤによって辱めを受けたのです。アッシリヤによる侵入を指します。しかし、アッシリヤを用いたのは、主ご自身でした。セブルン、ナフタリの地は、ガリラヤの地と言い換えられています。この地は先には、辱めを受けますが、後には光栄を受けるのです。腐敗堕落したユダヤ民族は、主の裁きを受けますが、後に、主によって贖われるのです。6節から7節にかけて、その状況が預言されています。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(9:6)」のです。このみどりご(インマニュエル)、こそが、ダビデの末裔、新約聖書の神の子イエス・キリスト(メシア)なのです。イエスはガリラヤで生まれ、その活動の拠点をこの地においています。「今よりとこしえまで、万軍の主の熱心さがこれを成し遂げるのです(9:7B)」。預言的完了形で書かれています。未来において確実に起こることが語られています。
民の悔い改めを求める主の怒り
主は3つの定型句を用いて主の怒りを現しています。その定型句とは「それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている」と言うものです。9章の12,17,21節に示されています。この定型句は5章25節、10章4節にもあります。汚れた民は充分に罰せられているのに、それでも神の怒りは収まらないのです。
1,8~12節;民の虚勢に対するさばき:主がヤコブ(イスラエル)に一つの言葉を送られた。それはイスラエルに落ちた。この民エフライムとサマリヤに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思いあがった。そこで主はレツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムが、西からは、ペリシテ人が、イスラエルを頬張って食らう。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
2,13~17節:イスラエルの指導者に対するさばき:しかし、この民は、自分を打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで主は、イスラエルから、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は、迷わすものとなり、彼らに導かれるものは惑わされる。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
3,ユダを攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばき:マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らは一緒にユダを襲う。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
10章 :9章の8節~10章の4節までは、北イスラエルに対して語られた主のことばです。10章の5節からは、アッシリヤについて語られています。
「不義の掟を制定するもの、災いを引き起こす判決を書いている者たち」とは北イスラエルの指導者たちです。この指導者たちが織り成す不義とそれに対する刑罰が、この10章1~4節に描かれています。この指導者たちの行う不義とは、社会的弱者(寄る辺ない者、悩む者、やもめ、みなしご、たち)に対する抑圧です(10:1~2参照)」。主は言います。「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたはどうするのか。誰に助けを求めて逃げ、どこに栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足元に膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ(10:3~4A)」と。刑罰の日=主のさばきの日を指す。具体的にはアッシリア(あらし)の侵攻です。このとき、アッシリヤは主のさばきの道具に過ぎません。主を忘れ人に頼るイスラエルは滅びる以外にはないのです。北イスラエルは、この時アッシリヤに屈し捕囚の民となり辱めを受けるのです。それでも御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている(10:4B)。主の怒りの激しさが現わされています。
北イスラエルは滅亡し、以後アッシリヤに関して語られていきます。アッシリヤはアラム(シリア)イスラエル連合を打ち破り南王国ユダにまで迫ってきた国ですが、このアッシリヤについて3つのことが語られています。
1,アッシリヤの高ぶり(10:5~15)
2,高ぶるものへの裁き(10:16~19)
3,頼れるものは主以外になし(10:20~34)
1,アッシリヤの高ぶり:主は、様々なものを用いて、罰や恵みを与えます。今回は、アッシリヤを用いてエルサレムやサマリヤを罰しています。「ああ。アッシリヤ、あなたは怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを、神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる(10;5~6)」。このように、あくまでもアッシリヤは罪深き民を裁くための、主の道具にすぎません。しかしアッシリヤはこれを理解しません。「私は自分の手の力でやった、私の知恵でやった、私は賢いからだ(10:13A)」と。すべては自分の力で成し遂げたものであり、これに抵抗するものなしと誇り高ぶります。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることが出来ようか。のこぎりは、それを引くものに向かって、おごることが出来ようか。それは人が、それを振り上げる人を動かし、枝が木でない人を持ち上げるようなものではないか(10:15)」と、神の前では謙虚であれと警告しています。
2,高ぶるものへの裁き:「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する(10:12)。「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上って、そのおどろと、いばら(アッシリヤ)を、一日のうちになめ尽くす(10:17)」。「主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいもからだも滅び尽くす。それは病人が痩せ衰えるようになる(10:18)」。アッシリヤの衰えが語られています。 
3,ただ主のみを頼れ:「その日になると、イスラエルの残りのもの、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つものに頼らず、イスラエルの聖なる方、主にまことをもって、たよる。残りのもの、ヤコブの残りのものは、力ある神に立ち帰る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りのものだけが立ち帰る。壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:20~22)」。
 その日:アッシリヤが倒れた日であると同時に世の終わりを指す。
 残りのもの:海の砂のように、多くのものは主に従わぬ者たちであったが、その中にあってわずかではあるが主に従うものが見られた。彼らを残りの者と呼んでいる。「壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:22)」壊滅するのはアッシリヤであり、残りの者の義はあふれんばかりだったのです。主は一人でも自分に義なるものがいる場合、これを救います。だから主は言います「アッシリヤを恐れるな」と。アッシリヤが主の道具としての役割を果たして、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返った日に、道具としての立場を忘れ、高慢になったアッシリヤを主は滅ぼすのです。勿論主は自分の手は汚しません。復興した新バビロニアを使います。「その日になると、彼(アッシリヤ)の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首からのぞかれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる(10:27)」のです。その日とは、アッシリヤの滅びを指すと同時に、サタンの滅びの日でもあるのです、神の国の到来を告げています。主は自分を頼るものには恵みを与え、より高い場所へと引き上げてくださるのです。
 11章:エッサイの根 アッシリヤによってイスラエルと言う木は切り倒されます。しかし根こそぎにされたわけではありません。切り株は残されイの根たのです。ここに主の恵みを見ることが出来ます。切り株がある限り、そこから新芽が生まれ、美しい花を咲かせるからです。この花こそ、エッサイの子ダビデの子孫イエス・キリストです。「その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目と耳によってさばかず、正義と、公正をもって寄る辺なきものや、貧しきもののために判決を下す(11:2~4参照)」のです。ダビデの世継ぎの子イエスがメシア(キリスト)になるのです。ここには、神との契約があります。アブラハム契約です。この契約は片務契約であって、無条件契約です。イスラエルに大地を与え、子々孫々に渡って、その増大繁栄を約束しています。この契約がある限り、イスラエルは多くの困難を乗り越えることが出来、それゆえ、神は、彼を保護されるのです。
 そして次に、千年王国の平和と平安が預言されています(11:6~9参照)。猛獣(獅子、豹、熊、コプラ)と、犠牲獣(子羊、小山羊、雌牛、子牛、肥えた家畜)の共生が語られます。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、損なわない。幼子は何の危険も感じず大地を飛び跳ねます。以上のように、主の知識(信仰)が海を覆う水のように、行きわたると、完全な平和が訪れるのです。
 国々の旗:「その日(キリストの再臨の日)、エッサイの根(キリスト)は国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く(11:10)」。世界の人々がキリストを自分の避け所、栄光とします。
 二度目の帰還:一度目は、11:16B参照。出エジプトを指します。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(11:11~12)」のです。いわゆる捕囚からの解放です。主のさばきは、ユダヤ人を諸国に散らすことで終わりますが、主の回復は、ユダヤ人を帰還させるところから始まります。「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない(11;13)」。同じ民族、同じキリスト教徒は、和解するが、異民族、異教徒に対しては、主は、厳しく対処します。イスラエルは西のペリシテ人を襲い、東の人々をかすめ奪い、エドムとモアブにも手を出し、アモン人も従わせます。かつて、自分たちを苦しめていた異教の国々を逆に支配します。
残りの者:歴史的に見る時、破局の後に生き残って、その民族の将来を担う数少ない者と言うより、神の救いと選びに預かった数少ない信仰の人と言う意味付けが強い。終末的文脈で語られることが多い。「残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上ってきた日に(主)がイスラエルのために備えられたように(11:16)大路が備えられたことと、エジプトの川が浅くなったことは、捕囚の民の帰還を容易にし、妨げる者がいないことを現しています。
12章:主の救い: 1、賛美:「その日、あなたは言おう。『主よ、感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくだいさいました』(Ⅰ2:1)」。主の怒りは、イスラエルを滅ぼすためではありません。主はイスラエルを愛しています。そのイスラエルが自分を裏切ったのです。その悲しみからくる怒りです。その怒りは去ります。しかしその条件として「悔い改め」を要求していません。すでにキリストの十字架の死によって、贖われているからです。さらに、そこには無条件の契約があります。子々孫々の増大繁栄が約束されています(アブラハム契約)。イスラエルの民は言います。「見よ。神はわたしの救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私の褒め歌。私のために救いとなられた(12:2)」と。救いは主に対する「信頼」から生まれます。これはイザヤ書が一貫として掲げている教えです。ただ主にのみより頼むとき、すべての恐れは消え失せ、平安が与えられます。主は私のために救いとなられたのです。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水をくむ(Ⅰ2:3)」。私たちの喜びの源は、主の救いから出て来ます。私たちは罪人であるにもかかわらず、神が一方的にあわれんでくださり、キリストの贖罪によって私たちを救ってくださったのです。この事実からくる喜びです。
2:宣教:賛美の呼びかけの声から、宣教への呼びかけになります。
「その日、あなたがたは言う『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。その御業を、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主を誉め歌え。主は素晴らしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる。大いなる方。』(12:4~6)」。主は素晴らしいことをされた:我々の罪を贖ったことを指します。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる:主は、常に。われらと共にあります。
令和4年6月21日(火)報告者守武 戢 楽庵会
 

 
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