ヨブ記9 若者エリフの弁論1 32~34章
はじめに:31章でヨブと3人の友人との論争は終了しました。ヨブが神のみ前で自分の正しさを実証したからです。その結果「この3人の者は応えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。(32:1)」と作者は言います。31章で述べたように、ヨブはヘブライの慣習にそって「無実の実証」を神への誓いをもって行いました。神の前で偽りは赦されないのです。神はすべてをご存じだからです。ヨブのことばが真実である限り、3人の神学「応報論」は無力です。「我は義なり」というヨブの確信は3人のいう「災厄は神罰なり」という応報論に勝利したのです。3人は沈黙します。この舞台から撤退せざるを得なかったのです。また、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。神もまた3人の友を退け。ヨブに軍配を挙げるのです。
この3人の後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子、若者のエリフです。彼はヨブたちの論争に参加すべく、その議論を注意深く傾聴していました。おそらく、3人の友人の撤退はエリフにとっては想定外のことだったと思います。ここから若者エリフの弁論が始まります。
ヨブたちの論争は、ヨブの勝利をもって終わりました。エリフは自分の発言の機会に恵まれ、自分の言い分を語りだします。32~37章まではエリフの弁論です。勿論、彼の弁論は3人とは異なります。「私はあなたがたの言い分(応報論)では彼(ヨブ)に応えまい(32:14)」と、「応報論」とは、別の言い分を語っていきます。
この別の言い分とは何か、その特徴とは何かが、32章から37章にかけて、語られていきます。
32章:エリフは論争への参加を前にして、ヨブたちの論争を注意深く傾聴していました。その結果、両者に対して激しい怒りを燃やします。ヨブに対しては、神よりも自分自身を義として、神をないがしろしたからであり、友人たちに対しては、ヨブを罪びとと定めながらも、それを証しすることができず、その弁解として「ヨブに勝てる者は神だけだ(32:13)」と、うそぶいて論争の舞台から撤退したからです。
友人たちが語らず、沈黙したので、いよいよ、エリフが舞台に登場します。エリフは、彼なりの立場からヨブの言う「我は義なり」という主張にも、また友人たちの「災厄は神罰なり」という応報論にも異議を感じていました。
エリフは論者の中では一番年が若いゆえに年長者である論者に忖度して、その発言を控えていたのです。「しかし年長者が知恵深いわけではないし、老人が道理を弁えているわけでもない。(32:9)」のです。「人の中には、確かに霊がある。全能者の息が、人に悟りを与える(32-8)」。年齢は関係ないのです。「だから私(エリフ)は言う『私の言うことを聞いてくれ、私もまた私の意見を述べよう』(32:10)」と。エリフは自分の意見は、全能者の息吹の中から生まれたものだと言いたかったのでしょう。その意見は自分自身の言い分であって、3人の友人たちの言う「応報論」に非ずと主張しているのです。
エリフは論争に加わるにあたって、聖霊に満たされて元気一杯です。「私は語って気分を晴らしたい。唇を開いて応えたい」「私は誰もひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから、そうでなければ私を造ったお方は今すぐ私を奪い去ろう(32:21~22)」。これからエリフは聖霊に満たされて新しい見方を、だれにも忖度せずに語っていきます。
33章32章では、エリフの経歴と、発言に至った経緯が語られました。33章からは、エリフの弁論が始まります。エリフは発言を前にして3章:言います。「神の霊が私を送り、全能者の息が私に命を与える(33:4)」と。私のことばには、真実と清さがあると主張しています。神の代弁者のごとく考えています。そしてヨブに言う。「(私を神と考えて、)私の前に立て。そして、私に返事をせよ(33:5)」と。あなたは次のように言う。「我は義なり、それなのに神は私を責める口実を見つけ、私を敵のように見なされる。神は私に枷をはめ、私の歩みをことごとく見張る(34:8~11)」と。これに対してエリフは応えます。「このことであなたは正しくない。神は人より偉大だから」と。「なぜあなたは神と言い争うのか」、「神が、自分のことばに沈黙を守っているからと言って」。
ここからエリフは神の沈黙の意味を語っていきます。「沈黙は空に非ず」だからです。神は自分なりの方法(ある方法、ほかの方法)で語られるが、人はそれに気付かないだけなのです。エリフは神の啓示について述べていきます。それは夜の幻や、夢の中や、深い眠りや、寝床の中でまどろむとき等々、神は人の耳を開き警告として語られるのです。神は恐ろしい姿で人に近づき人を怯えさせるのです。神は人に畏敬の念を抱かせ、悪いわざを取り除くのです。このようにして、神は人から高ぶりを遠ざけるのです。
神は人に対して2つの方法で救いの御業を行われます。
1,「神は人の魂が黄泉の穴に入らないようにし、その命が槍で滅びないようにされる(33:18)」
2,神は人を床で痛みによって責め、その骨の多くを痺れさせるのです。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる」。その魂は黄泉の国に近づき死は目前にあるのです。もし、一人のみ使いが現れ、その人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで、「彼を救って、黄泉の国に下っていかないようにせよと仰せられる。彼は、災厄以前の昔の姿を取り戻す。「彼が神に祈ると受け入れられる。彼は喜んで御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。「一人のみ使い」とはイエス・キリストをイメージしています。キリストは人に代わって十字架にかけられたのです。人の罪を贖ったのです。
ヨブの3人の友人がヨブの苦しみを「災厄は神罰なり」と見做すのに対して、エリフは、ヨブの災厄を「神の懲らしめ、訓練である」と考えています。ヨブが罪の中にいて滅びに至ることがないように、苦しみを与え、肉体の痛みを通じて神に立ちかえるようにしてくださる、のです。教育的効果を狙っています。この考えは、それ自体は正しくても(へブル書Ⅰ2:5~6参照)、ヨブにとっては正しくありません。ヨブは、前に述べたように既に救われているからです。しかしこれは神のみが知ることであり、ヨブもエリフも知らないことなのです。
エリフの弁論を読むとき、気を付けなければならないことは、これはあくまでもエリフの考えであり、必ずしも神の霊に導かれて語ってはいないということです。それゆえ、正しいこともあれば過ちもあるのです。
エリフは言います。「彼(ヨブ)は人々を見つめて言う『私は罪を犯して正しいことを曲げた。しかし神は私のようではなかった。神はわたしのたましいを贖って、黄泉の国に下らせず、わたしの魂は光を見ると』「見よ。神はこれらすべてのことを二度も三度も人に対して行われる。人の魂を黄泉の穴から引き戻し、命の光で照らされる。神は忍耐をもって何度も何度も私たちに語り掛けられます。それほどに私たちを愛しておられるのです。一度語って振り向きがなければあきらめるような方ではありません。
31~33節までは、律法から信仰への転換が語られています。
エリフは高飛車にヨブに語ります。ヨブたちに忖度して自分の発言の順番を待っていた敬虔な姿はそこにはありません。神のごとく「ヨブよー」と命令します。「もし言い分があるなら私に言ってみよ。あなたの正しいことを示して欲しいからだ、それが出来ないなら、私に聞け、私がその知恵を教えよう」。「あなたの正しいこと」とは律法のことであり、「その知恵」とは主イエス・キリストへの信仰を現します。「それが出来ないなら」は律法の否定です。確かにヨブは痛みを通して、もっと神に近づくことが出来るし、代言者イエス・キリストの働きをもっと深く知ることが出来るでしょう。
34章:前にも書きましたが、エリフのことばには、正しいものもあれば、偽りもあります。我々はそれを見分ける知恵を持たねばなりません。
エリフは知恵のある人々、知識のある人々に語り掛けて言います。「口が食物の味を知るように、耳は言葉を聞き分ける」「さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見極めよう」と。
同じように、私たちもエリフがヨブのことばとして引用した言葉の真偽を見極める知恵が必要です。
それを挙げると
1、「私(ヨブ)は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は治まらない(34:5-6)」。友人たちの攻撃、神のヨブに対する無視など、ヨブの心に打ち込まれた矢傷は癒えていないのです。
2,「彼(ヨブ)はあざけりを水のように飲む(34:7)」。
3,ヨブは、「不法を行うものと良く交わり、悪人たちと共に歩んだ(34:8)」。
4,ヨブは言う「神と親しんでも、それは人に役に立たない(34:9)」と。
1は正しい。2~4は偽りです。ヨブのことばではありません。
いずれにしても、ヨブが神の仕打ち(神がヨブに与えた災厄)に対して不満を感じていたことは事実です。
エリフはヨブの不満(罪)を、二つに分類しています。
一つ目は、「私は正しい、神が私の正義を取り去った(34:5)」というものです。われは義なり、それなのになぜ私は苦しまねばならないのか、という不満です。二つ目は「神と親しんでも、それは人の役には立たない(34:9)」と言うものです。神と友になっても何一つ良いことはない。その証拠に神に義なる私に災厄が与えたではないかとヨブは不満を語ります。しかし、これは、あくまでもエリフのヨブに対する見解です。
エリフはヨブのことばとして上記2~4の行為と言葉を、神を汚すものとして挙げています。しかし、これらは先に述べたように偽りです。述べていません。エリフはこの偽りのことばを、ヨブのことばと見做して自説を展開していきます。
エリフは、ヨブの示したと思われる2つの不満(罪)に対して、それを事実として、分別ある人々に対して、自説を展開していきます。
「神が悪を行うなど、全能者が不正を行うなど、絶対にそういうことはない。神は、人の行いをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる(34:10~11)」と。エリフは、神(全能者)は罪のない絶対者であると、ヨブのことばを否定します。エリフの言うこのことば自身には誤りはありません。しかしヨブの語っていないことを前提としている限り、このことばは偽りです。前にも述べたようにエリフのことばはその真偽を正しく判断する知恵が必要です。一般論としては正しくとも、ヨブ個人に対しては誤りであることが、エリフの文章には散見しています。
「誰が、この地に神をゆだねたのか、誰が全世界を神に任せたのか(34:14)」。神の主権が語られています。そして、もしもこの主権者である「神がご自分だけに心を留め、その息と霊とをご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え人は塵に帰る(34:14~15)」のです。と、エリフは述べています。神がその霊と息とをヨブに注ぎ、ご自分に心をとどめたなら、すべての肉なるものは生まれる前の塵に帰る、というのです。神の絶対性と、人の相対性(従属性)が語られています。
34章の16節から呼びかけはあなたがた(分別ある人)から、あなた(ヨブ)に代わります。それにもかかわらず、34節までヨブの名前は出て来ません。ということは、ここに登場する「王」「高貴な人」を「ヨブ」と呼び変える知恵が必要となります。エリフはヨブに言います。「あなたに悟りがあるならこれを聞け」と。「公義を憎む者が、(民)を治めることが出来るか、正しく力あるものをあなたは罪に定めることが出来ようか。人が王に向かって『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって「悪魔」と言えるだろうか(34:17~18)」と。地上の高貴な人を非難することでさえ、憚れることなのに、ましてや、力ある神を非難するとは何事か、とエリフはヨブを怒ります。「人」とは災厄以前にヨブの共同体に所属していた人をさします。彼らはヨブを敬愛し、尊敬し、親愛の情を示していました。なぜならヨブは彼らに対して、えこひいきをすることのない公正な人物だったからです。そして彼の行動は、「神の手の御業」に導かれていたのです。この義なる人ヨブに突然災厄が訪れたのです。舞台は光から闇に暗転します。これがヨブの被った災厄だったのです。「彼らは真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらず取り去られる(34:20)」「神の御目が人の道の上にあり、そのすべてを見ておられるからだ。不法を行う者どもの身を隠せるような、闇もなく暗黒もない」。神の御業で行われたすべてが、神によって否定されるのです。神による自己否定です。そのようなことがあり得ないならば、ここにエリフの言葉の自己矛盾があります。一方では善なる人が栄え、他方ではその同じ人が罪びととなる。善なる人の中にも罪が隠れている、ヨブよ、それを神に問え。そしてそれを知って、その罪を贖え(34:31~32参照)、そうすれば赦されると、エリフは言います。応報論を否定するエリフ自身が応報論に陥っています。ヨブは不条理な災厄に「我は義なり」と抵抗します。エリフは、応えて言います。「彼のことばには思慮がない」と。そして「彼は自分の罪に背きの罪を加え私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする」と。エリフもまたヨブを罪に定めています。ヨブは孤独です。
はじめに:31章でヨブと3人の友人との論争は終了しました。ヨブが神のみ前で自分の正しさを実証したからです。その結果「この3人の者は応えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。(32:1)」と作者は言います。31章で述べたように、ヨブはヘブライの慣習にそって「無実の実証」を神への誓いをもって行いました。神の前で偽りは赦されないのです。神はすべてをご存じだからです。ヨブのことばが真実である限り、3人の神学「応報論」は無力です。「我は義なり」というヨブの確信は3人のいう「災厄は神罰なり」という応報論に勝利したのです。3人は沈黙します。この舞台から撤退せざるを得なかったのです。また、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。神もまた3人の友を退け。ヨブに軍配を挙げるのです。
この3人の後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子、若者のエリフです。彼はヨブたちの論争に参加すべく、その議論を注意深く傾聴していました。おそらく、3人の友人の撤退はエリフにとっては想定外のことだったと思います。ここから若者エリフの弁論が始まります。
ヨブたちの論争は、ヨブの勝利をもって終わりました。エリフは自分の発言の機会に恵まれ、自分の言い分を語りだします。32~37章まではエリフの弁論です。勿論、彼の弁論は3人とは異なります。「私はあなたがたの言い分(応報論)では彼(ヨブ)に応えまい(32:14)」と、「応報論」とは、別の言い分を語っていきます。
この別の言い分とは何か、その特徴とは何かが、32章から37章にかけて、語られていきます。
32章:エリフは論争への参加を前にして、ヨブたちの論争を注意深く傾聴していました。その結果、両者に対して激しい怒りを燃やします。ヨブに対しては、神よりも自分自身を義として、神をないがしろしたからであり、友人たちに対しては、ヨブを罪びとと定めながらも、それを証しすることができず、その弁解として「ヨブに勝てる者は神だけだ(32:13)」と、うそぶいて論争の舞台から撤退したからです。
友人たちが語らず、沈黙したので、いよいよ、エリフが舞台に登場します。エリフは、彼なりの立場からヨブの言う「我は義なり」という主張にも、また友人たちの「災厄は神罰なり」という応報論にも異議を感じていました。
エリフは論者の中では一番年が若いゆえに年長者である論者に忖度して、その発言を控えていたのです。「しかし年長者が知恵深いわけではないし、老人が道理を弁えているわけでもない。(32:9)」のです。「人の中には、確かに霊がある。全能者の息が、人に悟りを与える(32-8)」。年齢は関係ないのです。「だから私(エリフ)は言う『私の言うことを聞いてくれ、私もまた私の意見を述べよう』(32:10)」と。エリフは自分の意見は、全能者の息吹の中から生まれたものだと言いたかったのでしょう。その意見は自分自身の言い分であって、3人の友人たちの言う「応報論」に非ずと主張しているのです。
エリフは論争に加わるにあたって、聖霊に満たされて元気一杯です。「私は語って気分を晴らしたい。唇を開いて応えたい」「私は誰もひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから、そうでなければ私を造ったお方は今すぐ私を奪い去ろう(32:21~22)」。これからエリフは聖霊に満たされて新しい見方を、だれにも忖度せずに語っていきます。
33章32章では、エリフの経歴と、発言に至った経緯が語られました。33章からは、エリフの弁論が始まります。エリフは発言を前にして3章:言います。「神の霊が私を送り、全能者の息が私に命を与える(33:4)」と。私のことばには、真実と清さがあると主張しています。神の代弁者のごとく考えています。そしてヨブに言う。「(私を神と考えて、)私の前に立て。そして、私に返事をせよ(33:5)」と。あなたは次のように言う。「我は義なり、それなのに神は私を責める口実を見つけ、私を敵のように見なされる。神は私に枷をはめ、私の歩みをことごとく見張る(34:8~11)」と。これに対してエリフは応えます。「このことであなたは正しくない。神は人より偉大だから」と。「なぜあなたは神と言い争うのか」、「神が、自分のことばに沈黙を守っているからと言って」。
ここからエリフは神の沈黙の意味を語っていきます。「沈黙は空に非ず」だからです。神は自分なりの方法(ある方法、ほかの方法)で語られるが、人はそれに気付かないだけなのです。エリフは神の啓示について述べていきます。それは夜の幻や、夢の中や、深い眠りや、寝床の中でまどろむとき等々、神は人の耳を開き警告として語られるのです。神は恐ろしい姿で人に近づき人を怯えさせるのです。神は人に畏敬の念を抱かせ、悪いわざを取り除くのです。このようにして、神は人から高ぶりを遠ざけるのです。
神は人に対して2つの方法で救いの御業を行われます。
1,「神は人の魂が黄泉の穴に入らないようにし、その命が槍で滅びないようにされる(33:18)」
2,神は人を床で痛みによって責め、その骨の多くを痺れさせるのです。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる」。その魂は黄泉の国に近づき死は目前にあるのです。もし、一人のみ使いが現れ、その人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで、「彼を救って、黄泉の国に下っていかないようにせよと仰せられる。彼は、災厄以前の昔の姿を取り戻す。「彼が神に祈ると受け入れられる。彼は喜んで御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。「一人のみ使い」とはイエス・キリストをイメージしています。キリストは人に代わって十字架にかけられたのです。人の罪を贖ったのです。
ヨブの3人の友人がヨブの苦しみを「災厄は神罰なり」と見做すのに対して、エリフは、ヨブの災厄を「神の懲らしめ、訓練である」と考えています。ヨブが罪の中にいて滅びに至ることがないように、苦しみを与え、肉体の痛みを通じて神に立ちかえるようにしてくださる、のです。教育的効果を狙っています。この考えは、それ自体は正しくても(へブル書Ⅰ2:5~6参照)、ヨブにとっては正しくありません。ヨブは、前に述べたように既に救われているからです。しかしこれは神のみが知ることであり、ヨブもエリフも知らないことなのです。
エリフの弁論を読むとき、気を付けなければならないことは、これはあくまでもエリフの考えであり、必ずしも神の霊に導かれて語ってはいないということです。それゆえ、正しいこともあれば過ちもあるのです。
エリフは言います。「彼(ヨブ)は人々を見つめて言う『私は罪を犯して正しいことを曲げた。しかし神は私のようではなかった。神はわたしのたましいを贖って、黄泉の国に下らせず、わたしの魂は光を見ると』「見よ。神はこれらすべてのことを二度も三度も人に対して行われる。人の魂を黄泉の穴から引き戻し、命の光で照らされる。神は忍耐をもって何度も何度も私たちに語り掛けられます。それほどに私たちを愛しておられるのです。一度語って振り向きがなければあきらめるような方ではありません。
31~33節までは、律法から信仰への転換が語られています。
エリフは高飛車にヨブに語ります。ヨブたちに忖度して自分の発言の順番を待っていた敬虔な姿はそこにはありません。神のごとく「ヨブよー」と命令します。「もし言い分があるなら私に言ってみよ。あなたの正しいことを示して欲しいからだ、それが出来ないなら、私に聞け、私がその知恵を教えよう」。「あなたの正しいこと」とは律法のことであり、「その知恵」とは主イエス・キリストへの信仰を現します。「それが出来ないなら」は律法の否定です。確かにヨブは痛みを通して、もっと神に近づくことが出来るし、代言者イエス・キリストの働きをもっと深く知ることが出来るでしょう。
34章:前にも書きましたが、エリフのことばには、正しいものもあれば、偽りもあります。我々はそれを見分ける知恵を持たねばなりません。
エリフは知恵のある人々、知識のある人々に語り掛けて言います。「口が食物の味を知るように、耳は言葉を聞き分ける」「さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見極めよう」と。
同じように、私たちもエリフがヨブのことばとして引用した言葉の真偽を見極める知恵が必要です。
それを挙げると
1、「私(ヨブ)は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は治まらない(34:5-6)」。友人たちの攻撃、神のヨブに対する無視など、ヨブの心に打ち込まれた矢傷は癒えていないのです。
2,「彼(ヨブ)はあざけりを水のように飲む(34:7)」。
3,ヨブは、「不法を行うものと良く交わり、悪人たちと共に歩んだ(34:8)」。
4,ヨブは言う「神と親しんでも、それは人に役に立たない(34:9)」と。
1は正しい。2~4は偽りです。ヨブのことばではありません。
いずれにしても、ヨブが神の仕打ち(神がヨブに与えた災厄)に対して不満を感じていたことは事実です。
エリフはヨブの不満(罪)を、二つに分類しています。
一つ目は、「私は正しい、神が私の正義を取り去った(34:5)」というものです。われは義なり、それなのになぜ私は苦しまねばならないのか、という不満です。二つ目は「神と親しんでも、それは人の役には立たない(34:9)」と言うものです。神と友になっても何一つ良いことはない。その証拠に神に義なる私に災厄が与えたではないかとヨブは不満を語ります。しかし、これは、あくまでもエリフのヨブに対する見解です。
エリフはヨブのことばとして上記2~4の行為と言葉を、神を汚すものとして挙げています。しかし、これらは先に述べたように偽りです。述べていません。エリフはこの偽りのことばを、ヨブのことばと見做して自説を展開していきます。
エリフは、ヨブの示したと思われる2つの不満(罪)に対して、それを事実として、分別ある人々に対して、自説を展開していきます。
「神が悪を行うなど、全能者が不正を行うなど、絶対にそういうことはない。神は、人の行いをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる(34:10~11)」と。エリフは、神(全能者)は罪のない絶対者であると、ヨブのことばを否定します。エリフの言うこのことば自身には誤りはありません。しかしヨブの語っていないことを前提としている限り、このことばは偽りです。前にも述べたようにエリフのことばはその真偽を正しく判断する知恵が必要です。一般論としては正しくとも、ヨブ個人に対しては誤りであることが、エリフの文章には散見しています。
「誰が、この地に神をゆだねたのか、誰が全世界を神に任せたのか(34:14)」。神の主権が語られています。そして、もしもこの主権者である「神がご自分だけに心を留め、その息と霊とをご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え人は塵に帰る(34:14~15)」のです。と、エリフは述べています。神がその霊と息とをヨブに注ぎ、ご自分に心をとどめたなら、すべての肉なるものは生まれる前の塵に帰る、というのです。神の絶対性と、人の相対性(従属性)が語られています。
34章の16節から呼びかけはあなたがた(分別ある人)から、あなた(ヨブ)に代わります。それにもかかわらず、34節までヨブの名前は出て来ません。ということは、ここに登場する「王」「高貴な人」を「ヨブ」と呼び変える知恵が必要となります。エリフはヨブに言います。「あなたに悟りがあるならこれを聞け」と。「公義を憎む者が、(民)を治めることが出来るか、正しく力あるものをあなたは罪に定めることが出来ようか。人が王に向かって『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって「悪魔」と言えるだろうか(34:17~18)」と。地上の高貴な人を非難することでさえ、憚れることなのに、ましてや、力ある神を非難するとは何事か、とエリフはヨブを怒ります。「人」とは災厄以前にヨブの共同体に所属していた人をさします。彼らはヨブを敬愛し、尊敬し、親愛の情を示していました。なぜならヨブは彼らに対して、えこひいきをすることのない公正な人物だったからです。そして彼の行動は、「神の手の御業」に導かれていたのです。この義なる人ヨブに突然災厄が訪れたのです。舞台は光から闇に暗転します。これがヨブの被った災厄だったのです。「彼らは真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらず取り去られる(34:20)」「神の御目が人の道の上にあり、そのすべてを見ておられるからだ。不法を行う者どもの身を隠せるような、闇もなく暗黒もない」。神の御業で行われたすべてが、神によって否定されるのです。神による自己否定です。そのようなことがあり得ないならば、ここにエリフの言葉の自己矛盾があります。一方では善なる人が栄え、他方ではその同じ人が罪びととなる。善なる人の中にも罪が隠れている、ヨブよ、それを神に問え。そしてそれを知って、その罪を贖え(34:31~32参照)、そうすれば赦されると、エリフは言います。応報論を否定するエリフ自身が応報論に陥っています。ヨブは不条理な災厄に「我は義なり」と抵抗します。エリフは、応えて言います。「彼のことばには思慮がない」と。そして「彼は自分の罪に背きの罪を加え私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする」と。エリフもまたヨブを罪に定めています。ヨブは孤独です。
令和3年12月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会