日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

山崎豊子作「仮装集団」音楽集団に潜む不気味なエネルギー

2012年08月25日 | Weblog
  山崎豊子作「仮装集団」

 僕が早稲田の露文科に入った年は、まさに60年第1次安保闘争の華やなりし時だった。大学自体騒然としていた。早稲田大学は以前から進歩的大学だと云われていた。しかし、僕自身は一人の文学青年であり、学究の徒に過ぎなかった。露文科は、その性格上、左翼の学生が多くいた。今は知らないが当時の露文科には、日本共産党(日共)、あるいは民青同盟(民青)に所属する学生が多くいた。勿論、反代々木派と云われ“トロッキスト”として、日共系の学生に敵対する過激な学生も何人かはいた。そのほか純粋にロシア文学を心ざす、非政治的な学生も、居ないわけではなかった。その中には、将来バレリーナになって身を立てたいとソ連(現在のロシア共和国連合)に留学を夢見る女子学生もいた。たった一人ではあったが、自衛隊員もいた。商社に入ってソ連との交流を深めたいと云う学生もいた。千差万別であった。今や、ソ連の存在は大きくなっており、政治、経済、文化、軍事面などで、無視できない存在になっていた。そんな事から露文科を目指す学生は多くいたのである。左翼学生ばかりではなかった。
 デモは日常的であった。大学へ行っているのだかデモに行っているのだか判らない日々が続いた。デモの参加者を巡って、代々木派(日共系)と反代々木(全学連)派の間で争奪戦が行われていた。僕らのような、どちらにも属さない、いわゆる中立派が狙われた。彼らは、安保の危険性を説き、これを通過させると、戦争にまき込まれると警鐘を鳴らした。その頃の僕は安保条約の存在ぐらいは知っていたが、内容までは知らず、いわゆる部外者であった。まず、彼らは我々をデモに誘った。初めてのデモには興奮した。知らない人たちと腕を組みシュプレヒコールを叫び、「インターナショナル」や「赤旗」や、「原爆許すまじ」などを歌った。隣には可愛い女性がいた。その女性と腕を組み、行進したときは心身ともに興奮した。そしてデモが終わる。これで終わりかと思ったら「お茶でも飲みませんか?」と幹事の女性から誘われた。誘われたのは僕だけでなく数人いた。お茶の席で、幹事の女性は安保の危険性をとうとうと述べ、何も知らず単なる野次馬に過ぎなかった我々に学習の必要性を説き、「学習会」があるといって、参加を促した。住所、氏名、電話番号まで聞かれ、後に連絡すると云う。学習会だけでなく、ハイキングや音楽会などにも誘った。これが彼らの手であった。このようにして彼らは我々の心の中まで踏み込んできた。まさに“歌って、踊って、はい、革命”である。地方からのポット出で、右も左も判らない朴訥な青年はこれに騙される。いつしか内部に取り込まれる。その雰囲気は暖かく、快適である。そこにはピンクムードがあった。その中に、好きな女性でも出来たら、もう、お終いである。彼女の指導のもと、立派な活動家に仕立て上げられていく。これが日本共産党の党勢拡大のやり方であった。
 これは一例である。大衆団体を日本共産党が自ら作ることもあるが、彼らはそんな面倒なことはしない。既成のダンスサークルや合唱サークル、学習サークルの中に密かに入り込み、密やかに工作し、分派活動を行い、反対するものを排除し、そのサークルを乗っ取り、指導者になって党の方針に沿った活動をする。そして彼らは言う「この団体は民主化された」と。このようにして、シンパを増やし、党員を増やし、党勢を拡大する。戦前・戦中・戦後間もなくの戦略=革命戦略から選挙戦略に変えた今、党勢の拡大は必至である。少数精鋭主義は大衆路線、大衆戦略へと変わる。
 この作品の主人公流郷正之は勤労者音楽同盟(勤音)という、良い音楽を安く聴く、音楽鑑賞団体を立ち上げ、その企画力により15万人の会員を擁する団体にまで発展させた。しかし純粋に音楽を楽しむこの団体に、いつしか魔の手(?)が伸びてくる。この音楽団体の中に人民党のフラクションが作られ、政治と思想が持ち込まれる。15万人にも上る会員を擁する音楽団体を人民党がほっておくわけがない。密かに入り込みこれを我が物とする。彼らに立てつく、勤音一の功労者・流郷は今や邪魔者になり、彼らの手によって葬り去られる。人民党は日本共産党がそのモデルである、と言われている。
 この作品の背景には中ソ対立がある。その対立は「部分的核停条約」の批准を巡って激化する。アメリカ、イギリス、ソ連等はこれを批准するが、フランス、中国等は「核所有国の核独占を測るものだ」と反発し批准を拒否する。これが中ソの対立を激化させる。日本共産党内部にもこの対立が反映されて、中国派とソ連派が激しく争い、中国派が勝利を収め、多くのソ連派の文化人及び、党員が除名される。この作品の時代背景は、この辺の時代にに限られている。
 日本共産党自身、その後の時代の潮流の変化に応じて変化しており、非妥協的な親中国路線とも、現代ソ連修正主義とも袂を分かち1960年代半ばには「自主独立路線」を確立している。

     部分的核実験禁止条約とは?
 1963年8月にアメリカ、イギリス、ソ連との間に調印された核兵器の一部実験の禁止する 条約である。地価を除く大気圏内、宇宙空間、および水中における核爆発を伴う実験の禁止を内容とする。

 この作品の時代背景は、1960年の第一次安保闘争から1963年の部分的核実験禁止条約の締結期頃までであり、勤労者音楽同盟と云う、純粋に音楽愛好者の団体が、背後に隠れた政治的フラクションの手によって翻弄され、乗っ取られていく姿が、勤音の、一人の名プランナー、この作品の主人公、流郷正之の姿を通して山崎豊子は描いていく。
 安保騒動の責任を取って岸内閣が倒れ、代って現れた池田内閣は所得倍増計画を打ち出し、高度経済成長が幕開けする。それまで食うや食わずで余暇活動には目を向ける余裕のなかった勤労者にも、余暇を見つめる余裕が出てきた。彼らは文化的な何かを求めていた。政府も民間も、この余暇に目を向けるようになる。この作品はそんな時代を背景にして描かれている。この作品で活躍する、勤労者が中心の「勤労者音楽同盟(勤音)」も、財界が支援する「自由音楽連盟(音連)」も、この勤労者の要求を満たすために立ち上げられたのである。両者は対立する。この作品では横軸に、勤音と音連の対立を、勤音内部の親ソ連派と、親中国派の対立を縦軸にして描いていく。ここに流郷正之と云う男が登場する。真に音楽を愛好し、政治や、思想を音楽団体の中に持ち込むことを嫌悪する。事務局長の瀬木三郎と共に、大阪勤音を築き発展させた男である。離婚経験のある、ニヒルで、投げやりで、何処かに煮え切らない芯を持っていた。進歩的な思想を持つが「反米、反ソ、反中」と云うリベラリストである。良いものは良いと云う考え方から、ソ連で世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフを呼ぶ時には、ソ連派と言われる会員で参議院議員のロシア語に堪能な、高倉五郎氏の協力を仰ぐ。サベーリエフを呼んでの例会は成功裏に終わる。音連を裏で采配する門林日東レーヨン社長は、流郷の企画力を評価し、音連に高い給料と好もしい待遇で、招聘するが、流郷は断る。勤音と音連の例会合戦は熾烈を極める。限られた音楽好きな大衆はその度に動く。会員の数は例会の度に増減する。定着しない。
 当時、共産圏では路線を巡って中ソが対立していた。その対立は人民党内、勤音内部にも反映する。人民党内では親中国派が勝利を収める。親ソ派の党員が除名され、シンパの文化人は排除される。勤音内でも親中国派の裏工作により、運営委員会の運営委員の選挙において親中国派が勝利を収める。例会の催しは、中国派に握られ流郷は浮き上がる。もう流郷は必要ない。査問委員会が開かれ、流郷の尾行によって得られた資料を盾に、流郷は勤音から追放される。そこには誰ひとり流郷をかばうものはいなかった。完全に中国派によって包囲されていた。大阪勤音の創設以来の友人であり、最良の理解者であり協力者であると信じていた瀬木三郎も、自己保身のために中国派に寝返り、流郷を裏切った。更に枕を共にし、愛もあったと思われる江藤斎子も平然と流郷を裏切り、何の感情も見せなかった。自分の愛情と党への忠誠を秤にかけ、流郷を裏切ることに決定した女の非情さに接して、流郷は怒りを感じる前に、党への忠誠のためには、愛をも犠牲にする、そんな規制の中でしか生きる事が出来ず、それを正義と思おうとする女の悲しさを感じて、流郷は憐れみを覚えたのである。
 流郷を切り、真に音楽愛好者の団体から、人民党の「仮装集団」に堕した勤音は果たしてどこに行くのであろうか。
 勤音上層部との間にギャップを感じた一般会員は果たしてついてくるであろうか?更に勤音が変身し、中国派に占められ、今後急進化するであろう勤音に対し、門林によって作られ発展した音連は、財界の主だった連中を表面に立て、急進化する勤音と対抗しようとする。
勤音の前途は多難である。

  登場人物

  勤労者音楽連盟関係
 流郷正之
 この作品の主人公。大阪勤労者音楽同盟(大阪勤労)の有能なプランナー。大阪勤労の発足に当たり事務局長の瀬木三郎の勧めに応じて職員となる。400名あまりの会員しか持たない、こじんまりした勤音をそのプランナーとしての企画力により数年後には15万人にのぼる会員を持つ巨大な組織にまで育てあげる。良い音楽を安い値段で聴く、勤労者のための音楽団体を目指す。そして、この音楽組織の中で自分の音楽的ビジョンの実現を図る。その考えは進歩的ではあるが、組織の中に思想や政治を持ち込むことには極端な嫌悪感を示す。自分は反中(中国)反ソ、反米であるとその立場を明らかにしている。純粋に音楽好きな人間である。芸術とは人間に対する賛歌であって、思想は右であれ左であれ関係は無いという。良いものは良いのである。
 しかし、彼の心はうつろである。勤労の組織の中で自分の野心を遂げつつあるときでも、どこか投げやりで情事に耽っているときでも、溺れることのない何時も何処かに燃え切らない芯があった。暗い過去を感じさせた。
 流郷は、大阪勤労の組織が大きくなるにつれて、密やかに組織の中に入り込み、政治的に画策し、一定の方向に会員を誘導していこうとする、人民党のフラクショの存在に気付き、警戒心を強める。勤音は人民党の「仮装集団」であってはならない、と思う。
 東京勤音から大阪勤音に密やかに、人民党のオルガナイザーとして派遣され、財政担当という重要なポストに就いた江藤斎子に流郷は特別な関心を抱き、その意図を探るために彼女の間に肉体関係を持つ。彼女も流郷を政治的に利用することを考え肉体関係を持続する。相身互いである。
 流郷は多くの例会を成功裏に収める。オペラ「蝶々夫人」、ソ連の荒野を切り拓き、国土を建設にまい進する労働を賛美する「森の歌」、個々人の力を結集した集団の力強さ、多くの人間が力を合わせれば、何でも出来るのだという信念。そこには共産主義建設という、将来に対する喜びと、明るさがあった。800人の大合唱、それは素晴らしい人間に対する賛歌であった。それは、会員の心に喜びと感動を与えた。拍手は鳴りやむことは無かった。例会は成功裏に終わる。
 クラシック音楽という硬派の例会を主にやって、ジャズはアメリカ帝国主義の産物だと考える一部の頭の固い連中を退けて、流郷は、勤音の例会に「ジャズフェスティバル」をぶつける。これも成功裏に終わる。さらに日本版「ロミオとジュリエット」を行う。貧しい家庭教師と生徒の我儘なお嬢様との恋、この恋は成就すると云う、シェークスピアが聞いたら泣いて悲しむような内容。更に中共派による「つくし座」の公演。「ハワイアン祭り」と続く。硬派と軟派を使い分ける例会が続く。いわゆる大衆路線が取り入れられたのである。それは人民党内部の変化にも呼応していた。
 世界的なバイオリニスト・ロシア人のサベーリエフを呼んでの例会が流郷の最後の例会となる。勤労の例会に、サベーリエフを招くにあたり、勤労の顧問、人民党の親派、親ソ派の知識人で参議院議員の高倉五郎氏の力を流郷は借りる。サベーリエフの招聘は成功し、多くの会員の参加が可能な体育館で行われた例会は成功裏に終わる。
 この頃、路線を巡っての中ソ対立が人民党内部にも影響を与え、中国派とソ連派が対立していた。そして、中国派が勝利を収める。勤音内部にもこの抗争は反映し、ここでも親中国派が勝利を収める。親ソ派の排除が始まる。サベーリエフの例会に成功した流郷は、レニングラード交響楽団、モスクワ合唱団、ボリショイバレエなどの招聘も視野に入れ内諾も取っていたが頓挫する。高倉五郎は辞任に追い込まれ、勤音の査問委員会でソ連派と見なされた流郷もつるし上げの末、勤音を追われる。
 勤音を追われた流郷は街頭に出る。この時、勤音は「「中国現代音楽の夕べ」を、音連は「ボストンフィルハーモニーの夕べ」を開催していた。多くの音楽ファンの姿がそこにあった。彼らはどちらかの例会に参加するための一般大衆であった。流郷はそんな音楽好きな大衆の中を突き抜け、無関心を装っていた。勤音はもはや純真に音楽を楽しむ集団ではなくなっていた。人民党の「仮装集団」になり下がっていた。流郷とそんな集団とは、もはや無関係であった。
 恐らく流郷の心のなかには虚しさと、悲しさがあったに違いない。勤音での自分の活躍は一体何だったのだろうか?と思ったであろう。しかし、現代のような政治と経済の矛盾に満ちた社会の中にあって、政治的中立を保ち、純粋に音楽を楽しむことが可能であろうか?しかし、それと人民党の意志とは無関係である。

  江藤斎子
 大阪勤音の財政部の責任者。
 東京勤音の事務局から大阪勤音の重要な部門である財政部の責任者として派遣される。個性的な美しさを持ち執務に関する事以外はほとんど口を利かず、人を寄せ付けない冷たさを漂わせている。その基本的姿勢は勤音活動を通じて会員諸氏の意識を高め、啓蒙指導することにあった。大所高所から物を見、政治的に会員を一定の方向に持っていこうとする意図が見え隠れしていた。そして「低俗な音楽を駆逐し、良い音楽を聴き、創造するための音楽活動と啓蒙活動を、われわれ勤音の行動力を持って示さねばならない」という。その考えは、ジャンルを問わず、純粋に音楽を楽しみたいと云う、音楽愛好家との間に一線を画するものがあった。そこには政治と音楽を同時に考える左翼的思想家に特有なものを持っていた。その考えの基本は音楽はあくまでも手段であって、目的は政治にあった。そんな彼女の姿勢に対し、その真意を探るため、流郷は、彼女との間に肉体関係をもった。彼女はそれを拒否すること無く受け入れる。彼女自身、流郷を政治的に利用することを考えていたが、そこに愛情が無かったわけではなかった。女性の性(さが)は愛情のない肉体関係は拒否するからである。
 江藤斎子が勤音のなかで密やかに行っていたこと、あるいは行おうとしていた事は、次の二つであった、その一つは、勤音の内部に人民党のフラクションを作り、分派活動によって、勤音を内部から改変することであり、第二は、経理上の操作によって例会の度に赤字を計上し、裏金を作り、人民党に裏献金する事であった。彼女はまさに人民党から派遣されたイデオログーだったのである。流郷はその事を知る。その裏切り行為に怒りをぶつける。
 この頃、社会主義圏では、中ソの対立が激化しており、それは「部分的核停」を巡って一層激しくなっていた。その対立は人民党内部に、そして勤音内部にも多大な影響を与え、人民党内部で親中派が勝利を収めた関係で勤音内部でも親中派が勝利を収めた。ロシアの世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフを招いて公演を行ったことがわざわいし、流郷はそれに協力した参議院議員の高倉五郎と共に、ソ連派と見なされ追放されることになる。その急先鋒に江藤斎子が立っていた。尾行によって知り得た情報を盾に取り、査問会議で、徹底的に追及し、流郷の追放を決定する。江藤斎子の中には流郷との間の肉体関係で培った情愛のひとかけらも感じられなかった。そこには自分の愛情を党への忠誠に置き換え、そういう規制のなかでしか自分の人生を生きていけない女の憐れな姿があった。彼女はもはや人民党の親中派のイデオログーであるにすぎなかった。

  大野泰三
 勤音の委員長。運営委員会の選挙で新中国派が勢力を占めた後、退陣する。親ソ連派の会員。後を、親中国派の畑中が継ぐ。

  瀬木三郎
 勤労の事務局長。長年労働運動の中で育った人間。流郷の企画に対しては好意的で協力を惜しまない。大阪勤音を立ち上げる際に流郷を誘い入れて、ともに勤労の発展に寄与する。流郷の最大の理解者で、二人で大衆団体としての勤労を守り、政治的陰謀と戦うことを誓い合う。自分は人民党の支持者ではあるが党員ではないと云う。人民党のフラクションの政治的陰謀と戦うためには流郷の協力が必要と考え、事務局次長の地位を与える。しかしインテリ会員の弱さゆえ、親中派と、親ソ派の派閥争いの末、親中派が勝利を収め、自分の地位が危険になるに及んで、流郷を裏切る。流郷は信じることは出来ない。査問委員会で、人民党のオルガナイザーとして派遣された江藤斎子と共に流郷攻撃の急先鋒に立つ。流郷を勤音から追放する。

  永山
 組織部部長。後に事務局次長。親中国派。

  尾本と云う男
 勤労の事務局で会計係として財務部長の江藤斎子の下で働く、貧相ではあるが目の鋭い男。
 実は、人民党のオルガナイザーとして、その立場を隠して勤音に入り込み、裏で、人民党のフラクションを作り、そのキャップを務める。
 運営委員会の運営委員の選挙で、裏工作の功が奏して、中国派の会員が多数を占めた段階で、表に出て、会計係から、永山に代わり、一躍、重要なポストである、組織部の部長に栄進する。永山は事務局次長となる。そこには企画部と事務局次長を兼ねる流郷追い落としの伏線があった。
 彼が表に出た段階で勤労の性格は一変する。

  菊村俊一
 勤音の会員。詳しくは後に述べる。

  高倉五郎
 全国勤労者音楽連盟(全国勤音)の顧問。
 人民党のシンパであり、親ソ連派と見なされている革新派の評論家である。学生時代から一貫して労働運動に身を投じ、世界平和会議の評議員、日ソ協会副会長、アジア・アフリカ文化会議の理事などを歴任している有名人。公正な立場で、外部から批判と助言を仰ぐために全国勤音に顧問として迎えられる。参議院議員全国区から無所属での出馬を決め、その支援団体が勤音に選挙協力を要請する。彼のような音楽理解者が、議員になることの利益は勤音にとって計り知れないものがあると、勤音は内部の「音楽活動と選挙は別もの」と云う反対を押し切って支援に踏み切る。支援活動は着々と進む。しかし、突然、人民党の中央選対から高倉支援打ち切りの指令が届く。その理由は高倉の人気が必要以上に上がり過ぎ、関西地盤の人民党の候補者・加賀正の票を食う恐れが出てきたからで、このままでは加賀は落選すると云う危機意識がそこにあった。加賀は人民党の公認候補、一方、高倉は人民党のシンパであるとはいえ無所属である。人民党がどちらに比重を置くかは明らかである。ポスターや宣伝ビラは撤去され、高倉は独力で戦わなければならなかった。開票の日、投票結果はなかなか出なかったが、高倉は当選し、加賀は開票の終盤近くにやっと当選を決める。高倉は人民党の支援を打ち切られたにもかかわらず加賀を抜いて当選したのである。高倉は一般大衆の支持が多くあったことに自信を持つ。
 流郷は、この時、勤音の例会にソ連の世界的に有名なバイオリニスト・サベーリエフの招聘を企てていた。高倉はロシア語に堪能で、その交渉に当たっては言葉の障害を乗り越えて事を成就することが可能であった。幾多の困難はあったが招聘は成功し、例会も大盛会のうちに終了する。高倉と、流郷は互いに喜び合う。
 高倉は参議院議員の当選後、各地を遊説する。支持打ち切りの不満もあってか、日頃の人民党に対する鬱憤を披露して、人民党を刺激する。この頃中ソの対立が激化しているときでもあり、特に「部分核停条約」を巡っての争いは激しさを極めていた。中国はこれに反対していた。運営委員会の選挙の結果、勤音の運営委員は親中派で占められる。高倉は人民党が親中派勢力派で占められ、核停条約に反対の意を表明しているにもかかわらず、自身はソ連派らしく条約に賛意を表明する。それは人民党にしては党を裏切る行為であった。彼は無所属であり、選挙協力も打ち切られている。人民党の意向に沿う必要はないのである。しかし、彼の処遇を巡って、勤労内部では議論が百出する。その結果、高倉は勤音の顧問を解任される。
 勤労は次第に政治集団へと変身し、人民党の「仮装集団」になり下がっていった。

  自由音楽連盟関係
 門林(もんばやし)雷太
 日東レイヨン社長。関西財界の重鎮として、経営者連盟の理事から、文化教育団体、スポーツ団体、音楽芸能団体まで、数え挙げれば、ざっと50近い肩書を持つ多趣味な男性。自由音楽連盟を立ち上げる。
 勤労者音楽同盟(勤音)という、その政治的色合いを強めていく労働者団体の存在を知り、その発展に危機感を持つ。特に、先ほど行われた勤音の例会「森の歌」が大盛会に終わり、その内容がロシアの荒野を切り開き国土建設に邁進する労働に対する賛歌であり、最後に「レーニン万歳」と叫ぶと聞き、黙視できなくなる。財界に働きかける。まず手始めに門林を中心にして関西財界の主だった8人で作られている「8人会」に相談を持ちかけ、財界の支援のもと、産業人をその基礎に置き勤音に対抗できる音楽鑑賞団体を作ることを決定する。
 手始めに、弱小で経済的に苦境に立つクラシック専門の「音楽文化協会」という音楽団体の分裂に乗じて、その一方に肩入れし、その独立を促し、これを乗っ取って、自由音楽連盟(音連)を立ち上げる。「勤音が組織にイデオロギーを持ち込むなら、音連は組織に金をぶち込む」と門林は豪語する。まさに労資の対決である。
 第一回の例会は大盛会に納めなければならない。アメリカの有名楽団「ニューヨーク・フィルハーモニー」を日本に招待し、ドボルザークの「新世界より」をぶつけた。世界的に有名な「ニューヨークフィル」の公演であり、第一回例会ということもあって、利益を度外視した安価なチケット販売が効果を表し、R会館という広い会場は補助席まで埋まる大盛況に終わる。
 かくして勤音と音連との対立抗争は幕開けする。会員の獲得競争が始まり激化する。
 時は高度経済成長の真っ盛り、ようやく一般の大衆も、食うや食わずの生活から、余暇活動に関心を持つようになる。それに乗じて勤音も音連もその活動を強め、会員獲得に鎬を削ったのである。
 音連の出現と、その活動は勤音の活動に影響を与えずにはおかなかった。会員数も激減する。音楽好きの絶対数は、まだまだ限られており、その限られた人数を巡って食い合いが始まったのである。音連はその本来の活動以外でも、勤音の活動を妨害する。門林が大株主であるR会館の貸し出しを拒否したり、チケット販売を巡って警察沙汰を起こしたり、と対決する。その度に勤音はその対策に苦慮する。
 音連は、本来の活動でも勤労に挑戦する。有名楽団をその例会に招き、勤音に挑戦する。しかし、音連の活動の裏には、財界があるとはいえ、その協力には限界があり、金のかかる海外有名楽団の招聘、赤字覚悟の安価なチケット、等々は、次第に音連の経営を財政的に圧迫していく。とくに、勤音の例会・世界的に有名なロシアのバイオリニスト・サベーリエフの公演の成功と会員数の増大は、門林の危機意識に拍車をかける。音連は財政的にも、公演プランの面でも、危機的な状況にあった。門林は強力なプランナーを求めていた。門林は、勤音の名プランナー流郷に声をかけ、多額な給料と良好な待遇を餌に流郷を音連に引き抜こうとする。流郷自身は、音楽愛好家の集まりであり本来政治的には無関係な筈の、勤音内部に密やかに進行する政治的偏向と、人民党への裏献金があるのではないかという疑惑を感じており、それが自分とは全く無関係な、勤労内部の、政治的フラクションで決定されていることへの疑問と怒りを感じていた。その疑惑を解明することが先であり、さらに音連の右より体質、門林に対する嫌悪感等があったので、その誘いを拒否したのである。門林は諦めきれず、いつまでも待つという。
 門林は上本町9丁目あたりの閑静な住宅街が立ち並ぶ一角に妾宅を構えていた。そこに和代という、芸妓上がりの女性を妾として囲っていた。此処で過ごす時間が門林にとっては唯一の憩いの時間であり、日頃の疲れを癒していた。そこには本妻のいる実家では味わうことの出来ない自由な時間があった。和代は習い覚えた小唄などを披露して門林の無聊を慰めていた。そんな和代が妊娠する。その事により、和代は、門林との関係は義務的なものから、愛情を持つ関係に代わっていく。門林は、そんな和代を、より一層愛するようになり、いずれ生まれてくる子供は認知しなければならないと思う。そんな生活に門林は満ち足りていた。しかし、和代の弟で、勤労の職員でもある菊村俊一は、妾である姉の存在を恥じており、門林の子供を身ごもった姉に対して「門林のような化け物の子供は堕せ」と叫び、姉の腹を蹴る。門林に対して罵詈雑言をあびせる俊一に対して適当にあしらっていた門林もさすがに怒りを爆発させる。「おれは反動の親玉かもしれないが、人間の心は持っている」「とっとと帰れ」「二度と来るな」と叫ぶ。門林には人間的な優しさはあったが、俊一には姉の日蔭者としての境遇の悲しさ、切なさを全く理解出来ない紋切り型の左翼の活動家に過ぎなかった。左翼の思想は、本来、人間的な優しさから始まっているのである。その基本を忘れたところに社会主義諸国の崩壊がある。
音連の活動は人民党のフラクに固まり、流郷を追放した勤音との対決をますます強めていくであろう。

 野々宮
 音楽文化協会と云う、クラシック専門の団体を割って「音連」の基礎作りをする。音連の事務局長。

 黒金恒雄
 日本レーヨンの総務部長。門林の片腕。

  東京勤音関係
 鷲見
 東京勤音の事務局長

  門林雷太関係

 門林雷太 記載済み

 門林松子
 門林雷太の本妻。3人の子持ち。長男の恭太、長女の藤子、この二人は既婚者であり子供もいる。藤子は夫聡一郎の浮気には悩まされている。末娘の桃子はまだ大学生を卒業したばかりで独身。父親をからかって「右翼のボス」と呼ぶ。そんな桃子を雷太は可愛く思う。
 妻である松子は夫が外に妾を囲っている事を知りながら、詮索をしようとしない。嫉妬をするのは本妻としてはしたないと思う。男は、仕事の欲望を湧かせるためには家庭を犠牲にしても仕方が無い、と父親に教え込まれている。女にとってはそれが男の勝手な理屈だと思いながらも納得している。おそらく彼女の父親も実業家であり、閨閥結婚であろう。外に女を囲っているに違いない。そうでなければ、彼は松子の父親である。娘の夫の不業績を許すわけがない。

 和代とその弟・菊村俊一
 菊村和代は門川と云う「日東レーヨン社長」の囲われ者である。
上本町9丁目にある門林の別宅に日蔭者の妾として、過ごしている。
和代が19歳、弟の俊一が8歳の時、両親を失い、たった一人の身寄りである子だくさんの貧しい叔母の家に引き取られ、弟の食費と高校を卒業するまでの学費を作るために芸者に出る。それから3年目に門林に落籍されたのである。叔母は借金を作っており、それを肩代わりする必要もあって、囲われ者のお妾さんになったのである。それにもかかわらず弟の俊一はそんな姉を恥ずかしく思い、貯金をして門林の影響から脱出せよという。しかし、芸妓生活と、囲われ者の生活しか知らない和代は途方に暮れる。彼女に出来る事は芸妓時代に覚えた習い事以外にない。お客を喜ばすことは出来てもプロとしてお金を取れるかどうかは心もとない。そんな状態で独立して世間の荒波に耐えていけるであろうか?それよりも日蔭者の生活は気楽であり、安心であり、歳とった女中さんも付いており、生活の心配はない。名を捨て、実を取る生活を続けている。そして門林の子を身籠る。和代は門林に愛を感じ始める。女の性の悲しさがそこにはあった。そんな姉の姿に俊一は怒りを感じる。高校を卒業してから俊一は姉の援助をきっぱりと断り、日新工業に勤める傍ら、夜間大学に通い勉学にいそしむ。勤音の会員でもある。アコーデオンを唯一の愉しみにし、勤音のレクレーションには絶えず参加しアコーデオンを奏で、踊りを楽しむ。踊って歌って恋をして勤音ムードに浸り、ピンクムードを楽しむ。それが左傾化していくための第一歩であることを俊一は知らない。それ故に、だんだんと左傾化していく勤音の姿勢には疑問を呈し「僕は勤音は、あくまでも勤労者のための音楽鑑賞団体であって、その自主性は断固守っていかねばならない」と主張する。
 しかし、音連と云う門林が陰で操り、勤音に対立する音楽団体の人間と乱闘事件を起こし、警察に捕まり、音連関係の人間が門林の裏工作によって、早々に解放されたにもかかわらず、自分は何日も拘留され流郷による身柄引き受けまで、解放されなかったことから、権力と企業の結びつきを感じ、次第に左傾化していく。この事件で彼は日新工業を解雇され、流郷の計らいで勤音の職員として働くことになる。そんなことから流郷に対しては特別な親近感を持つ。しかし流郷は、この事件を契機に紋切り型の左翼思想にかぶれていく俊一の思想傾向に危機感を持つ。そして自分の書斎の書棚に並ぶマルクス主義の基本文献である「資本論」や「ドイツイデオロギー」の古典を指さし、古典を読むことの重要性を聞かせ、「学習会」で人民党の傾向的作者による、古典のダイジェスト版しか読んでいない俊一を窘める。しかし、俊一は、江藤済子等の人民党フラクションの命令を重要視し、勤音は自主性を持たねばならないという立場から、会員の意識を高め啓蒙し、一定の方向に導いていかねばならないと云う立場に次第に近づいていく。それが勤音の使命であると考えるようになる。しかし、流郷はそんな俊一に危機感を持つ。そして云う。「指導啓蒙とは誰に云っているのか、それは大衆を馬鹿にしている言葉ではないのか? 大衆の考え、意欲、夢や希望をくみ取って、それを実現していくことこそ、大衆路線であり、それが勤音の使命であり、それを無くしているから、一般会員と上層部の間にギャップを生みだしているのではないのか?そして流郷は、指導、啓蒙などと、大所高所から物を云う、今の勤音の一部人民党のフラクションの姿勢を激しく批判する。更に言う。「勤音は一党一派に偏しない立場を維持し、人民党の所有物であってはならない」と。そして「会員大衆を忘れた組織活動はあり得ない、大衆を馬鹿にするものは、何時かは大衆によって葬りさられるであろう」と。
 しかし、そんな正論は俊一には通じない。全員が人民党員であると云われている、民俗芸能の継承を由とする劇団「つくし座」を訪問し、その生活を見て、労働と学習が一体化している人民公社的な集団生活があることを知り、感動する。その報告から、次回の例会は「つくし座」の公演と決定する。
 中ソの対立は、人民党内部、その親派である勤音にも影響を与え、対立は激化する。中国派が勝利を勝ち取り、そのあおりを受けて流郷は勤音から追放される。俊一は流郷に対して「自己批判をして勤音に戻れ」と云う。間違っているのはあなたであって勤音ではないと云う。俊一は「立派な」活動家に育っていた。流郷は、ため息をついて、何も云わずに俊一のもとを去っていった。そこには偏狭なドグマチズムに犯された一人の人間に対する憐れみがあった。

  その他
 千田 某
 協和プロと云う芸能プロダクションの経営者。名よりも実利を取る、音楽が判り、興業の分かる、典型的な商売人。勤音の企画部責任者・流郷と仲が良い。勤音に食い込み商売を成立させている。流郷もその一味違う興業手段には一目置き、利用している。相身互いの関係である。どこか憎めない、おおらかな人柄である。
 クラシック専門のマネージャーから転身し、今は、小難しいクラシックよりも若者向けで、感能で聴かすポピュラーの時代と考え、ジャズを中心とする協和プロダクションを立ち上げる。そのプロダクションにジャズ畑の有能なタレントを抱え、その卓越した経営能力で、新しいマーケットを次々と開拓し、一介の音楽青年から、43歳で十数人のタレントを抱えるプロダクションの経営者になる。右にも左にも顔を利かし、勤音にも、音連にも深く食い込み、如才なく付き合う。政治的立場は決して明かさない。それは商売上不可欠な要素だと考える。「自分は反ソ、反中、反米だ」と云う流郷に対し、「自分も同じだ」と親しみを示す。しかし流郷はちょっと違うと思う。
 千田は、勤労や音連のような芸能連盟に、所属のタレントを供給し、さらに会場の借り入れなどを含めて一括して受注するなどを生業としている。

 以上でこの作品「仮装集団」の紹介を終える。この作品には政治の手に操られる音楽集団の中に潜む、様々な人間の不気味なエネルギーが上手く表現されている。人民党は日本共産党をモデルにしているが、取材拒否などに会い、書きにくい作品だったと作者は述べている。
1966年1月から翌年2月まで週刊誌<週刊朝日>1967年4月に文藝春秋から単行本で刊行された。1975年に新潮文庫版が、2006年にはは新装版が刊行されている。

 次回は第147回芥川賞受賞作品、鹿島田真希作「冥土めぐり」を予定している。乞う、ご期待。

   山崎豊子作『仮装集団』 新潮文庫 新潮社版

山崎豊子作『女の勲章』虚栄と虚名の結果

2012年08月01日 | Weblog
★☆・女の勲章 山崎豊子作(上)(下)

 登場人物

大庭式子
聖和服飾学院の院長、有名なデザイナー
大阪の老舗の集まる船場のラシャ問屋の長女として生まれる。典型的なお嬢さん育ち。戦災で若くして両親を失う。残された財産を叔父に売り渡し自らを船場の持つ重苦しい暗い雰囲気と、両親の和物へのこだわりから解放する。「私は煩わしい、仕来たりや因習にとらわれない近代的な世界に憧れているのよ」と、云い、神戸・魚崎に生徒数100人近い、こじんまりとした洋裁学校を立ち上げ、そこの院長に収まる。その後、八代銀四郎という野心家の協力を得て、大阪に本校を置き、京都と甲子園に2つのチェーンスクールを持つ生徒数2500人を超える京阪神第一位の聖和服飾学院を足掛け4年という短期間で作り上げる。そこには銀四郎の協力はもとより、3人の美人講師、津川倫子、坪内かつ美、大木富江の協力があったことを付記せねばならない。ここに至る過程は、式子にとっては汚辱と、虚栄に満ちたものであった。銀四郎と関係を持ち、心ならずもその関係を続けていく。船場育ちという誇りと自尊心は事業の拡大に幻惑されて、失われつつあった。女ばかりのデザイナー界に身を置き、ねちねちとして、嫉妬と欲望の渦巻く、えげつの無い世界に染まっていく。銀四郎と関係を持ちながらも式子は本当の愛を求めていた。そんなとき式子の前に現れたのが、白石教授であった。

八代銀四郎 
八代商店の4男坊。大阪弁を流ちょうにこなす人もうらやむほどの美男子。終戦直後に国立S大学文学部仏文科を、大学に残れとまで言われた優秀な成績で卒業する。一流企業に勤めるが、退職。一時家業の男ものの服地問屋の卸を手伝う。取引先の聖和服飾学院に出入りするうちに、大庭式子院長の頼みにより、フランスモード雑誌の翻訳や、生徒のフランス語教育に、務めるうちに、次第に聖和服飾学院の職員のような存在になり、その経営手腕を発揮する。
彼は洋裁学院を単なる洋裁教育機関と考えず、一つの企業、洋裁企業として割り切り、やりようによっては洋裁学校ほど利益率の良い企業は無いと、いう哲学のもと、聖和服飾学院の規模拡大に努め、自分の哲学を立証すると同時に自分の野心の実現をも図る。その為には手段を選ばない。津川倫子、坪田かつ美、大木富枝という聖和服飾学院の講師美人3人娘の虚栄心に満ちた欲望や野心に形を与えるため、それぞれに新設された分校の院長職を与える。その代償として3人の身体と、その働きを我が物とする。それだけでなく、院長の大庭式子にまで手を出し、事実上の経営者となる。船場育ちのお嬢さん院長大庭式子に代わって、卓越した経営手腕を発揮し、場末の小さな洋裁学校を、4年という短期間に、4つの分校を持つ阪神一の洋裁学院にまで、のしあげる。虚栄と虚飾、打算と欲望が渦巻くデザイナー界を巧みに泳ぎ回り、自身の野望の達成に腐心する。その見境のない、嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。最初は自分を嫌う3人娘を、関係を持つことによって籠絡し、自己の野心達成のため利用する。

津川倫子
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。3人の中では最年長。彫りの深い、端麗な顔を持つ。洋裁学校卒業時にその才能を買われて講師になる。デザイナー志望の野心家。一人暮らしをしているが、野本啓太という恋人を持つ。彼は聖和服飾学院の取引先・三和織物の社員であり、その取引を通じて恋人になるが、次第にその付き合いが煩わしくなる。そこには銀四郎の存在があった。銀四郎は、聖和服飾学院の大阪本校を建設し、その院長に式子を選ぶが、東京支店となった、従来からの聖和服飾学院甲子園分校の院長に倫子を推薦する。そこには銀四郎との取引があり、その代償に身体を提供し、その後の協力を要請される。野本啓太と所帯を持てば家庭的な幸せは保証されるが、そんな平凡な家庭人になることを拒否しデザイナーとして自立することを夢見、銀四郎との関係を隠して野本啓太との関係は維持する。仕事の上で三和織物との関係を維持するためには、野本啓太との付き合いは必要不可欠であった。ファションショーや学校建設のための協賛金を得るためには、野本啓太を三和織物の窓口にする必要があった。利用するための付き合いであると分かっていながら、野本啓太は、黙って倫子に協力する。その啓太の心を推し量り、心の痛みを感じるが、自分の野心を達成するためには、銀四郎の助けを必要とする。銀四郎と組んで経理をごまかしたりする。式子はそんな倫子を裏切り行為を警戒する。利に聡い典型的な現代娘である。愛(野本啓介)か出世(有名デザイナー)かを両天秤にかけ、虚飾の世界を生き抜く。何時か式子を追い抜く夢を持つ。

野本啓太
三和織物の社員。母親と2人暮らし。武骨で頑丈な男性。野暮くさい田舎者、営業マンにもかかわらず無口で応対下手。倫子が仕事の関係で訪れた時、常に応対に出る。無愛想だが心の温かさを持つ親切な男。そんな素朴さに魅かれ倫子は好意を持つ。いつしか恋人となり。月に何回か倫子の住まいを訪れる。彼女との結婚を夢見る。しかし、倫子との関係は次第に疎遠となる。結婚に対する熱意は異常で、彼とのつきあいに倫子は次第に煩わしさを感ずるようになる。更に倫子と銀四郎の関係がそれに拍車をかける。銀四郎は三和織物との関係を重視しているので、適当に相手をするよう倫子に求める。何回か開催されるファションショーや新学院建設への協賛金を得るための三和織物の窓口として利用される。それ故、利用するときのみ付き合いをする倫子の不実を感じながらも、それに文句も言わず、上司に取り次ぐ。馬鹿と名がつくほどの誠実な男。勿論その協力の裏には倫子との結婚という希望があったが、結婚をあきらめた段階でも、倫子に協力する。この作品の良心として現れる。

坪田かつ美
聖和服飾学院の講師・美人3人娘の一人。厳格な銀行員を父に持つ。中学生の妹の3人暮らし。母親は若くして死亡。赤顔に紅い縁取りの眼鏡をかけた美人。デザイナー志望。仕事はビジネスライクにてきぱきとこなす、優秀な講師。それ故、生徒の受けは良い。最初は嫌っていた銀四郎と関係を持ち、その代償として聖和服飾学院京都分院の校長となる。銀四郎との結婚を夢見る、純な心も持つ。銀四郎はそんなかつ美を上手く利用する。銀四郎は結婚と、分校の責任者という2つの餌を通じて、かつ美を利用し、自分の野心を遂げようとする。かつ美はそれに乗せられる。

木下富枝
聖和服飾学院美人講師3人娘の一人。袋物屋の娘。古き船場の生活に憧れを抱き、それからの脱却を図る式子には批判的。古風な面を持つ。
富士額が美しく、色の白い、ぽッちりとした顔に、小さな受け口が可愛く、印象的。もどかしいほど、ねそっとしているが、仕事は完ぺきにこなす。大阪弁を使う。授業で大阪弁はまずいと注意されても一向に気を使わない。何を考えているか分からない油断のならない面を持つ。デザイン感覚には難があるが、縫製技術には定評がある。それ故、縫製工場を持ちたいと云う夢を持ち、倫子、かつ美が銀四郎と関係を持ち、聖和服飾学院の甲子園分校、京都分校を手に入れたのを見て、次は自分の番だと確信する。銀四郎に身体を任せ、縫製工場を作らせ、我が物とする。それはジャン・ランベールの型紙を縫製仕上げして、日本デザイナー界に紹介したいと云う式子側の要求とも一致していた。式子も自前の縫製工場を求めていた。両者の利害が一致する。富枝はちゃっかりと、それに乗じたのである。
富枝には、名声とか人気とかという当てにならない虚名には一切興味は無く、実利を求める堅実さがあり、その点では、倫子、かつ美とは異なっていた。いつも陰の存在であり、大人しく、目立たず、表面に出ることは無く、会話では聞き役に回っていたが、それでいて裏も表も知り尽くす洞察力を持っていた。しかし、それを他人に気づかせない処世術にも長けていた。その為、式子も、倫子も、かつ美も彼女に対しては油断があった。銀四郎と3人の関係を探り出す。それぞれは、それぞれ銀四郎との関係は自分だけと信じていたが実際には四分の一だったのである。それを式子にバラすと銀四郎を脅かす。

きよ 
 大場家の古くからの家付の女中。両親の死後も式子の面倒をみる。
大原泰三
 洋裁学校連盟理事長、大原ドレスメーカー学院の経営者。大原京子の夫。 
大原京子
 大原泰三氏夫人。大原ドレスメーカー学院の院長。服飾界に大原閥を作り権勢をふるう。
井上民子
 創備服装学園園長。大原京子の弟子。
安田兼子
 双葉洋裁学院院長、この道25年のベテラン。大原京子の弟子。
伊藤歌子
 式子の理解者、妻子持ちの彼氏を持つ。大原閥に敵意を持つ。後に晴れて妻子と別れた彼氏と結婚する。
曽根英雄 
 八代銀四郎と共に白石教授の教え子B新聞社の文化部の記者。この小説の良心として現れる。
白石教授 
 国立S大学文学部仏文学科の教授、八代銀四郎、曽根英雄は弟子。聖和服飾学院の理事。
園田 パリ駐在員。
 三和織物パリ駐在員 ジャン・ランベールの型紙購入に式子に協力する。

梗 概

何とも、まあぁ救いの無い作品である事よ。勧善懲悪であれとはいわないが、もう少し何とかならないのかと思ってしまう。悪が栄え、善が滅びる、それこそ典型的な小説である。それが現実というものであろうか?善が勝ってほしいという期待は見事に裏切られる。
国立の有名大学仏文科を優秀な成績で卒業した八代銀四郎という男性が副主人公である、いや主人公といっても良いかもしれない。大学に残れとまで言われながらも、それを蹴って大庭式子が院長を務める聖和服飾学院に入り込み、式子のマネージャーとして活躍し、女の持つ打算と虚栄心に付け入り聖和服飾学院を、場末の小さな洋裁学校から、阪神一の洋裁学院にまでに仕たて上げる。八代銀四郎は現代の英雄といっても良いかもしれない。その嫌らしさ、えげつなさは目を覆うばかりである。院長である式子、教師である倫子、かつみ、富枝の三人と肉体関係を持ち、自分の野心を遂げようとする。女たちも彼との関係を通じて自分の野心を遂げようとする。相身互いである。式子自身そんな自分を恐れ、銀四郎の影響から離れようと試みながらも、銀四郎の若い肉体、その卓越した商才、銀四郎のもたらす華やかな名声と贅沢な生活、全てが女の現実的な虚栄と欲望に繋がっていた。そんな彼の力に式子は引きずられていく、心の弱さを持っていた。それ故、栄光には歓喜する。そして頂点へと上り詰める。一方でそんな自分が虚しい。彼女は本当の愛を求めていた。銀四郎との関係は単に肉欲と打算の産物に過ぎなかった。そこには愛は無かった。そんなとき彼女の前に現れたのが、国立S大学仏文科の白石教授であった。教え子の銀四郎の紹介で聖和服飾学院の理事となる。そんなところから式子との関係が生まれる。
作者は、デザイナー界という女だけの、嫉妬と、虚栄、打算と欲望に満ち溢れた世界を見せつけ、その栄光と虚構を描く。しかし、その栄光の陰には破滅があった。
この作品の良心として作者は、曽根英雄と白石教授を、銀四郎たちの世界の対極に置く。しかし、あまりに弱弱しい。銀四郎と彼を取り巻く女達の欲望と野心の前には何もなしえなかった。
曽根英雄、銀四郎と大学同期。白石教授のもとで共に学ぶ。B新聞社の文化部の記者。式子に好意を寄せ、銀四郎との付き合いに疑問をもち、あくどく稼ぐ銀四郎に対しても批判的である。そして言う『デザイナーというのは何処までも純粋に一つの新しい服飾造形、デザインを創造していく人ではないのですか?パリのデザイナーたちは、そうした服飾デザイナーとしての立場がはっきりしていますね。だから大きな洋裁学校や沢山の弟子を擁していなくても、いいデザインを作りだす人は立派なデザイナーとして遇せられていますね』と式子と銀四郎の拡張主義を批判する。デザイナーとしての本来の姿に返れと示唆する。
白石教授、どこか寂しげで陰のある人物。その姿は、どこか人を寄せ付けない冷たい孤独があった。悲しい過去の存在を連想させた。デザイナー界には存在しない、真摯に人生に向き合う静謐な姿がそこにはあった。式子は、そんな教授の姿に魅かれて恋をする。彼の過去には妻の情死という悲しい物語があった。学問に熱中するあまり、妻の存在を忘れたところに原因があった。妻は自分の教え子と関係を持ち、それを苦にして、その学生と志摩半島の波切りの岬で海に身を投げて情死した。彼は学問を愛すると同じくらいの情熱で妻を愛していた。しかし、形を伴わない愛は、愛では無かった。一つの抱擁、一つ優しい、いたわりがあったら、妻を情死に追いやらなかったに違いない。そんな無残な過去が彼を孤独に陥れていた。裏切りの無い学問の世界に没頭していった。彼の心の扉は固く閉ざされていた。しかし、そんな人を寄せ付けない冷やかな厳しさの中にも式子に対しては静かな、じっと見つめる眼差しがあった。妻の情死に接して、彼は人生とは何か、愛とは何かを真剣に問うた結果、式子の愛を受け入れようとしていた。そして式子の教授への真摯な愛が徐々に彼のかたくなな心の扉を開いていった。静かな、見詰める愛から、きつく抱きしめる愛を想うようになっていた。
式子はフランスの世界的に有名なデザイナー・ジャン・ランベールのコレクション(作品の発表会)に参加した後、彼の制作した型紙のセレクトと、購入のためにパリへと旅立つ準備をしていた。
ジャン・ランベールのデザインは、今までのデザイナーでは考えられなかった立体的製図と裁断を基礎にして、複雑な巧緻な縫製によって仕上げられていた。そのデザインの型紙を買い、それを日本で組み立て縫製して、完成されたパリ・モードを日本に紹介しようと式子は考えていたのである。
一方白石教授もパリで開催される、国際仏文学会に出席し、その後一カ月程、ヨーロッパを巡り帰国するという。そんな情報を曽根英雄から式子は得ていた。既に教授は、日本を発ったと云う。
式子はパリで白石教授に出会える喜びに身を震わせる。と同時に銀四郎との汚辱に満ちた関係を思い、それが白石教授の知ることになることの恐れで身を震わせる。「教授はわたしを許してくれるだろうか?」。彼女は苦悩する。
ランベールの型紙を縫製し、紹介するファションショーを終えた段階で、式子は銀四郎との仲を清算し、白石教授との結婚を夢見ていた。
彼女はパリに旅立つ。式子は一国一業者販売、二重売りはしない、という、ジャン・ランベール側の条件のもと、日東貿易という商社と競合関係に立つ。式子は溺れる者は藁をも掴むの心境で全く畑違いの白石教授の助けを求める。教授は何らかの考えがあるらしく、快く引き受ける。
日東貿易は、所詮、商社に過ぎない購買に成功しても、どこかの織物会社を相手にしなければならない。ジャン・ランベールは芸術家であって、商売人ではない。「買い入れ側はジャン・ランベールの指示する方法と水準の縫製をしなければならない」と義務付けている。高く買えばよいと云うものではない。その点では、式子の経営する聖和服飾学院には優秀なスタッフと、高度な技術がある。白石教授は、知人であり、ジャン・ランベールの知人でもあるデザイン画(フランス人)の専門家を通じて、ジャン・ランベールと交渉する。
ジャン・ランベールの主催するコレクション(作品の発表会)が終わった段階で、式子はジャン・ランベール本人に呼ばれる。式子は日東貿易を退けて、型紙の購入に成功する。白石教授は、式子とそれを支えるスタッフの優秀性を保証し、信頼に足ることを強調したのである。それをジャン・ランベール側も認めた結果の契約の成立であった。そこには白石教授に対する尊敬と信頼性があった。ヨーロッパにおける大学教授という地位の高さと尊敬が、信頼性となって実現したのである。そこには大学教授の持つ権威があった。そんな事実が、式子が教授を敬い、愛する心をいっそう深めたのである。
コレクションの後、白石教授と式子は食事をし、共に、喜びを分かち合った。
しかし白石教授は式子を無視して、イギリスへ旅立っていく。2ヶ月後の3月にはパリにもどるという便りが届く。式子は教授の帰国の日を待つことにする。式子にはジャン・ランベールの型紙の購入が成功した今、パリに残っている理由は無かった。予定の3月になっても白石教授は戻ってこなかった。何をしても落ち着くことは出来なかった。式子は不安と焦燥の中で、自分を失いそうになっていた。式子は白石教授の愛が欲しかった。それは生れてはじめて人を愛した式子の魂を揺さぶる感情であった。静かな深い愛情よりも、激しく抱きしめる愛情が欲しかった。そんな中電話がかかり白石教授の帰国が知らされた。待ちわびた電話であり、喜びを全身にみなぎらせて応対したが,白石教授はあくまでも冷たいぐらいに冷静であり、モンマルト近辺を散策しようと式子を誘った。
その後、白石教授はまたもや式子を無視してポルトガルの首府リスボンに旅立っていった。式子はそれを追う。それ以前に式子は銀四郎からの帰国要請の手紙を受け取っていた。いつまでたっても帰国しない式子にイラついての結果であった。式子はそれを無視して旅に出る。もっとも会いたくない男からの帰国要請だった。打算と欲望、虚栄と虚飾の渦巻く銀四郎を取り巻く世界には式子は戻りたくなかった。そこには穢れなき純粋な心をもった男性=白石教授を求める気持ちがあった。
リスボンにおいて初めて式子は白石教授と結ばれる。愛する人による愛撫が、このように優しく深いものであるかと愕かされる。それは銀四郎の技巧に満ちた激しい愛撫とは比較にならぬほど、静かで優しいものだった。白石教授は激しい心の葛藤を耐えるためにリスボンの片田舎に逃れてきたのであるが、その葛藤から解放された、今、ほとばしるような熱情をもって式子の身体を求めた。式子はその愛をしっかりと、全身で受け止め白石教授の幅広い胸に熱く唇を押しつけた。式子は幸せだった。しかし不安であった。銀四郎の事が頭から消えなかった。許しを請い清算しなければならなかった。白石教授と結ばれた直後に、式子は自分の汚れを告白しようとしたが、それを聞くのを教授は拒否する。得体の知れない不安と恐れが彼を包んでいた。それを聞いた時、白石教授は彼女を許してくれるであろうか?銀四郎は金づるである彼女と別れてくれるであろうか?白石教授は、自分の責任で妻を情死に追い込んだことを反省しながらも、不倫を犯した妻の汚れを許してはいなかった。そんな汚れを許さない潔癖な彼を見つめて、式子は恐れおののいた。彼は、式子の心と、体の、汚れ無き純潔を信じていた。それ故、その後、白石教授と銀四郎が対決する、その時まで、その汚れを告白することが出来ずにいた。式子は白石教授を失いたくなかったのである。
二人はその後、ポルトガルの西海岸沿いの、田舎町を10日間かけて歩き、その旅情を楽しみ、今、リスボンの街に帰りつき、その旅の思い出に浸っていた。2人は幸せの絶頂にあった。しかし、この幸せを最後にし、不幸のどん底に堕ちていくことを神ならぬ身、知る由もなかった。
銀四郎は自分の帰国要請を無視し、いつまでも帰国しない式子に苛立ち、パリを訪れていた。式子と白石教授がポルトガルへ出国したことを知り、パリ・オリオール北空港でポルトガルへの出国便を待つ間に、ポルトガルからのパリへの戻り便に2人の姿を認めたのである。
白石教授と銀四郎は対決する。自分の「女」を奪った白石教授を銀四郎は嫉妬と憎しみを込めて面罵する。白石教授は、この時、始めて式子が銀四郎の「女」であったことを知って驚愕する。式子は泣いて謝罪する。白石教授はそれを無視し、黙ってその場を立ち去っていく。『行かないで!先生』式子は叫ぶように云い。身体を翻した。白石教授は式子の方を振り向き、怒りとも恥辱とも、憐れみともつかぬ苦渋に満ちた視線で、真正面から式子の顔を見据えると、そのまま扉を押した。しかし、その後ろ姿の冷たさと、孤独に満ちた姿には近寄りがたい厳しさがあり、式子は立ち止り、茫然とそれを見送った。
白石教授は苦悩する。式子の持つ汚れを絶対に許せぬ潔癖さがある反面、深く彼女を愛している自分を感じて煩悶する。式子の苦悩を感じて、許せる気持ちになる。愛は強かった。
一方式子はポルトガルでの10日間の静謐な白石教授との結び付を思い、もはや教授なしには生きられない自分を感じていた。跪いて許しを請い救われる以外ないと思った。
銀四郎と式子の二人は日本へと向かう。白石教授も同じ時期に日本へと出国する。
羽田空港では新聞記者、モード雑誌の記者たちが集まって、式子たちの帰国を待ちわびていた。ジャン・ランベールの型紙購入の成功の報告と感想を聞こうと犇めいていた。帰国報告の後、式子は宿泊先の日活ホテルに到着する。その場で成城にある白石教授に電話し面会を求めるが優しく拒否され、後日ということになる。
式子にはジャン・ランベールの型紙の縫製と、その発表という仕事が控えていた。銀四郎は教授と会うのはランベール・ショウが終わるまで待てという。仲を清算したいと云う式子の願いは「あなたは僕の財産だから簡単には承諾できない」と拒否する。二人は大阪本校に戻る。
学会の仕事で白石教授が京都に来るという情報を式子は曽根から聞く。
式子は白石教授と京都で会い、話をする。白石教授は煩悶の結果、式子の苦しみを知って式子の汚れを許せるようになったという。それはあくまでも愛の力であった。しかし、銀四郎との仲を清算しない限り、二人の結婚は無いという。そして、あなただけに解決を背負わせるのは心苦しいので、自分も銀四郎と会いたいと云う。そして優しく式子の手を握り別れていった。
そして再度、銀四郎との対決の日が来る。
式子は両親の残した魚崎の家と、聖和服飾学院の甲子園校だけ残して、銀四郎の手腕によって得たものは一切銀四郎に与え、望むなら、倫子、かつ美、富枝にも銀四郎に代わって慰謝料を支払い、彼女たちを幸せにすることを考えていた。

ジャン・ランベールの30体に及ぶ型紙を縫製仕上げして、それをファションショウとして発表する舞台は成功裏に終わる。一日目はフロアーショウであり、新聞記者、モード雑誌の記者、服飾関係者等々を集めた内輪のものであった。白石教授も招かれ熱心に鑑賞していた。
式子と銀四郎は白石教授の待つ特別室を訪れる。
3度目の対決である。
白石教授は云う「--------式子さんを私の生活の中に向かい入れようと思うのだが」
銀四郎は応じる「つまり、はっきりと結婚しはるという訳ですか?」
白石教授はうなずく。
式子は、甲子園校を残してすべての学校を銀四郎に与え、彼との仲を清算しようとする。しかし、銀四郎はそれを拒否する。「担保に入ったり、債務を負った学校ばかりもろうても、仕様がおまへんわ」「--------、大阪本校には2千万円の学校債権の債務、京都校はビルの持ち主と提携して、信用保証協会の保証でビル内の教室面積と器具設備を担保に入れて、東京の池袋の校地買い入れの資金に当て、池袋の土地は鉄筋コンクリート5階建て、星形校舎の資金繰りに、これも抵当に入ってますさかい、あんたが今、僕にくれはるつもりのものは、全て債務を負うた担保物件ばかりで、清算勘定にはなりまへんわ」とうそぶく。「私に無断で、あなたが勝手に借りた負債は、私から学校の経営を引き継いだ後、あなたの責任で返済していくことだわ」式子は怒りを込めて反論する。「ところが学校法人・聖和服飾学院長大庭式子の名義で借りている負債でっさかい、あんたは法律上の返済義務があるわけだす、従ってあと3年間、院長として働いて、学校の負債を片付けてから僕に進呈してくれはるか、それがお嫌なら、至急、白石教授と返済方法をご協議いただくことですな」「--------、式子さんは、今や僕のかけがいのない財産でっさかい勘定の合う清算をしてもらわん限りは、綺麗に引っ込めまへんから、先生もそのおつもりで、考えおきをしておくれやす」とうそぶく。白石教授は怒りを込めて銀四郎に「出ていけ」と叫ぶ。銀四郎は薄笑いを浮かべて出ていく。デザイナーとしては優秀であっても、経営に関しては素人でありすべてを銀四郎の経営手段に任せていたところに式子の誤算があった。銀四郎との仲を清算し、白石教授との新生活を営むという夢は無残にも覆され、銀四郎の企んだ罠からは逃れられない自分を式子は感じた。
「諦めよう!」白石教授は式子に云う。そして二人の会話を聞いて、二人は所詮、同じ汚れた世界に住む人間であると感じたという。そうしてそういう汚れた世界は自分とは無縁の存在だと、云い放つ。そこには妻の情死に会い、その妻の汚れを許せない潔癖さがあると同時に自分の静謐な学問の世界を犯そうとするものに対する恐れと冷たさがあった。それは彼一流のエゴイズムであった。その愛は、あくまでも限られた枠内のものであって、もはや式子は、その枠外の存在であった。
それを知って式子は絶望する。白石教授はもはや自分のもとには帰ってはこない。求めていた生きがいを失った式子は、過酷な現実から逃れて一人になりたかった。彼女は大阪に向かう。頭の片隅にジャン・ランベールショウの事が通り過ぎた。ドタキャンすることの恐れはあったが、自分がいなくとも、倫子がおり、かつ美がおり、富枝がいる。彼女たちは協力して自分の代わりを務めてくれるであろう。彼女たちは立派に育っていた。
式子は、甲子園校に入り、マネキン人形と向き合う。そこには、高価な衣装をまとい、気取った帽子をかぶり、胸に勲章のようなネックレスをつけた華やかな姿があった。式子は紙に自分の似顔絵を描き、マネキンの顔に貼りつけた。それは虚栄と虚飾、欲望と虚名を追い求めた自分の醜い姿を象徴していた。式子は裁ち鋏を振り上げ、マネキンに突き刺した。ずたずたに切り裂いた。それは汚辱と、虚栄に満ちた自分との決別であった。
そしてその鋏を、何のためらいもなく、自分の喉に突き刺した。鮮血が飛び散り、式子は床に倒れた。
それはジャン・ランベールショウの始まる直前であった。式子自殺の知らせを大阪の富枝から受けた銀四郎と倫子は激しい衝撃を受けたものの、その衝撃を跳ね返し、ジャン・ランベールショウを成功裏に終了させねばならなかった。倫子にはそんな図太さがあった。式子は「病気」と云うことにし、その代わりを倫子が務め、無事、かつ盛大にショウは終了する。
銀四郎はショウの終了後ただちに大阪に向かい、式子の死体と対面する。その死体は静かで穏やかであった。苦しみの表情は無かった。病院で息を引き取ったので、事件性は無いとみなされ、死体は聖和服飾学院に引き取られた。ジャン・ランベールショウが成功裏に終わった後の記者会見ではそのことが問題になる。銀四郎は例の処世術で難なく切り抜ける。
聖和服飾学院を取り巻く環境は式子がいなくなっただけで何も変わらなかった。式子の残した聖和服飾学院は、その経営は銀四郎が引き継ぎ、式子の代わりに倫子が院長になった。聖和服飾学院は、銀四郎が倫子を操り今後もますます発展していくであろう。
富枝は云う「「-----(式子先生)が一番損をしはったわ、先生の後を狙いつづけていた倫子さんが一番得をし、かつ美さんも今より以上の地位が約束され、私は私名義の縫製工場がちゃんと自分のものになっていて、それぞれ自分なりの得をしてるわ。先生だけが、やっぱり良家の嬢(いと)はんらしく、鷹揚な抜け方で、一番損をしはったわ」
銀四郎は云う「おれは大庭式子の欲しがった虚栄を与え、胸に勲章を飾り立ててやるように名声と富を築いてやったのだ。いわば俺は女の勲章を製造し、それを女の胸にぶら下げさせて、おれの商売にしてきただけのことだ、大庭式子は、自分の勲章が気に入らなくなったからといって、なにも死ぬほどのこともないのだ。気に入らなければ勲章を取り換えさえすればよいのだ--------」と。要するに相身互いであって、お互いに利用し合って富を築きあげて来たことの何が悪いのかと云う。俺には責任は無いという。それが女だけの、虚飾と虚栄に満ちた世界を渡り歩く処世術なのだという。白石教授のことも所詮は世界の違う人間同士の付き合い、もともと結ばれない運命だったのだという。
この作品は嫉妬と欲望、虚栄と虚飾に満ちたデザイナー界に一人の野心家・八代銀四郎という男が介入し、女たちの欲望に乗じて、その体を我が物にし、その女たちに確実な形を与え、その代償として自らの野心を達成していく、出世物語であると同時に、若い男の身体と、その男のもたらす富への誘惑に引きずられていく、弱い女・大庭式子の繁栄と破滅の物語でもある。
時代は昭和30年代。まさに高度経済成長が始まらんとしていた時期である。時流にも乗って聖和服飾学院はその成長を遂げたのである。

いずれにしても後味の悪い作品である。

山崎豊子作「女の勲章」(上)(下)新潮文庫 新潮社刊