日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

第144回芥川賞受賞作品「きことわ」朝吹真理子作

2011年05月18日 | Weblog
 この作品は、葉山の高台にある別荘の持ち主の娘=貴子(きこ)とその管理人・淑子の娘=永遠子(とわこ)との交流の物語である。
 この別荘で幼いころ共に過ごした貴子(当時8歳)と永遠子(当時15歳)であったが、貴子の母親=春子の急逝(当時34歳)以来、貴子はこの別荘を訪れなくなり、二人の親密な時間は断ち切られる。そして25年後、別荘の解体を前にして二人の時間は再び流れ始める。現象的にはただそれだけの話である。
 登場人物は、25年前は貴子、春子、貴子の叔父の和雄、そして、永遠子、彼女の母親の淑子である。彼らは葉山の海岸で共にその別荘生活を楽しんでいた。その夏の一日が思い出として語られる。そして、25年後の今、別荘の解体を前にして二人は逗子の別荘で再会する。貴子は34歳、中学の国語の教師をしており、妻子ある男性との不倫関係もあったという。貴子の父(かつては外科医であったが、腰を痛めて長時間の手術に耐えられなくなり、現在は製薬会社の研究員)は、妻・春子の死後、独身を通しており、今なお独身の貴子と共に生活し、どちらが早く結婚するかと噂になっている。貴子の父親と叔父の和雄との春子を巡る微妙な関係も語られている。和雄と春子は年子でとても仲が良く、和雄は、春子の夫が、医者であるにもかかわらず、心臓の悪い自分の妻・春子の隠れたばこを黙認していたことに怒りをぶつける。しかし夫は、自分は春子の主治医ではないし、隠れたばこをするほど好きなものを禁止する権利はないと反論する。それ以来、和雄は春子の夫とは口もきかなくなる。別荘の片つけの過程で吸われていない一箱の煙草のカートンが出てくる。貴子は母・春子の思い出に浸る。
 永遠子(40歳)のほうにも父(昔は時計の修理工、現在は自営業)がおり、営業マンの夫がおり、その間に桃子という8歳の娘がいる。永遠子の母・淑子にも不倫相手がおり、その付き合いの間に妊娠をしたという。永遠子から「誰の子?」と詰問され、「もちろん、お父さんの子よ」と応えている。当時の経済状態では二人の子を育てるのは困難だったと、告白している。生れていれば貴子と同い年だったというから、貴子との関係も、今とは違ったものになっていたであろうと、永遠子は思う。全ての片づけが終わり、自宅・縁者に発送すべきもの、リサイクルに出すものと区分し、一息ついているところに和雄からメールが届く。大切なレコードがあるからこれから取りにいくという。既に梱包済みであったので、発送すると電話すると、大切なものだから、発送中に事故があると困るという。どんなレコードかと問うと、それは春子と共に聴いた思い出のレコードであった。そこには今は亡き春子に対する和雄の気持が隠されていた。その気持ちを貴子も永遠子も痛いほど理解できた。
 このように25年の歳月は二人と周辺の生活を大きく変えたのである。別荘の解体を前にして三日に及ぶ整理・清掃・不用品の廃棄、の過程を通じて二人の現在、過去が語られている。事実関係はただこれだけである。
 作者朝吹真理子氏は、その受賞の言葉の中で「物理的な時間(自然時間)と感覚(個別時間)には齟齬(そご)があり、自分の感じている瞬間を数珠つなぎに結ぼうとしても、瞬間は線上であることを拒みます。時間感覚のふしぎさを改めて体感しています」と述べている。
 時間には自然時間と個別時間がある。自然時間は誰にでも平等に流れる。25年後には、8歳であった貴子は33歳に、15歳であった永遠子は40歳になる。しかし33歳の若さで急逝した貴子の母・春子の時間は止まったままである。ここには自然時間に対して個別時間がある。貴子の過ごした時間と永遠子の過ごした時間は決して同一ではない。個別時間は主観的時間といえるかもしれない。子どもと大人とは時間の速さが異なる。像とネズミでは時間が異なる。ネズミの1年は像の10年に当たるという。そこには凝縮された時間がある。ラーメンの出来上がるまでの3分、寒い日の、駅で電車を待つ3分は長く感じる。しかし、恋人と過ごす時間は早く過ぎる。ウルトラマンが地球で活躍できる時間は3分であり、その時間内に人類の敵・怪獣を倒さねばならない。怪獣は3分以上持ちこたえようとする。そのせめぎあいが面白い。ヒトはハラハラしてその戦いを見つめる。結局怪獣は3分以内に倒される。それが判っていて観るものはハラハラする。宇宙の大まかなところは3分で出来たという。このように3分は何かができる最小単位と言えよう。
 何十年かぶりに開かれた中学の学年会に出席したが、そこで個別時間の推移の違いを感じた。若さを保っているもの、老いさらばえたもの、誰か分からない人と様々であった。それぞれはそれぞれの個別の時間を持っていたのである。
 時間について語るとき、過去についても語らねばならない。過去とのつながりにおいて現在があるからである。しかし、過去とは過ぎ去ったものであり、すでに消滅している。しかし過去の人や出来事は消滅するが、ものは残る。別荘の解体を前にしての整理、片づけ、廃棄などを通じて、多くの思い出の品が出てきた。これは過去が厳然と存在していたことの証明である。その限りにおいて過去は消滅していない。しかし、それらの品物にまつわる記憶は、貴子においても永遠子においても不確かである。思い出せる部分、忘れてしまった部分、あいまいな部分と二人の記憶は不完全である。このように過去とは、事や物に対する現在の曖昧な記憶(想起)にすぎない。だから、過去は現在なのである。
 作者も言っているように、これらの記憶をつないだとしても一線上にはない。貴子と永遠子の歴史は極めて曖昧模糊としている。しかし、二人は厳然として存在している。過去は二人の中に生きている。
 それでは地球の歴史はどうであろうか?3億5千年前の古生代のことを作者は語っている。その時代には人類はまだ存在してもいない。そんな昔のことがなぜわかるのか?古生代(カンブリア、オルドビス、シルル、デボン)には、とうの昔に死に絶えた生物が海を遊泳していたという。それを明らかにするものに、地層がある。地質学の知識は地層の時代を特定している。その地層にはしわがあり、そのしわの一つ一つに時代が刻まれているという。そのしわの中には様々な生物の化石がある。どの時代のしわの中に、どんな生物の化石が存在したかで、その生物の生きた時代を知ることができる。大まかに言えばこれが地球の歴史である。
 では人類の歴史はどうであろう。過去の人や、出来事は消滅しているが。それにまつわるものは存在している。遺跡があり、文学があり、美術があり、音楽があり、様々な記録がある。それが人類の歴史を知る上の証しとなる。しかし、それが真に真実であるかどうかは神以外には分からない。新しい史実が出てきたりして歴史が変わる場合もありうる。
 このように貴子にとっても、永遠子にとっても、思い出の品はあるものの、古生代の生きものがいた、はるかに遠い過去と同じく、25年も前のことなど漠然としていて不確かであり、ありありとしているのは、今ばかりであった。
 貴子は永遠子を渋谷で見たという。しかし永遠子はその時、葉山の海岸で盆踊りを見ていたのである。永遠子は思う、貴子が渋谷で見たという永遠子は夢で見た永遠子であり、過去の記憶の中に夢がまじりこみ、それが真実として記憶の中に紛れ込んだのではないかと。このように記憶とは不確か、かつ不安定なものなのである。しかし、永遠子は、自分は葉山にいたと同時に渋谷にもいたのではないかと夢のようなことを思う。
 人類にとってはもともと、太陽や月の動きが時間そのものであった。現在のカレンダーは太陽や、月の動きを基本にして作られている。貴子と永遠子が同一時刻に別の場所にいたということは記憶違い、あるいは夢といえるかもしれない。しかし、地球上の時差を考えたとき、同一時刻に同一人が別々の場所にいることは可能なのである。12時間の時差のある場所に旅行した時、日本時間と旅行先の時間が同一ということは考えられるからである。海外旅行を経験した人なら、現地で時刻を修正した経験を持っている筈である。このように時間とは不思議な存在であり、天体の動きにシフトしている。天体(宇宙)の動きは永遠であり、それに比べれば人の一生など一瞬にすぎない。100年、1000年など瞬く間に過ぎていく。そしてその先は?旧約聖書は「天地創造」によって世界は始まり「終末」によって歴史は終わると述べている。この初めから終わりに向かって一方向にながれる時間(時間の不可逆性)、これが現代人の時間感覚の基本にある。
 かくして多くの思い出を残した別荘は更地になった。そこには、もはや、過去を示す全てのものは消滅している。あるのは不確か、かつ不安定な回想(記憶)のみである。しかし、それも貴子と永遠子の記憶からは、時間と共に消えていくであろう。そこには時間の示す不可逆性の残酷さがある。しかし二人の潜在意識の中に沈殿した記憶までは消滅はしない。古い過去の上にこそ今があり、未来へとつながっていく。その夢を始めて貴子は見たのである。
 時間との関係で、過去について語ったが、もう一つに夢がある。作者は夢についても語っている。深層心理学には、無意識の世界を意識的に把握するために夢分析という研究分野がある。それによれば、夢の中に現れる事象は、何かを象徴するものとして位置づけられている。例えばフロイトによれば銃が男性器、果実が女性器、動物が性欲や性行為を象徴するものとされている。この考えにはあまりにも性的と異論もあり、現在では夢分析も改良され、広く、現代人の実情を考慮した分析が多い。夢分析はなにがしらの自己分析、自己発見に役立つものとして考えられている。さらに希望や、願望を表す意味での「夢」、実現困難を表す「夢」、荒唐無稽を表す「夢」、未来を予測する「夢」と、実際の夢との関係において考えられる夢がある。
 この作品では、夢から醒めた夢が語られる。何度目覚めても取り込んだはずの洗濯物が干してある。母親の「雨が降っているのになぜ洗濯物を取り込まないの」という言葉に永遠子は本当に目覚める。夢の中で目覚めて、取り込んでいたのである。しかしそれは夢だったのである。実際に取り込んだ洗濯物は、ぐっしょりと濡れていた。
 さらに永遠子の娘・桃子は夢をみる。クラスメイトの灰谷君がユーレイになった夢を見たという。灰谷君は、去年の夏、溺れかけて九死に一生を得たのである。もし助けられていなかったら、ユウレイになっていたかもしれない。桃子の友人、れおなちゃんも同じ夢をみるかもしれない。他のクラスメイトも同じ夢をみるかもしれない。全人類も同じ夢をみるかもしれない。そうしたら灰谷君は本当のユーレイになってしまう。ここには事実と夢の混同がある。それ故に怖い。夢は冷めている人間を規制する。桃子はこれ以上眠れないという。
 このように夢とは不確か、かつ不安定であり、荒唐無稽ですらある。しかし、夢分析があるように、人間の心を反映しているのであり、何かを象徴している。そして、そこには現実にはない自由がある。永遠子が、渋谷にいると同時に、葉山にいることもできる。過去は記憶(想起)であり、夢は何かの象徴である。共に心の問題であり、現実の反映である。
 だから、過去は不安定、未来は不可知、必要なことは、ありのままの今を、輝かせることである。

 今回の二人の受賞者の出身階層をみるとき、あまりにも違っているのには驚かされる。住む世界が違うのである。『きことわ』の朝吹真理子氏は慶応大学前期博士課程(昔の修士課程)の在学生であり、祖父は翻訳家の朝吹三吉氏、父はフランス文学者の朝吹亮二氏、大叔母は「悲しみよ、今日は」の訳者でもある朝吹登水子氏と、まさにフランス文学者の一家である。真理子氏は文学の名門に生まれたエリートといって過言ではあるまい。一方、『荷役列車』の西村賢太氏は、中学もまともに卒業しておらず、成績は劣等、行動は粗暴、19歳の彼は荷役人足、父は零細な運送業を営んでいたが、性犯罪者としての逮捕歴もある。それが原因で両親は離婚、母親のもとで育てられている。20代の彼はまさに小説の主人公北島寛太そのものだったという。『荷役列車』の中に合コンという表現があるが、合コンとは一種の「集団見合い」であり、限られたレベル以上の人間の集まりであり、肉体労働者の寛太は最初から除外されていたのである。芥川賞受賞によって西村賢太氏は、朝吹真理子氏と同等にはなったが、それがなければ、彼女の足元にも寄れなかったであろう。ここには階級格差があり、人生の不条理がある。
 それ故、その住む世界の違いが作品の中に反映している。西村賢太氏は私小説家であり、その作品は実体験に基づいている。一方、朝吹真理子氏は文春の記者との対談で『葉山に行ったことはありますが、実際の体験が書かれているわけではありません。小説の中の真実であって、現実に起きたこととはリンクしていません。体験はマントルのようなもので、地面のさらに下に流れているものだと思います。小説の土台の土台です。体験を、とっかかりにして、より高次なフィクションに飛べればと思っています』と述べている。自分の体験を直接作品にぶつけていく私小説家としての西村賢太氏と、あくまでもフィクションを基本とする朝吹真理子氏と、その作風においても違いを見せている。西村賢太氏は1967年生まれの42歳、一方、朝吹真理子氏は1984年生まれの27歳。その人生経験の深さ、浅さが、作品の違いを生み出している。彼女の作風は、研究者に特有な技巧に満ちている。それ故、多くの撰者が指摘しているように、卓越した技巧に隠れて、そのテーマが曖昧である。技巧はあくまでも作品の心・テーマを表現するためになければならない。心のない技巧は無である。

         月刊雑誌 「文藝春秋」 3月特別号掲載 「きことわ」 朝吹真理子作より