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イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章

2022年06月10日 | Weblog

イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章
 はじめに:「イザヤ書」は旧約聖書の一書で、三大預言書(「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」」)の一つです。聖書自身の自己証言と伝承ではBC8世紀の預言者イザヤの作とされています。66章からなり「詩編」に次いで第2に長い書簡です。イザヤ書は「イザヤの福音書」「第5の福音書」といわれ、メシア誕生から、メシア受難の預言、さらに主の日=患難時代と主の再臨の預言までを含んでいます。
イザヤ書は歴史的背景から次のように分類されています。
1、 第1イザヤ書(1~39章)
2、 第2イザヤ書(40~55章)
3、 第3イザヤ書(56~66章)

※イスラエルの堕落を前にして、イザヤには国と民族の運命がはっきりと見えていました。このままでは滅亡は近いと、悲しみ、人々に向かって警鐘を鳴らします。イザヤ自身の檄文です。歴史を踏まえ、現状を睨み、さらに目のあたりに描いた幻を交え、嘆きながら、あるべき姿を訴え、王と民に檄文を飛ばしています。
以上のように、イザヤ書は相当長い期間にわたって描かれています。イザヤがその間生存していたとは思われないので、後の2つはイザヤの弟子たちが先賢(イザヤ)の衣鉢を継いで綴ったものだと言われています。
イザヤ  BC8Cのイスラエルの預言者。神ヤハウェの正義と救い主の出現を説いて、王や民に神への信頼と改心を説いています。イザヤの意味は「救いは主の者」、「救いはヤファエのもの」と言う意味です。この主張をイザヤ書は一環として教えています。
 BC8C後半のユダ王国の預言者。祭儀偏重の宗教や社会の不義を糾弾し強大国アッシリアやエジプトへの迎合政策を批判した。その預言を集めたのが旧約聖書のイザヤ書(1-39章)です。後のキリスト教において、彼が預言した理想の王(メシア)の到来はイエスと結びつけられました。月元
 バビロンの捕囚:
バビロンの捕囚がイザヤ書の背景にあります。
 イスラエルの南王国ユダが新バビロニア王ネブカドネザル2世の2度にわたる攻撃(BC599~BC588)の結果、ダビデ、ソロモンと栄華を誇った、さしものイスラエル王国は滅亡します。首都エルサレムは崩壊、魂のよりどころであった神殿も炎上します。さらに、イスラエルの民の大部分は捕虜としてバビロンに移されたのです。これが「バビロンの捕囚」です。この運命は、BC538年ペルシャ王キュロスによって解放されるまで続きます。しかし、捕囚の民の多くがエルサレムに帰還したのは、解放の100年後であったと伝えられています。彼ら多くは技術者で、生活は比較的安定しており、帰還が遅れたのは、バビロンに定着したものが多かったからだと想像されます。
 イザヤ書と聖書の一致:
 イザヤ書を2つに分けたとき、前半部分は1章から39章までです。この部分はイザヤの作になります・主の懲らしめと、裁きが中心に描かれています。40章では「慰めよ、慰めよ。」と言う言葉があります。後半部分の40章から66章までは慰めと回復のメッセージです。具体的には、ユダとエルサレムに対するメッセージです。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には癒され、救われるという流れになっています。 ちなみに、聖書の書物の数は、旧約聖書が39巻、そして新約聖書が27巻です。合計すると66巻です。章の区分は後につけたものですから霊感を受けているわけではないのですが、イザヤ書の前半部分が39章で、後半が27章です。両方合わせると66になります。聖書と一致しています。内容も旧約聖書が神のさばき、そして新約聖書に慰めがあることでも一致しています。これは単なる偶然なのでしょうか。神の導きを感じます。
南ユダ王国 歴代統治者一覧 
在位には諸説ありますが、ここでは最も広く受け入れられているウィリアム・オルブライトの説によります。年号はすべて紀元前です。
• 922年 - 915年 レハブアム
• 915年 - 913年 アビヤム
• 913年 - 873年 アサ
• 873年 - 849年 ヨシャファト
• 849年 - 842年 ヨラム 暗殺される。
• 842年     アハズヤ 北イスラエル王国のイエフによって殺害される。
• 842年 - 837年 アタルヤ 先王アハズヤの母、唯一の女王。ヨアシュを擁立した大祭司ヨヤドに暗殺される。
• 837年 - 800年 ヨアシュ 配下に暗殺される。
• 800年 - 783年 アマツヤ 暗殺される。
• 783年 - 742年 ウジヤ
• 742年 - 735年 ヨタム
• 735年 - 715年 アハズ アッシリア王ティグラト・ピレセル3世に臣従。
• 715年 - 687年 ヒゼキヤ このころアッシリア王センナケリブ活躍。
• 687年 - 642年 マナセ
• 642年 - 640年 アモン 地の民に暗殺される。
• 640年 - 609年 ヨシヤ 申命記改革行われる。エジプト王ネコ2世とのメギドの戦いで戦死。
• 609年     ヨアハズ(エホアハズ)
• 609年 - 598年 エホヤキム カルケミシュの戦い起こる。
• 598年     エホヤキン 次王ゼデキヤと共にバビロニアへ連行され、37年間にわたって拘禁される。その後開放。
• 597年 - 587年 ゼデキヤ 目を刳り出されてバビロニアへ連行された。
 1章:イザヤ書一章は天での裁判の様子(原告と裁判長、神と被告人、イスラエル、証人、天と地)が描かれています。
「アマツの子、イザヤの幻。これは、彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤの時代に見たものである(1:1)」。
 ユダとは分裂後の南ユダのことです。エルサレムはその首都です。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤとは分裂後の南の初代王レハブアムから数えて10~14代目の王たちを指しています。
1,1~9節まではイスラエルの罪と罰が語られています。特に2節ではイスラエルの神への反逆が宣告されています。「子らはわたしが大きく育てた。しかし、彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」。子らとはユダヤ民族を指しており、ユダヤ人個人を指す言葉ではない。主が大きく育てた者とは、ヨシヤ、士師、ダビデ、ソロモンのことです。主はイスラエルの不義を怒るが、しかし、一人でも神に義なるものがいる場合、これを救われるのです。ソドムとゴモラの町のように。
2,10~15節では、神は、イスラエルの捧げものが虚しいものであると証言します。「もう、虚しい捧げものを携えてくるな。―――これに私は耐えられない」。血に染まり、心のこもらない捧げものは無信仰のあかしだからです。主は心のこもらない偽りの信仰を虚しきものと拒否します。
3,主はイスラエルの民に8つの命令を下します。1、洗え、身を清めよ。2,わたしの前であなたがたの悪を清めよ。3,悪事を働くのをやめよ。4,善をなすことを習え。5,公正を求めよ。6,しいたげるものを正し、7、孤児のために正しいさばきをなせ、8、やもめのために弁護せよ。このように主はイスラエルの民に恵みとあわれみを差し出し、「もし喜んでこの命令を守るなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることが出来る。しかしそむくなら罰せられる。」とイザヤは主を代弁します(1:16~20参照)。
4,「どうして、遊女になったのか。忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ(1:21)」。遊女:霊的姦淫をするもの。=偶像崇拝をする者。お前の銀は金粕になった。お前の良い酒も、水で割ってある。イスラエルの不順が示されます。お前の司たちは反逆者、盗人の仲間。皆、わいろを愛し報酬を追い求める。孤児のために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。イスラエルの指導者たちに対する神による有罪判決が下されています(1:21~23参照)。
5、以上のように、もはやイスラエルの有力者たちは、主にとっては仇であり、敵に過ぎないのです。その者たちに、主は手を伸ばし、これを清め、その後、彼ら町を正義の町、忠信の都にかえられるのです。このように、ここには、神に裁かれるイスラエル(1:24~26)が描かれています。次に、贖われるイスラエル(1:27~31)が、描かれます。シオン(エルサレム)は公によって贖われ、その町の悔い改める者は、正義によって贖われる(1:27)」のです。「慕った樫の木」や、自ら「選んだ園」は共に偶像を象徴しています。それらを崇拝するものはそむくものになり、罪びとととなり、主を捨てるものとなるのです。このような偶像崇拝の結果、彼は、恥を見、辱めを受けるのです。偶像は取り除かれ、「つわものは麻屑に、その業は火花になり、その二つとも燃え立って、これを消すものがいない(1:31)」。つわもの
はどんなに戦いに巧みであっても神の裁きを免れることは出来ないのです。
2章:第一章は。「終わりの日」の前夜が語られています。イスラエルは、まさに罪を犯す国であり、咎多き民で満たされています。彼らは主を捨て、主を侮り、背を向けています。まさに信仰深きものにとっては苦難に満ちた日々です。これに対して二章では、イエスの再臨の希望が語られています。「終わりの日」の後半です。主が再臨し、「主は国々の間を裁き、多くの国々の民に判決を下すのです。その結果、「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を挙げず、二度と戦いのことを習わない(2:3~4参照)」のです。平和の民に変えられるのです。しかし、これはあくまでもイザヤの将来に対する夢であり、幻なのです。現実の世界はイザヤの夢や幻が実現しているとは言えません。そこにあるのは真逆の世界です。それゆえ、イザヤによるイスラエルの民族的改心への勧めがなされています。神の国(千年王国)の到来が望まれています。「来たれ、ヤコブの家(イスラエル)、私たちも主の光に歩もう(2:5)」。」とイザヤは声高に叫びます。
 2章は、おそらくウジヤ、ヨタム、の時代(1:1参照)の預言とされています。当時、ユダ南王国は軍事的には富国強兵に努め、商業的には海外貿易で栄え、東方諸国との交易が盛んでした。その結果、東方諸国に蔓延していた偶像崇拝の悪弊がユダ国内に流入し、広められ、本来の神が退けられたのです。「金」や「銀」と言う財力、「馬」や「戦車」という権力、人の手や指で造られた「偽りの神々(偶像)」が、南ユダの人々を支配していたのです。しかし、ヨタム王の晩年には、権勢を誇った南ユダも衰退に向かい、政治や社会は腐敗し、混乱し、アッシリヤや、バビロンの大国に脅かされ始めます。
 終わりの日には、主の裁きの結果、高ぶるものはかがめられ、高慢のものは低くされ、主一人だけが高められ、偽りの神々はモグラや蝙蝠に投げやられて消え失せるのです。
 今から2000年ほど前は、人類にとっては苦しみが最もひどい時であったと聖書は語っています。しかし、それは、人々が恐れているような世界の終わりではありません。多くの苦難は現れても、それは、キリストが再現し、裁きと救いを成就したのちに、神の国が現れるという予兆でした(2:21参照)。   「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避けて、岩の割れ目、巌(いわお)の裂け目に入る(2:21)」のです。悪は消滅します。「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか(2:22)」。頼りになるものは「主」以外には存在しないのです。
楽庵会



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