日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

円城塔作『道化師の蝶』着想とは何?

2012年06月06日 | Weblog
   第146回芥川賞受賞作 円城塔作「道化師の蝶」
 田中慎弥作の「共食い」と共に芥川賞を受賞した円城塔氏の「道化師の蝶」は、極めて読みにくい。何がテーマで、何が言いたいのかがさっぱり分からない。こんな作品のどこに文学的価値があるのかと問いたい。「難解である」「読者を置き忘れている」という批判があるのは当然だと思う。これに応えて円城氏は「ストーリーだけでなく、もっと構造や、部品そのものを面白がってもらう小説のあり方もあるんじゃないか、と思うんです。感動を与えるだけが、小説の役割ではなく、普段の生活では考えてもみないことが、考えられるようになる。と云うのも小説の力だと思います」と述べている。いずれにしてもわけのわからない作品であり、何度、この作品の紹介を諦めようと思ったか分からない。しかし、それでは癪なので、僕なりの解釈を伝えたいと思う。作者の意図とは異なるかもしれないが、作品とは公開されれば社会的な存在である。その解釈も作者の意図を超えてもいいような気がする。
  登場人物
1、企業家のA・A・エイブラムス 2、多言語作家友幸友幸 
3、鱗翅目研究家 4、ヴェラ 5、わたし の5人である。
 1、A・A・エイブラムス氏 友幸友幸の作品の着想に金の匂いを嗅ぎつけ、調査・研究をする男だか女だかはっきりしない人物。あるページには「エイブラムス氏は、年中旅客機で(着想を求めて)飛び回っている男であって--------」また「また夢見る表情で蝶を見つめる男--------」「その男の名はエイブラムス氏--------」と述べているのに、別の場所では「エイブラムス氏は、その死の先年から子宮癌を患っており--------」と述べ、さらに、Ⅲの後の方に出てくる2人の女性の一人は明らかにエイブラムス氏である。作者はエイブラムス氏を男性にしたり女性にしたりで、意図的に読者を混乱させている。いずれにしても全体の筋立てには、あまり関係が無いので無視する。
 彼は1952年生まれの実業家であり、成功を収め、小さな帝国を築いている。年中旅客機に乗って、世界中を着想を求めて飛び回っている。「物事を支えているのは、つまるところ着想で、事業というのは常に着想を注ぎ込まなければ生きていけない生き物でしてな--------」と述べている。そして着想を捕まえるための捕虫網を常に携帯し、大型旅客機の中こそ、着想をとらえるための最適な場所であると考えている。私の頭に網をかぶせ「さあ、話を聞かせてもらいましょう」と云う。
 私設記念館を作り、友幸友幸の資料を含む多くの資料を所蔵している。
 2、友幸友幸氏 多言語作家、アウトサイダーアートの担い手。世界を股にかけて動き回り、各地で、その地の言語を使って作品を制作している。その作品は世界中、実に30数カ所で発見されており、少なくとも20の語族、文法構造も、語根も文字も異なる言語を使用している。使用する言語も署名もまちまちではあったが、その作品が友幸友幸氏のものであると判断されたのは、エイブラムス氏の配下のものによる追跡調査の結果である。その原稿はレター用紙にして20万枚に及ぶといわれている。彼は無活用ラテン語と云う人工語を使用して「猫の下で読むに限る」と云う作品を発表している。作品は多く発見されているにもかかわらず、その存在は明らかでなく「生死不明、生地不明、世界各地を転々としており、現在のところ生死不明」である。
 3、鱗翅目(りんしもく)研究家 蛾や蝶などの昆虫を研究する学者のこと。この作品にはⅠとⅤに登場する老人を指す。この作品では名は明らかにされてはいないが実在の亡命ロシア人で、著名な作家であり、鱗翅目研究家のウラジミール・ナボコフ氏であると思われる。
 4、ヴェラ Ⅴに現れる。ナボコフ氏の夫人の名である。彼女の名からナボコフ氏が導き出されたのである。彼女もナボコフ氏と同様亡命ロシア人であり、ベルリン時代にナボコフ氏と知り合い結婚した。ナボコフ氏は全ての作品をヴェラに献呈している。
 5、わたし わたしはⅠ~Ⅴまで全てに出てくる、この作品の主人公である。友幸友幸の作品「猫の下で読むに限る」を翻訳した人物である。この「わたし」とは誰か?そこには推理小説的謎解きの楽しさがあり、わたしとは誰かが明らかになった時点で、この作品は極めて読みやすくなる。しかし、ここでは明らかにしない、続きを読んでほしい。
  言 葉
 無活用ラテン語 イタリアの数学者・ジュゼッペ・ペアノが提唱した人工語。古典ラテン語から複雑な語の変形(活用)を省き、構文のルールを切り詰め、学びやすくした小さな言語。国際的補助語。同じ国際語を目指したエスペラント語に類する。あくまでも言語の国際的一般化を狙った実験語であって、国際語といっても国際的に流布されているわけではない。その使用は一部の好事家に限られている。この言葉によって書かれた文学作品は今のところ見つかっていない。死語に類する。
 ピジン語 異言語の話者が接触、交流して生まれる混成語。特に植民地などで英語、仏語、ポルトガル語、などの言語と土着の言語とが混生して生じた言語である。母語とする話者を持たず、文法が単純化、語彙数も限定されている。現地風に作りかえられた英語をピジンイングリシュという。友幸友幸が独自に開発したとおもわれていた言葉がピジンイングリシュに変更を加えたものであったことがA・A・エイブラムス氏のスタッフによって明らかにされている。
 捕虫網 雑多な蝶の中から、着想を生む蝶のみを捕獲することのできる特別な銀色の網。A・A・エイブラムス氏はこの網を常に携帯し、着想を求めて大型飛行機に乗って世界中を飛びまわっている。さらに、彼の主催する私設記念館のスタッフにも与えられ、特別な蝶を捕まえることが要求されている。この網を「わたし」は作ることができる。「わたし」が誰かと分かった時点で、A・A・エイブラムス氏が、何故、友幸友幸を探しまわっているかがわかる。
 フェズ刺繡 フェズという古都に伝わる伝統手芸。布の表と裏に同じ模様が出てくるような編み方。普通の編み方では、裏は鏡文字になるが、そうならないところに特徴がある。
この作品では表が「わたし」なら裏は誰か?と考えさせられる。
 着想 蝶そのものには着想を生み出す機能は無い。その機能は、優秀な頭脳にのみ与えられている。その頭脳に蝶は卵を一つうみつける。言葉を食べて、その卵は孵化し育まれ、育っていく。これが思考過程だ。その結果、着想は生れる。
  私とは誰
 これからこの作品の梗概を述べていくつもりであるが、その前にこの作品の主人公である「わたし」とは誰かを述べていきたい。「わたし」とは誰かがわかった段階で、この作品は極めて読みやすくなるからである。
 まず第Ⅰ章で「わたし」は、着想を求めて絶えず大型飛行機で旅をする企業家のA・A・エイブラムス氏に出合う。彼は着想こそ企業を運営する上での重要な要素だとみなしている。
 第Ⅱ章では、私は「猫の下で読むに限る」という希代の多言語作家「友幸友幸」の作品の翻訳者として現れる。
 第Ⅲ章の「わたし」は一人の旅行家として現れる。各地を訪れ、その地の手芸や、料理を学び、その作り方を本にし、それで生計の一部をまかなっている。しかしそれだけでは心もとないので貿易商として生きており、それによって生活費と移動の費用を稼いでいる。手芸や、料理は語学の勉強と並行して行われている。だから「わたし」の言葉は料理や手芸の言葉を中心にし、徐々にその周辺に言葉が及んで、深化していく。それが、わたしの言葉の学習法である。
わたしは網を編んだことがあり、A・A・エイブラムス氏はそれを手にし、着想をとらえる網として利用する。わたしはどんな網でも編むことができる。
 第Ⅳ章の「わたし」は、A・Aエイブラムス氏の私設記念館のエージェントとして採用され、友幸友幸に関する報告を定期的に提出する仕事に従事している。「友幸友幸」のレポートを提出し、帰り際に受付の女性職員にミスター「友幸友幸」と呼ばれる。私は冗談として受け流す。
 第Ⅴ章のわたしはまさに、友幸友幸その人である。A・A・エイブラムス氏はそれを知らない。「わたしは」は、エイブラムス氏の私設記念館に、他人として雇われ、名前を隠して、友幸友幸の作品の分析、整理をしている。自分の仕事が集められ、整理され、分析されていることに驚き、かつ感動する。自分には決して出来ない仕事だからである。しかし、自分以外の多くの作品も自分のものとして集められ、分析しなければならないことには不満を持つ。
 最後に「わたし」は「蝶」になり、人の頭に卵を生みつけ、思考過程を経て着想となる。
 作者円城塔は決して「わたし」が友幸友幸であることを明らかにはしない。しかし読み進めていくうちに、それとなく判ってくる。そんな書き方をしているのである。作者円城塔は友幸友幸としては、多言語作家として抽象的に、「わたし」としては、その具体的姿として友幸友幸の生活を描いていく。そこには「わたし」と友幸友幸の二重化がある。第Ⅲ章の「わたし」は旅行家であり、旅行を通して、その地の言葉を手芸や料理を通じて学んでいる。そんなところも友幸友幸と共通している。友幸友幸が何で食べているかも明らかにされる。勿論、第Ⅱ章のわたしは友幸友幸の作品の翻訳者として現れているので別人と考えるのが当然ではあるが、円城塔のいたずら心を考えれば、「わたし」がわたし自身の作品の翻訳者であっても決して不思議ではない。それに『わたし』は、A・A・エイブラムス氏の私設記念館で友幸友幸を担当しているのである。私が私の作品を翻訳しても決しておかしくはない。
 わたしは、友幸友幸であり、A・A・エイブラムス氏の求める、着想を生む蝶でもある。

 梗 概

 この作品は5つの章から成り立っている。それを、まず紹介する。
 第Ⅰ章 この作品の主人公「わたし」は、東京→シアトル間の大型飛行機の中で、A・A・エイブラムス氏と云う一人の企業家に会う。「着想」を求めて世界中を飛び回っている。「着想」こそ、企業を成り立たせる重要な要素だという。彼は「~で読むに限ると」いうシリーズを出版し大ヒットを飛ばし、財をきづく。銀糸で編まれた捕虫網を携え、この網で着想をとらえるのだという。そして「わたし」の頭に網をかぶせて「さあ、話を聞かせてもらいましょう」と要求する。
このエイブラムス氏は、スイスへ行く途中の飛行機の中で架空の蝶を捕獲する。その蝶をエイブラムス氏は、宿泊先のモントロールパレスホテルに運び、そこに、定住していた鱗翅目研究家の老人に出合う。この蝶はエイブラムス氏と鱗翅目研究家にしか見えない新種の蝶で、その学名は「アルレキヌス・アルレキヌス」。この蝶、雄か雌か分からない。第Ⅰ章では雌、第Ⅴ章では雄である。円城塔のいたずら心は色々と見受けられる。
 第Ⅱ章 実はこの第一章は、希代の天才で、多言語作家「友幸友幸」の作品で「猫の下で読むに限る」という無活用ラテン語と云う人工語で書かれたもので、彼の作品中この言葉で書かれた唯一の作品であった。この作品を全訳したのが「わたし」である。
彼は30数カ国の言語を操り、地方の方言を含むと100に迫る言葉を使用しているものの、その書かれたものから判断すると、その言葉の習得方法は、正規の学習方法を踏まえているとはとても、言えない。独自の方法によっている。移動する度に、その地の言葉を習得したとは思えない。この文章の翻訳者であるわたしは言う「とはいえ、書き残された文章の一部が単なる引き写しであることも既に実証されている。広告や告知文、当時の流行歌などが文書には多く含まれている。全てを引き写すということは無く、その瞬間に目につき、耳に飛び込んだ部分部分を継ぎ接ぎしてはただひたすらに書いていくのが、友幸友幸の言語学習法だったようだ」と。さらに、「はじまりにおいては、ただ音の連なりを聞いたなりに写しただけと見える連なりが正書法の危うい文章へ育ち、徐々に比喩表現を整え、誤字や脱字を減らして文章の体をなしていく様は--------」と述べている。それは幼児の言語学習の過程を思わせる。見て聞いて発音して、その意味を理解する。そこにはまず言葉があり、その理解は後から付いてくる。「道具によって建物は出現するが、ここには先に建築物があり、建築物がある以上、道具もあったであろうという逆転がある」とわたしは述べる。文章の構造や文法は、言葉の分析から生まれたものであって、あくまでも言葉が先にある。ひとの言語形成過程としては、決して誤ってはいない。正規の方法である。その過程自体が友幸友幸の作品であった。だから彼の作品は玉石混交であり、意味不明なものも含まれている。また、一時期友幸友幸が開発したと思われていた一つの言葉が、地方の老婆が語るピジン・イングリッシュの変形であったことが明らかになっている。A・A・エイブラムス氏は友幸友幸の着想の素晴らしさに金の匂いを嗅ぎつけ、その存在を追う。私設記念館まで作り、その作品を集める。しかし、作品は多く存在するものの、その存在は確認されていない。少なくとも、A・A・エイブラムス氏にとっては。「友幸友幸、生年不明、生地不明、世界各地を転々とし、現在のところ生死不明」。なのである。移動作家友幸友幸の作品は今も世界中で発見されている。A・A・エイブラムス氏は、「猫の下で読むに限る」の原稿を発見してからほどなくして飛行機の中でエコノミークラス症候群により死亡する。
 第Ⅲ章 この章から、そろそろ、「わたし」って誰か?が明らかになってくる。勿論作者円城塔は最後まで、それを明らかにはしない。それ故この作品を難しくしている。私が誰かと分かった時点で、この作品は判りやすくなる。
 わたしはパスポートを4つ持つ旅行家である。趣味として刺繍や、料理をしている。現地(モロッコ)の専門家のお婆さんにその作り方を学んでいる。そのやり方を書いた手芸本や、料理の本を書き、それを商売にしている。それだけでは食べていけないので、ささやかな貿易商をしている。作品ではなく、作品の作り方を交易している。勿論手芸本や料理本もその中に含まれる。時には麻薬など危険な品物も交易している。モロッコは麻薬の産地としても有名である。手芸や、料理を学ぶ過程は言葉を学ぶ過程と並行している。だから、手芸用語と、料理用語が言葉習得の芯となっている。そこから足りないものが付加され、わたしの言葉は練り上げられ、煮込まれる。言葉の形成過程は「形を絶えず変え続け、幼虫と蛹と成虫とつがいと卵が一連に繋がった生き物のような形態をとり、自分の体へ卵を産んで育み育てる」、のである。
 わたしは手芸と、料理によって生活費と、移動の費用を稼ぐ、稼げなければ、稼げるまでその地にとどまる。移動作家、多言語作家の友幸友幸との共通性が現れ、わたしって友幸友幸ではないかとの考えに至る。ここまで考えると友幸友幸が何で食べていたかがわかる。
 再び東京→シアトル間のお話である。機内には二人の女性が話し合っている。一人の女性は明らかにA・A・エイブラムス氏である。ここで銀製の捕虫網がいかにしてA・A・エイブラムス氏の手に入ったかの話を、わたしは小耳にはさむ「幸運を捕まえるための網」「道化師の網」である。彼女(A・A・エイブラムス氏)は網を手に入れて、飛行機の中で残りの人生を過ごすことになる。この網は『わたし』の作ったものである。
 第Ⅳ章 「わたし」はA・A・エイブラムス氏の私設記念館の臨時職員として採用されており、少なくとも年に1度は記念館に顔を出すように決められている。友幸友幸の情報を提供することがわたしの仕事である。上手くいかなければ旅に出るべしと命令されている。色々と誘惑が多いので、家では仕事は出来ない。喫茶店を乗り継いでいる。思念はさまよう。一つほころびを直すとそれに関連して、次々と矛盾が出てきて、収容がつかなくなる。結局元のままが、まだしもだということになる。宝石加工も、刺繡も、編み物も、言葉も、数式も根っ子は同じだと思う。しかし、同じであってもそのあり方は違う。旅に出るわたしたちエージェントには捕虫網が与えられている。それを振り回して着想をとらえろといわれている。他方では、友幸友幸を探し出せといわれている。着想と友幸友幸とは同じ次元で考えられている。平凡な人物には月並みの着想が似つかわしいが、友幸友幸の規模ともなれば、その着想も異質のものとなるだろう。それが友幸友幸を追う最大の理由なのかもしれない。
 言葉は生き物であり、変化する。言葉が先にある限り、矛盾や、変化や、食い違いが生じる。それを文法という規則で規制すると生きた言葉が死んでしまう。文法はあくまでも言葉を分析、整理したものであって、言葉の後にある。その後にあるものが一旦出来上がってしまうと、生きた言葉を規制する。言葉は死んでしまう。逆に、生きた言葉が文法に影響を与えてもおかしくない。
 そんなことを考えながら「友幸友幸」のレポートを作成する。何とかまとめて。私設記念館に行く。レポートは日本語で書かれており、ここはサンフランシスコである。受付の女性は、多分日本語は読めないであろう。「見つかると思いますか?」彼女は言う。「見つかると思いますか?」と、わたしは繰り返し、お互いに笑いあう。私は着想を捕まえる虫取りの網を胸ポケットから取り出し、彼女の前で左右にゆっくり振って見せる。彼女は愛想笑いを浮かべてそんなわたしを見つめる。ややあって彼女は納得したように手を打ち、ミスター。「友幸友幸」と囁く。私は冗談として受け流す。
 第Ⅴ章 この章で、「わたし」が友幸友幸であることが明らかにされる。
エイブラムス氏の私設記念館は、勿論わたし以外の資料も存在はしているが、もともと私のために作られたものである。わたしはここの試験を受け、採用されて一職員として勤務している。そして友幸友幸の資料の追跡、分析、整理の仕事に従事している。受付の女性に自分の資料を手渡した後、自分の部屋に入る。ここから「偽物の旅」が始まる。偽物がわたしなら本物は友幸友幸なのか?「わたしが、この記念館に導かれたのは当然であろう。これはわたしの旅なのだから。わたしのためにこの施設は作られたのだと考えて良いくらいだ。わたし自身の行い得ないわたしの仕事の集積地。私自身をまとめる作業。どこにあるのか忘れてしまった過去たちがごたまぜぜにされ、解釈されるのを待ちかねている」。ここで、はっきりとわたしが友幸友幸であることがわかる。わたしは友幸友幸の偽物として友幸友幸の作品の分析をしているのである。給金はささやかなものとする代わりに記念館での勤務は半年にひと月程度として、もらっている。調査のためと称した移動費が多少、経費として付く。こうしてわたしの移動はまた一つの支えを得た。偽物の移動が保障されることは、本物の移動も可能となる。多言語作家友幸友幸の移動は可能となる。フェズ刺繡という編み方が、第Ⅲ章に出てくる。裏と表の構図が同じになる編み方である。表が友幸友幸なら、裏は「わたし」である。二人は盾の両面である。
 この章で第Ⅰ章に現れた鱗翅目研究家が再び登場する。死んだ筈のA・A・エイブラムス氏も登場する。第Ⅴ章は、友幸友幸作で、わたしの翻訳した「猫の下で読むに限る」の続編なのかもしれない。どこかの章で「わたし」はそう言っている。
 ここでは「着想」とは何かが問題になる。どこから来てどこに行くのか?それがテーマのような気がする。
 道化師の蝶、道化師とは友幸友幸であり、蝶とは着想を生む虫である。蝶は無数に存在する。その中から着想を生む蝶のみを捕まえる特殊な網を作ってくれと、鱗翅目研究家はわたしに言う。わたしは、かつて、それを作った経験があり、A・A・エイブラムス氏がそれを使ったのである。沢山いる蝶たちはお互いに否定し合い、戦う。そして一番強い蝶のみが生き残る。しかし、着想として、成立するには、もう一段階がある。蝶には着想を生み出す機能は無い。誰かの頭に卵をうみつけ、孵化させ、育(はぐく)み育ててこそ着想として成立する。しかし、その数は少ない。着想とは貴重な存在である。わたしは蝶になり、ひとりの男A・A・エイブラムス氏の頭に卵をうみつける。それは、いつか孵り着想として成立するであろう。そして子供として羽ばたくであろう。わたしはそんな事を「旅の間にしか読めない本があると良い」という本を書きながら、ふっと考えた。
 友幸友幸、わたし、蝶、着想それは同一次元において考えられている。

やっと、まとめ終えた。何と時間のかかったことであろう。二度とこんな判りにくい作品は読みたくない。それが正直な感想である。
    
 月刊『文芸春秋』2012年3月特別号より円城塔作『道化師の蝶』