日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記10

2022年06月07日 | Weblog

ヨブ記10 若者エリフの弁論2 35~37章
 はじめに 37章をもって、3人の友とエリフの弁論は終わります。38章で、今まで沈黙を守っていた神が登場します。ヨブに直接語り掛け自らの永遠性と無限性を語ります。
 ここでヨブ記の復讐をしてみたいと思います。
 ヨブ記は2つの災厄から始まります。この災厄は、天上における神とサタンの談合の結果、信仰深いヨブの家族が被ったもので、一つ目の災厄で、ヨブは家族とすべての財産を失い、第二の災厄で、全身に悪性の腫物ができ、大きな苦しみに会います。ここでの疑問は、一つ目の災厄でヨブは家族と雇人とすべての財産を失ったのに、彼の妻だけは生き残ったことです。なぜ彼女だけが生き残ったのでしょうか。それは、彼女がサタンに仕える身であり。ヨブが神に逆らう役割をサタンから与えられていたのです。あたかも蛇がエバを誘惑したように、エバは誘惑に負けましたが、ヨブは彼女の誘惑を退けたのです。そこにはヨブの神に対する信仰と希望と愛がありました。
 もう一つの注目すべきことは「一切のものは空なり」と言うことです。人の行い、形あるものはすべて空しいものである、いつかは消滅します。ヨブ一族の消滅は、まさに、この空を現しています。
 神の教えに従って行動することのみが正しいのです。神は目に見ることが出来ません。まさに空です。キリストは神であるのに自らを無(空)にして、人の姿をしてこの世に現れました。我々の罪を贖うためです。しかし、一切のものは、善も悪も、夜も昼も、この世もあの世も、すべて神のコントロール下にあります。ヨブは、最終的には、災厄から解放されて、2倍の復活を受けます。天の恵みは私たちの思いをはるかに超えて大きいのです。その意味するところは、キリストの十字架と、復活です。
 このようなヨブのもとに、3人の友人(エリファズ、ビルダデ、ツオファル)が現れ、「災厄は神罰なり」と、「応報論」を展開します。ヨブはこれに対して「我は義なり」と反論します。ヨブは神に対しても「義なる自分が、なぜ災厄に会うのか」と、問い続けます。地をさまよい、神を捜し続けます。しかし、神はヨブとの出会いを拒否して、沈黙を守り、応答しません。
3人の友人とヨブの論争は、友人たちの沈黙によって、ヨブは勝利します。その後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子エリフです。彼は、ヨブが神よりもむしろ自分を義としたとし、神との対等性を主張したヨブを激しく糾弾します(32~37参照)。38章では、神が今までの沈黙を破って突然現れ、ヨブと向かい合います。これが「ヨブ記」のあらすじです。
 35章:エリフはヨブの言う「我は義なり」と言う主張に疑問を示し「私(ヨブ)の義は神からだ」とでも言うのかと怒ります。神の超越性、絶対性を説くエリフにとっては神が自分の問いかけを無視して、沈黙を守っていることに対して「なぜ」と問い続けるヨブの神に対する執着心が許せないのです。自説(われは義なり)への執着は、神に対する高慢であり、不遜なのです。救いに至る道なのです。「しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか((35:15)」と、エリフはヨブの災厄を神罰と考えています。それゆえに、ヨブに与えられた災厄を正当化します。まさに応報論です。   「我は義なり」と確信するヨブにとっては、神の沈黙は自分の正しさを否定するものなのです。これに対してエリフは応えます。「天を仰ぎ見よ、あなたよりはるかに高い雲を見よ。神にとっては、あなたがどんなに正しくとも、またどんなに罪びとであっても、あなたは神に対して何もできないし、何も与えることは出来ない(35:5~7参照)」と、神を人とは無縁な存在にします。神と人との断絶が語られます。そして言います「あなたの悪は、あなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子にかかわりをもつだけだ」と。
 「人々は、多くの虐げのために泣き叫び、力ある腕のために助けを叫び求める(35:9)」。しかし、真の救い主である神に救いを求めません。神を求めずに泣き叫んでも、答えは得られません。力ある悪人がおごり高ぶっているからです。「神は決して空しい叫びを聞き入れず、全能者はこれに心を留めない(35:13)」のです。救いをこの世の力に求めず、真の救い主(神)に求めよとエリフは、人々に諭しています。
 ヨブが神を求めても神は応じません。沈黙しています。しかし、ヨブの訴えは「神の前」に届いているのです。だからその答えを、身を清くして忍耐強く待て、今はその時にあらず、とエリフはヨブを諭します。しかし、「ヨブは、いたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べ立てる(35:16)」と、エリフはヨブを非難します。エリフにとってヨブは相も変わらず罪びとです。
 36章:エリフは「まだ、神のために言い分がある(36:2)」と、その弁論を続けます。あなたが全能なる神と向き合っているように、私も向き合っている。「私の知識は神から来ているがゆえに、私の言葉には偽りがない。神はその力を行使し、いかなるものに対しても卑しめることをしない。神は悪者を生かしておかず、虐げられた者には権利を与える。神は正しいものから目を離さず、彼にふさわしい報いを与え高められる(36:1~7)」「もしかれらが鎖に縛られ、悩みの縄に捕らえられると、おそらく彼らは何らかの罪を犯したのであろうから、神はかれらのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶった、そむきの罪を告げ知らせる。神は彼らの耳を開いて戒め、悪から立ち帰るように命じる。彼らがその戒めに従い仕えるなら、恵みを与え、逆に聞き入れなければ、その罪を裁かれる。彼はその罪を理解せずに息絶える。心で神を敬わない者は怒りを蓄え、神が彼らを縛ると、彼らは神に救いを求めず、別の力あるものにすがる。それゆえに、彼らの魂は若くして死ぬ。彼らの命は腐れているからだ。神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広いところに導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。神の与える災厄は、彼を幸いに導くためにあるのです(36:6~16参照)。エリフは「災厄の教育的効果」を語っています。「しかし、あなたには悪者が受けるさばきに満ちている。神はあなたを悩みから救い出そうとしているのに、あなたは応答しようとしない。だから、神のさばきが待っている(36:16~17参照)。「そして、神のさばきの前に贖い代持ってきて、救いを求めて叫んでも神によって聞き入れられることはない(36:18~19)」。「人が不正に踏みにじられ、悲しみのうちに打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。悪に向かわないように注意せよ。あなたは悩みよりこれ(悪)を選らんのだから(36:20~21)」。苦境の中、で、悩みか悪かの二者択一を迫られ、ヨブが「悪」を選んだとエリフは言います。「万能な神は、あなたの犯した罪をご存じです。それゆえ、あなたを教え諭し、その罪を清めようとしておられます(教育的効果)。あなたの罪を罰し、懲らしめ、滅ぼそうとしているのではありません。神は、慈愛と親しみに満ちた「アバ父」なのです。その神にだれが「不正をした」と言うことが出来るでしょうか。逆にその御業を誉め歌って賛美すべきなのです。人はこれを遠くから眺めることが出来るのみなのです。神はいと高く、その存在も、その年も知ることは出来ません。神は永遠かつ無限のお方だからです。
 次にエリフは自然の摂理について語ります。自然の摂理は神の摂理です。神は大地を造り、太陽を上らせ、雨を降らせ、四季を造り、大地を循環させました。人はその恵みを享受しない限り生きていけません。すべてを創造した神と人は共に歩まねばならないのです。神の沈黙に対しては静かに待て、その先には素晴らしい栄光が用意されている、とエリフは言うのです。
 37章:自然の摂理は、神の御業であるとエリフは言います。人は神の前ではちっぽけな存在です。「神は心で自分を敬まわない者には怒りを貯え、これを裁く」のです。エリフはこの神の怒りの声を聴いて恐れおののき言います。「神の声である雷の声を聴け、稲妻と雷鳴が神の威厳を知らせる」と。神の驚くべき御業を語ります。この時、すべての人は、恐れおののいて、神に祈り、獣は巣穴に逃げ込み静かに神を見る。「神が息を吹きかけると川が凍り、雲に水分を含ませると稲妻をまき散らし、それを地に行き巡らせる」。「これらの自然の変化は、神の懲らしめであり大地のためであり、我々に恵みを与える。ヨブよ、よく聞け「これらの神の御業をじっと考えよ。どのようにして神が自然に命じて、その摂理を行わしめるか(37:15~17参照)」を。しかし、我々には、それ(摂理)を知ることは出来ない。なぜなら、雨雲の上にそれが輝いているからです。しかし、一陣の風が吹き抜けると。これを取り去り、清め、黄金の輝きが現れ、その尊厳を見ることが出来るのです。その風が吹くのを待てとエリフは言います。雨雲が神と人とを隔て、一陣の風がこれを吹き払い、神と人とを結びつける。この風こそ、神の愛であり、人の信仰のあかしなのです。
 次章では、一陣の風が吹き、それに乗って神が現れます。神はその沈黙を破りヨブの前に現れます。エリフは神の出現を予測していたのです。
 これで32章から37章まで続いたエリフの弁論は終わります。このエリフの弁論には、神も、ヨブも応答しません。
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令和4年1月11日(火)報告者守武 戢 楽庵会

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