日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヘミングウエイ作「誰がために鐘は鳴る」大久保康雄訳

2010年02月17日 | Weblog
 この作品は1937年に始まったスペインの内戦(人民戦線政府とフランコ将軍指揮下のファショ軍との戦い)を背景に展開される。アメリカの大学でスペイン語を教える知的で行動的な青年ロバート・ジョーダン(映画ではゲーリークーパーが演じていた)は人民戦線派に義勇兵として参加し,鉄橋爆破の密命を帯びて敵の戦線の背後に潜入する。地元のゲリラの協力のもと任務を遂行しなければならない。ここで彼は、このゲリラの中にいたマリア(映画ではイングリド・バーグマンが演じていた)と云うファシスト軍によって両親を虐殺され、自身も数人のファシストに凌辱され、後にゲリラに救出され、ファシストに復讐を誓うスペイン女性に出会い、恋に陥る。恋と冒険の物語である。
 橋の爆破は極めて危険な仕事であり、多くのファシスト兵が橋の周りを固めており死をも覚悟しなければならない。たとえ爆破に成功したとしてもその後上手く逃げおおせなければ成功とはいえない。ゲリラの隊長パブロは最初は冒険主義と云って、その協力を拒否するが、逃げおおせると確信を得た時、初めて協力を誓う。任務を達成するためには恋は邪魔ものである。しかしゲリラの隊員のロバートとマリアを見る目は優しい。
 死と直面した中での刹那的な愛、激しく燃え上がる。しかし、彼女の体は数人の男による凌辱の結果、男を受け入れることを拒否する体になっていた。傷ついた心と体が元に戻るには優しい愛と時間が必要である。愛はあっても時間はない。不完全燃焼する二人の愛。精神と肉体との矛盾に二人は苦しむ。生きたいと思う。生きて結婚できたら二人の結合は可能なのである。アメリカではマリアは教授夫人である。幸せな家庭生活も保障される。二人は夢を語る。橋の爆破と云う危険な任務を前にして、それがロバートの本心であった。しかし空しい。その実現はおそらく不可能であろう。たとえ橋の爆破が成功し、逃げることが出来たとしても全員の生還は無理に違いない。パブロの女房、占い師のピラールは彼の表情の中に死を見ていた。
 命をかけた橋の爆破という任務はファシスト兵との戦いの末、成功裏に終わる。しかし、ファシストを何人も殺害したとはいえ、ゲリラ側にも二人の死者を出す。
 ファシストは黙っていない。すぐさま追手を繰り出す。素早く安全な場所(人民戦線派の支配する地域)まで逃走しなければならない。しかし、逃走の途中でロバートは敵の銃弾を受け落馬する。馬の下敷きになり、足の骨を折り動けなくなる。仲間の逃走を助けるため、彼はその場に残り、追ってとの戦いに死を決意し、機関銃を握りしめ、敵兵が近づいて来るのを待つ。自分が戦っている間、仲間は少しでも遠くに逃げのびるであろう。自分と一心同体であるマリアも逃げ延びていくであろう。彼の中に生きている夢や希望や願いは、同時に彼女の中でも生きていくであろう。彼女の中には彼は永遠の存在として生き続けるであろう。彼は自分にすがりつき一緒に死にたいというマリアをやさしく拒否する。
 誰がために鐘は鳴るのか?ファショ軍に敗れた人民戦線派に対する弔鐘ないしはレクエイム(鎮魂歌)としてか?それともマリアとの恋に激しく燃え死んでいったロバートに対してか?おそらく両方に対してであろう。ロバートは人生において信じられるものを発見したのである。それは祖国であり、愛しいマリアであった。そのために死ぬことを幸せに思う。「この世は美しいところであり、そのためにたたかうに値するものである」。死に臨んで様々な感情が頭の中を駆け巡る。彼は幸せであった。この作品の訳者大久保康雄氏は、その解説の中で次のように述べている。「ヘミングウエイは、人間は結局孤独のまま世界が己に課する運命に耐えなければならないのだという彼の根本的イデーを変更することなく、その中の他人の積極的な感情=恋愛を、同士愛を、そして世界全体に対する貢献をこの作品で築けあげたのである」と。
 かって16世紀から18世紀の絶対王政の時代、世界に冠たる帝国を築き上げ大航海時代を切開き、多くの植民地を持ち「太陽の没することのない大帝国」として西欧世界に君臨していたスペインも、その無敵艦隊がイギリスとの戦いに敗れ、その後ナポレオンの支配下におかれ、それから独立したもののイベリア半島の貧しい一小王国に転落し、世界史の表舞台からは姿を消していた。この国が再び世界史の表舞台に登場したのがスペイン革命であり、その後に起こったスペインの内戦であった。この内戦は革命の結果生じた共和国政府=人民戦線内閣派(マニヤ・アサーニヤ大統領)と、その社会主義的政策等に反対するフランコ将軍指揮下のファショ軍との戦いであり、1936年7月~1939年4月まで続いた。この結果ファショ軍は勝利したが、多くの人間が殺戮され、国土は荒廃した。この戦いには共和国政府側にはソ連とコミンテルンとメキシコが支援し、国際義勇軍が組織された。この作品の主人公ロバート・ジョーダンも義勇兵として参加したのである。ファショ軍にはドイツのヒットラーが、イタリアのムッソリニーが支援した。ソ連が人民戦線内閣を支援したとはいえ、当時ソ連は大粛清の真っ最中であり優秀な軍人は粛清されているなど混乱が続いていた。そのため十分かつ強力な支援を行うことはできなかった。米英仏の立場は複雑であった。社会主義もファシズムの彼らにとっては敵であった。敵同士が戦い国力を弱めることは歓迎すべきであった。3国とも中立を守り戦いには介入しなかった。国際義勇兵が組織された。各国の進歩的な若者が義勇兵としてこれに参加し、傷つき死んでいった。時はまさに欧米諸国では大恐慌の真っ最中であった。しかし、ソ連の重工業優先政策は、軽工業と農業の犠牲のもとに進められていたとはいえ、資本主義の持つ景気変動に関係のない計画経済であったが故に、恐慌に巻き込まれることなく、目覚ましい発展を遂げていた。これは各国の進歩的な若者には、社会主義の資本主義に対する優越性に映った。彼らにとって社会主義は守られねばならない希望の星であった。それは今から考えれば幻想にすぎなかったが、当時の若者の本当の心だったのである。彼らは思想的信念を貫くために義勇軍に参加した。今の平和ボケした日本の若者に命をかけて守らねばならぬ信念があるだろうか?へミング・ウェイはこの戦争に従軍記者として参加している。その数年後にこの作品を現している。
スペインの内戦は人民戦線派内閣の行った社会主義政策(土地改革、企業の集産化、ファシスト党の解散)だけがその原因だったのであろうか?第二共和政のもとに生まれた人民戦線内閣はその内部はアナキストあり、共産党あり、社会党あり、トロキッストありとそれぞれ主義主張の異なる政治集団の寄り合い所帯であった。さらに労働組合は闘争に明け暮れ、企業の財政を圧迫した。この結果、スペインの経済はストライキによる生産低下、失業者の増大、税収不足、資本の国外逃避と麻痺寸前にあった。共和国政府は、こんな中でも政争に明け暮れ、何一つ有効な手を打とうとしなかった。このような状況を打開しようとして、反乱を起こしたのが、フランコ将軍であった。反乱の目的は、無秩序と経済の破綻に終止符を打ち、強力な政府を復活し、政争に明け暮れ有効な政策を持たない左翼勢力を一掃することであった。共和国内閣に反対する諸勢力(大地主、僧侶、大商人、一部の軍人)を糾合し、さらにドイツ、イタリアのファシストの支援のもと内戦に突入したのである。内戦は起こるべくして起こったのであり、社会主義的政策のみにその原因を求めることはできない。これに対して共和国政府の組織した人民戦線内閣は内戦の間も統一をかき、革命か戦争か、革命も戦争もか等々分裂しており、時には武力衝突すら起こしていた。ソ連の援助を得たものの、ソ連は先にも述べたように大粛清時代の最中であり、スペインのマルクス主義統一労働者党(POUM)の党首ニンはトロッキストとして、その仲間とともにソ連の秘密警察NKVDによって処刑されている。このことは大粛清の波がソ連内部だけではなくスペインにも及んでいたことを示している。ロバート・ジョーダンはゲリラと話し、大粛清の原因はソベート社会を崩壊させようとする反党分子ブハーリン、カメーネフ、リュイコフにあり、スターリンに反する人間の屑と言い切る。殺されて当然と言い切る。それはヘミング・ウエイの考えを代弁しているといえよう。戦争とは人と人との殺し合いである。革命側はその戦いを聖戦と考え、歴史を前進させる正義の戦いと看做している。そのために暴力革命が象徴するように人を殺すことを必要悪と考え、それを実行する。ここから虐殺が容認される。スペインの内戦において、他の内戦と同じく家族内、隣近所、友達同士が敵味方に分かれて戦った。双方の犯した虐殺が世界各国からの従軍記者によって報道され非難された。この作品においても虐殺の実態が描かれている。ファシストを制圧した村において、それまで村を支配していた村長、牧師、富農、企業家がファシストとして村民によって村の広場に引きづり出されなぶり殺しにされた状況が描かれている。彼らはそれによって積年の恨みを晴らしたのである。しかしこの村はその三日後にファシストによって占拠された。そこで何が行われたかを描く必要はあるまい。戦争とはそういうものなのである。
 人の命とは何なのであろうか?ロバートをゲリラの潜む洞窟に案内したアンセルモも、ゲリラの隊長パブロも云う。「自分は何人もの人間を殺してきた。しかし殺したくて殺したのではない。それは正当防衛であり、必要悪なのだ」と、「――神がいようといまいと人を殺すことは罪悪なんだ」。そして戦争はその罪悪を強制する。それが正当防衛であろうとなかろうと、人を殺すことは罪悪なんだという思想。それは人間の持つ根本思想でなければならない。それを犯すものが戦争ならば戦争は罪悪であり、正義の戦争も、悪の戦争もない。それは人の願いや希望や、様々な感情を抹殺するものであり、決して許されてはならない。しかしロバートは考える「それは現実世界の厳しさを忘れたロマンチストの抱える理想論だ」と。「お前が人を殺さなければ、お前が殺されるんだ」。「戦争を否定するのは勝手だけれど、今自分たちは現にたたかっているのであり、人を殺さない限り勝利はない。人を殺すのが罪悪ならば、自分は罪人になる以外ない。その戦いの彼方に、勝利の暁に理想社会を作るために自分たちは戦っているのだ。それが贖罪なのだ」。人を殺すことのない理想社会を作るために人を殺す。そこには人間の持つ根源的な矛盾がある。神と悪魔の戦いがある。そこには神を否定し禁断の木の実を食べ、神の国を追放された、人間の原罪がある。人は生まれながらにして罪びとなのである。
 ファショとの戦いに、先発したゲリラの別働隊のゴメス隊はファショ軍に包囲され、全滅する。しかしパブロを隊長とするゲリラ隊は何もできない。自分たちには橋の爆破と云う任務があり、彼らを助けにいけば、その兵力を考えれば全滅するかもしれない。彼らはゴメス隊を見殺しにする。そこには戦争の持つ非情さがある。
 橋の爆破の準備が整い、その報告と実行の許可を求めてゲリラの一人アンドレスが司令部に派遣される。しかしその途中、監視所の兵隊の官僚主義に阻まれる。通行証の確認に時間がかかったり、通行証を取り上げられたり、スパイ容疑で拘留されたり、なかなか前に進めない。無駄な時間を費やし、やっと司令部に到着したときには、橋の爆破は、すでに意味のないものになっていた。その中止命令がロバートのもとに届くには時間がかかり過ぎた。ロバートたちは中止命令を待たずして、命をかけた任務を遂行せねばならなかった。このような事態は各地で起こっており、勝てる戦いをまけたり、無駄な戦いをしたり、味方同士の小競り合いがあったりで各地で人民戦線側はその無能ぶりを発揮していた。
 結果として人民戦線派は敗戦を迎えるわけであるが、彼らは、戦前戦中を通じて統一せず、政争に明け暮れていた。その軍隊も官僚主義の結果、有効に機能せず、戦場において兵士たちは命がけに戦ったにもかかわらず、敗戦は運命づけられていたのである。
 スペイン内戦に限らずソ連においても、中国においても内戦は起こっている。ソ連における白軍と赤軍との戦い、中国における、共産軍と、国民軍の戦い。この二つの内戦は共産側の勝利に終わったが、スペイン内戦だけはファショ側の勝利に終わった。
 内戦に勝利したフランコは総統となり、王国を復活し、カトリック教を基本とするドイツ、イタリア、日本のファショ体制が崩壊したのちの唯一のファショ体制を基本とする全体主義国家として再生する。欧米先進国の経済封鎖などに耐えながら、この体制はフランコの死ぬまで続いた。第二次大戦には国土崩壊の再建を理由に、その参加を拒否している。フランコの死後、ファンカルロス一世は全体主義を引き継ぐことなく、民主主義化を進め、立憲君主国として経済発展を遂げ、社会主義政権も生まれている。
 革命以前のスペインは、貧乏人が金持ちになるには大泥棒になるか、オペラ歌手になるか、闘牛士になるかしか選択の余地はなかった。この作品では一人の闘牛士の華やかな生活の裏での悲惨な生活が描かれている。ローマでは剣闘士は剣奴と呼ばれているように奴隷出身者が多く、身分も低かった。貧しいスペインを金持ちにしようとして行われた革命ではあったが、不幸な結果に終わったことは残念ではあるが、これは社会主義国の運命を先取りしたものと言えるかもしれない。今後の発展に期待したい。

  ヘミングウエイ作「誰(た)がために鐘は鳴る」大久保康雄訳 新潮文庫上・下
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