日常一般

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ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)

2022年06月10日 | Weblog

ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)
 はじめに:今回をもって、ヨブ記のレポートを終了します。ヨブは自分の正しさを確信して、「義なる自分」が、なぜ「災厄」に会わねばならなじめに:いのか、と神に問い続けます。三人の友人とエリフが、この間に現れ、自分の意見を述べます。3人は「因果応報」を語り、エリフは「災厄」の「教育的効果」を語ります。しかし、それはヨブを満足させるものではありませんでした。それで、ヨブの目は神に向きます。しかし、神はヨブの問いかけには沈黙を守って応じませんでした。それが、嵐の中、突然現れ、ヨブに自分の摂理を語ります。神は自分の万能性、無限性、永遠性を語り万物の支配者であることを誇ります。人の支配の及ばない世界を語り、この世界が神のみ心で成っていることを証ししていきます。しかしヨブの問う「なぜ」には応えはありません。ヨブは神のみ心に触れ、何が神のみ心に触れるものかを知ります。ヨブは神の大きく強い愛に触れ、自分の小ささを悟って、神の前にひれ伏します。強く、大きな神の愛の前には、ヨブの善悪は小さな問題であり、取るに足りないものなのです。ヨブは、「我は義なり」と叫ぶ執着心を「知識もなく摂理を覆い隠すものであった(42:3)」と悟ります。神は、最終的には、自分の恵みとあわれみをお示しになります。ヨブは信仰によって生きる力が与えられたのです。神はヨブと三人の罪を赦し、ヨブには2倍の恵みを与えます。この後ヨブは140年生き、長寿を全うして死にます。。
 40章:40章には神の第一の語り掛けに対して、ヨブが答える場面と、さらにそのヨブに対して神の第二の語り掛けが記されています。第一の語りかけ対してヨブは恭順の意を示しています。それにも拘らず、神はなぜ二度も、嵐の中、語り掛ける必要があったのでしょうか。
 第一の語り掛けとは「非難するものが全能者と争おうとするのか、神を責める者は、それを言い立ててみよ(40:1~2)」という言葉です。非難するもの、責めるものとは、勿論ヨブのことです。「それお」とは、「神に義なる自分が「なぜ」災厄に会わねばならないのか、とその不合理かつ不条理な災厄に対して、「なぜ」と神に問い、その答えを求め続けたことを指します。。
 しかし、ヨブは先の章で示されたように自然の営み、様々な野生動物の生態、天体の動きなど自分の成しえないことのすべては、神の御業であると知り、自分の小ささを悟り、「知識もなく言い分を述べ立てて摂理を暗くする者は」は自分自身だと認めます。そして「ヨブは応えて言った。「ああ、私はつまらないものです。あなたになんと口答えできましょう。私は、ただ口に手を当てるばかりです。一度私は語りましたが、もう、口答えしません。二度と私は繰り返しません(40:3~5)と、反省の言葉を語ります。しかし、この反省の言葉を神は無視します。そしてヨブに言います「さあ、あなたは腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしの裁きを無効にする気か。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか(40:7~8)」と。わたしの裁きとはヨブの受けた災厄を指し、その意味を深く考えよ、と言うのであり、義なる我を罪に定める、あなた(神)こそ罪びとだとヨブよ、言うのかと、神は自らに対するヨブの高ぶりを叱責しています。
 神は自分を罪に定めようとするヨブに言います。「あなたは神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴を轟き渡せるのか。さあ、誉、気高さを現す法服で身を装い、尊厳と威光を身に着け神の法廷であなたの激しい怒りを吐き散らし、すべての高ぶるものを見て、これを低くせよ。すべて高ぶるものを見てこれを抑え、悪者どもをその場に踏みにじれ。そしてかれらを黄泉の国へとおとしめよ。そうすれば。わたしはあなたをたたえて言おう。「あなたの右の手があなたを救える」と。この文章も、また反語です。そんな神と同じ力があなたには、ありますか。あるまい。と神は言いたいのです。
 次に河馬について述べられています。河馬も野生動物の一種で、家畜としては存在していません。人と共に神によって造られた第一級の獣です。体は頑丈に作られており、堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、人にこのような生き物を造ることが出来ません。神の傑作です。彼らは静かに草を食み、山のもたらす産物を楽しんでいます。野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしています。彼らは普段は沼地でのんびりと過ごしています。ハスや、葦や、柳は水辺で彼らに安らぎを与えます。河馬は平和の象徴であり、戦いを好みません。たとえ激しい雨が降り注いでも、ヨルダン川があふれても、それを飲み込んで慌てません。こんなおとなしく平和な動物を「誰が罠にかけて、その鼻を突きとおすことが出来ようか(40:24)」。
 41章:41章は、レビヤタンについて語っています。
 1、レビヤタンとは旧約聖書に登場する竜または蛇のような巨大な水中怪獣で、鰐(わに)の類と考えられています。
 2、その姿は強大かつ強靭な皮膚におおわれ、強さと威厳に満ち何物をも近づくこと許しません。剣も槍も投げ槍も矢尻も、受け付けず、跳ね返します。その口からは炎を吐き出し、どんなに力あるものもこれに太刀打ちできません。河馬(40章参照)が第一級の獣なら、レビやタンは、すべての獣に対する誇り高き王です。
 3,人はそんなレビやタンに優しさを期待することも、捕らえて奴隷にすることも、契約を結んで和解することもできません。勿論、戦って、勝つこともできません。それゆえ、「二度と手を出すな」と神は言います。
 神は言います。「天の下にあるものはみな私のものだ。私以外にこれ(レビヤタン)に勝つものはいない」と。レビヤタンは、神に対抗する諸勢力の比喩的表現です。実態は、悪魔です。これに勝つものは神のみです。 河馬が平和の象徴ならば、レビヤタンは、神に敵対するもの(悪魔)の象徴です。共に神の支配下にあります。神は、被造物のすべてを支配されています。それゆえ、レビヤタンは、人の太刀打ちできる存在ではありません。
42章:1,ヨブの悔い改め「ヨブは主に応えて言った。「あなたは、すべてが出来ること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなく、摂理を覆い隠すものはだれか。まことに私は自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を(42:1~3)』」と。自分では悟りえないことを告げていたと、ヨブはその行為を反省しています。ヨブが自分の無罪を主張し「我は義なり」と主張し「神が間違っている」と叫んだ時にヨブの罪が明らかになります。ヨブの主張の真偽は、神にしか知り得ないものだからです。その主張は、明らかに神に対する不遜であり高ぶりだったのです。
 そして神は言います。「さあ、聞け、わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ(42:4)」と。
 ヨブは神を求め続けました。しかし、神は沈黙を続け、その姿をヨブは見ることは出来ませんでした。「うわさで聞いていただけです(42:5)」。しかし、今、ヨブはその姿を見たのです。神との出会いの体験こそ、人を真の信仰者にするのです。十字架で逃げた弟子たちが集められたのも復活のイエスとの顕現を通してでした。そして、神はその反省した姿を「わたしに示せ」と命じています。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で、悔いています(42:6)」とヨブは反省します。災厄の苦しみの中で、ヨブは神を受け入れたのです。神とヨブの間に和解が生じます。
2、ヨブの回復:神はヨブの悔い改めを受け入れるとともに三人の友人たちを叱責されます。神はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたが、わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかったからだ(42:7)」と。ここで神は友人たちの主張する「応報論」を否定し、ヨブの正しさを明らかにしたのです。しかし神は友人たちを罰することはせず、ヨブとの和解を望んだのです。ヨブが友人のために取り直しの祈りをしたとき、神は、ヨブの苦難を取り除かれ、元の境遇に戻し、2倍の財産を保証しました。彼の子、兄弟、姉妹、雇人、のすべては復活し、隣人たちと共にヨブを祝福しました。神はヨブの前の半生よりも、後の半生を、もっと祝福されたのです。「この後ヨブは140年生き、自分の子とその子の子たちを4代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ(42:16~17)」のです。
 この結論は、神学的には甘いという説もあります。ヨブは最後まで突き放された方が、イスラエルの神を理解するためには、良かったのです。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままでよいのではないか。救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難や不条理の意味が変えられることにあるのです。ヨブは信仰によって変えられ、生きる力を与えられたのです。ヨブの苦しみは、イエスの痛みに通ずるものがあります。イエスの十字架の死と復活は、ヨブの苦しみと復活に通じるものがあります。それはこの「ヨブ記」のテーマでもあったはずです。
令和4年3月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


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