日常一般

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アンドレ・ジイド作「狭き門」川口篤訳 力を尽くし狭き門より入れ

2013年05月21日 | Weblog
アンドレ・ジイド作 「狭き門」 川口篤訳

 この作品「狭き門」(1906年)は、1947年フランスのノーベル文学賞受賞者アンドレ・ジイド(1869年11月22日~1951年2月19日)の作品である。
 題名の「狭き門」は、聖書の以下の言葉に由来する。
 ルカ伝第13章24節には「イエス人々に云い給う『力を尽くして狭き門より入れ。われ汝らに継ぐ、入らんことを求めて入り能はぬ者おほからん』」
 またマタイ伝第7章13節には「「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入るものおほし。命に至る門はせまく、その道は細く、これを見出すもの少なし。」
この作品は神の愛と、人の愛との葛藤に苦しむ男女の交流を描いた作品である。何故か、ローマカソリック教会(バチカン)に 
よって禁書に指定されている。
 この作品は私(ジェローム)の思い出を語るという形で1人称で語られている。その中心は私と2歳年上の従姉アリサとの恋である。2人は相思相愛であり周囲の者は当然2人は婚約から結婚へと進むものと考えていた。しかしこの恋には神が介在する。神と、アリサと、私の3角関係の中で物語は展開する。私もアリサも共に熱心なクリスチャンであり、その結びつきは、ピューリタン的しつけと、神への信仰に裏付けられていた。私たちの心の交流は一つの悲しい事件(後に詳述する)を契機としてさらに深まっていった。私たちは結婚するにはまだ若かった。学業があり、兵役にもつかねばならなかった。せめて、婚約だけでも、という周囲の声に対しては、その事によって二人の自由を束縛してはならない、今の愛だけで充分だと、それを拒否した。私はこの間イタリアにも旅をした。このように私とアリサの間には長い別れがあった。しかし私たちの愛は滞ることなく続いていた。長い別れをつないでいたものは、愛情のこもった手紙の交換であった。それによって私たちは愛を確かめ合っていた。
 かくして私たちは再会し、愛のあかしとして私はアリサに結婚を申し込む。条件はそろっていた。しかし、アリサは、私をこの上もなく愛していたのにもかかわらず、この申し込みを拒絶する。そこには自我の抑制と、大いなるものへの信従があった。アリサは人の愛よりも、それに勝るものとしての神への愛を求めていたのである。神への信仰は、我を捨てることである。犠牲を払うことである。マタイの福音書19章29節は次のように述べている「また、およそわが名のために、あるいは家、あるいは兄弟、あるいは姉妹、あるいは父、あるいは母、あるいは田畑を捨つるものは、数倍を受け、また永遠の命をつがん」。勿論ここには愛するものも含まれるであろう。神に至るには狭き門を通らねばならない。
 物語を前に戻そう。アリサが私を拒否した理由、私より神を求めた理由を明らかにすべきだからである。このためには、アリサの母であり、私の叔母である、リシュリ・ビュコランの話から進めなければなるまい。リシュリは両親から捨てられた孤児であった。引き取り手のいない彼女を救ったのが、その当時、まだ子供のいなかったヴォーチェ神父夫妻であった。彼女は神父夫妻の養女として育てられる。しかし神父の家庭に育てられながらも、神への信仰はなかった。自由奔放に振る舞っていた。美人であり、セクシュアルであり、人を魅付ける怪しげな魅力に富んでいた。その性格には難がありひねくれていた。その後、神父には子供が生まれた。そんなこともあってリシュリは次第に神父夫妻の厄介ものになっていった。この時、私の母の弟であり、アリサの父となるビュコランに見染められ、周囲の反対を押し切って2人は結婚する。ボーチェ神父はホッとする。二人の愛は本物であった。少なくとも周囲はそう信じた。そして、アリサ、ジュリエット、ロバーツの三人の子供に恵まれる。しかしアリサの人生に重大な影響を与えた悲劇が起る。それはリシュリの不貞であり、駆け落ちであった。ボーチェ神父は聖書の言葉を引用して「罪に至る道は広く、神に至る道は狭い」と養女リシュリの罪を説く。
 リシュリの不貞と駆け落ちは私たちピューリタン的教育によって育てられた者にとっては衝撃であった。どんなに愛していても人の愛は不確かであり、相対的であり、一時的であると、この事件は示していた。そこには人間愛に対する絶望と不信と、悲しさがあった。それに対して、神の愛は絶対であり、確実であり、永遠である、と教えられていた。こうしてアリサは、人の愛を否定して神の愛へと向かう。私はアリサの不幸と苦しさを知り、彼女を救うことこそ自分の使命であると決心する。私はこの事件をきっかけにしてより一層アリサを愛するようになり、アリサもそれに応える。私たちは幸せであった。しかしアリサは言う「あなたと一緒にいると、こんな幸せがあるかしらと思われるほど幸せなの、--------、でも私たちは幸福のために生まれてきたのではなくてよ」、私は言う「じゃあ魂は幸福以上に何を求めると言うのだい」彼女は応える。「聖なる心よ」と。アリサは人の心の永遠性を信じる事が出来なくなっていた。「--------、恋だって同じよ、みんな過ぎ去っていくものよ」と。アリサは私の愛を拒否し永遠なる神の道を求めたのである。しかしそれは、犠牲を要求する狭き門であった。アリサにとっては私は犠牲の小羊であった。彼女は私への愛を捨てて、より勝りたるものとしての神の愛を求める。しかし、神の愛を求めれば求めるほど、私の姿がよみがえってくる。この障害物を乗り越えない限り狭き門を通過して神に近づく事は出来ない。神の愛か人の愛か。アリサは苦悩する。しかしアリサは、その解決の無いまま、神の愛を求めて私のもとを永遠に去っていく。アリサはほどなくして病に倒れ死んでいく。
 アリサノ妹ジュリエットは遺品を整理しそこに「アリサの日記」を発見する。それは私への愛の告白であった。彼女はそれを私に送ってよこした。
  アリサの日記
  アリサは神の愛を求めていた、しかし求め、求め激しく求めながらも、求めれば求めるほど求め得る事はなかった。アリサの日記は語る「神を求め、あの人から逃れようとするのだが、求めれば求めるほどあの人の姿は蘇ってくる。--------、犠牲はまだ私の心の中で成し遂げられていないのだ。彼のみが私に味あわせてくれた、あの喜びを、これからは、ただあなた(神)のみがお授けくださいますように」「人の愛を超えることのできるものは神の愛しかないのです」。「わが心、わが魂の中に入りて、わが苦悩を負い、なお残された主の受難の苦しみをわが身において負わせたまえ」。「自ら進んで引かれ行く時は、自分が縛められている事を感じないものです。それに逆らおうとするとき、それから離れて歩こうとする時、初めて激しい苦痛を感じるものです。」私への愛こそ苦痛の種子であった。この苦痛を自由と感じる事は、幸せへの過程=神への一つの過程であると感じる事はアリサには出来なかった。
  そしてアリサは自分を覆っていた神というベールをはがし、自分の本心を見つめる。「幸福はそこにある、すぐそばに、取ってくれと言わんばかりに、--------それを捉えるには、手を延ばせば足りるのに--------」「気の毒なジェローム!あの人が、時に、一挙手一投足の労で足りるということ、時に、私はそれを待っているのだと云うことを知っていてくれたら--------」と。この時私は理解する。アリサの形の上での拒否を乗り越えて私がアリサを自分の愛に引きずり込み、我が物にしてしまう勇気が必要だったのだという事を。そしてアリサはそれを望んでいたのだという事を。それはピューリタン的教えに背くものであったろう。アリサは神の愛を求めると同時に私の愛も求めていた。それはアリサの心の中において同一レベルに並んでいた。アリサは言う「神の中に彼を見出す」と「彼の魂に増してあなたに値するものがかつてありましたでしょうか」と。ここに神の愛と人の愛の融合がある。だから人の愛は、神の愛にひざまずく愛では無かった。犠牲にされるべき愛では無かった。アリサはさらに言う「憎らしい事に、徳とは、ただ愛に対する抵抗のようにしか思われなくなる」と。そこには神に対する人間性の回復があった。神を否定し、自由奔放に振る舞ったアリサの母=リシュリの血がアリサの中にも流れていた。
  しかしアリサも私も、潜在的にはそれを理解してはいたが、神は2人にとって超えることのできない絶対的な存在であった。罪を背負ったままアリサは死んでいく。彼女は狭き門を通過する事が出来たであろうか。ジードはそれについては何も触れていない。
ジュリエット
 アリサの妹にジュリエットがいる。ジュリエットは美しかった。健康と快活さは彼女を輝かせていた。しかし彼女の美しさは、姉の宗教的、神秘的な内からの美しさ、麗しさに比べて、極めて表面的なものに見えた。母のリシュリはアリサより、ジュリエットを愛していた。性格的にウマがあったからであろう。ジュリエットは私を愛していた。私ももちろん従妹として彼女を愛し、仲は良かったが、それは恋ではなかった。勿論ジュリエットは私がアリサを愛している事は知っていた。しかし、私はアリサと婚約もしていなければ、結婚もしていない。彼女には私を愛する権利があった。アリサは恋の競争相手であった。アリサは私をジュリエットに与えようとする、自分の恋を犠牲にして、である。犠牲は神の意志である。神に向かうアリサに取って私は犠牲の小羊に過ぎない。しかし、私がアリサの期待にこたえるわけにはいかない。私は心から彼女を愛しており、彼女も私を愛していたからである。こんな時、ジュリエットに結婚話が持ち上がる。相手はぶどう園の店主エドワ―ル・テシュエールという男である。伯母からの推薦である。善人ではあっても、醜男で、生まれも育ちも、私たちとは全く違った世界の人間に思われた。ジュリエットが好きになる訳が無かった。しかし彼女はこの結婚話を、私やアリサの反対を押し切って承諾する。アリサの気持ちを知り、さらに私が自分を受け入れる事が無いと確信したからである。アリサの犠牲を拒否したのである。というよりもアリサと私を結びつけたいと思ったからである。そこにジュリエットの人間的な優しさがある。夫のテシエールはジュリエットを心から愛していた。そしてジュリエットもその愛にほだされていく。かくしてジュリエットはその努力により幸せを獲得する。人間の愛の不確かさは、ここにもみられる。恋は愛である、しかし結婚は人間の努力である。「アリサの手紙」はこの時のことを次のように述べている「ジュリエットがその幸福を私の犠牲以外のところに見出した事、--------つまり、彼女が幸福になるためには、私の犠牲を必要としなかった事を、腹立たしく思っている事が、自分にもよく分かるのだ。--------神様が、もう私にそのような犠牲をお求めにならないのかと考えると、屈辱に似た気持ちを感じる。果たして私にはその力はなかったのだろうか?」と。ここには人間の愛に対する賛歌がある。ヨハネは水によってバプテスマを授けた。しかしキリストは血によってバプテスマを授けた。血は動物の犠牲によってしか獲得する事が出来ない。神の愛を得るためには犠牲を要求する。アブラハムはイサクの代わりに雄羊を、アベルも小羊を神に捧げている。神に至る道は狭き門である。

 ジュリエットには幸せになるためには犠牲を必要としなかった。自力で自らの幸せをつかんだのである。神はアリサに啓示したのかもしれない。「私を求める、あなたの苦しみだけで、充分だ、自分の愛を全うしなさい」と。聖書(神)は、別の場所では私を信じ、求める者は全て救われると書いてある。無条件の愛を示している。無条件の愛と、狭き門、それは矛盾する。しかし神の成すことは全て善き事なり、矛盾を含め神を信じたい。アリサは死後永遠の命を得て神の国に到達したであろう。そう信じたい。
アンドレ・ジイド作 「狭き門」 川口篤訳 岩波文庫



  

教会形成の歩みのために

2013年05月08日 | Weblog
教会形成の歩みのために
今日、今、深夜祈祷会に参加できる喜びを与えて下さったあなた(神)に心から感謝します。本日のテーマは「教会形成の歩みのため」にということです。テーマに沿ったものを選ばないと、また途中で待ったがかかるので、テーマに沿った祈りの言葉を考えました。
教会とは見ることのできない神と人との出会いを仲立ちする仲人のようなものです。その主人はキリスト様です。キリストさまのお住まいになるところが教会です。「教会は、キリストさまの体であって、すべてを作り、すべてを満たすキリストさまの霊が満ち溢れる場所です(エペソ人への手紙1:23)」。このように教会には、神と子と聖霊が宿っております。その教えの基礎となるものが「聖書」です。聖書とは神によって啓示された書であるとみなされています。聖書は原点において誤りなき神の言葉なのです。教会は、聖書を通じて神の教えを世の中に広めていかねばなりません。罪に満ちた人は変わらなければならないし、変えなければならないのです。それが教会の社会的使命です。伝道の意味なのです。罪びとは罪びとのままであってはならないのです。教会はこのようにして人を変えることによって、世の中を変えなければなりません。教会は世の中の「あるべき姿」から出発しなければならないのです。そのあるべき姿を聖書は示しています。現実の「ある姿」から出発してはならないのです。ある姿と妥協してはならないのです。普遍は個別に先行します。普遍とは神であり、個別とは人です。
 このようなものとして、あなた(神)が、私たちに教会を与えて下さったことに深く感謝します。
 教会とは見えざる神を、司祭として、見える姿に現し、神の教え(聖書)を人に伝えていく使命があります。不完全な、罪に満ちた人を、完全な「神の似姿」に近づけていかなければなりません。社会的慈善事業や社会的奉仕活動などその例としてあげる事が出来ます。更に社会改革まで進んでも良いかもしれなません。人は信仰によって得た永遠の命を、死後の世界だけでなく、現実の世界に、種としての人類の上に打ち建てねばならないのです。それが神の国です。心の問題の現実化。それが教会の使命です。それは非常に困難に満ちた課題です。現実は悪霊によって支配されようとしています。そうであってはならないのです。聖書はエペソ人の手紙6:10~18の中で次のように述べています「悪魔のどんな戦略や策略にも立ち向かえるように、神様のすべての武具で身を固めなさい」「また、救いの兜をかぶり、御霊の剣を手にしなければなりません」と。心の中の悪霊と戦うだけでなく、現実の世界の悪霊と戦う事が必要なのです。剣をお与えください。私たち一人一人は弱き存在です。しかし教会という組織の中では強くなります。それぞれの教会が繋がれば、さらに強くなります。悪霊と立ち向かう力になります。
 神様、その為の力を私たちにお与えください。
 ここに集われた人々の上に、あなたの愛と栄光が与えられますように、心から祈ります。
人生は春だと、希望にあふれ踊る人たち
人生は夏だと、力一杯働く人たち
人生は秋だと、心身の疲れに沈む人たち
人生は冬だと、天界の慰めを慕い求める人たち
そのすべてに、生命の輝きを語りかける聖書
足元から全宇宙の存在にまで、想いを至らせる聖書
ついに、人間以上の実在を鮮やかに示す聖書
天界の愛をもって抱擁し、力づけ、導く
その聖書は神の語りかけ、それを読むのではなく、
これをきくことが大事である
あなたに語りかける一言ひとことに耳をかたむけよう


私たちは、神の言葉を、聖書の言葉を聞き、祈るために、この場(教会)にいるのです。神の愛と栄光が、我々の上に注がれますように祈ります。
ア―メーン