日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記7 25~29章

2022年06月03日 | Weblog
ヨブ記7 25章~29章
はじめに:これから25章以下を読んでいきます。25章はシュア人ビルダデの3度目の登場です。わずか6節の短い文章です。この章でヨブと3人の会話は終わります。両者の間にあったのは平行線です。ヨブは「我は義なり」と主張し、3人の友人たちは「災厄は神罰なり」とその応報論を変えようとはしません。ヨブはもはや友人たちの神学を自分に対するあざけりと見做し、これを否定します。その目は神に向かいます。しかし神は沈黙を貫きます。この後、ヨブの長い独白(27~31章)が続きます。ヨブは神への誓いをもって、友人たちに「我が身の潔白」を主張します。「我に罪あればそれを知らせよ」と神に訴えます。3人の友人たちは、ヨブの罪を数え上げました。しかしそれはヨブにとっては身に覚えのないものだったのです。ヨブの独白の後、若きエリフが登場します。彼は3人の友人たちとは別の角度からヨブを責めます。最後に神が登場してめでたしめでたしです。
沈黙は空白ではありません。沈黙によって神はその痛みを分け合う(義人に災厄を与えたことを指す)気持ちや、愛を込めることが出来るのです。そして、それは相手に伝わるものなのです。黙っていても、相手に伝える感情を大切にすることが、相手の気持ちを尊重することになるのです。それが証拠にヨブは言います。「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10B)」と。そして、その唇をもって罪を犯さなかったのです。ヨブは神の沈黙の中にその意思を読み取っていたのです。神が、痛みを分け合うには、痛む心の近くにいることが必要です。神は、永遠に、痛みを分け合った者(ヨブ)に寄り添い、慰め、励まし、その苦しみを共にし、見守っておられるのです。神はわれと共にあり。

25章:シュアハ人ビルダデの登場
 「聖書」における「ヨブ記」の存在価値とは何か。そのことを25章のビルダデのことばと、26章のヨブのことばを通して探ってみたいと思います。結論を先に言えば、ヨブ記の存在価値は「キリストの出現」を予定していることの中にあります。
25章はわずか6節からなる短い文章です。
その主張は、神と人との2元論です。その間の断絶を語ります。「主権と恐れは神のもの、神はその高き所で平和を作る。その軍勢の数ほどのものが、ほかにあろうか、その光に照らされない者が、ほかにあろうか(25:2~3)」。
人はどうして神の前に正しくあり得ようか。女から生まれたものが、どうして清くあり得ようか。ああ、神の目には、月さえも輝きがなく、星も清くない。まして人間は蛆虫で、人の子は虫けらだ(25:4~6)」。前半は神について、後半は人について語っています。
この考えの基本は、グノーシス主義です。人間やその他の物質は、基本的には、悪であり、汚れているのです。人は蛆虫であり、虫けらなのです。神は光であるから、そのような世界には介入しないのです。それゆえ光であるイエスは、肉体(汚れ)を宿しているのではなく、実態を持たない仮像に過ぎないのです。神であるキリストは人であってはならないのです。三位一体の神(父と子と聖霊)は否定されます。
主キリストがお生まれになった時、「インマニュエル」と呼ばれました。「神は、我らと共にあり」という意味です。主はわれらと離れた存在ではなく、常に共にいる存在です。ビルダデの言うように主は単に人に対して超越的な存在ではなく、慈愛に満ち満ちておられます。人は、罪びとであっても、決して蛆虫でもなければ、虫けらでもないのです。ビルダデのように、ヨブの受けた災厄を神罰とみなすのは、神の御業を否定することになるのです。主の本質は、愛だからです。主は良いお方です。
26章:ヨブはビルダデに言います。「あなたは無力の者をどのようにして助けたか、力のない腕をどのように救ったか、知恵の無い者をどのようにいさめ、豊かな優れた知性を示したのか。あなたは誰に対してことばを告げているのか、だれの息があなたから出たのか(26:3~4)」と。無力な者、力のない腕、知恵の無い者とは、ヨブ自身を指しています。ヨブ自身が彼らのことばを代弁しているのです。その私(ヨブ)に対してあなたがたはどのような豊かな、優れた知性を示されましたか、と皮肉を込めてヨブは苦言を呈します。そしてあなたのことば(知恵)は神から出たものでなく、あなた自身の知恵(独りよがり)ではないかとあざ笑っているのです。その証拠にあなたがたの知恵など何一つ私には役には立っていないと、ヨブはその知恵の浅薄さを処断しているのです。神の叡智に較べれば、あなたの知恵など取るに足りないほど小さなものだと語っているのです。
この後、ヨブは、人の知恵に較べて極めて大きな創造主の御業と摂理について語っていきます。創造主の御業を見て探求するとき創造主の無限の叡智、豊かさ、深さを知ることが出来ます。創造主は、宇宙を創造し、その一環として地球を創造されました。
3000年以上も前に、ガリレオもニュートンも存在していなかった昔に、ヨブが宇宙の摂理を知っていたことは驚くべきことです。地球は宇宙空間に浮いており(26:7)、地軸は傾いており、さらに球体であること(26:10)を知る叡智を、また、神に敵対する「海」「ラハブ(海獣)」「逃げる蛇」を神は収めていることを知る智慧をヨブは持っていたのです。
しかし、これだけでも神の万能性を知るに十分なのに、これは神の外側の理解に過ぎないのです。外側があるということは内側があるということです。それこそ、愛であり親しみです。人はこんな神を敬慕し、信仰します。これはイエスキリストの出現によって完成します。イエス・キリストはヨブの時代には存在していません。しかし、メシアとしては存在しています。「アバ父よ」と親しまれ愛されている存在です。
先にも述べましたが、聖書における「ヨブ記の存在意義」とはキリストの存在を予定していたことです。
27章:ヨブは確固とした信念をもって「我は義なり」と叫びます。それは神も認めていたことなのです。だからヨブの受けた災厄は、彼にとっては、不条理なものだったのです。だから、彼はなぜ、なぜと問い続けたのです。それにもかかわらず神に対する信仰をヨブは捨てませんでした。ヨブの主張から学ぶべきことは「ゆるぎなさ」です。
1、良心による誓い(27:1~7):ヨブはまた自分の格言を取り上げて言った。
ヨブの格言的主張:へブル詩特有の美しい修辞法である「パラレリズム」を通してヨブの主張を見ていきたいと思います。ちなみに、パラレリズムには3つのパターンがあります。
① 同義的パラレリズム:ある文節と同じ意味する内容を、別の語彙を使って言い表します。
② 反意的パラレリズム:ある文節とは反対の意味の内容を次節で言い表します。
③ 総合的パラレリズム:ある文節を次節ではそれを補足する形で言いあらわします。
27章2~7節の個所では「同義的パラレリズム」と「総合的パラレリズム」が使われています。以下にその例文を挙げます。
1,同義的パラレリズム
2節;私の権利を取り去った神
   私のたましいを苦しめた全能者を指して誓う
   神=全能者
 「私の権利を取り去った」、とは、自分の潔白さを訴える権利が神から与えられていたとしても、それに対する神の沈黙は、その権利が取り去られたのと同じことで、それがヨブの魂を苦しめているのです。
3節:私の息が私のうちにあり
   神の霊が私の鼻にある限り
   息=霊
4節:私の唇は不正を言わず
私の舌は決して欺きを告げない
唇=舌
不正=欺き
 7節:私の敵は不正をするようなものになれ
    私に立ち向かうものは、よこしまな者のようになれ
    私の敵=私に立ち向かう者
    不正=よこしま
 2、総合的パラレリズム
    5節:あなたがたを義と認めることは、私には絶対に出来ない
       私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。
  友人を義と認めることは自分の罪を認めることになる。
    6節:私は自分の義を堅く保って、手放さない
       私の良心は生涯私を責めはしない
反意的パラレリズムの例文は27章には出て来ません。
「私は、神に誓って言う。私は息絶えるまで、自分の潔白を主張する。それゆえ、私を罪に定めようとする、あなたがた3人の義を認めることは決して出来ない」、あなたたちこそ私には敵であり、よこしまな者たちである」。  3人の友は、今や、ヨブの敵にまでなり下がったのです。
格言:深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めのことば、金言、箴言を云う。ヨブが神への誓いをもって語ったのでこの言葉が使われた。
2,聞かれない叫び(27:8~12):そんな人を神は顧みられない。彼らが苦しんでも、彼らの声を神は聞かれない。「私は、神のみ手にあるものを、すべてあなたがたに教えた。それにもかかわらず、なぜあなたがたはそれを悟らず、空しいことを言うのか」と、ヨブに対する無理解を暴き立てます。
3、相続財産(27:13~23):悪人は罰せられ裁かれても、子孫ややもめにまでは害は及ばない。富者の蓄えた財は、正しい罪のない者が引き継ぎ、富者が自ら建てた家に寝ても、目を覚ませば、その家は取り払われている。恐怖が彼らを襲い、御手からのがれようとするが、東風(神)が彼を吹き払う。人々は彼に向かって手をたたき、彼をあざけって、そのいるところから追い払う。その限りにおいて因果応報論は正しい。悪人は滅ぼされる。しかし私は違う。私は悪人ではない。「我は義なり」。
28章:次にヨブは「知恵」と「悟り」について語ります。
「知恵はどこから見出されるか、悟りのあるところはどこか(28:12)」。
これがこの章の中心課題です。
ヨブによる神の「知恵」と「悟り」を得ることの学びが、鉱石(金、銀、銅、鉄、しまめのう、サファイヤ、水晶、トパーズ等)を得るために地中深く穴を掘っていくことに例えられています。単に掘り出すだけでなく、掘り出されたものを純化するために製錬することも言及されています。その価値の高さと、それを得ることの難しさも併せて述べられています。
人はこの世では貴重な宝(知恵と悟り)を、見出すことが出来ないからです。いかなる宝石も尊すぎてそれと比較することが出来ないのです。
「では知恵はどこから来るのか、悟りのあるところはどこか(28:20)」。それは地上のすべての生き物には隠されていて、うわさに聞いているのみなのす。そして神のみがそれをわきまえておられ、そのある所を知っておられるのです。その時、神は知恵を見て、これを見積り、これを定めて、調べ上げられた。こうして、神は人に仰せられた。「見よ、主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである(28:28)」と。「主を恐れることは「主を信じる」ことと同義であり、これが「知恵」だと神が語っています。また「悪から離れる」ためには、神にとって何が良いことであり、何が悪いことかを識別できる能力がなければなりません。これが「悟り」だと神は語っているのです。神こそ「知恵」と「悟り」の源泉なのです。
29章:ヨブはまた自分の格言を取り上げて言います。「ああ、できれば昔日のごとくであればよいのに」と。昔日とは災厄以前の神に守られていた日々を指しています。この時、ヨブは一つの共同体の長(首長)であり、政治、経済、福祉、風俗などのすべての分野を統治していました。その統治は知恵と悟りに導かれており、神の前で何一つ恥ずかしくないものだったのです。ヨブは全能者と共にあり、悪者に対しては威厳をもって、これを厳しくさばき、さらに、貧しき者、みなし児、やもめ、障碍者などには手を差し伸べてこれを助けるなど、弱き者の父となり、民に対するより良き統治と福祉に努めていたのです。それゆえ、その信用は厚く、慕われ、その言葉に逆らうものはなく、逆にその言葉は日照りの時の雨のように待ち望まれていました。当然、この共同体が子々孫々までに伝えられ、その栄光が、日々新しくなることをヨブは期待していたのです。このとき、ヨブに災厄が訪れ、この素晴らしい共同体が破壊されると、だれが想定できたでしょうか。
ヨブは言います。「私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆くものを慰める者のようであった(29:25)」と。
ヨブは偉大な権威者であり、さらに穏やかで優しい、嘆くものを慰める存在でした。やさしさに満ち「アバ父よ」と呼ばれるに値する人であり、これがヨブの自負心だったのです。その彼に不条理な災厄が訪れたのです。
>令和3年11月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会



























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