日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ドストエフスキー作 『悪霊』 Бесы 病理の世界

2009年01月26日 | Weblog
 社会を受け入れず、社会からも受け入れられず、だからといって、自らを律する規範を持たず、卓越した知能と、行動力を持ちながら、それを有効に使用する術を持たず、自らを余計者と断ずる、ニヒリスト=青年層が1861年の農奴解放後の封建制から近代社会への過度期ロシアに現れてきた。旧来の価値観は崩壊し、だからといって、新しき価値観は見出せず、社会は動乱と混乱を極めていた。このような時、西欧先進国で生まれた新思想(無政府主義、無神論的革命思想)がロシア社会に流入してくる。無為と虚無の中で退屈していた青年層の一部はこの新思想に飛びつき独自の組織論のもと、秘密結社を組織しロシア社会の転覆を企てる。この作品は新思想を悪霊に見たて、それに憑かれた青年達の複雑な心の動きと、行動、その破滅を、実在の事件(組織の結束を図るため、転向者を殺害した『ネチャーエフ事件』)をもとに描かれたものである。
この作品『悪霊』はドストエフスキーの後期の作品であり、1872年に出版された。『罪と罰』『白痴』『未青年』『カラマーゾフの兄弟』と並んだ5大作品の一つであり、ドストエフスキーの思想的文化的探求の頂点に立つ大作といわれている。
 この作品は、新思想に捉われた青年層の行動というよりも、それを素材にして、退屈と虚無の中で何をやっても充実できず、人生の充実感を求め、より強い刺激を求め、放蕩無頼の生活の末、悪徳と罪を犯し続け、それを苦悩し、罪の意識に苛まれながらも、それに快感を感ずる、サドと、マゾの両者を併せ持つ、「混沌とした闇を抱える人間=秘密結社の陰の立役者=ニコライ・スタブローギン」の『心の中に潜む悪魔=病理の世界』を描いたものと言えよう。
ニコライはその犯した悪徳と罪の苦しさから解放される為に、救いを求めてチホン神父を訪れる。彼はいう『罪を犯した苦しさを解放する為に、次の罪を犯す。しかしその救いは一時的なもので、またまた罪を犯す』と。それは麻薬患者が禁断症状の苦しさから解放される為に、より一層強い薬を求めるのに似ている。彼はいう『僕は無限の苦しみを求めているのだ、それが僕の罪に対する罰であり、僕についた悪霊からの開放なのだ』と。チホンは云う『僧門に入れ』『それなくして悪徳の連鎖からの解放はない』と。しかしニコライはそれを拒否する。チホンは云う『あなたはすくいをもとめて、より大きな新たな犯罪に飛びつかれる』と。その後ニコライによって作られ、ピョートルによって指導される秘密結社5人組によって実行された町への放火が起こる。ニコライの妻=びっこで、きちがい女のマリアとその兄は女中と共に、脱獄囚リャムシンによって焼き殺される。さらに、ニコライの愛人=リーザは、町への放火はニコライの仕業と直感し興奮した街の人々によって彼の情婦として惨殺される。ニコライはこれを見殺しにする。更に転向者シャートフは組織を密告するものとして5人組によって暗殺される。全てニコライが裏で工作していたのである。チホンの予言は的中した。神による救いを求めながらも、それに逆らい神の意志とその愛を受け入れる事が出来ず、僧門に入ることを拒否したニコライは自らが全てが許される神=人神にならんと欲し、それが適わず、我意を貫いて自殺する。完全な我意とは自殺である。自殺は最後で、最悪の悪徳であると同時に、悪霊からの解放でもあった。
 彼は放蕩を繰り返し多くの女性とも関係を持つが本当の愛を知らなかったのではなかろうか?死の直前シャートフの妹で母=ワルワーラの養女のダーシャに手紙で愛を告白するが、その返事を待たずして自殺する。神への信仰と、人の愛を知らなかったが故に、人生の充実感を知ることなく、重荷だけを背負ってニコライは死んでいく。ここには人生の充実感を求め、求めて求めえず悪徳を繰り返して死んでいった人間の醜さ、弱さ、悲しさ、儚さがある。『白痴』のムイシュキン公爵が神に例えられる『最も美しい人間』であるならば、ニコライは悪魔のように『最も醜い人間』(神山郁夫氏曰く)といえよう。
 ドストエフスキーは新思想の悪魔性を指摘し、崩壊の必然性を説くと同時に、無神論によって否定された神への信仰と人の愛に目覚めていく男と女の姿を描いていく。ピョートルの父ステパンと、ニコライの母ワルワーラは奇妙な友情で結ばれておりピョートルとニコライと共にこの作品を構成する主人公でもある。2人はそれぞれの息子の犯罪には心を痛めてめる。ステパンはその結果、全ての世の中のしがらみを捨て、行く手定めぬ放浪の旅に出る。そこで彼は神に出会う。近代人が捨てた筈の神である。ワルワーラはステパンの後を追う。しかし彼女がステパンに会った時彼は死の床に会った。彼女は献身的に看病する。そしてその愛を知る。神への信仰と人への愛、その優しい愛に包まれてステパンは神の国へと旅立っていく。そこには人生における充実感があった。この作品の唯一の救いである。
 ドスエトエフスキーは流刑後その思想を変えたと言われている。社会主義への疑問と、神に対する信仰の復活、これこそドストエフスキーの描きたかった事ではなかろうか。体制としての社会主義の崩壊した今、神の問題が問われている。ロシア(旧ソ連)において教会の復権が行われ、人々はソ連時代と違って公然と神を信仰している。ソ連の強大な権力を持ってしても、神への信仰を人々の心の中から追放できなかったのである。ドストエフスキーの作品が預言の書といわれる所以である。人間の作り出した無神論、そして社会主義、それはあっけなく崩壊していった。ここには人間の知恵のもろさがある。
秘密結社の構成要素である5人組、その秘密の密告の恐れありとして、ニコライによって教唆され、ピョートルによって処刑された人間に、転向者シャートフがいる。処刑前彼は妻の妊娠を知り、喜び、その無事な出産を願って産婆さんを探して、走り回る。5人組の一人ヴィルギンスキーの妻であり、助産婦のアリーナを探しだす。難産の末やっと生まれた子供の姿を見て、喜びに打ち震える。妻と子供への愛を感じ、幸せの絶頂にあった。生の尊さを知り、生きがいを感じる。そんな時仲間を裏切るようなことをするであろうか?しかし、その直後に5人組に連れ出されて、処刑され池に投げ込まれる。あると信じられていた密告書など存在していなかった。冤罪だったのである。その衝撃により妻は狂死し、赤ん坊も死んでいく。ここでもニコライは表面には出ない。犯罪の実行者はあくまでもピョートル以下の5人組である。ニコライはかってシャートフを侮辱して、彼に殴り倒された経験がある。当時の風習としては、当然ニコライは決闘に訴え相手を殺すことも出来たのである。しかし決闘とは勝負であり、勝ち負けがある。ニコライは勝負には出なかった。その代わりシャートフに密告者の嫌疑をかけ、5人組に殺させたのである。ピョートルは犯罪の共通性により、仲間の結束は強化されると考えたが裏目に出る。5人組は犯した罪に対する心理的葛藤に悩む。無実の人間を殺したと言う自責の念を振り払うことが出来ない。ヴィルギンスキーはシャートフの妻の出産の模様を知っているだけに、彼の犯した罪におののく。『何処か違う、まったく違う』と頭を抱える。5人組はそれぞれ人間の心を持っていたのである。5人組はバラバラになる。更に仲間の裏切りにより、5人組は芋づる式に逮捕される。ピョートルはその前に逃亡してしまう。組織は壊滅する。
 神によって授けられた尊い命を、その尊厳をニコライと、ピョートルは無残にも圧殺したのである。それはまさに悪魔の所業であった。組織を守ると言う美名のもとに個人的恨みを果たしたに過ぎない。5人組など神をも恐れぬ単なる犯罪集団に過ぎない。
 社会主義革命以外の革命は暴力を必要悪として認めている。しかし社会主義革命は暴力を必要善と考える。必要善は絶対善=神に繋がり、社会主義の無謬性の神話にも繋がる。社会主義の歴史において、暴力は正義の名のもとに、公然と行使されてきた。多くの国が社会主義の大義のもとに圧殺(民主化を志したチェコ、ハンガリーへのソ連軍の軍事介入)され、多くの人間が虐殺された。
 それではニコライやピョートルの考える共産主義とは如何なるものであろうか?それは原始共産制をモデルにする、奴隷=貧しき者の平等の社会である。そこには階級は生まれていない。原始共産制とは100人の者が100作り、100食べてしまう生産力の低い社会である。剰余生産物は存在しない。肉体労働と精神労働は一人の固体に共存しており、分離していない。そんな社会には支配者はいない。自分が自分の支配者である。完全に平等社会である。しかし生産力が上がり50人のものが100つくれるようになれば、50人のものが50食べても、後の50は剰余生産物として残る。後の50人が働かずして残りの50を食べる事が出来る。彼らが精神労働者となり、競争を通じて支配者になる。精神労働と肉体労働は分離する。階級が生まれる。これが階級社会の歴史である。この階級社会を止揚したのが豊かさを前提とした真の共産主義である。これが歴史の必然であると、唯物史観は教えている。しかしこんなことも彼らは理解できない。階級が生まれてはまずいので、これを固定化しようとする。知的労働を排除し支配者が生まれるのを排除する。奴隷の平等を維持し、絶対服従を要求する。あらゆる天才は幼時の内に抹殺されねばならない。監視体制を強化し、密告中傷によって逆らうものを探り出し抹殺せねばならない。しかしここに内部矛盾が生ずる。絶対的服従を要求するが、誰に服従するのか?服従させる者は彼らの論理からすれば、内部からは絶対に生まれないからである。そこで考え出されたものが内部からではなく外部から支配者を持ってくることである。それが神である。しかし神と人間は完全に断絶しているから代理者を必要とする。西欧ではローマ法王がロシアでは君がなれとニコライにピョートルは言う。伝説上の人物で、存在は確認できないが実在する人物と信じられている人神=イワン皇子に君が成れという。ニコライの持つそのカリスマ性こそイワン皇子にふさわしいという。神の愛と意志を否定し、我意を完全に貫いているニコライこそ、人神=イワン皇子にふさわしいという。ニコライは拒否する。しかし人神=イワン皇子に成ることには興味を示す。自分がイワン皇子になれば、神の絶対性、無謬性故に自分の全ての行為は許されるかもしれない。しかし神の行動は全てが許されても、その行動は絶対に則を越えることはない。悪徳、犯罪はその中に含まれない。それは悪魔の所業である。ニコライはこの作品に出てくる全ての悪徳、犯罪に関与するものの、ピョートルの助言に従って表には出ない。イワン皇子を気取る。しかし狂女でびっこの隠し妻マリア(ニコライが戯れで結婚した女)は、ニコライが、真の救世主イワン皇子ではなく、その名を騙る僣称者=悪魔=悪霊に過ぎないと見抜く。悪魔は常に神の姿をして現れ、人に取付き人を魅了する。浅原章晃などその良い例であろう。
 しかしこんな共産主義像を絵空事と言って笑うことは出来ない。実際、官僚主義のもとプロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁の行われていた国もあった。そしてその独裁国家は崩壊していった。中国の文化大革命こんなものである。知的労働が排除され、中傷、密告が奨励され、スパイ制度が作られ、お互いがお互いを監視する制度が作られていた。それはまさに奴隷の社会主義であった。これらのことをドストエフスキーは今より100年も前にその明晰な頭脳によって予知していたのである。
 ここには神と悪魔の対決がある。神を否定し悪魔に成りきろうとし、悪徳と犯罪を繰り返した男=ニコライ・スタブローギン。しかし悪魔に成りきれず、その罪に苛まれ、苦悩し、チホン神父に救いを求める。そこに彼の人間性を見る。しかし神を認める事が出来ずそれ故に救いは無かった。死によってその罪は贖われなければならなかった。一方世俗の悩みに疲れ果て、放浪の旅に出た男=ステパン・トロフィモヴィチ。その放浪の途中に神に出会う。神への信仰と、人の愛に包まれ神の国へと旅立っていく。神を否定し地獄に落ちた人間と、その神への信仰に目覚め、神の国へと旅立っていった男の対称がくっきりと描かれる。
 歴史の上で何度も否定され、迫害されてきた神、しかしその度に不死鳥のようによみがえり、人間の心を掴んで離さない神、神と人間の問題は社会主義者として一旦は神を捨てた僕自身の問題であると同時に、現代人の課題だと思う。

   ドストエフスキー作『悪霊』江川卓訳 上巻 下巻 新潮文庫
コメント (1)
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