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イザヤ書:⒕33~35章 世界を変える主

2023年05月30日 | Weblog
 イザヤ書⒕ 33~35章 世界を変える主
 はじめに:今回のリポートは33章から35章までです。イザヤ書前半(1章~39章)のクライマックスと言われています。その内容は、33章(1~24節)は「主の立ち上がり」であり、34章(1~27節)は「国々に対する聖絶」であり、35章(1~10節)は「主の償い」です。
 33章:「ああ。自分は踏みにじらなかったのに、人を踏みにじり。自分は裏切らなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる(33:1)」。あなたとはアッシリヤの王センケナブリを指します。アッシリヤが周辺諸国に侵攻し、これを踏みにじったのは決して防衛のためではなく、自分の欲望(略奪)のためだったのです。戦いに勝利しその戦いをやめたときに破綻します。侵略と言う罪ゆえに、神のさばきを受けるのです。しかしこれはあくまでもイザヤの預言であって、この時点では、まだユダはアッシリヤの圧政下にあります。それゆえ神に祈ります。「主よ。私たちをあわれんでください。私たちは、あなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕になり、苦難の時の私たちの救いになってください(33:2)」と。ユダの圧政からの解放をイザヤは主に求めます。預言の実現を待ち望みます。主は「神の子」の望みを必ず叶えてくださるお方だからです。
 「騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。(33:3)」。「あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる(33:4)」「主は、いと高き方で、高いところに住み、シオンを公正と正義で満たされる(33:5)」。「騒ぎ」とは、主が動くことで、周辺諸国にざわめきが生じることを現しています。彼らは災厄を恐れて祖国を捨て逃亡します。逃亡するとき。いなごが食物を食い尽くすように略奪を繰り返し、後には何も残しません。これがアッシリヤの成れの果てです。主はアッシリヤを完全に滅ぼします。アッシリヤの力を上回る力を、主は働かされるのです。主に勝る力はこの世には存在しません。
「あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが救いの富である。主を恐れることが、その財産である(33:6)」。主を恐れることとは、主の存在を認め、この方を崇め、敬い、跪いて礼拝することです。あなたの時代は堅く立つ:不安と激動の時代にあって、信頼できるのは主だけであり、この主を恐れることが絶対条件であり、豊かさの源です。主は、あなたの時代を堅く支えておられるのです。飢え渇いている人はもはや存在していません。キリスト教による知識:聖書、または御霊によってあたえられた成果を現します。知恵:知識に基づいたふさわしい行動を指します。道理を判断し処理していく心の働き、筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力及び行動です。主は、聖書を通じて「救い」についてたくさんの知識を語っており、またそれにふさわしい行動、つまり「知恵」についても語っておられます。
義に飢え渇いている人にとって、それが満たされる時代がやって来ます。堅く立つ時代です。それは、「神の御国」かもしれません。主は私たちに大切な言葉を二つ与えてくださいました。一つは「知識と知恵」で、もう一つは「神を恐れる」ことです。主を敬い、恐れかしこむことです。単なる知識や知恵ではなく、主に対する畏敬の念を持っているからこそ、その「知恵や知識」が生かされるのです。「聖書」は、この二つ要素が、凝縮した書といって良いでしょう。
「見よ。彼らの勇士は、ちまたで叫び、平和に使者たちは激しく泣く(33:7)」。アッシリヤがユダに攻め込もうとしているとき、ユダのヒゼキヤ王は、莫大な宝石財宝を使って、これを宥めようとしました。これと戦うにはユダはあまりにも弱小だったからです。アッシリヤはこれを受け取ったにも拘らず、約束を破ってユダを包囲したのです。ユダはこの違約に驚き、怒り、悲しみ、勇士たちは怒り叫び、交渉にあたった平和の使者たちは、泣き叫んだのです。
「大路は荒れ果て、道行くものは途絶え、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない(33:8)」。大路(幹線道路)はアッシリヤによって破壊され通行不能となり、道行く者はなくなります。これが違約の結果であり、町々はユダの民によって捨てられ、避難民があふれ各地に散らされるのです。
 「国は喪に服し、しおれ、レバノンは辱めを受けて、しなび、シャロンは荒れ地のようになり、パシャンも、カルメルも葉を振り落とす(33:9)」。イザヤはイスラエル全体を花に例え、その花がしおれていくようにこの4つの美しい地域がアッシリヤによって枯れ果てて行く様子を、描いています。
 「『今、わたしは立ち上がる』と主は仰せられる。『今、わたしは自分を高め、今、崇められるようにしよう』(33:10)」。主が立ち上がられる時が来たのです。「反逆の子ら」ユダに、神の力を見せつけ、自分への信仰を促し、神に立ち返ることを求めているのです。それと同時にユダを起点(基点)にして、全世界に自分の栄光を広げることを願ってもいるのです。主は高き方であり、高き所におられて全世界を見つめておられるのです。これが神のご計画であり、その目は常に「神の国」を見つめているのです。今、神に立ち返ったユダの民に神は恵みを与えます。ユダを包囲していた1万8千人のアッシリヤの兵士が殺害されます。アッシリヤは包囲を解いて撤退します。
 「遠くの者よ。私のしたことを聞け、近くの者よ、わたしの力を知れ(33:13)」。
 遠くのもの:アッシリヤの民、異邦に住む異教の人。近くのもの:シオンの人々、ユダの民、神に反逆する人々です。主はそれらの民に「私の力を知れ」と、彼らを裁かれるのです。
 「罪びとたちは、シオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。『私たちのうちだれが焼き尽くす火に耐えられよう』。『私たちのうち、だれが、とこしえに燃える炉に耐えられよう』(33~14)」。罪びとたち、神を敬わない者とは、アッシリヤの侵攻を前にして、神にすがるのではなく、人の力、ここではエジプトを頼りにしたユダの民を指しています。彼らは「トフェテ」(30:33参照)に投げ入れられます。トフェテとは「焼き場」「ケヘナ」「地獄」のことです。永遠に消えることのない火の燃える深い穴です。だれもその火に耐えられない永遠の滅びの場です。
 「正義を行うもの、まっすぐに語る者、強奪による利得を避ける者、手を振って賄賂をとらない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者(33:15)」。ここには義への招きがあります。正しく生きることの見本が与えられています。
「このような人は、高いところに住み、その砦は、岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される(33:16)」。正しく生きる者は、敵から守られる高所(砦)に住み、安心、安全な場所が確保されています。日ごとの糧(パンや水)も用意されています。身の安全と生活の必要が、主にあって満たされるのです。
主が地上に再臨されて、神の国が立てられます。神の国の様子が預言されています。
「あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る{33:17}」。神の国は、もはやイスラエルを超えています。世界を覆います。それを統治しているのは、麗しい王イエス・キリストです。それは「新しいエルサレム」です。「神の国」は新しく生まれ変わったのです。そこには悪魔(蛇)は存在しません。「千年王国」に隠されていた悪魔はその後、滅ぼされます。
「あなたの心は恐ろしかった事どもを思い起こす。数えた者はどこへ行ったのか。測ったものはどこに行ったのか。やぐらを数えた者はどこに行ったのか(33:18)」ここにはアッシリヤの恐怖に満ちた占領政策からの解放が語られています。その政策はどこへ行ったのか、と。神によってアッシリヤは滅ぼされたのです。アッシリヤは「神に反逆するもの」を象徴しています。
「あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばは、わかりにくい。その舌はどもって、わけが分からない(33:19)」。偶像崇拝に犯されわけのわからない言葉を発する横柄な民は、滅ぼされて、もはや存在していません。
「私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄の杭はとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない(33:20)」新しいエルサレムが描かれています。麗しい王のつぎに、その王の住む祝祭の都シオンが描かれます。主を祝うことがこの都の特徴です。この都は、これまで約束された安息、安全、安定の全てを持っています。これをイザヤは「その鉄の杭はとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない」と表現しています。
「しかも、そこには威厳のある主が、私たちと共におられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船も、そこを通わず、大船もそこを通らない(33:21)」。そことは新しいエルサレムです。「神の国」です。そこは神と私たちがともに住む素敵な場所で、そこには、大きな川があり、もはや、罪に満ちた商船も軍船も、通うことはないのです。
「まことに、主は私たちを裁く方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる(33:22)」。ここには三権の分立が描かれています。「裁き」とは司法であり、「立法者」とは立法を現し、「王」とは行政です。この三権を主はまとめて統治されるのです。権力の集中です。まさに「独裁」です。しかし、この独裁の中には、麗しい「知恵」と「知識」が隠されています。主の統治に誤りはありません。主は、私たちの救済者です。
「あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は結び付けることができず、帆は張ることもできない。その時、おびただしい分捕り物や、獲物は分け取られ、足のなえた者も、獲物をかすめる(33:23)」。あなたとは「主に反逆する者」です。その体は再生が不能なほど破壊され、その場から、おびただしい分捕り物や、獲物は略奪され、弱者もその略奪に加わることができます。神の国にはもはや罪びとは存在しません。
「そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される(33:24)」。ここでの「病気」とは「罪」を現し、その場所には「神に逆らうもの」は存在せず、その民は、赦されているのです。
 34章:「国々よ、近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地とそれに満つる者、世界と、そこから生え出たすべての者よ、聞け(34:1)」。主は、次から始まる、すべての民が聞かねばならない大事なメッセージを語っています。主の視点は、イスラエルを超えて全世界広げられています。そこには、「神の国」が想定されています。
「主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ(34:2)」。激しい神の怒りや憤りが「神に逆らう民」に向けられています。これは「千年王国」の後に来る「ハルマゲドンの戦い」を現しています。この戦いで「神に逆らう民」は完全に滅ぼされます。千年の間、眠っていた悪魔も共に滅びます。これは神による最終的な戦いであり、さばきです。
『彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。(34;;3)』。神の激しい怒りは、虐殺、放置された遺体、血にまみれた山々、と地上を恐怖に満ちた状況に変えていきます。
「天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちるぶどうの木から葉が枯れ落ちるように、いちじくの木から葉が枯れ落ちるように(34:4)」。地上ばかりでなく、天においてもその裁きは現わされます。それは「黙示録」の終末の状況を思い起こさせます。イザヤは、やがて来る神の審判を幻の中に見ているのです。アダムが罪(原罪)を犯したとき以来、地は呪われたものになったのです。原罪からの解放は、神にしかできません。イザヤはイスラエルに対する神の最後の審判の中に神の正義を見ているのです。
「天では、わたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ、これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ(34:5)」。「主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊や山羊の血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主が、ボツラで生贄を屠りエドムの血で大虐殺をされるからだ(34;6)」。イザヤは、一般的な裁きから、個別な裁きエドムに対する裁きを取り上げています。エドムは神の民イスラエルに敵対するものの象徴として描かれています。ボツラは、エドムの重要な要塞都市です。それが主の報復に会い、その民は大虐殺されます。結果、エドムは壊滅して野獣の棲み家となります。エドムはヤコブの兄エサウから出た氏族の総称であり、同族でありながらイスラエルに敵対し、戦い、何度も略奪を繰り返し、イスラエルを苦しめています。主はこれに怒り、聖絶すると定められたのです。
『野牛は彼らと共に、雄牛は荒馬と共に倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える(34:7)』。牛や羊を生贄に捧げるとき、その行為は非常に血なまぐさいものですが、主は彼らが死体となって倒れていくさまを、動物の生贄に例えています。
「これは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である(34:8)」。シオン(エルサレム)は、モアブに苦しめられていました。そこで神の子を救うために主は、シオンの訴えに応えてその仇を反し、復讐されたのです。その日をイザヤは「復讐の日」と言っています。
「エドムの川はピッチ(樹脂)に、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる(34:9」。「それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって廃墟となり、だれもそこを通る者はいない。(34:10)」。エドムを流れる川はピッチになり、その土は変わって硫黄となって燃え上ります。その煙は永久に立ち上り、エドムの地は焼け野原となって荒れ廃れ、人はいなくなります。
エドムの地は廃墟となり、そこを統治していた王、首長たちは逃げ去り、宮殿や要塞は雑草におおわれ、猛禽類の棲家になります。人にいない虚無の空間が生まれ時間は止まります。これがかつて豪華を誇っていたエドムの成れの果てです。(34:11~15参照)。
「主の書物(聖書)を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠く者はいない。それは主の口が、これを命じ、主の御霊がこれを集めたからである。(34:16)」。聖書を詳しく読むとき、その預言に外れたものはないことに気づきます。聖書のみ言葉は主が語り、その言葉を御霊(精霊)が集められ、整えられたものであり、聖書として完成されたのです。
「主はこれらのもののために受ける割り当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。(34:17)」。主は、イスラエルの民(12部族、第二世代)にカナンの地をアブラハム契約に基づいて分け与えました。彼らは、この地に住むことがとこしえに赦されたのです。ここには「神の国」が預言されています。
美しく輝く虹(恵み)は、雨(災厄)の後に現れます。しかし自分の力で輝くのではなく、太陽(神)の光を必要とします。しかし、イスラエルの民は、これを理解できません。いつまでも罪びとです。
恵みの神はその力(愛)を見せます。それが35章です。「裁きの神は」は同時に「愛の神」です。
 5章:この章でイザヤは主がこの地を完全に掌握(清めた)したのちに、ご自分のみ心にかなった世界に変えていく様子を描いています。その先には「神の国」があります。
「荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜びサフランのように花を咲かせる。(35:1)。「盛んに花を咲かせ、喜び悦んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。(35:2)」。神は、荒れ地に花を咲かせ素晴らしい広場に変えます。荒らさされていたレバノンやカルメル、シャロン(33章9節を見よ)はもとの美しい姿を回復します。ここに神の栄光と威光を見ることができます。
「弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ」。(35:3)。「心騒ぐ者たちに言え『強くあれ、恐れるな。見よ。あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神が来てあなたがたを救われる』(35:3)」。強きものに支配されている者を神は励ましています。復讐は神にあり。あなたがたは、主に頼め。主は、自分を頼む者を必ず救われるのです。
主は自分に逆らい、神の民(イスラエル)を苦しめるものを、滅ぼします。「神の国」がうまれます。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒れ野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いの無い地は水の湧く所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる(34:5~7)」。このように、被造物は救われます。
と同時に人々も贖われます。「そこに大路があり、その道は、聖なる道と呼ばれる。汚れたものはそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む(35:8~9)」。大路とは巡礼の道であり、聖なる道です。罪びと(旅人や、愚か者)は、その道を通ることは出来ません。贖われた者たちだけに許された道です。
「主に贖われたものは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいだく。楽しみと喜びが付いて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る(35:10)」。贖われた者たちの喜びは、主を礼拝することです。それによって楽しみと喜びがついてくるのです。そこには悲しみと嘆きは存在しません。これがイザヤの預言する「神の国」です。それが、新しいエルサレム(シオン)です。
平成5年6月13日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書13 31~32章 儚いこの世の助け2

2023年05月10日 | Weblog
イザヤ書 XIII 31~32章 儚いこの世の助け2
はじめに:31章:イスラエルを救うものは神の力です。これを無視する彼らを神は裁きます。しかし、主は、彼らを滅ぼしません。これを守り助けて救われます。アッシリヤを滅ぼします。32章:主は敵を攻撃して、これを滅ぼし、自分が王となる「神の国」の姿(幻)を預言します。
31章:「ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と非常に強い騎兵隊とにより頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない(31:1)」。30章では主はイザヤを通じて、イスラエルの知恵を責めました。これに反して31章では、エジプトの力(馬、戦車、騎兵隊)を責めています。真の力とは、聖なる方の霊的な力なのです。その力とは目に見えないものです。イスラエルはこの真なる力を無視しました。
「しかし、主は知恵あるお方、災いをもたらし、みことばを取り消さない。主は悪を行うものの家と、不法を行うものを助ける者とを攻め立てられる(31:2)」。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと助ける者は躓き、助けられるものは倒れて、みな滅び果てる(31:3)」。イスラエル(北イスラエル、南ユダ、両王国を含むイスラエル民族としての)が神に助けを求めず、結果として人に過ぎないエジプトの軍事力にたよったことに対する神のさばきが、これから下されようとしています。イザヤは、このことを強い口調で表現しています。ここには目に見えるものと見えない者との対比が描かれています。肉と霊との対比です。聖書によれば、御霊に拠って天と地が造られたのであり、目に見えるものは、目に見えないものに支配され動かされているという圧倒的な力の差があります。主が御手を伸ばすと、助けるもの(エジプト)も、助けられるもの(イスラエル)も共に滅び果てるのです。主は、決して自分の手を汚しません。アッシリヤを使ってエジプトとイスラエルの連合軍を滅ぼします。
「まことに主は、こう仰せられる。『獅子、あるいは若獅子が獲物に向かって吠えるとき、牧者がみなそこに集められても、それは彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める(31:4)』」。獅子、あるいは若獅子:神なる主を指す。獅子や若獅子が獲物に向かってうなり声をあげるとき、獅子を追い払おうと多くの羊飼いが集められても、獅子は、その脅しに臆することなく、その大声にたじろぐこともない。主なる神は、まさにこの獅子のように、聖なる都(エルサレム)にあるシオンの山、その丘に下ってエルサレムに戦いを仕掛けるアッシリヤと戦われるのです。
「万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救いだし、これを助けて解放する(31:5)」。万軍の主は、その翼を広げて雛鳥を守る親鳥のように、エルサレムの上にあって、これを守り、助けて、彼らを救われるのです。
「イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ(31:6)」。「その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ(31:7)」。イザヤは言います。イスラエルの人々よ、あなたがたが背き続けた主に立ち返りなさい。そうすれば、その日(主の定められたさばきに日)に、自ら作り罪を犯した銀や金の偶像を捨てることになるからです、と。
「アッシリヤは人間のものでない神の剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく(31:8)」。神の剣によってアッシリヤの軍勢は滅ぼされます。多くの民は逃亡しますが、残された若者たちの多くは連れ去られて奴隷とされます。
「岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。―――シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ―――(31:9)」。
絶対に動くことがない岩ですら、神の力の前ではたじろき、恐れ、逃げ出します。そのように、アッシリヤの指導的立場にある首長たちですら、国の象徴である国旗を捨てて逃げ去るのです。完全な敗北です。主はシオンの丘に全てを焼き尽くす火を持っておられます。さらに主は、エルサレムに地上の全ての悪を焼き尽くす火を貯えたかまどを持っておられます。その火によってすべては焼き尽くされ、清められるのです。「神の国」が預言されています。
32章:32章で、主は敵(霊的、肉的)を攻撃されて、これを滅ぼし、ご自分が王となる「神の国」の幻を描きます。
32:1~8 正しい秩序 「見よ。一人の王が正義によって治め、首長たちは公義によって司る(32:1)」。正義の王とはイエス・キリストを指し、首長たちとは諸国の民を指導する人です。イエス・キリストを長として、諸国の首長たちと共に共同統治するメシア王国(千年王国)が語られています。
『彼らは皆、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、渇ききった地にある大きな岩の陰のようになる(32:2)』。神の国に約束された憩いと安心が語られています。神の国にある祝福です。
「見る者は目を堅く閉ざさず、聞くものは耳を傾ける。気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることが出来る(32:3~4)」。今まで、神を無視していた罪びとイスラエルの民が真なる神を見つめ、その声に耳を傾けるようになります。それは霊的な祝福です。今まで、霊的に閉ざされていた人も知識を得て語ることが出来るようになります。
『もはや痴れ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が、上流の人と言われることもない(32:5)』。世の中の常識は神の国では通用しません。
「なぜなら、痴れ者は恥ずべきことを語り、その心は不法を企んで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。ならず者、そのやり方は悪い。彼らはみだらなことを企み、貧しいものが正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低いものを滅ぼす。しかし高貴な人は、高貴なことを計画し、高貴なことをいつもする(32:6~8)」。ここには、この世で悪行をする者の悪しき行いが語られていますが、神に国では、それらは退けられ、正しいものが、堂々とその正しさを語り行うことが出来るのです。
32:9~14 過ぎ去る安逸(のんきな女に対する主の裁き) 今まで、「神の国」の恵みが語られていましたが、一転して過去に戻ります。あくまでも「神の国」から見て。いわゆる「大患難時代」です。バビロンの攻撃の時代です。バビロンの攻撃を前にして、ユダの取った態度を主は攻めておられます。
「のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。うぬぼれている女たちよ、一年と少しの日がたつと、あなたはわななく。ぶどうの収穫はなくなり、その取入れもできなくなるからだ。のんきな女たちよ、おののけ。うぬぼれている女たちよ、わななけ、着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。いばらやおどろの生い茂るわたしの民のために。そしてすべての楽しい家々、おごる都のために(32:9~13)」。のんきな女:一年後に迫っているバビロンの侵攻を前にして危機意識を持たずのんきに構えているユダの民を指します。うぬぼれている女:自分を過信して安逸をむさぼっているユダの民を指します。
事実ユダの民は、その後バビロンに滅ぼされます。主は、バビロンの攻撃を前にして、その攻撃によって民は殺され、田畑の収穫はなくなり、家や都の破壊から救うために「我に帰れ」と警告を発しているのです。主は愛のお方です。自分に背き続けるイスラエルの民に恵みを注がれるのです。しかし、民はそれに応えていません。
「なぜなら、宮殿は見捨てられ町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔はいつまでも荒れ地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ(32:14)」。ユダの地は完全に滅ぼされ荒れ地になります。しかし、罪に汚れた都市は一旦完全に破壊され、リセットされなければならないのです。それが次に語られる再生のための最低条件なのです。
32章15~20節 荒廃から回復への預言(平和と安全)「しかし、ついには、上からの霊が私たちに注がれ、荒れ地が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む(32:15~16)上からの霊とは、キリストの再臨です。神の国の出現です。「義は平和をつくりだし、義はとこしえの平安と、信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかな憩いの場に住む(32:17~18)」。「神の国」ではとこしえの平安と信頼が生まれ、神の民は、この国の永遠の住民となるのです。
「雹が降って、あの森を倒し、あの町は全く卑しめられる(32:19)」。あの森、あの町とは共に罪に満ちたイスラエルを指します。それらは神によって倒され、罪から解放されます。雹とは神です。「ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを、放し飼いにするあなたがたは(32:20)」。これが「神の国」です。
令和5年6月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会