日常一般

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「哀歌」 嘆きの書

2017年03月25日 | Weblog


 「哀歌」 嘆きの書
 はじめに
 「哀歌」は「嘆きの書」であっても、決して「絶望の書」でも、「挽歌」でもありません。復帰への渇望があります。復帰と云う言葉通り、そこには帰るべきところがあることを意味します。本来、自分達の居る所です。「哀歌」には、悲しみの中にも、光に導く何かが隠されています。この光に導くものとは何か。これが「哀歌」の主題です。
 「哀歌」は5つの章から成る「詩文学」です。確かな事は分かりませんがエレミヤの書と言われています。しかし、その可否は別として、哀歌を理解する為には「エレミヤ書」を読む必要があります。歴史的背景を知る必要があるからです。「哀歌」には当時の歴史はほとんど描かれていません。「エレミヤ書」を、併せ読むことによって「哀歌」の理解を深めます。是非読んでください・

 歴史的背景
 時はユダ王国ゼデキヤ王の時代、エルサレムはバビロンのネブカドネザル王の軍隊に包囲されます。預言者エレミヤは、「降伏してバビロンに仕えよ」と主のみことばをゼデキヤ王に預言します。「70年後に救われるであろう」、と救いの預言もします。ゼデキヤは降伏するか、籠城して支援国(エジプト)に期待するかの選択に苦しみます。結局エレミヤに逆らって籠城を選びます。しかし支援国は来ません。「それに私たちの目は衰え果てた。助けを求めたが空しかった。私たちは見張りどころで見はった。救いをもたらさない国が来るのを(4;17)」と、これはエルサレムに終わりの日が近づいていることを示しています。バビロン軍は兵糧攻めを選びます。戦わずして勝つ戦略です。結果、ユダの民は飢えと渇きと疫病に苛まれます。人間の尊厳は失われ、民の堕落(自分の幼子を食す=ガルバリズム)を引き起こし、主の怒りを誘います(4:10~11)。兵糧攻めの生き地獄が描かれています。「剣で殺されるものは、飢えで死ぬものより幸せだった(4:9)」と、凄まじい苦しみがあったのです。飢餓は神の呪いであり裁きなのです。バビロン軍はエルサレムに攻め入ります。その前にゼデキヤ王一行は逃亡します。しかし、途中で捕らわれバビロンに送られます。エルサレムは陥落して、亡国の悲哀を経験します。バビロンの占領下、捕囚、神殿・宮殿・住居の破壊、略奪、暴行、強姦、民の奴隷化、エルサレムからの逃亡者の続出等々によってエルサレムは廃墟になります。そんな中、残された者は、全てを失い、本来自分のものまで買い戻さなければならなかったのです(5:1~18)。主は言う「これは、その預言者の罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町の、ただ中で正しい人の血を流したからだ。(4:13)」と。その為、主はその裁きの杖としてバビロンを使い「燃える怒りを注ぎ出しシオンに火をつけられたので火はその礎まで焼き尽くした(4:11)」のです。「シオンの娘(エルサレム)あなたの刑罰は果たされた。主はもう捕え移さない。エドムの娘よ、主はあなたの罪を罰する、主はあなたの不義を罰する(4:22)」。
このように、占領下における民の苦しみを描いた書が「哀歌」なのです。これは、主に対してエルサレムが犯した罪に対する裁きだったのです。しかし主はどんなにその罪を怒り、ユダの民を罰しても、選びの民を滅ぼしたりはしません。自分の罪を認め、悔い改め、主に立ち返る者は救われるのです。この厳しい裁きは、恵みを与えるための父性的懲罰だったのです。主を畏れ敬い、ひれ伏すならば、救われるのです。しかし、エルサレムの民は主に逆らい続けたのです(1:20)。主にひれ伏すことも畏れることも無かったのです。そのため、エレミヤは悔い改め主に立ち返れと叫びます。5章には罪と裁きと認罪、悔い改めと、救いへの祈りが描かれています。「主よ、あなたのみもとに帰らせて下さい。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくして下さい(5:21)」と、エルサレムの民は祈ります。しかし、主は応答しません。沈黙を守っています。この沈黙の意味とは何か。難しい問題です。

 シオンは苦しんでいる
 バビロンによって滅ぼされて廃墟になったエルサレムについてエレミヤ(?)は次のように言います「ああ、人の群がっていたこの町は一人寂しく座っている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった(1:1)」と。ここにはエルサレムの孤独地獄が描かれています。それは主に逆らったが故の裁きだったのです。主に逆らうことの怖さが描かれています。エレミヤは言う「彼女の多くの背きの罪のために(1:5後半)」「エルサレムは罪に罪を重ねて汚らわしいものになった(1:8)」と、それまでかかわり合っていたものから切り離され、分離され、見捨てられ、「シオン(エルサレム)が手を出しても、慰める者が一人もいない(1:17)」と云う状況が「一人寂しく座っている」と云う表現によって語られています。
 1章の12節から3章20節まではエルサレムの罪に対する主の怒りが語られています。「主が燃える怒りの日に、私を悩まし、私を酷い目にあわされた。このような痛みが他にあるかどうかを(1:12)」と。この「ひどい目」「このような痛み」の具体的な内容が「主が」と云う枕詞によって1章の12節から3章の20節まで語られています。
 主は恣意的にエルサレムを罰したのではなく、「私の背きの罪のくびきは重く(1:14)、「主は正義を行われる。しかし私は主の命令に逆らった(1:18)」「私が逆らい続けたからです(1:20)」と、エルサレムの犯した罪に対する裁きだったのです。2章では、その裁きは一転して個人としての民から、イスラエルの民全体の裁きに及びます。住まい、城門、要塞、神殿へと拡大します。神殿は今や本来の神を祭るものではなく、異邦の神を祭るものに成り下がっていたのです。更に「その王も首長たちも異邦人の中にあり、もう律法は無い(2:9)」主の最も嫌う状況がそこにあったのです。それ故、主の怒りは容赦(2:2)が無かったのです。飢えが襲い、若者も、母親も、乳呑児も、息を絶えようとしていました。エルサレムを癒す者はいないのか。偽の預言者は、空しい預言をして、エルサレムの罪を暴こうとはしませんでした(2:14)。この時、エレミヤは叫ぶ「あなたの心の水のように、主の前に注ぎ出せ、主に向かって手を差し上げ、幼な子たち(エルサレムの民)のために祈れ(2:19)」と。裁きと認罪と悔い改めへの祈りがここにはあります。しかし、主はこの祈りを無視します(3:8)。「主の御怒りの日に、逃れたもの生き残った者もいませんでした。私が養い育てた者を、私の敵は立ち滅ぼしてしまいました(2:22)。私の敵とは、バビロンであり、主の裁きの杖だったのです。

 
 裁きと救い
 3章の冒頭の言葉は「私は主の激しい怒りのむちを受けて、悩みにあったもの(3:1)」とあります。これは明らかにエルサレムを指しています。主の怒りの厳しさが語られ、「私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、私の道を切り石で囲み、私の通り道をふさいだ(3:8~9)」、その結果、「私の魂は、平安から遠のき、私は幸せを忘れてしまった。私は言った『私の誉と主から受けた望みは消えうせた(3:17~18)』」と。「哀歌」の全体を覆うものは、明らかに「嘆きの書」であり、「絶望の書」であり「挽歌」の如くに見えます。しかし、3章の後半3章の17節から41節には、エルサレムに対して恵みの預言がされています。そこには救いを求める祈りがあります。
 主は、その怒りによって、エルサレムを激しく罰しても、決して、主が自ら選んだエルサレムを滅ぼしたりしないのです。そこには主の優しさがあり、契約があります。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる、主の憐れみは尽きないからだ(3:22)」「主はいつまでも見放しておられない。たとえ悩みを受けても、主はその豊かな恵みによって憐れんで下さる。主は人の子らをただ苦しめ、悩まそうとは思っておられない(3:31~33)」と。しかし、その為には条件があります。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも、心をも,天におられる神に向けて上げよう(3:40~41)」と認罪と悔い改めを必要とします。その上で、エルサレムは祈ります。「主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し横着な心を彼らに与え、彼らにあなたの呪いを下して下さい。主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにして下さい(3:64~66)」と。彼らとはバビロンをさします。支配者バビロンの圧政からの救いを求めています。ここには認罪と悔い改めと救いを求める祈りがあります。この祈りを主は聞くのか。この祈りに対する主の応答はありません。
この祈りは、「哀歌」の最終章5章においても同じです。「しかし、主よ、あなたは、とこしえに御座につき、あなたの御座は代々に続きます。何故、いつまでも私たちを忘れておられるのですか。主よ、あなたの御許にかえらせてください、私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくして下さい。それとも、あなたは本当に私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか(5:19~22)」と。ここにも救いを求める祈りがあり、復帰への渇望があります。しかし主の応答はありません。

 最後に
 救いは求めれば与えられるものではありません。主の恵みは、恩寵は主から一方的に与えられるものであって、主がエルサレムの罪を許して出迎えてくれない限り、帰ることは出来ないのです。主は我儘であり、その選びは恣意的であり、合理的根拠はありません。主の御心を人は推し量ることは出来ません。
 「昔のように」と云う言葉は、ダビデ、ソロモン王の栄耀栄華を誇った時代に戻ることを意味しますが、その彼方に、人間が本来置かれていた「エデンの園」への復帰への希求が隠されています。これは、主のご計画の最終段階を意味しています。そこには「エデンの園」=新しいエルサレムがあり、そこに住む原罪以前のアダムトエバ(神の似姿)の存在があります。神の似姿としての人と、主が共に住む理想郷が求められています。それが「エデンの園」なのです。「哀歌」はそれ故、単なる嘆きの書ではないのです。聖なる書は嘆きで終わってはならないのです。主の裁きは恩寵的裁きなのです。その裁きの彼方に救いがあり「光」が隠されているのです。それが沈黙の意味です。
 「エデンの園」から始まって「エデンの園」に戻る。そこには新天新地があります。以前の「エデンの園」ではありません。主によって変えられています。同様に人は「神の似姿」から始まって、「神の似姿」に戻ります。そこには原罪から解放された本来の人の姿があります。弁証法的発展と言ってよいでしょう。
 これこそ、神のご計画の完成形なのです。
「哀歌」は嘆きの書から始まって、「恵みの書」に転じます。勿論これは「主」と「人」との完全な和解を条件とします。前途遼遠です。
平成29年3月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会