日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

プーシキン作「大尉の娘」プガチョーフの乱

2008年03月31日 | Weblog
 この作品「大尉の娘」は1833年に起筆され、1836年に脱稿された。プーシキン(ロシアリアリズムの創始者)の後期の作品であり、プガチョーフの乱(1773~1775)に題材をとった歴史小説である。
 この作品の背景にはピョートル大帝(1672~1725)によって確立されたロマノフ王朝による絶対主義体制がある。ピョートル大帝は、その後のエカテリーナ女帝と共に啓蒙専制君主と呼ばれロシア近代化の為に多くの改革を行った。その基礎は官僚制と常備軍であり、日本の明治政府と同じく、その目的は富国強兵であった。当時興隆してきた商業資本と貴族階級のバランスの上にたち、統治体制をを固めていった。さらに海に向かって商業資本の為に貿易港を求め、北はスエーデンと、南はトルコと戦い、バルト海及び地中海への道を開き、領土を広げていく。そしてその威名を西欧諸国に轟かせた。この拡張政策は当然、隣国との戦いを不可欠とし、その莫大な戦費を調達する為に、ロシア内部に住む少数異民族(バシキール人、キルギス人など)に対する圧迫、農民に対する苛斂誅求は壮絶を極め、耐えがたいものがあった。このような経済的圧迫おに対してエカテリーナ女帝の御世に起こされたのが「プガチョーフの乱」であった。プガチョーフ(1744~1755)とはこの反乱の首領の名前である。ピョートル3世(エカテリ―ナ女帝の夫、後にエカテリーナによって暗殺される)の名を僭称し、自らを部下に陛下と呼ばし、1773年9月17日に農奴制の桎梏より農民を解放し、地主貴族を一掃することを名目としコサックの寡兵をもって反乱を起こした。たちまち分離派教徒、コサック、異民族、農民を傘下に集め、ウラルの兵器工場まで手中の収め、その武器を使ってウラル地方及びボルガ流域地方一帯に猛威を振るうに至った。反乱は、一時は二万もの兵力を有し、2年にわたって継続したが、2万もの兵員に対する統治能力は無く、占領地における略奪、暴行が横行し、肝心の農民の支持を失った。なおかつ、反乱軍内部にも内紛が生ずるに及んで統一を欠き、1775年ミヘリソン将軍の率いる政府軍によって撃破され、反乱は収束した。プガチョーフ自身は、仲間によって政府に売られ、他の幹部と共にモスクワに送られ、そこで処刑(四つ裂きの刑)された。この反乱の後、政府はその反動姿勢を強め、統治機構の強化を図った為、農民の生活は前にも増して悲惨なものになった。
 この反乱は、他の反乱と同じく政府による苛斂誅求に対する止むを得ざる自然発生的な反乱であって、そこには確固とした理論は無かった。占拠した砦内部での農民を中心とした改革、管理体制は作られず、組織論も無かった。崩壊は運命付けられていたのである。破壊は出来ても、その後の建設の理論を持たなかったのである。確固とした理論と組織論に基づいた反乱とその成功は、1917年の10月社会主義革命まで待たねばならなかった。
 統一国家としての絶対主義体制とは、群雄割拠する封建制から市民革命による近世市民社会成立までの過度的形態であり、この時期西欧先進国(イギリス、フランス、スペイン)においては、産業革命はその端緒に付き、商業資本から産業資本への転換期にあり、一方、農村においては農奴から解放された富農、独立自営農民が生まれ、他方共有地の囲い込み運動などによって土地を追われた農民は職を求めて都会に集まり労働者化した。農民層の分解が行われたのである(経済史で言う原始的蓄積過程)。しかし、ロシアにおいては農奴は解放されず農奴制は強化されロシア資本主義の発展を阻止した。ピョートル大帝の改革も地主貴族及び新興商人階級のものであり、アレクサンドル2世(在位1855~1881)の時代に農奴解放(1861年)は行われはしたが不徹底なものでしかなかった。農民は依然として貧しさの中で喘いでいた。イギリスでブルジョア君主制と議会支配が確立した時代に、ロシアでは貴族と商人の絶対君主制が確立したのである。それゆえ、ロシアは当時の先進ブルジョア国に追いつく事は出来なかった。
 この時代は大航海時代と呼ばれ、多くの地理上の発見が行われ、各国は競って植民地をつくり、商業資本の発展に寄与した。
 さらに、西欧諸国においては、新興市民階級の中から新しい文化人が生まれて来た。科学者(イギリスのニュートン、フランスのラボアージェ)、哲学者(イギリスのデカルト、ベーコン)音楽家(ベートーベン、モーツアルト)文学者(デフォー、スイフト)等々である。
 ロシア文学においては、近代リアリズムの源流としてプーシキンを挙げる事が出来よう。空想的、非現実的なロマン主義に対して、現実を綿密、周到に観察、分析して再現する創作態度が彼によって取られたのである。
 「大尉の娘」においては、主人公=私(ペトルーシャ=語り手)とその恋人マーシャ、恋敵のシュバープリンの三角関係を通じて、三者の人間内部における情念の世界が余すことなく描かれている。さらに貴族のみが人間であるという暗黙の了解の上にたっていた当時の文学界の中で、語り手の従僕として現れる純朴で、主人に対し絶対的服従を示す愛すべき農夫アルヒーブ・ザベーリッチの親しみやすい姿はロシア文学の中で描かれた最初の農民の姿であったろうと、言われている。また、プガチョーフの表現にしても語り手=私の恋人マーシャの父親であり、砦の司令官でもあるミローノフ大尉とその夫人、副官の守備隊長を裁判もせずに情け容赦も無く虐殺する極悪非道な人間の面を見せながらも、語り手に対する友情、優しさ、暖かさを見せる等、人間の持つ憎しみや愛の両面を見せる事によって一面的な人間描写を避けているのである。エカテリーナ女帝に対する表現も、圧制者としての姿ではなく、マーシャの恋人である語り手=私を、プガチョーフの一味と疑う検察に対して、マーシャの願いに応じて命乞いの為に努力する優しい女性の一面も現している。
 そこにはリアリズム文学の持つ、現実を忠実に描こうとするプーシキンの意図を読み取る事が出来る。
 「大尉の娘」の概略
 エカテリーナ女帝の御世にロシア政府の圧制と、重税に苦しむ農民、異民族の解放を目指して帝位の転覆と、貴族の絶滅を目的としてコザック系の農民プガチョーフの反乱が起こる。これに対抗して出来た辺境の砦=ペゴロースク要塞に赴任した私(ペトルーシャ)と砦の司令官とミローノフ大尉の娘マーシャとの恋、その恋敵シュバープリンとの友情と軋轢、砦の陥落と占領、ミロノフ夫妻の虐殺、私とプガチョーフとの出会い、再会、友情、交流が描かれ、プガチョーフの破滅までが描かれる。プガチョーフの反乱、それは圧政に苦しむ民衆に対する愛ゆえの反乱であり、占領地における圧制者に対する情け容赦も無い暴虐はその愛を貫く為の必要悪であったのかもしれない。
 登城人物
1、ペトルーシャ(ピョ―トル・アンドレイッチ・グリニョフ=私=語り手):地方貴族の陸軍少尉故郷から辺境の砦ペロゴールスク要塞に赴任し、ミローノフ大尉の指揮下に入る。その娘マーシャと恋仲になり後に結婚する。プガチョーフとは任地に赴く途中、何者か分からぬままに出会いお互いに友情を感じつつ別れる。砦陥落後に再会する。
2、マーシャ(マリア・イワーノブナ)ミローノフ大尉とその夫人ヴァサリーサ・エゴローブナの娘。私、シバープリンとの三角関係に悩む。
3、プガチョーフ(エメリアン・プガチョーフ):実在の人物、プーシキンはこの人物を極悪非道の反乱軍の頭目として描いた為、後世知識人によってその歴史感覚を疑われたが、エカテリーナ女帝の御世に農民の生活の悲惨さや、反乱の必然性を描く事はエカテリーナ女帝の批判にも繋がり文字どうり命取りになるので、私に対する友情、優しさを表現するに留めたのであろう。反乱は失敗し、逮捕され、モスクワに送られ、刑死する。
4、サヴェリーチ(アルヒーブ・サヴェリーチ):私の従僕。この作品の全篇に渡って活躍する。優しく善良な好人物。典型的なロシア農民
5、シバープリン(アレクセイ・イバーヌイッチ):私の恋敵で、マーシャに横恋慕する男。私と決闘し私に重傷を負わす(プーシキン自身、自分の美人妻に言い寄るフランス人ジョジュル・ダンテスと決闘し重傷を負い、2日後に息を引き取っている)。 砦陥落後プガチョーフに降伏し、その指揮下に入る。マーシャを拉致し自分の家に監禁し結婚を迫るが拒否される。マーシャはプガチョフの命令で私に返される。
6、ミローノフ大尉(イバン・クージミチ):辺境の砦ペロゴールスク要塞の司令官。マーシャは彼とその夫人ヴァシリーサ・エゴローブナの娘。砦陥落後、プガチョーフに捕らえられ、降伏を拒否して、夫人、副官の守備隊長イバン・イグナーチッチと共に処刑される。
 以上が「大尉の娘」の概略であるが、プーシキンは彼の先駆者たるフォンヴィージン、クルイロフ、グリボエードス等の技術、思想を総合、分析しその遺産を継承しロシアリアリズムの創始者足りえたのである。その後のツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ドストエフスキー、ネクラーソフ、トルストイ、チェーホフ、ゴーリキーとその後のロシアリアリズム作家へとその思想を伝えいく。このようにして、経済的には後進国であったロシアは、文学の領域ではリアリズム文学へと突き進みヨーロッパ諸国に深い影響を与えたのである。
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第38回芥川賞受賞作品「乳と卵」川上未映子作おっぱいは誰のもの

2008年03月10日 | Weblog
 東京の住む私(語り手)のところに、大阪から豊胸手術のため、姉の巻子と、その姉に対して言葉を失ったその娘の緑子が二泊三日の予定で訪ねてくる。在京中の中年を迎え、身体に衰えを感じ、豊胸手術に胸いっぱいの女と、初潮を間直に控えたその娘の、心と身体の秘密がこの作品のテーマである。
 この作品を読んでまず感じる事は、その文章の息の長さである。いつ句点が来るのかと戸惑ってしまう。だらだらと読点と接続詞でつないでいく。しかも大阪弁である。極めて読みにくい。常識的に言えば、典型的な悪文である。勿論作者は意図的である。しかし読み進んでいくうちに、こんな文章にも慣れてくる。それほど気にならなくなる。しかしあえてこんな文章を書く作者の意図は何であろうか?大阪弁と長い文章とは相性が良いのであろうか?
 文章は言葉を失った緑子の独白と、私の語りという二つの文章から成り立っている。お互いに関連をもちながら、話は進展していく。
 初潮前で同級生には既に経験しているものもいるという表現から推察すると、緑子は中学生であろう。人生において一番感受性の強い時期である。初潮とは初めての月経であり太陽の引力の関係で満ちたり引いたりする潮のように、定期的(月一回程度)女性に訪れるものらしい。ぼくは男なのでよく分からないが、女性の神秘の一つである。小学生の頃おしべとめしべが結びついて実を実らせるというのは性教育で学んだものだが、それが人間の精子と卵子が結びついて子を生むという、人間の性の問題と結びついたのは、ずーと後のことであった。
 卵子と精子が結びついて妊娠するのであるが、そこにはドラマがある。一匹の女王蜂をめぐって数百匹の雄蜂が競争して、その中の一匹だけが女王蜂と結合して幼虫が生まれるように、一つの卵子をめぐって数百億と言う精子が競い合い一つの精子だけが卵子と結びついて妊娠するのである。それは強い子を生むための自然の摂理なんだと聞かされた事がある。だからお前はエリートなんだと母から言われて得意になったものである。人は生まれながらにしてエリートなんだ。そこには階級もなければ貧富の差も無い。誇りを持って生きていかねばならない。そして卵子と結びつかなかった精子が無精卵として血になって子宮の外に定期的に出てくるのが月経である。そんなことを高校時代、エロ雑誌を傍らにおいて、学校の勉強をほったらかして一生懸命勉強したものである。実物の写真は当時インターネットは無かったので、平凡社の分厚い百科辞典を紐解き「子宮」と言う言葉で検索して、そこに出てきた解剖図を穴のあく程見つめたものである。高校時代、悪がきの中には商売女と関係を持ったものがいて「キスもさせなければ、おっぱいにも触らせなかった」と怒っていた。軽くあしらわれて、おまけに「こんなところに来ていないで、真面目に勉強しなさい」と諭されて、追い帰されたと言う。そんなのに較べればぼくは初な学生だったと思う。この作品にはナプキンという言葉も出てくる。定期的に出てくる出血を洩れないように防御するものらしい。テレビに出てくるコマーシャルでは血は青色になっている。明らかに表示違反である。血は決して青くはない。赤い筈である。
 初潮は女の子が大人になった証拠だと言う。赤飯を炊いて祝う家庭もあるらしい。今は教育が行き届いているので、どうか分からないが、初潮を迎えた女の子はすごいショックを受けると言う。突然何の前触れも無く出血するのだから、その驚きは男のぼくにも良く分かる。親にも相談出来ず悩む子もいると言う。男にとっての初潮にあたるものは、夢精だと思うが、それよりも最初のマスターベーションであろう。初潮と違って夢精は気づかないことが多いからである。大きく太くなったペニスを触っているうちに、突然射精する。それと同時に感じる快感。病み付きになる。男と女の結合、そして射精、この過程を手でやるのである。手淫とも言う。最初は罪の意識に苛まれた。しかし夫婦の営みを手でやっているに過ぎないと考え付くと、もう罪の意識は無くなった。現実には相手がいないからイメージ力を必要とする。セクシュアルな女優、好きな女性をイメージする。レイプあり、サゾあり、マゾあり、縛りあり、とやりたい放題である。現実にはこうはいかない。写真が無ければ出来ないと言う男がいたが、イメージ力が無いと仲間から笑われていた。舞台芸術、造形美術、スポーツなどもイメージ力が必要である。マスターベーションは男にとっての最初の性体験であろう。これは、ぼくにとって、ショックだった。女性は、初潮が始まり、それから何十年もの間、閉経に至るまで、股から出る血のお世話をしなければならない。とても面倒らしい。ナプキンの世話にならねばならない。これが子どもを生まねばならない女の生理なのだと緑子は理解する。命を生むことの尊さがあると同時に、この命を継承していく力が無くてはならない。これが生活力である。命を生み、育て、次世代へと継承して、人生を全うする。自分の母は、自分を生み、自分を育てる為に、毎日働き続け、苦労して、老いて、何の楽しみも無く死んでいくであろう。それが何の意味があるのか?と緑子は疑問を提出する。だから自分のためにも、生まれてくる子供の為にも、自分は決して子供を生むまいと思う。しかし自分が何を考えようと、女の身体は生まれる前から生むを持っている。女は子供を生む事は出来る。しかし、その構造まで自由にする事は出来ない。大人になることを拒否しようとも、自分の意志に関係無しに成長していく。乳房は膨らんでくる。このように誕生、生長、死は人間の意図、作為とは関係なく、なにか別の力、もっと大きな力(例えば神)によって動かされているのではないのか?緑子は自問する。そして母の豊胸手術を批判する。神の作り賜うた身体を、いかに衰えたとはいえ、人間がいじくりまわすのは、神の意に沿うているのか?と。
 母巻子との間での会話を失い、筆談によってしか意志の疎通が出来なくなった原因とは何か?そういう時期=反抗期なんだから、あまり気にしていないといいながらも、母巻子は、「なぜ私と口を聞かへんの?」と怒りを露にする。そんな母に対して緑子は「ほんまの理由は何なの!?」、「ほんまの理由は何なの!?」と繰り返し、卵を自分にぶつけ、床にたたきつけて母に迫る。それは母巻子がいい年をして豊胸手術に頭が一杯で、自分をかまってくれないことへの怒りなのか、父親と別れて何年もの間、会えないことの寂しさなのか?いずれにしても、自分の怒りをあらわにして母に迫る。母巻子も「ほんまの事など何も無い!」「ほんまの事など何も無い!」と繰り返しながら自分自身も、卵を自分にたたきつけ、床にたたきつけながら、緑子をしっかりと抱きしめる。二人の間のわだかまりは無くなったようである。巻子は緑子の父親=夫に再会した後、あんなに望んでいた豊胸手術をすることなく、2泊3日の滞在を終えて、私のもとから大阪へ帰っていった。おそらく自分の衰えを素直に認め、美しく老いることを考えたのであろう。
 初潮を目前にして、感受性が極度に高まっている娘と中年を向かえ、衰えた身体を修復したいと望む母との、心と身体の関係性を描いた佳作である。
 胸を大きくしたいと言う女の執念を通じて男女の関係性が語られる。果たして胸を大きくしたいと言う女の願望は、自分自身のためなのか、男の為なのか?作者は性的文化の目を通じて、、性別の関係しない文化はないと断ずる。女は男を前提にしてはじめて女になる。逆も真なりである。男(女)が存在しなければ、女(男)も存在しない。女(男)と言う言葉も無いであろう。男と女の関係性の総体が社会である。
 女の乳房は本源的には、子供を生み育てる為の道具であるが、同時に男の性欲をそそり、性交へと導き、子供を生み、育てる為に、神がお作りになり、男性に賜ったものである。女の乳房は男を前提にして初めて意味を持つのである。
 人の訪れることのない奥深い森林の中に咲く美しい一輪のバラ、それはどんなに美しく咲いても、それ自身何の存在価値も無い。見られてこそはじめて意味を持つ。女の美への憧れは、男性の存在を前提にしている。美はそれ自身として存在しているのではない。
 芸術作品に見られる女の胸、ミロのビーナスに見られる美しい乳房、それは見られることへの喜びをあらわしている。性は芸術にまでも高められたのである。
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その他の愛「アンナカレーニナ」2トルストイ

2008年03月02日 | Weblog
 先のブログで、私はアンナとブロンスキーの不倫の愛、キティーとリョウビンの夫婦愛について述べてきたが、この作品にはその他さまざまな愛の形態が描かれている。
 アンナとその愛息セリョージャとの愛、リョービンの異父兄コズヌイシェフとワーレンカの愛、オブロンスキーとその妻ドーリーの愛とさまざまである。
 母アンナは死んだのだという周囲の教えを信じなかったアリョーシャは、密かに会いに来た母アンナとの再会を心から喜び、歓喜するが、アンナが去った後、自分と母は一緒に住めない運命だと悟り、彼を自分なりの方法で愛してくれる父=カリーニンと過ごすことを決める。心ならずも、父の考える所謂「良い子」を演じ、母への愛を凍結する。父に従っていれば、生活は保障されるし、教育も受けられる。それはわずか9歳の男の子の考えた生活の知恵であった。しかし、彼は自分に対する愛の鍵を持たない者は、たとえ父でも、自分の魂の中へ入れようとはしなかった。彼の心は孤独だった。
 そして、コズヌイシェフとワーレンカの愛である。回りのものから最高のカップルと思われ、コズヌイシェフ自身彼女を心憎からず思っていたにも拘らず、過去に愛した女性への想いを断ち切れず、この愛は実現することは無かった。そこには純愛がある。
 次にオブロンスキーとキティーの姉ドーリーとの愛である。度重なる夫の浮気に苦しめられ嫉妬に狂うドーリーは、自分の心に忠実に生きたアンナの勇気を賛美する。しかし離婚に踏み切る事は出来ない。彼女にとって夫は生活上の必要悪だからである。尊敬も無ければアンナのような激しい愛も無い。ただ辛抱があるだけである。そして鏡を見る。まだまだいけると考える。危険な愛である。
 男の放蕩は許されるのに、なぜ女の放蕩は許されないのか?ジェンダーフリーを主張する女性は言う。確かにそうかもしれない。しかし、そこには女の性と男の性に対する無理解がある。男にとってのセックスは、あくまでも欲望の充足に過ぎない。極端な言い方をすれば小便みたいなものである。それは一つの排泄作用であって、貯まった精子を外に出す作用に過ぎない。必ずしも愛情の発露としてのセックスではない。だから男はそのことによって家庭を壊そうとはしない。家庭は家庭、遊びは遊びである。両者を分けて考える事が出来る。それに反して女性はそうではない。女性は子孫を後の世に伝えていくという神聖な義務を負っている。おかしな種子を宿してはならないのである。メスのサラブレッドに駄馬を掛け合わせると二度とサラブレッドは生まれないという。サラブレッドは後世にサラブレッドを伝えていかなければならない。放蕩は許されないのである。女の性には愛がある。例え夫以外の男を愛したとしても、浮気ではなく、本気になるという。ここが男の性と決定的に違うところである。だから男の浮気を女は気違いのように騒がないことである。外で小便してると思えば気楽なものである。だからドーリーはオブロンスキーの浮気を苦々しく思いながらも、許しているのであろう。
 むかし「哀愁」という映画を見た。ロバートテイラーとヴィヴィアンリーの悲恋の物語である。黒澤明の「7人の侍」も見た。その筋に夜盗に拉致され、彼らによって慰め者にされた島崎雪子と、その夫の話が含まれている。
 結婚式まで決まっていたロバートテイラーとヴィヴィアンリーのもとに届いたのは出征の知らせであった。彼は戦死する。その知らせを受けたヴィヴィアンリーは心を狂わせ、立ち直ることが出来ない。夜な夜なロバートテイラーに似た男に声をかけ、夜の女に転落していく。しかし、戦死は誤報であり、彼は凱旋して来る。二人は再会したものの、彼女は汚れ、変化した自分の身の上を考えて、震えおののく。告白は出来ない。汚れてしまった己の身を恥じ、戻ることの出来ない過去を悲しみ、苦悩し、突進してくる軍用トラックに身を投げて自殺する。「7人の侍」の島崎雪子も助けに来た夫の目の前で業火に身を投げ死んでいく。
 共に汚れてしまった自分の身を恥じ、戻ることの出来ない過去に想いをはせ、苦しみ、悲しみ、心の純潔を明かす為に死んでいく。死は愛するものへの愛の証でもあった。
 もし死ななかったら、めでたしめでたしではあるが、男の心の中にわだかまりを残すのは確かであろう。男とはそういう動物である。
 神は罪を犯したヒトを「神の国」から追放した。しかし、死を与えることによって、全てを許すのである。そこには原罪からの解放がある。ヒトは「神の国」へ戻っていく。それ故、人の死は、神によって運命付けられているのである。
 トルストイは「アンナカレーニナ」の中でさまざまな愛の形態を描いているが、「純愛」こそ、神の意に適っていると言いたかったのであろう。神は「アンナ」に死を与えることによって、その罪を許したのである。
 
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