日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

マラキ書 旧約聖書最後の預言書

2018年11月13日 | Weblog
マラキ書 旧約聖書最後の預言書
 はじめに 
 周知の通り旧約聖書は12の小預言書で終わっている。終末時における民族的危機の警告と回心を説いている。マラキはその最後の預言者であり、マラキ書はその最後の預言書である。終末的色彩の濃い書である。それ故、その後400年間イエスが誕生するまで預言者は出ていない。マラキ書を以て預言者の時代は終わったのである。この400年をキリスト教史では「沈黙の400年(旧約聖書と新約聖書との間の断絶)」と呼んでいる。しかし、マラキ書は、その最後に「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と述べている。このエリヤとは誰のことか。メシア再臨に先立って現れメシアの道を用意したヨハネのことか。いずれにしても、メシアの出現が預言されている。マラキ書は旧約聖書と新約聖書を結ぶ一書であり、この空白の400年こそ、メシア誕生を国家的世界的に準備する文明発展の期間といえるであろう。

 マラキ書とは

 作 者;預言者マラキ「わたしの使者(3:1)」という意味。
 内 容:マラキ書とは、12預言書の最後の一書であり、4章55節(原点区分では3章24節)からなる。主に対する不義、不遜、契約の履行と、律法の順守の勧告、突然に訪れる、主の「さばき」について語る。イスラエルの民は形としては礼拝を行ってはいたが心は神から離れていた。「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と。主はイスラエルの民が、エリヤの前でその罪を悔い改め、主への立ち返りを求めているのである。主は決して自分の民イスラエルを滅ぼさないのである。そこには、イスラエルに対する愛と永遠存続の契約があるからである。
 成立時期:マラキ書にはその成立時期に関しては具体的には語られてはいないが、その背景にある社会的状況から判断して、「エルサレム第2神殿建設(BC515)」から「エズラ・ネヘミヤの改革(BC450)」までの期間というのが一般的な定説である。

 社会的状況
 ではその社会的状況とはどんなものだったのだろうかそれはマラキ書の2章に具体的に述べられている。ユダヤの民族はバビロンから帰還して、ペルシャの統治下に入っていた。ペルシャの統治はイスラエルに対して寛大ではあったが、ペルシャは異邦人の国であり、異教の国であった。イスラエル人はその身分の上から下まで、その影響を受けていた。主の愛を感じることのできないその表れとして、祭司はその職分に不誠実であり、偶像礼拝をおこない、祭司自身が異邦人の女と結婚していたし、ましてや一般の民の間では異邦人との結婚は普通であり、離婚があり、姦淫があり、同性婚がありで主の教えに忠実ではなかった。これがマラキの生きた時代の社会状況であった。イスラエルはその内部からそのアイデンティーが侵されていた。イスラエルは霊的崩壊の危機にあった。主は悲しみ、怒り、エズラ、ネヘミヤを改革のために遣わしたのである。「この時、あなた方は、わたしがレビとのわたしの契約を保つために、この命令を送ったことを知ろう(2:4)」。

 マラキ書の内容構成
 表 題:宣告(1:1)
 第1部:主による選びと、契約を捨てた祭司に対する告発(1:2~2:9)。
 第2部:妻を裏切る離婚に対する断罪と偽善者に対する告発。(2:10~16)。
 第3部:主の使者の派遣と「さばき」における峻別についての預言(2:17~3:21)。
 結 び:終わりの日のエリヤの派遣。(4:3~6)。

 各章ごとの解説
 第1章:イスラエルの選び(1:3~5)、と祭司による欺瞞行為(1:6~14)。
 主はイスラエルの民に「わたしはあなた方を愛している」と言う。これは預言書の基本形である。それに対してイスラエルの民は「どのようにして」と、問う。彼らは主の愛を信じられなかったのである。これに対して主は応じる。主はエソウとその子孫であるエドム族に象徴される反ユダの諸勢力を滅ぼすと宣言し、イスラエルに対する愛と選びを示す。しかし、イスラエルの祭司はその選びと愛を信じることができなかった。「どのようにして」と、問う。彼らは偽りの預言と祈りの中にいた。それを真実とみなしていた。彼らは主に問う。
1.「あなたが私たちを愛されたのですか(1:2)」。
2.「私たちがあなたの名をさげすみましたか(1:6)」
3.「私たちがあなたを汚しましたか(1:7)」。
4.「私たちは煩わしたか(2:17)」。
5.「私たちはあなたのものを盗んだでしょうか(3:8)。
 ここには罪の意識はない。そこにあるのはただ形式的かつ欺瞞に満ちた祈りであり捧げものであった。主はその祈りや捧げものを喜ばず、これを拒否する。イスラエルの民は「心」が主から離れていることに気づいていなかったのである。主はイスラエルの民をこよなく愛したが、イスラエルの民はこれに対して偽りの祈りで応えたのである。
 2章:祭司への警告と断罪(2:1~9)、若い時からの妻に対する背信(2:10~16)、うそぶく偽善者たち(2:17)。   
 2章は主からの呼びかけ「祭司たちよ」から始まる。イスラエルの祭司たちの堕落に対する糾弾と祭司の本来の務めとは何かが語られ「もし本来の務めを果たさないなら『あなた方の中に呪いを送ろう』」と、主は警告する。主はレビとの契約をそこなった祭司(祭司はレビ族から選ばれる)たちに対して「しかしあなた方は道から外れ、多くのものを教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。わたしもまたあなた方をすべての民にさげすまれ軽んじられたものにする」
 次にマラキ書は、当時の祭司たちが侵した性の霊的退廃を厳しく糾弾する。 
1.異教の神の娘をめとり
2.契約の妻との離婚をするものを
主は憎む。しかし偽りの祭司はうそぶいていう。「『悪を行うものも、みな主の心に適っている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神は何処にいるのか』とあなた方は言っているのだ(2:17)」。ここには祭司たちの犯したレビとの契約違反と性の霊的退廃という2つの罪が語られている。
>第3章:派遣される使者の務め(3:1~4)、神をないがしろにする者と神を恐れる者(3:5~18)
1~2章ではイスラエルの民は決して神に従順ではなかった。「悪を行うものもみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのだ(2:17)」とうそぶく。もはや彼らは自立で神に立ち返る意志も意欲もなかった。しかし、主はこんな不信仰な民をあきらめようとはしなかった。彼らを悔い改めさせようと使者を送る。彼らの役割は「これを清めるものとし座につきレビの子らを清め彼らを金のように銀のように純粋にする(3:3)」ことにあった。原石としての彼らは罪にまみれていた。しかし精錬されれば金となり銀となる。それ故に、主は、彼らを選びの民としたのである。精錬の過程がこの後に描かれる。社会的弱者を虐げる者たち、主に逆らう者たち、これら主を恐れないものに主は立ち向かう。そして主に立ち返れという。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう、と宣言する。しかし主に逆らい続けたイスラエルの民は「どのようにして私たちは帰ろうか」と主に問う。主はこれに応えて言う「わたしを試してみよ、あなたが盗んだわたしの富の10分の1をわたしに返還せよ。そうすれば悔い改めの証としてわたしはあなたに大いなる恵みを与えるであろう」と。このように主は悔い改めと主への立ち返りをイスラエルの民に命じたのである。
 しかし、イスラエルの民はこれを信じるものと信じないものに分かれた。主は言う「あなた方は再び正しい人と悪者、神に仕えるものと仕えないものとの違いを見るようになる(3:18)」と。
 4章では主の審判が下され、両者の運命が分かれる。
 4章:マラキ書の終末宣言(4:1~6)見よその日が来る(4:1~3)、預言者エリヤが遣わされる(4:4~6)。
 4章は「見よ、その日が来る」で始まる。その日とは、ある者にとっては主の裁きの日であり、ある者にとっては救いの日となる。さばきと回復、光と闇、があらわされる。この様子が4:1~3に描かれている。
 「見よ、わたしは主の大いなる日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それはわたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と主は言う。下線部分の解釈:父と子、すなわち主とイスラエルの民の失われた関係を回復させることを意味する。この回復なしにはイスラエルの民は救われない。「それは、わたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ」

 マラキ書を終わるにあたって
 「米国の民主主義は権力を委ねるべき人間の選択をしばしば誤る」。これは19世紀のフランスの思想家トクビルの言葉である。これを少々変えてみる。次のようになる「神はイスラエルの民を誤って選択した」と。イスラエルの民は主によって選択されたにも拘わらず主に逆らい続けた。しかし、トクビルはこうも言っている「米国人の長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。米国人の民主主義の長所は、正しい選択をすることではなく失敗を正せる力にある、と言う。これも少々変えてみる。「主の大きな長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。これは毎日新聞(11/8)の余禄から一部を引用して自分の文章にしたものである。預言書のテーマは「さばき」と「回復」である。しかし、回復は最終的には「黙示録」の世界である。それは「新天新地」であり「神の国」である。しかしこれはあくまでも未来完了の世界であり、現実には「幻」過ぎない。神を信じない者
には、この「幻」は単なる幻に過ぎない。主を信じる者のみが、神の栄光と恵みに浴することができる。
 12の小預言書を読み終わって、いや「旧約聖書」を読み終わって、回復とは何かを、つくづく考えらされたのである。一部の識者は、現在を「大患難時代」だという。未だに主の再臨は起こっていないという。「黙示録」の示す世界はいまだ「幻」であって、その時代が来るという確証はどこにもない。主を信じるのみである。
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平成18年11月13日 報告者 守武 戢 楽庵会
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ゼカリヤ書2主の さばきとメシアへの希望

2018年11月07日 | Weblog
ゼカリヤ書2 主の「さばき」とメシアに関する宣告
はじめに
これまで見て来たように、イスラエルの民は、主に対して決して従順では無かった。逆らい続けてきた。少なくとも旧約聖書の段階では主と主の民イスラエルとの間には和解は成立していない。しかし、主はこれを決して滅ぼさなかった。最終的には救いの恵みの授与を預言している。
 何故か、そこには主とイスラエルの民との間に、「永遠存続」の契約が存在しているからである。最初に主は、イスラエルの民の祖先であるアブラハムに「もし、わが前にあって全きものであるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と契約している。これは、先にも述べたように、「永遠存続の契約」と呼ばれている。これは神のご契約を考える上で、重要な要素となる。永遠存続=神の国を象徴する。
 主は「全きものなら」と条件を付けている。しかし、イスラエルの民は決して全き者では無かった。普通の契約では、一方が契約を破れば、他方はその契約を守る義務はない。これを双務契約と呼び条件付き契約と呼んでいる。しかし、主は、逆らいの民イスラエルに教訓的罰を与えても、決して滅ぼしたりはしなかった。否、逆に、その契約を実行なさるのである。ここには無条件的契約がある。これを片務条約と言う。たとえイスラエルの民が、主の前に全きもので無くとも、この契約は実行されるのである。これは、主のイスラエルの民に対する愛を現している。主の選びのもとは「愛」である。主はイスラエルの民を「ねたむほど愛していた」からである。その罪を懲らしめられれば神に立ち返るが、しばらくするとまた主に逆らう。その繰り返しが神の民である。まるでだだっ子である。騙されても、騙されても主はこれを救う。悪女の深情けである。何故か、そこには愛があると同時に「永遠存続の契約」が存在する。主のご計画の最終目的は神の国の実現である。この国の中心に存在するものこそ、主の選びの民イスラエルだからである。主は、これを滅ぼすことは出来ない。
 中川健一氏はその書の中で無条件的契約(片務契約)について次のように述べている。「神だけが責務を有するという契約である」「人間の側に契約の不履行があっても、この契約は破棄されることは無い。神の恵みによって、祝福が保障されているからである」「時の経過によって、変更されたり、廃棄されたりするものではない、イスラエルの不信仰や、罪のゆえに廃棄されるものではない、ということである」(月刊「ハーベスト・タイム」389号より)。これを一歩進めれば不信心者が救われるのだから、当然信仰者も救われるのである。片務的契約とは、神の民イスラエルが敬虔な信仰者であろうと、なかろうと、主はこれを救われることを意味している。要するに彼らは選びの初めから救われているのである。しかし、イスラエルの民はこれを知らない。だから預言者はイスラエルの民に「悔い改めよ」「神に立ち返れ」と叫び続ける。

 ゼカリヤ書2(9~14章)の内容構成
 9章~10章=メシアの到来とその祝福
 11章=メシアの拒絶とその結果
 12~14章=メシアの受け入れとその結果
 これをより詳しく分けると以下のようになる。主はイスラエルの民に2度宣告(託宣)をする。9章と12章である。
 第Ⅰの宣告(9:1~11:17)
1.宣告の表題(9:1前半)
2.周辺諸国への「さばき」と、イスラエルの平和についての宣告(9:1後半~17)
3.真実の牧者と偽りの牧者についての宣告(10:1~11:17)
 第2の宣告(12:1~14:21)
1.宣告の表題(12:1前半)
2.主の守りとエルサレムの浄化についての宣告(12:1後半~13:1)
3.民の浄化と主の日の到来についての宣告(13:2~14:21)
 宣告(託宣)の意味:神が人に乗り移り、また夢などに現れてその意志を告げ知らせること。人が神に祈って受けた御告げ。預言とほぼ同じように使われるが、特に声を大にして叫ばざるを得なかったメッセージを意味している。この言葉が使われている所、必ず主の「さばき」が語られている。

  各章ごとの解説
 9章:周辺諸国への「さばき」と、イスラエルの平和についての宣告(9:1後半~17)。1~8節において、イスラエルを取り巻く諸国・諸国民(ハマテ、ツロ、シドン、アシュケロン、アシュドテ、ペリシテ人、エクロン)に対する主の「さばき」が語られる。
9~17節においては全イスラエル回復のためにメシアの到来が預言されている。(シオンの義に適った謙遜な王はロバに乗ってエルサレムにやってくる)。イスラエルの民は救われ反ユダの勢力は滅ぼされる。「それはなんと幸せなことよ、それはなんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、ぶどう酒は若い女たちを栄えさせる」

 10章:終末において神の民に与えられる祝福
 10章は次の言葉から始まる。「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる(10:1)」。この文章にはこの章の全てが要約されている。後の雨=3月から4月にかけて降る雨。収穫の前に降る恵みの雨、雨=恵み、大雨=聖霊の傾注の象徴、野の草=豊かな実り。
 大艱難時代、イスラエルの社会には2種類の牧者がいた。真実の牧者と、偽りの牧者である。偽りの牧者は、虚しい夢や、慰めを民に与え民の関心を引き民の心を惑わしていた。そこには偶像礼拝があった。主は怒り、これを滅ぼす。これらの背信の民の中にあって僅かではあるが、主と共にいる「残りの者」がいた。主は彼らに期待する。
 散らされた神の民は、エジプトから、アッシリアから帰還する。
 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。
 11章:偽りの牧者、愚かな牧者。  1~3節には、神殿とエルサレムの崩壊が語られている。この3節はこの章の全てを語っている。
 何故、イスラエルは主によって罰せられねばならなかったのか。それはメシアの来臨(初臨)が愚かな牧者(イスラエルの民)によって拒否されたからである。
 主はこの愚かな民を「ほふられた羊の群れ」と呼んでいる。反ユダの勢力に売り渡しその迫害に任したからである。それ故、主はこれを救うことを拒否する。「あなたがわたしを見捨てたから、わたしもあなたを見捨てる」のである。
 2つの杖(慈愛と結合)を折るという象徴的表現によってメシアの来臨が拒否されたことを現している。主は怒り、能なしの偽預言者を遣わす。彼は羊の群れを救わない。却ってこれを見捨てる。しかし、最終的には主はこの反ユダを滅ぼす。主は背信の民を罰しても、絶対にこれを滅ぼさない。神の民だからである。
  解 説
 2本の杖:慈愛=恵みの契約
     結合=ユダとイスラエル(北)の間の兄弟関係
これを折る=メシアの拒否を現す。
 12章:民族的回心をもたらす「恵みと哀願の霊」 12章から14章にかけてはイスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するようになったかが描かれている。「その日」と言う言葉にこの3章は彩られている。終末論と言って良い。
 ゼカリヤによって与えられたメッセージは、単に神殿建設に留まることなく、神の栄光のご計画のマスター・プランを示す預言が多く含まれている。この章では、終わりの日に起こる多くの出来事が「その日」と言う言葉によって語られている。
 3節:エルサレムは反ユダの勢力にとっては「重たい石」になる。
 4節:全ての馬(反ユダ)を打って盲目にする。
 6節:反ユダの勢力は破壊されるが、エルサレムは安泰である。
 8節:主はイスラエルの民を守られ、彼らは立ちあがって勝利する。
 9節:主はイスラエルに攻め入る国々を捜して滅ぼそう。
 11節:エルサレムでは一人一人が悔い改め、民族的な悔い改めが起る。
 以上、エルサレムの民の力は。万軍の主の中にある。エルサレムの民の上に聖霊が注がれ、悔い改めと神への立ち返りによって、民族的回復が起ることが預言されている。
 13章:13章においても12章で語られたように「その日」の出来事が語られる。
 その日

1.ダビデの家とエルサレムの住民のために罪と穢れを清める「1つの泉」が開かれる(13:1)。一つの泉とは聖霊を現す。それが開かれるとは、大艱難時代の終わりメシア再臨の直前に開かれる聖霊の泉を指す。残された神の民は、この泉の聖水を飲むことによって自分たちの罪を悔い改め、主に立ち返り、民族的回心へと導かれる。
2.主は偶像の名を、この国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。主はまた偽預言者たちと、その穢れた霊をこの地から取り除く(13:1~2)。偶像礼拝と、偽預言者はイスラエルの長い歴史の中で、神の民を神から引き離してきた最大の要因であった。イスラエルの民が主に立ち返るためには、これらから解放されることが必要であった。
3.残された民の純化(13:7~9)。ここには、メシア(イエス)の十字架(磔刑)と回復が描かれている。イエスの死は神の御業の一つであって、主には、人類の贖いの業を成し遂げるご計画があったのである。イエスはその終わりに際し「すべては完了した」と述べている。7節にはメシア初臨に起こることが、8節にはメシア再臨に起こることが語られている。
 「彼らは、わたしの名を呼び、わたしは彼らに応える」。わたしは「これはわたしの民」と言い、かれらは「主は私の神」と言う(13:9後半)。
 14章:第2の宣告 ゼカリヤ書は先に見たように2つの部分に分かれている。第Ⅰ部(Ⅰ~8章)では神殿再建への関心が、第2部(9~14章)ではメシア再臨への関心が語られている。特に12~14章(第2の宣告部分)ではイスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するようになったかが問われている。神殿再建への関心とメシア再臨への関心は、個々ばらばらの物では無く、堅く繋がっている。神殿再建によって、主への信仰に目覚めた民に主が与えたものはメシアの再臨であった。神殿再建にイスラエルの民を向かわしたものが主の霊的な力であったとするなら、イスラエルの民にメシアの受け入れに向かわしたものも、また主の霊的な力であった。それは、イスラエルの民を神の民として選んだのは、主の霊的な力であって、イスラエルの民が主を選んだのではない事に呼応している。主はイスラエルと共にある。
 メシアの初臨を拒否したイスラエルの民は、「さばき」を受け、各地に散らされた。しかし、その罪を悔い改め、神に立ち返った全体の3分の1の「残りの者」は救われる。主は彼らと共に反ユダの勢力と戦い、これを滅ぼす。それは最後の戦い(ハルマゲドンの戦い)であった。
 「その日には光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも、冬にも、それは流れる。主は全ての王となられる。その日には、主ははただひとり、御名もただ一つとなる(14:6~9)」。
素晴らしい世の中が生まれる。命の水は全国つつうらうらまで流れる。主は全ての地の王となられ、あまねく地を支配され、もはや主に逆らうものは誰もいない。新天新地が現れる。
一応、これで「ゼカリヤ書」は終わる。次の「マラキ書」で12預言書の全てが終わる。それだけでなく「旧約聖書」も終わる。

 次回は『マラキ書』である。  「マラキ書」の概略を述べて「ゼカリヤ書」を終わりとしたい。
 マラキという語は「わが使者」という意味で、この預言書を書いた人がどのような者であったかは、何も知られていない。本書の背景は紀元前450年頃である。預言者マラキは神の愛に応えていない古代イスラエルの民を、4つの点から責めている。
1.祭司が、その聖なる職分に不忠実であること(1:1~2:9)
2.離婚と雑婚について(2:10~16)
3.道徳的懐疑について(2:17~3:6)
4.神殿に対する民衆の無関心について(3:7~4:6)
旧約聖書の最後の書は、救いの準備をする者の到来の預言の言葉で結ばれている(4:5)。この預言の成就として、新約聖書のバプテスマのヨハネが誕生する。
                     遠藤周作監修、佐藤陽二編集「キリスト教ハンドブック」発行所 三省堂より
 
平成30年10月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

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