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イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章

2022年06月10日 | Weblog

イザヤ書1 イザヤの檄文1 1~2章
 はじめに:「イザヤ書」は旧約聖書の一書で、三大預言書(「イザヤ書」、「エレミヤ書」、「エゼキエル書」」)の一つです。聖書自身の自己証言と伝承ではBC8世紀の預言者イザヤの作とされています。66章からなり「詩編」に次いで第2に長い書簡です。イザヤ書は「イザヤの福音書」「第5の福音書」といわれ、メシア誕生から、メシア受難の預言、さらに主の日=患難時代と主の再臨の預言までを含んでいます。
イザヤ書は歴史的背景から次のように分類されています。
1、 第1イザヤ書(1~39章)
2、 第2イザヤ書(40~55章)
3、 第3イザヤ書(56~66章)

※イスラエルの堕落を前にして、イザヤには国と民族の運命がはっきりと見えていました。このままでは滅亡は近いと、悲しみ、人々に向かって警鐘を鳴らします。イザヤ自身の檄文です。歴史を踏まえ、現状を睨み、さらに目のあたりに描いた幻を交え、嘆きながら、あるべき姿を訴え、王と民に檄文を飛ばしています。
以上のように、イザヤ書は相当長い期間にわたって描かれています。イザヤがその間生存していたとは思われないので、後の2つはイザヤの弟子たちが先賢(イザヤ)の衣鉢を継いで綴ったものだと言われています。
イザヤ  BC8Cのイスラエルの預言者。神ヤハウェの正義と救い主の出現を説いて、王や民に神への信頼と改心を説いています。イザヤの意味は「救いは主の者」、「救いはヤファエのもの」と言う意味です。この主張をイザヤ書は一環として教えています。
 BC8C後半のユダ王国の預言者。祭儀偏重の宗教や社会の不義を糾弾し強大国アッシリアやエジプトへの迎合政策を批判した。その預言を集めたのが旧約聖書のイザヤ書(1-39章)です。後のキリスト教において、彼が預言した理想の王(メシア)の到来はイエスと結びつけられました。月元
 バビロンの捕囚:
バビロンの捕囚がイザヤ書の背景にあります。
 イスラエルの南王国ユダが新バビロニア王ネブカドネザル2世の2度にわたる攻撃(BC599~BC588)の結果、ダビデ、ソロモンと栄華を誇った、さしものイスラエル王国は滅亡します。首都エルサレムは崩壊、魂のよりどころであった神殿も炎上します。さらに、イスラエルの民の大部分は捕虜としてバビロンに移されたのです。これが「バビロンの捕囚」です。この運命は、BC538年ペルシャ王キュロスによって解放されるまで続きます。しかし、捕囚の民の多くがエルサレムに帰還したのは、解放の100年後であったと伝えられています。彼ら多くは技術者で、生活は比較的安定しており、帰還が遅れたのは、バビロンに定着したものが多かったからだと想像されます。
 イザヤ書と聖書の一致:
 イザヤ書を2つに分けたとき、前半部分は1章から39章までです。この部分はイザヤの作になります・主の懲らしめと、裁きが中心に描かれています。40章では「慰めよ、慰めよ。」と言う言葉があります。後半部分の40章から66章までは慰めと回復のメッセージです。具体的には、ユダとエルサレムに対するメッセージです。ユダが主から離れているので懲らしめられるが、最後には癒され、救われるという流れになっています。 ちなみに、聖書の書物の数は、旧約聖書が39巻、そして新約聖書が27巻です。合計すると66巻です。章の区分は後につけたものですから霊感を受けているわけではないのですが、イザヤ書の前半部分が39章で、後半が27章です。両方合わせると66になります。聖書と一致しています。内容も旧約聖書が神のさばき、そして新約聖書に慰めがあることでも一致しています。これは単なる偶然なのでしょうか。神の導きを感じます。
南ユダ王国 歴代統治者一覧 
在位には諸説ありますが、ここでは最も広く受け入れられているウィリアム・オルブライトの説によります。年号はすべて紀元前です。
• 922年 - 915年 レハブアム
• 915年 - 913年 アビヤム
• 913年 - 873年 アサ
• 873年 - 849年 ヨシャファト
• 849年 - 842年 ヨラム 暗殺される。
• 842年     アハズヤ 北イスラエル王国のイエフによって殺害される。
• 842年 - 837年 アタルヤ 先王アハズヤの母、唯一の女王。ヨアシュを擁立した大祭司ヨヤドに暗殺される。
• 837年 - 800年 ヨアシュ 配下に暗殺される。
• 800年 - 783年 アマツヤ 暗殺される。
• 783年 - 742年 ウジヤ
• 742年 - 735年 ヨタム
• 735年 - 715年 アハズ アッシリア王ティグラト・ピレセル3世に臣従。
• 715年 - 687年 ヒゼキヤ このころアッシリア王センナケリブ活躍。
• 687年 - 642年 マナセ
• 642年 - 640年 アモン 地の民に暗殺される。
• 640年 - 609年 ヨシヤ 申命記改革行われる。エジプト王ネコ2世とのメギドの戦いで戦死。
• 609年     ヨアハズ(エホアハズ)
• 609年 - 598年 エホヤキム カルケミシュの戦い起こる。
• 598年     エホヤキン 次王ゼデキヤと共にバビロニアへ連行され、37年間にわたって拘禁される。その後開放。
• 597年 - 587年 ゼデキヤ 目を刳り出されてバビロニアへ連行された。
 1章:イザヤ書一章は天での裁判の様子(原告と裁判長、神と被告人、イスラエル、証人、天と地)が描かれています。
「アマツの子、イザヤの幻。これは、彼がユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤの時代に見たものである(1:1)」。
 ユダとは分裂後の南ユダのことです。エルサレムはその首都です。ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒデキヤとは分裂後の南の初代王レハブアムから数えて10~14代目の王たちを指しています。
1,1~9節まではイスラエルの罪と罰が語られています。特に2節ではイスラエルの神への反逆が宣告されています。「子らはわたしが大きく育てた。しかし、彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼い葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない」。子らとはユダヤ民族を指しており、ユダヤ人個人を指す言葉ではない。主が大きく育てた者とは、ヨシヤ、士師、ダビデ、ソロモンのことです。主はイスラエルの不義を怒るが、しかし、一人でも神に義なるものがいる場合、これを救われるのです。ソドムとゴモラの町のように。
2,10~15節では、神は、イスラエルの捧げものが虚しいものであると証言します。「もう、虚しい捧げものを携えてくるな。―――これに私は耐えられない」。血に染まり、心のこもらない捧げものは無信仰のあかしだからです。主は心のこもらない偽りの信仰を虚しきものと拒否します。
3,主はイスラエルの民に8つの命令を下します。1、洗え、身を清めよ。2,わたしの前であなたがたの悪を清めよ。3,悪事を働くのをやめよ。4,善をなすことを習え。5,公正を求めよ。6,しいたげるものを正し、7、孤児のために正しいさばきをなせ、8、やもめのために弁護せよ。このように主はイスラエルの民に恵みとあわれみを差し出し、「もし喜んでこの命令を守るなら、あなたがたは、この国の良いものを食べることが出来る。しかしそむくなら罰せられる。」とイザヤは主を代弁します(1:16~20参照)。
4,「どうして、遊女になったのか。忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ(1:21)」。遊女:霊的姦淫をするもの。=偶像崇拝をする者。お前の銀は金粕になった。お前の良い酒も、水で割ってある。イスラエルの不順が示されます。お前の司たちは反逆者、盗人の仲間。皆、わいろを愛し報酬を追い求める。孤児のために正しいさばきをせず、やもめの訴えも彼らは取り上げない。イスラエルの指導者たちに対する神による有罪判決が下されています(1:21~23参照)。
5、以上のように、もはやイスラエルの有力者たちは、主にとっては仇であり、敵に過ぎないのです。その者たちに、主は手を伸ばし、これを清め、その後、彼ら町を正義の町、忠信の都にかえられるのです。このように、ここには、神に裁かれるイスラエル(1:24~26)が描かれています。次に、贖われるイスラエル(1:27~31)が、描かれます。シオン(エルサレム)は公によって贖われ、その町の悔い改める者は、正義によって贖われる(1:27)」のです。「慕った樫の木」や、自ら「選んだ園」は共に偶像を象徴しています。それらを崇拝するものはそむくものになり、罪びとととなり、主を捨てるものとなるのです。このような偶像崇拝の結果、彼は、恥を見、辱めを受けるのです。偶像は取り除かれ、「つわものは麻屑に、その業は火花になり、その二つとも燃え立って、これを消すものがいない(1:31)」。つわもの
はどんなに戦いに巧みであっても神の裁きを免れることは出来ないのです。
2章:第一章は。「終わりの日」の前夜が語られています。イスラエルは、まさに罪を犯す国であり、咎多き民で満たされています。彼らは主を捨て、主を侮り、背を向けています。まさに信仰深きものにとっては苦難に満ちた日々です。これに対して二章では、イエスの再臨の希望が語られています。「終わりの日」の後半です。主が再臨し、「主は国々の間を裁き、多くの国々の民に判決を下すのです。その結果、「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を挙げず、二度と戦いのことを習わない(2:3~4参照)」のです。平和の民に変えられるのです。しかし、これはあくまでもイザヤの将来に対する夢であり、幻なのです。現実の世界はイザヤの夢や幻が実現しているとは言えません。そこにあるのは真逆の世界です。それゆえ、イザヤによるイスラエルの民族的改心への勧めがなされています。神の国(千年王国)の到来が望まれています。「来たれ、ヤコブの家(イスラエル)、私たちも主の光に歩もう(2:5)」。」とイザヤは声高に叫びます。
 2章は、おそらくウジヤ、ヨタム、の時代(1:1参照)の預言とされています。当時、ユダ南王国は軍事的には富国強兵に努め、商業的には海外貿易で栄え、東方諸国との交易が盛んでした。その結果、東方諸国に蔓延していた偶像崇拝の悪弊がユダ国内に流入し、広められ、本来の神が退けられたのです。「金」や「銀」と言う財力、「馬」や「戦車」という権力、人の手や指で造られた「偽りの神々(偶像)」が、南ユダの人々を支配していたのです。しかし、ヨタム王の晩年には、権勢を誇った南ユダも衰退に向かい、政治や社会は腐敗し、混乱し、アッシリヤや、バビロンの大国に脅かされ始めます。
 終わりの日には、主の裁きの結果、高ぶるものはかがめられ、高慢のものは低くされ、主一人だけが高められ、偽りの神々はモグラや蝙蝠に投げやられて消え失せるのです。
 今から2000年ほど前は、人類にとっては苦しみが最もひどい時であったと聖書は語っています。しかし、それは、人々が恐れているような世界の終わりではありません。多くの苦難は現れても、それは、キリストが再現し、裁きと救いを成就したのちに、神の国が現れるという予兆でした(2:21参照)。   「主が立ち上がり、地をおののかせるとき、人々は主の恐るべき御顔を避けて、岩の割れ目、巌(いわお)の裂け目に入る(2:21)」のです。悪は消滅します。「鼻で息をする人間を頼りにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか(2:22)」。頼りになるものは「主」以外には存在しないのです。
楽庵会


ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)

2022年06月10日 | Weblog

ヨブ記12 神の顕現2 40~42章(最終章)
 はじめに:今回をもって、ヨブ記のレポートを終了します。ヨブは自分の正しさを確信して、「義なる自分」が、なぜ「災厄」に会わねばならなじめに:いのか、と神に問い続けます。三人の友人とエリフが、この間に現れ、自分の意見を述べます。3人は「因果応報」を語り、エリフは「災厄」の「教育的効果」を語ります。しかし、それはヨブを満足させるものではありませんでした。それで、ヨブの目は神に向きます。しかし、神はヨブの問いかけには沈黙を守って応じませんでした。それが、嵐の中、突然現れ、ヨブに自分の摂理を語ります。神は自分の万能性、無限性、永遠性を語り万物の支配者であることを誇ります。人の支配の及ばない世界を語り、この世界が神のみ心で成っていることを証ししていきます。しかしヨブの問う「なぜ」には応えはありません。ヨブは神のみ心に触れ、何が神のみ心に触れるものかを知ります。ヨブは神の大きく強い愛に触れ、自分の小ささを悟って、神の前にひれ伏します。強く、大きな神の愛の前には、ヨブの善悪は小さな問題であり、取るに足りないものなのです。ヨブは、「我は義なり」と叫ぶ執着心を「知識もなく摂理を覆い隠すものであった(42:3)」と悟ります。神は、最終的には、自分の恵みとあわれみをお示しになります。ヨブは信仰によって生きる力が与えられたのです。神はヨブと三人の罪を赦し、ヨブには2倍の恵みを与えます。この後ヨブは140年生き、長寿を全うして死にます。。
 40章:40章には神の第一の語り掛けに対して、ヨブが答える場面と、さらにそのヨブに対して神の第二の語り掛けが記されています。第一の語りかけ対してヨブは恭順の意を示しています。それにも拘らず、神はなぜ二度も、嵐の中、語り掛ける必要があったのでしょうか。
 第一の語り掛けとは「非難するものが全能者と争おうとするのか、神を責める者は、それを言い立ててみよ(40:1~2)」という言葉です。非難するもの、責めるものとは、勿論ヨブのことです。「それお」とは、「神に義なる自分が「なぜ」災厄に会わねばならないのか、とその不合理かつ不条理な災厄に対して、「なぜ」と神に問い、その答えを求め続けたことを指します。。
 しかし、ヨブは先の章で示されたように自然の営み、様々な野生動物の生態、天体の動きなど自分の成しえないことのすべては、神の御業であると知り、自分の小ささを悟り、「知識もなく言い分を述べ立てて摂理を暗くする者は」は自分自身だと認めます。そして「ヨブは応えて言った。「ああ、私はつまらないものです。あなたになんと口答えできましょう。私は、ただ口に手を当てるばかりです。一度私は語りましたが、もう、口答えしません。二度と私は繰り返しません(40:3~5)と、反省の言葉を語ります。しかし、この反省の言葉を神は無視します。そしてヨブに言います「さあ、あなたは腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。あなたはわたしの裁きを無効にする気か。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか(40:7~8)」と。わたしの裁きとはヨブの受けた災厄を指し、その意味を深く考えよ、と言うのであり、義なる我を罪に定める、あなた(神)こそ罪びとだとヨブよ、言うのかと、神は自らに対するヨブの高ぶりを叱責しています。
 神は自分を罪に定めようとするヨブに言います。「あなたは神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴を轟き渡せるのか。さあ、誉、気高さを現す法服で身を装い、尊厳と威光を身に着け神の法廷であなたの激しい怒りを吐き散らし、すべての高ぶるものを見て、これを低くせよ。すべて高ぶるものを見てこれを抑え、悪者どもをその場に踏みにじれ。そしてかれらを黄泉の国へとおとしめよ。そうすれば。わたしはあなたをたたえて言おう。「あなたの右の手があなたを救える」と。この文章も、また反語です。そんな神と同じ力があなたには、ありますか。あるまい。と神は言いたいのです。
 次に河馬について述べられています。河馬も野生動物の一種で、家畜としては存在していません。人と共に神によって造られた第一級の獣です。体は頑丈に作られており、堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、人にこのような生き物を造ることが出来ません。神の傑作です。彼らは静かに草を食み、山のもたらす産物を楽しんでいます。野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしています。彼らは普段は沼地でのんびりと過ごしています。ハスや、葦や、柳は水辺で彼らに安らぎを与えます。河馬は平和の象徴であり、戦いを好みません。たとえ激しい雨が降り注いでも、ヨルダン川があふれても、それを飲み込んで慌てません。こんなおとなしく平和な動物を「誰が罠にかけて、その鼻を突きとおすことが出来ようか(40:24)」。
 41章:41章は、レビヤタンについて語っています。
 1、レビヤタンとは旧約聖書に登場する竜または蛇のような巨大な水中怪獣で、鰐(わに)の類と考えられています。
 2、その姿は強大かつ強靭な皮膚におおわれ、強さと威厳に満ち何物をも近づくこと許しません。剣も槍も投げ槍も矢尻も、受け付けず、跳ね返します。その口からは炎を吐き出し、どんなに力あるものもこれに太刀打ちできません。河馬(40章参照)が第一級の獣なら、レビやタンは、すべての獣に対する誇り高き王です。
 3,人はそんなレビやタンに優しさを期待することも、捕らえて奴隷にすることも、契約を結んで和解することもできません。勿論、戦って、勝つこともできません。それゆえ、「二度と手を出すな」と神は言います。
 神は言います。「天の下にあるものはみな私のものだ。私以外にこれ(レビヤタン)に勝つものはいない」と。レビヤタンは、神に対抗する諸勢力の比喩的表現です。実態は、悪魔です。これに勝つものは神のみです。 河馬が平和の象徴ならば、レビヤタンは、神に敵対するもの(悪魔)の象徴です。共に神の支配下にあります。神は、被造物のすべてを支配されています。それゆえ、レビヤタンは、人の太刀打ちできる存在ではありません。
42章:1,ヨブの悔い改め「ヨブは主に応えて言った。「あなたは、すべてが出来ること、あなたはどんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。知識もなく、摂理を覆い隠すものはだれか。まことに私は自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を(42:1~3)』」と。自分では悟りえないことを告げていたと、ヨブはその行為を反省しています。ヨブが自分の無罪を主張し「我は義なり」と主張し「神が間違っている」と叫んだ時にヨブの罪が明らかになります。ヨブの主張の真偽は、神にしか知り得ないものだからです。その主張は、明らかに神に対する不遜であり高ぶりだったのです。
 そして神は言います。「さあ、聞け、わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ(42:4)」と。
 ヨブは神を求め続けました。しかし、神は沈黙を続け、その姿をヨブは見ることは出来ませんでした。「うわさで聞いていただけです(42:5)」。しかし、今、ヨブはその姿を見たのです。神との出会いの体験こそ、人を真の信仰者にするのです。十字架で逃げた弟子たちが集められたのも復活のイエスとの顕現を通してでした。そして、神はその反省した姿を「わたしに示せ」と命じています。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で、悔いています(42:6)」とヨブは反省します。災厄の苦しみの中で、ヨブは神を受け入れたのです。神とヨブの間に和解が生じます。
2、ヨブの回復:神はヨブの悔い改めを受け入れるとともに三人の友人たちを叱責されます。神はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それはあなたがたが、わたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようでなかったからだ(42:7)」と。ここで神は友人たちの主張する「応報論」を否定し、ヨブの正しさを明らかにしたのです。しかし神は友人たちを罰することはせず、ヨブとの和解を望んだのです。ヨブが友人のために取り直しの祈りをしたとき、神は、ヨブの苦難を取り除かれ、元の境遇に戻し、2倍の財産を保証しました。彼の子、兄弟、姉妹、雇人、のすべては復活し、隣人たちと共にヨブを祝福しました。神はヨブの前の半生よりも、後の半生を、もっと祝福されたのです。「この後ヨブは140年生き、自分の子とその子の子たちを4代目まで見た。こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ(42:16~17)」のです。
 この結論は、神学的には甘いという説もあります。ヨブは最後まで突き放された方が、イスラエルの神を理解するためには、良かったのです。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままでよいのではないか。救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難や不条理の意味が変えられることにあるのです。ヨブは信仰によって変えられ、生きる力を与えられたのです。ヨブの苦しみは、イエスの痛みに通ずるものがあります。イエスの十字架の死と復活は、ヨブの苦しみと復活に通じるものがあります。それはこの「ヨブ記」のテーマでもあったはずです。
令和4年3月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


ヨブ記11 嵐の中から主の顕現 38~39章

2022年06月10日 | Weblog

ヨブ記11 嵐の中での主の顕現1 38~39章</strong>
 はじめに:「主は嵐の中からヨブに応えて仰せられた。『知識もなく言い分を申し立てて、摂理を暗くするこの者はだれか』(38:2)」と。神はヨブの問う「なぜ」と言う疑問には応えず、質問と言う形をとってヨブと向き合います。質問と言う形をとっていても、神はヨブのすべてをご存じです。それは強調形です。「われは義なり」と繰り返すヨブは神にとっては「摂理を暗く」する者なのです。そのヨブの執着は、神にとっては高慢であり不遜なのです。そんなヨブに対して、神は、「あなたは勇士のように腰に帯を締めよ、私はあなたに尋ねる。私に示せ(38:3)」と、身を引き締めて我と向き合えと言っているのです。その後、神は、ご自身の摂理と創造の御業を語っていきます。天と大地と海が作られ、人が生まれます。「この時、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちは、みな喜び叫んだ(38:7)」のです。「しかし、あなたは、わたしが地の基を定めたとき、どこにいたのか(38:4)」と、神はその創造の御業を語り、それと無関係で喜び叫ぶことのできなかったヨブを論難します。ヨブは、神の万能性、永遠性、無限性を知り、自分が知識もなく摂理を覆い隠すものだったと悟ります。そして言います。「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています(42:6)と。これが最初に神がヨブに下した命令(38:2~3)に対する答えなのです。ヨブは神の前に自分を無(空)にしてひれ伏します。
 38章:神は37章の終わりに「だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしいものを決して顧みられない(37:24)」とおしゃっています。主は嵐の中からヨブに応えて仰せられたのです。と言うことは、神はヨブを、神を恐れ、かつ心のこざかしいものではないと認めて、顧みられたのです。ヨブを認めているが故の災厄であり、論難なのです。そうでなければ、神が沈黙を破ることはなかったでしょう。神は言います「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ(38:3b)」。「わたしが地の基を定めたとき、あなたは何処にいたのか」。また言います。「あなたに悟ることが出来るなら告げてみよ(38:4b)」、「あなたは知っているか。誰がその基の上に世界を造ったか(38:5~6参照)」を。いずれも神の御業であり、ヨブの関知しえないことなのです。ヨブの高慢、不遜に対する神の痛烈な皮肉と考えることが出来ます。
 さらに神は自分の御業を語っていきます。海の怒りである津波について書かれています。神はこれを区切って境を定め、閂と戸を設けて、言います。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ(38:11)」と。神は津波とヨブを同格においています。ヨブの神に対する高ぶりに警告を与えているのです。
 闇はいつまでも続くものではない。いつかは色鮮やかな世界が到来します(38:12~15)。これは一般論であると同時に、災厄に苦しむヨブに神が語ったものです。「あなたが生まれてこのかた朝に対して命令を下し、暁に対してその所をさし示し、これに地の果てを捕まえさせ、悪者をそこから振り落とさせたことがあるか(38:12~13)」と。朝や暁は、夜中に次いで現れる自然現象であり、明るさを現しています。それに命じるということは、闇に明るさを求めるということです。神は言います。「暗闇に紛れて悪を行うものを一掃せよ」と。あなたはこれを行ったことがあるか。これも反後です。行ったことはあるまい。と続きます。地は最初こそ、闇に包まれていますが、朝や暁が到来し、太陽が昇るにつれてこの世は色鮮やかに彩色され、「悪者からは、その光が退けられ、振りかざす腕はおられる(38:15)」のです。すべての闇は、退けられ、その後に神の栄光が現れます。朝や暁は何を現すのか。信仰であり、希望であり、愛です。
 黄泉の国は地の底、海の底にあると言われています。神はヨブに言います。「死と直面した限界状況の中で、あなたは何を知っているのか」と。神の創造された世界(天、大地、海、黄泉の国、神の国等々)の広さ、深さをあなたは体験したことがあるのか。そのすべてを知っているなら、我に告げてみよ。光の住むところ=神の国、闇のある場所=黄泉の国、そこにあなたは私を連れて行こうというのか。そこに至る道を知っているというのか。これもまた反語です。光と闇を分け、その秩序を付けているのは神の御業です。あなたが年を得た賢者であっても、神の摂理を知りうる立場にはない、と神は言います。
 雪も雹も雨も、人の創造しえない自然現象であり、神の御業です。雪も雹もいくさと戦いのためにユダヤのために神は備えており、出エジプトの時、エジプトに雹の災いを下し、ヨシュア記でも敵を追うヨシュアたちに神は雹を降らせました。この後も神はその創造の御業を語っていきます。神は人の生活の上に多くの恵みを与えています。光や東風は、地に恵みを与える代表であり、光は大水を生み、稲光を生み、人に災厄をもたらしますが、それらを災厄から恵みに変え(分け)人の生活を潤します。大水のために水路を通し、稲光を通電させて災厄を地中に流します。雨は大地を潤し、若草を生やします。恵みの雨には父がおり、この母こそ主であり、露のしずくを生み、氷を生み、空の白い霜を生みます。水を凍らせ、堅い氷とする。主は災いを恵みに変えるのです。ヨブよ、心して神を敬え。
次は、地球を離れて、神による宇宙の創造と、その支配を語ります。これも人(ヨブ)には成しえないことです。「あなたは、スバル座の鎖を結び付けることが出来るか、オリオン座の綱を解くことが出来るか、あなたは十二宮をその時々に従って引き出すことが出来るか、牡牛座を、その子の星と共に導くことが出来るか、(38:31~32)」と、神はヨブに「あなたにーーが出来るか」と、神にしかできないことを語ります。この神秘な宇宙も、天の法令(秩序)に従って動いています。あなたは「天の法則を知っているか、地にその法則をたてることが出来るか」と、天の法則も神の御業です。人間中心に物事を見ようとする立場に対して、自分を無(空)にしてものを見ることの必要性を神は説いています。神と人との違いは、天と地ほどです。神は人(ヨブ)の限界を語ります。
次いで、神は自然現象である雨について語ります。「あなたはその声を雲にまで上げ、雨を降らせることが出来るか」「稲妻に命じて向うに行かせ「私はここにいます」と、その存在を示すことが出来るか。それらはすべて私のわざであり、あなたのわざではない。あなたは、雨に大雨を降らせたり、止めたりする知恵や悟りを与えることが出来るか。地が乾燥し、人の手に負えなくなったときに、これに心を配り配慮して雨を降らせることが出来るか。それが出来るものは、わたし以外にはいない。神による雨の創造と支配が語られています。
 この章(38章)の終わり(38:39~41)から次の章にかけて神は人の手に負えない野生動物について語ります。獅子も烏もその一種です。人には手に負えなくとも、これら野生動物も神の支配下にあり、かつ、愛されています。獅子も烏もその生命は神によって保障されているのです。
 39章:39章には、様々な野生動物(野やぎ、野ろば、野牛、だちょう、馬、鷹=鷲)が語られています。野生動物は、人が管理・支配できない動物たちです。しかし、神はこれらの動物を被造物として支配し管理し愛しておられます。私たち人も同じ被造物として、自分を神の主権の中に従わせるとき、そこに私たち人間が、造られた神の目的を知ることが出来ます。神の目的とは、神ご自身のご計画を達成することにあります。
 1,野やぎ:野やぎは、苦しんで産んだ子を放り出す。しかし、にも拘らず、その子らは強くなり、荒野で大きくなる。出て行って、元のところに戻らない。
 2,野ろば:野ろばは荒れ地や不毛の地を住みかとして、たくましく生きる。山岳地帯はその牧場であり、青草を、すべて食することが出来る。
 3,野牛:野牛は力が強いからと言って決してあなたに従うことはない。自由に生きている。
 4,だちょう:神がこれに知恵を忘れさせ、悟りをこれに授けなかったから、卵を地に置き去りにし、これを砂に温めさせ、野の獣が踏みつけようと、餌として食そうと関知しない。しかし絶滅することはない。神に守られえているからである。速力は馬に勝る。
 5,馬:次は馬です。勿論、野生の馬もいますが、ここで扱われている馬は、人に飼われた軍馬のようです。軍馬は、戦いの時すぐれた勇士として戦います。その恐れなき雄姿は人の力によって身に着けたものではなく、神の与えた本能です。ここでも人の力の虚しさが語られています。
 6,鷹(鷲):(タカ目のうち小・中形のものをタカと呼び、大形のものをワシと呼ぶ)。鷹が舞い、翼を広げるのは、あなたの悟りによるのか、鷲が高くに上りそこの巣を作るのはあなたの命令によるのか。否、それは神の御業である。鷹は肉を食らい血を吸う獰猛な猛禽である。
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楽庵会


ヨブ記10

2022年06月07日 | Weblog

ヨブ記10 若者エリフの弁論2 35~37章
 はじめに 37章をもって、3人の友とエリフの弁論は終わります。38章で、今まで沈黙を守っていた神が登場します。ヨブに直接語り掛け自らの永遠性と無限性を語ります。
 ここでヨブ記の復讐をしてみたいと思います。
 ヨブ記は2つの災厄から始まります。この災厄は、天上における神とサタンの談合の結果、信仰深いヨブの家族が被ったもので、一つ目の災厄で、ヨブは家族とすべての財産を失い、第二の災厄で、全身に悪性の腫物ができ、大きな苦しみに会います。ここでの疑問は、一つ目の災厄でヨブは家族と雇人とすべての財産を失ったのに、彼の妻だけは生き残ったことです。なぜ彼女だけが生き残ったのでしょうか。それは、彼女がサタンに仕える身であり。ヨブが神に逆らう役割をサタンから与えられていたのです。あたかも蛇がエバを誘惑したように、エバは誘惑に負けましたが、ヨブは彼女の誘惑を退けたのです。そこにはヨブの神に対する信仰と希望と愛がありました。
 もう一つの注目すべきことは「一切のものは空なり」と言うことです。人の行い、形あるものはすべて空しいものである、いつかは消滅します。ヨブ一族の消滅は、まさに、この空を現しています。
 神の教えに従って行動することのみが正しいのです。神は目に見ることが出来ません。まさに空です。キリストは神であるのに自らを無(空)にして、人の姿をしてこの世に現れました。我々の罪を贖うためです。しかし、一切のものは、善も悪も、夜も昼も、この世もあの世も、すべて神のコントロール下にあります。ヨブは、最終的には、災厄から解放されて、2倍の復活を受けます。天の恵みは私たちの思いをはるかに超えて大きいのです。その意味するところは、キリストの十字架と、復活です。
 このようなヨブのもとに、3人の友人(エリファズ、ビルダデ、ツオファル)が現れ、「災厄は神罰なり」と、「応報論」を展開します。ヨブはこれに対して「我は義なり」と反論します。ヨブは神に対しても「義なる自分が、なぜ災厄に会うのか」と、問い続けます。地をさまよい、神を捜し続けます。しかし、神はヨブとの出会いを拒否して、沈黙を守り、応答しません。
3人の友人とヨブの論争は、友人たちの沈黙によって、ヨブは勝利します。その後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子エリフです。彼は、ヨブが神よりもむしろ自分を義としたとし、神との対等性を主張したヨブを激しく糾弾します(32~37参照)。38章では、神が今までの沈黙を破って突然現れ、ヨブと向かい合います。これが「ヨブ記」のあらすじです。
 35章:エリフはヨブの言う「我は義なり」と言う主張に疑問を示し「私(ヨブ)の義は神からだ」とでも言うのかと怒ります。神の超越性、絶対性を説くエリフにとっては神が自分の問いかけを無視して、沈黙を守っていることに対して「なぜ」と問い続けるヨブの神に対する執着心が許せないのです。自説(われは義なり)への執着は、神に対する高慢であり、不遜なのです。救いに至る道なのです。「しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか((35:15)」と、エリフはヨブの災厄を神罰と考えています。それゆえに、ヨブに与えられた災厄を正当化します。まさに応報論です。   「我は義なり」と確信するヨブにとっては、神の沈黙は自分の正しさを否定するものなのです。これに対してエリフは応えます。「天を仰ぎ見よ、あなたよりはるかに高い雲を見よ。神にとっては、あなたがどんなに正しくとも、またどんなに罪びとであっても、あなたは神に対して何もできないし、何も与えることは出来ない(35:5~7参照)」と、神を人とは無縁な存在にします。神と人との断絶が語られます。そして言います「あなたの悪は、あなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子にかかわりをもつだけだ」と。
 「人々は、多くの虐げのために泣き叫び、力ある腕のために助けを叫び求める(35:9)」。しかし、真の救い主である神に救いを求めません。神を求めずに泣き叫んでも、答えは得られません。力ある悪人がおごり高ぶっているからです。「神は決して空しい叫びを聞き入れず、全能者はこれに心を留めない(35:13)」のです。救いをこの世の力に求めず、真の救い主(神)に求めよとエリフは、人々に諭しています。
 ヨブが神を求めても神は応じません。沈黙しています。しかし、ヨブの訴えは「神の前」に届いているのです。だからその答えを、身を清くして忍耐強く待て、今はその時にあらず、とエリフはヨブを諭します。しかし、「ヨブは、いたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べ立てる(35:16)」と、エリフはヨブを非難します。エリフにとってヨブは相も変わらず罪びとです。
 36章:エリフは「まだ、神のために言い分がある(36:2)」と、その弁論を続けます。あなたが全能なる神と向き合っているように、私も向き合っている。「私の知識は神から来ているがゆえに、私の言葉には偽りがない。神はその力を行使し、いかなるものに対しても卑しめることをしない。神は悪者を生かしておかず、虐げられた者には権利を与える。神は正しいものから目を離さず、彼にふさわしい報いを与え高められる(36:1~7)」「もしかれらが鎖に縛られ、悩みの縄に捕らえられると、おそらく彼らは何らかの罪を犯したのであろうから、神はかれらのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶった、そむきの罪を告げ知らせる。神は彼らの耳を開いて戒め、悪から立ち帰るように命じる。彼らがその戒めに従い仕えるなら、恵みを与え、逆に聞き入れなければ、その罪を裁かれる。彼はその罪を理解せずに息絶える。心で神を敬わない者は怒りを蓄え、神が彼らを縛ると、彼らは神に救いを求めず、別の力あるものにすがる。それゆえに、彼らの魂は若くして死ぬ。彼らの命は腐れているからだ。神はあなたを苦しみの中から誘い出し、束縛のない広いところに導き、あなたの食卓には、あぶらぎった食物が備えられる。神の与える災厄は、彼を幸いに導くためにあるのです(36:6~16参照)。エリフは「災厄の教育的効果」を語っています。「しかし、あなたには悪者が受けるさばきに満ちている。神はあなたを悩みから救い出そうとしているのに、あなたは応答しようとしない。だから、神のさばきが待っている(36:16~17参照)。「そして、神のさばきの前に贖い代持ってきて、救いを求めて叫んでも神によって聞き入れられることはない(36:18~19)」。「人が不正に踏みにじられ、悲しみのうちに打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。悪に向かわないように注意せよ。あなたは悩みよりこれ(悪)を選らんのだから(36:20~21)」。苦境の中、で、悩みか悪かの二者択一を迫られ、ヨブが「悪」を選んだとエリフは言います。「万能な神は、あなたの犯した罪をご存じです。それゆえ、あなたを教え諭し、その罪を清めようとしておられます(教育的効果)。あなたの罪を罰し、懲らしめ、滅ぼそうとしているのではありません。神は、慈愛と親しみに満ちた「アバ父」なのです。その神にだれが「不正をした」と言うことが出来るでしょうか。逆にその御業を誉め歌って賛美すべきなのです。人はこれを遠くから眺めることが出来るのみなのです。神はいと高く、その存在も、その年も知ることは出来ません。神は永遠かつ無限のお方だからです。
 次にエリフは自然の摂理について語ります。自然の摂理は神の摂理です。神は大地を造り、太陽を上らせ、雨を降らせ、四季を造り、大地を循環させました。人はその恵みを享受しない限り生きていけません。すべてを創造した神と人は共に歩まねばならないのです。神の沈黙に対しては静かに待て、その先には素晴らしい栄光が用意されている、とエリフは言うのです。
 37章:自然の摂理は、神の御業であるとエリフは言います。人は神の前ではちっぽけな存在です。「神は心で自分を敬まわない者には怒りを貯え、これを裁く」のです。エリフはこの神の怒りの声を聴いて恐れおののき言います。「神の声である雷の声を聴け、稲妻と雷鳴が神の威厳を知らせる」と。神の驚くべき御業を語ります。この時、すべての人は、恐れおののいて、神に祈り、獣は巣穴に逃げ込み静かに神を見る。「神が息を吹きかけると川が凍り、雲に水分を含ませると稲妻をまき散らし、それを地に行き巡らせる」。「これらの自然の変化は、神の懲らしめであり大地のためであり、我々に恵みを与える。ヨブよ、よく聞け「これらの神の御業をじっと考えよ。どのようにして神が自然に命じて、その摂理を行わしめるか(37:15~17参照)」を。しかし、我々には、それ(摂理)を知ることは出来ない。なぜなら、雨雲の上にそれが輝いているからです。しかし、一陣の風が吹き抜けると。これを取り去り、清め、黄金の輝きが現れ、その尊厳を見ることが出来るのです。その風が吹くのを待てとエリフは言います。雨雲が神と人とを隔て、一陣の風がこれを吹き払い、神と人とを結びつける。この風こそ、神の愛であり、人の信仰のあかしなのです。
 次章では、一陣の風が吹き、それに乗って神が現れます。神はその沈黙を破りヨブの前に現れます。エリフは神の出現を予測していたのです。
 これで32章から37章まで続いたエリフの弁論は終わります。このエリフの弁論には、神も、ヨブも応答しません。
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令和4年1月11日(火)報告者守武 戢 楽庵会


ヨブ記9 エリフの弁論 32~34章

2022年06月04日 | Weblog
ヨブ記9 若者エリフの弁論1 32~34章
はじめに:31章でヨブと3人の友人との論争は終了しました。ヨブが神のみ前で自分の正しさを実証したからです。その結果「この3人の者は応えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。(32:1)」と作者は言います。31章で述べたように、ヨブはヘブライの慣習にそって「無実の実証」を神への誓いをもって行いました。神の前で偽りは赦されないのです。神はすべてをご存じだからです。ヨブのことばが真実である限り、3人の神学「応報論」は無力です。「我は義なり」というヨブの確信は3人のいう「災厄は神罰なり」という応報論に勝利したのです。3人は沈黙します。この舞台から撤退せざるを得なかったのです。また、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ(42:7)」と。神もまた3人の友を退け。ヨブに軍配を挙げるのです。
この3人の後に現れたのが、ラム族のブス人バラクエルの子、若者のエリフです。彼はヨブたちの論争に参加すべく、その議論を注意深く傾聴していました。おそらく、3人の友人の撤退はエリフにとっては想定外のことだったと思います。ここから若者エリフの弁論が始まります。
ヨブたちの論争は、ヨブの勝利をもって終わりました。エリフは自分の発言の機会に恵まれ、自分の言い分を語りだします。32~37章まではエリフの弁論です。勿論、彼の弁論は3人とは異なります。「私はあなたがたの言い分(応報論)では彼(ヨブ)に応えまい(32:14)」と、「応報論」とは、別の言い分を語っていきます。
この別の言い分とは何か、その特徴とは何かが、32章から37章にかけて、語られていきます。
32章:エリフは論争への参加を前にして、ヨブたちの論争を注意深く傾聴していました。その結果、両者に対して激しい怒りを燃やします。ヨブに対しては、神よりも自分自身を義として、神をないがしろしたからであり、友人たちに対しては、ヨブを罪びとと定めながらも、それを証しすることができず、その弁解として「ヨブに勝てる者は神だけだ(32:13)」と、うそぶいて論争の舞台から撤退したからです。
友人たちが語らず、沈黙したので、いよいよ、エリフが舞台に登場します。エリフは、彼なりの立場からヨブの言う「我は義なり」という主張にも、また友人たちの「災厄は神罰なり」という応報論にも異議を感じていました。
エリフは論者の中では一番年が若いゆえに年長者である論者に忖度して、その発言を控えていたのです。「しかし年長者が知恵深いわけではないし、老人が道理を弁えているわけでもない。(32:9)」のです。「人の中には、確かに霊がある。全能者の息が、人に悟りを与える(32-8)」。年齢は関係ないのです。「だから私(エリフ)は言う『私の言うことを聞いてくれ、私もまた私の意見を述べよう』(32:10)」と。エリフは自分の意見は、全能者の息吹の中から生まれたものだと言いたかったのでしょう。その意見は自分自身の言い分であって、3人の友人たちの言う「応報論」に非ずと主張しているのです。
エリフは論争に加わるにあたって、聖霊に満たされて元気一杯です。「私は語って気分を晴らしたい。唇を開いて応えたい」「私は誰もひいきしない。どんな人にもへつらわない。へつらうことを知らないから、そうでなければ私を造ったお方は今すぐ私を奪い去ろう(32:21~22)」。これからエリフは聖霊に満たされて新しい見方を、だれにも忖度せずに語っていきます。
33章32章では、エリフの経歴と、発言に至った経緯が語られました。33章からは、エリフの弁論が始まります。エリフは発言を前にして3章:言います。「神の霊が私を送り、全能者の息が私に命を与える(33:4)」と。私のことばには、真実と清さがあると主張しています。神の代弁者のごとく考えています。そしてヨブに言う。「(私を神と考えて、)私の前に立て。そして、私に返事をせよ(33:5)」と。あなたは次のように言う。「我は義なり、それなのに神は私を責める口実を見つけ、私を敵のように見なされる。神は私に枷をはめ、私の歩みをことごとく見張る(34:8~11)」と。これに対してエリフは応えます。「このことであなたは正しくない。神は人より偉大だから」と。「なぜあなたは神と言い争うのか」、「神が、自分のことばに沈黙を守っているからと言って」。
ここからエリフは神の沈黙の意味を語っていきます。「沈黙は空に非ず」だからです。神は自分なりの方法(ある方法、ほかの方法)で語られるが、人はそれに気付かないだけなのです。エリフは神の啓示について述べていきます。それは夜の幻や、夢の中や、深い眠りや、寝床の中でまどろむとき等々、神は人の耳を開き警告として語られるのです。神は恐ろしい姿で人に近づき人を怯えさせるのです。神は人に畏敬の念を抱かせ、悪いわざを取り除くのです。このようにして、神は人から高ぶりを遠ざけるのです。
神は人に対して2つの方法で救いの御業を行われます。
1,「神は人の魂が黄泉の穴に入らないようにし、その命が槍で滅びないようにされる(33:18)」
2,神は人を床で痛みによって責め、その骨の多くを痺れさせるのです。その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる」。その魂は黄泉の国に近づき死は目前にあるのです。もし、一人のみ使いが現れ、その人に代わってその正しさを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで、「彼を救って、黄泉の国に下っていかないようにせよと仰せられる。彼は、災厄以前の昔の姿を取り戻す。「彼が神に祈ると受け入れられる。彼は喜んで御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。「一人のみ使い」とはイエス・キリストをイメージしています。キリストは人に代わって十字架にかけられたのです。人の罪を贖ったのです。
ヨブの3人の友人がヨブの苦しみを「災厄は神罰なり」と見做すのに対して、エリフは、ヨブの災厄を「神の懲らしめ、訓練である」と考えています。ヨブが罪の中にいて滅びに至ることがないように、苦しみを与え、肉体の痛みを通じて神に立ちかえるようにしてくださる、のです。教育的効果を狙っています。この考えは、それ自体は正しくても(へブル書Ⅰ2:5~6参照)、ヨブにとっては正しくありません。ヨブは、前に述べたように既に救われているからです。しかしこれは神のみが知ることであり、ヨブもエリフも知らないことなのです。
エリフの弁論を読むとき、気を付けなければならないことは、これはあくまでもエリフの考えであり、必ずしも神の霊に導かれて語ってはいないということです。それゆえ、正しいこともあれば過ちもあるのです。
エリフは言います。「彼(ヨブ)は人々を見つめて言う『私は罪を犯して正しいことを曲げた。しかし神は私のようではなかった。神はわたしのたましいを贖って、黄泉の国に下らせず、わたしの魂は光を見ると』「見よ。神はこれらすべてのことを二度も三度も人に対して行われる。人の魂を黄泉の穴から引き戻し、命の光で照らされる。神は忍耐をもって何度も何度も私たちに語り掛けられます。それほどに私たちを愛しておられるのです。一度語って振り向きがなければあきらめるような方ではありません。
31~33節までは、律法から信仰への転換が語られています。
エリフは高飛車にヨブに語ります。ヨブたちに忖度して自分の発言の順番を待っていた敬虔な姿はそこにはありません。神のごとく「ヨブよー」と命令します。「もし言い分があるなら私に言ってみよ。あなたの正しいことを示して欲しいからだ、それが出来ないなら、私に聞け、私がその知恵を教えよう」。「あなたの正しいこと」とは律法のことであり、「その知恵」とは主イエス・キリストへの信仰を現します。「それが出来ないなら」は律法の否定です。確かにヨブは痛みを通して、もっと神に近づくことが出来るし、代言者イエス・キリストの働きをもっと深く知ることが出来るでしょう。
34章:前にも書きましたが、エリフのことばには、正しいものもあれば、偽りもあります。我々はそれを見分ける知恵を持たねばなりません。
エリフは知恵のある人々、知識のある人々に語り掛けて言います。「口が食物の味を知るように、耳は言葉を聞き分ける」「さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見極めよう」と。
同じように、私たちもエリフがヨブのことばとして引用した言葉の真偽を見極める知恵が必要です。
それを挙げると
1、「私(ヨブ)は正しい。神が私の正義を取り去った。私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は治まらない(34:5-6)」。友人たちの攻撃、神のヨブに対する無視など、ヨブの心に打ち込まれた矢傷は癒えていないのです。
 2,「彼(ヨブ)はあざけりを水のように飲む(34:7)」。
 3,ヨブは、「不法を行うものと良く交わり、悪人たちと共に歩んだ(34:8)」。
 4,ヨブは言う「神と親しんでも、それは人に役に立たない(34:9)」と。
1は正しい。2~4は偽りです。ヨブのことばではありません。
 いずれにしても、ヨブが神の仕打ち(神がヨブに与えた災厄)に対して不満を感じていたことは事実です。
エリフはヨブの不満(罪)を、二つに分類しています。
一つ目は、「私は正しい、神が私の正義を取り去った(34:5)」というものです。われは義なり、それなのになぜ私は苦しまねばならないのか、という不満です。二つ目は「神と親しんでも、それは人の役には立たない(34:9)」と言うものです。神と友になっても何一つ良いことはない。その証拠に神に義なる私に災厄が与えたではないかとヨブは不満を語ります。しかし、これは、あくまでもエリフのヨブに対する見解です。
エリフはヨブのことばとして上記2~4の行為と言葉を、神を汚すものとして挙げています。しかし、これらは先に述べたように偽りです。述べていません。エリフはこの偽りのことばを、ヨブのことばと見做して自説を展開していきます。
エリフは、ヨブの示したと思われる2つの不満(罪)に対して、それを事実として、分別ある人々に対して、自説を展開していきます。
「神が悪を行うなど、全能者が不正を行うなど、絶対にそういうことはない。神は、人の行いをその身に報い、人にそれぞれ自分の道を見つけるようにされる(34:10~11)」と。エリフは、神(全能者)は罪のない絶対者であると、ヨブのことばを否定します。エリフの言うこのことば自身には誤りはありません。しかしヨブの語っていないことを前提としている限り、このことばは偽りです。前にも述べたようにエリフのことばはその真偽を正しく判断する知恵が必要です。一般論としては正しくとも、ヨブ個人に対しては誤りであることが、エリフの文章には散見しています。
「誰が、この地に神をゆだねたのか、誰が全世界を神に任せたのか(34:14)」。神の主権が語られています。そして、もしもこの主権者である「神がご自分だけに心を留め、その息と霊とをご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え人は塵に帰る(34:14~15)」のです。と、エリフは述べています。神がその霊と息とをヨブに注ぎ、ご自分に心をとどめたなら、すべての肉なるものは生まれる前の塵に帰る、というのです。神の絶対性と、人の相対性(従属性)が語られています。
34章の16節から呼びかけはあなたがた(分別ある人)から、あなた(ヨブ)に代わります。それにもかかわらず、34節までヨブの名前は出て来ません。ということは、ここに登場する「王」「高貴な人」を「ヨブ」と呼び変える知恵が必要となります。エリフはヨブに言います。「あなたに悟りがあるならこれを聞け」と。「公義を憎む者が、(民)を治めることが出来るか、正しく力あるものをあなたは罪に定めることが出来ようか。人が王に向かって『よこしまな者』と言い、高貴な人に向かって「悪魔」と言えるだろうか(34:17~18)」と。地上の高貴な人を非難することでさえ、憚れることなのに、ましてや、力ある神を非難するとは何事か、とエリフはヨブを怒ります。「人」とは災厄以前にヨブの共同体に所属していた人をさします。彼らはヨブを敬愛し、尊敬し、親愛の情を示していました。なぜならヨブは彼らに対して、えこひいきをすることのない公正な人物だったからです。そして彼の行動は、「神の手の御業」に導かれていたのです。この義なる人ヨブに突然災厄が訪れたのです。舞台は光から闇に暗転します。これがヨブの被った災厄だったのです。「彼らは真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらず取り去られる(34:20)」「神の御目が人の道の上にあり、そのすべてを見ておられるからだ。不法を行う者どもの身を隠せるような、闇もなく暗黒もない」。神の御業で行われたすべてが、神によって否定されるのです。神による自己否定です。そのようなことがあり得ないならば、ここにエリフの言葉の自己矛盾があります。一方では善なる人が栄え、他方ではその同じ人が罪びととなる。善なる人の中にも罪が隠れている、ヨブよ、それを神に問え。そしてそれを知って、その罪を贖え(34:31~32参照)、そうすれば赦されると、エリフは言います。応報論を否定するエリフ自身が応報論に陥っています。ヨブは不条理な災厄に「我は義なり」と抵抗します。エリフは、応えて言います。「彼のことばには思慮がない」と。そして「彼は自分の罪に背きの罪を加え私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする」と。エリフもまたヨブを罪に定めています。ヨブは孤独です。                
        
令和3年12月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

     



ヨブ記8章 30~31章

2022年06月04日 | Weblog
ヨブ記8 30章~31章
はじめに:ビルダテの登場をもってヨブと友人たちの論争は終わりました。ここで生じる素朴な疑問は、エリファズとビルダデの2人は3度登場するのにツオファルだけは2度しか登場していないのは、なぜかということです。1回足りないのです。そこで27章を2つに分けて1~6節をヨブ、7~23節をツオファルと主張する聖書学者もいます。確かにその部分は、ツオファルの考えと似ています。しかし私は聖書に忠実でありたいと思います。聖書は完璧な書だからです。しかし、では、なぜ2回なのかという疑問は残ります。おそらくツオファルにはヨブと争う意思も気力も失ったからだと考えられます。ヨブは友人たちの根拠のない告発に対して、理屈をもって応答するのではなく。神への誓いをもって「無実の立証」を行っています(31章参照)。それゆえ、ツオファルはヨブとの論争に敗北を認めたのです。不戦敗です。
30章:厳しすぎる現実: 29章でヨブは「昔日のごとくであれば良かったのに」と、かつての繁栄を語りました。この章(30章)ではそれらの日々と、今の境遇の落差を嘆いています。権威のある存在として、尊敬され、親しまれ、愛されていたのに災厄に会い、すべてを失い身は崩れ、醜い姿に変わった時、人々の反応は厳しいものだったのです。その態度を180度転換させたのです。ヨブより若い世代はそんなヨブを見てあざ笑ったのです。「彼らの父は、私(ヨブ)が軽く見て、私の群れの番犬と一緒にさえしなかったものだったのです(30:1)」とヨブは述べています。彼らは社会からはじき出され、住むところを持たず、谷の斜面や土や岩の穴に住み、藪の中でつぶやき、イラクサの下に群がっていたのです。彼らは、痴れ者の子たち、つまらぬものの子らで、国から、むちで叩きだされた敗残者であり、ヨブがかつて、面倒を見ていた者たちだったのです。「それなのに、今や私は彼らのあざけりの歌となり、その笑い種になっている(30:9)」「神が私の綱を解いて、私を卑しめられたので、彼らも私の前で手綱(慎み)を捨てた(30:11)」のです。これが、かつての権力者、富んだ者が落ちぶれたときに示す、世の人の自然の姿なのです。おそらく彼らも「災厄は神罰なり」と思っていたのでしょう。これは人の罪です。ヨブは何の罪もないのに罪びととされたのです。「彼らはわたしを忌み嫌い、私から遠ざかって、私の顔に情け容赦もなく、唾を吐きかける(30:10)」。正しきものが苦難を受ける。これはイエス・キリストの姿と重なります。「彼らは私の右に立ち私に向かって滅びの道を推し進め、今やそれを押しとどめる者はいない」それゆえに、「恐怖が私に降りかかり私の威厳をあの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った(30:15)」「私があなたに向かって呼ばわってもあなたはお答えになられない。私が立っていてもあなたは顧みられない(30:20)」とヨブは、不条理な災厄を恨みます。ヨブは四面楚歌の中、孤独地獄に苦しめられています。
ヨブは肉と心の痛みに苦しみます。一つは、肉体の崩れであり、二つ目は不条理な災厄に対する神の沈黙です。この二つはヨブにとっては痛みとして現れます。ここでは主に肉体の痛みに関して述べられています(30:16~31)。「心を自分に注ぐ(30:16)」とは肉体の痛みを指します。ここではヨブが肉体の病によって苦しむ姿が描かれています。その苦しみは激しく、永遠に続くかのようです。ヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならぬのか」と神に問います。「災厄は神罰なり」という応報論には納得できないからです。しかし、神は応答しません。沈黙を続けます。これはヨブにとっての試練なのです。忍耐を持って対処しなければならないのです。神は、この時、ヨブにとっては、残酷な存在以外の何物でもなかったのです。ヨブを攻め立てます。神の意図を推測してヨブは言います。「私は知っています。あなたは私を死に帰らせ、すべての生き物の集まる家(黄泉の国)に帰らせることを(30:23)」と。しかし神はサタンに命じています。「傷つけても、死に至らすな」と、ヨブと死とは無縁なのです。このような死を直前とした限界状況の中で、ヨブは、神に問います「自分は善を行ったのに、なぜ悪が訪れたのか、光を待ち望んだのに、なぜ暗闇が来たのか(30:26)」と。「律法の行いから、神への信仰へと」、という真摯な気持ちを持ちながらも、ヨブはその苦しみゆえにそれに徹することが出来なかったのです。ヨブは、神の沈黙と、友人たちのあざけりに対して怒り、腹わたは煮えくり返り、悩みは募り、嘆き悲しんで、野に生息するジャッカルや駝鳥のようになり、自由を求めて歩き回り、集いの中に立って叫び求めたのです。ヨブは神の支配からのがれようとしたのです。しかし、その望みはかなうわけがなく、当然の報いとして、「私(ヨブ)の皮膚は黒ずんで剥げ落ち、骨は熱で焼けている(30-30)」そして「私の立琴は喪のためになり、私の笛は泣き悲しむ声となった(30-31)」のです、
 このように、ヨブにとっての不条理な災厄はやむことなく続きます。
 31章では、ヨブはその受けた災厄に対し、その不当性を語り、身の潔白を証ししていきます。この章(31章)でヨブのことばは終わります。後にエリフが登場し、その神学を語ります(32-37章)。
 31章:無実の実証(1~40):31章は「潔白の誓い」というヘブライの慣習法に従ってヨブが自分の無実を主張する章です。「潔白の誓い」とは、被告人が証人を得るのが困難な場合に適用されるものであり、証人がいないがゆえに、必ず真実でなければならないのです。後にそれが虚言と判断された時、厳しい罰を受けてもよいという約束のもとに成り立っています。
 今、ヨブにとって必要なことは「災厄は神罰なり」という友人たちの主張を覆して自分の無実を実証すことにあります。この章においてヨブは具体的に自分の潔癖さを証し、していきます。

1、 若い女(1-4):私は自分の目と契約を結んだ。「誰でも情欲をもって女を見る者は、心の中で姦淫を犯しているのです(マタイ5:28)」。ヨブは、この罪から離れていた。
2、 偽り(5-8):正しいはかりで私を測ればよい。そうすれば、私の潔白が証明される。
3、 姦淫(9-12):私の心が女に惑わされたら、私の妻を粉ひきにしてもよい、他人が彼女と寝てもよい。ありえない現実を言う。
4、 不公正(13-15):私がしもべや、はしためと争ったときは、私は権力を使わず、公正に調査しその意見をないがしろにしない。神の前ではすべての人は平等だから。
5、 無慈悲(16-23):私は世の社会的弱者(みなしご、やもめ、貧民など)に対して慈悲の心を忘れたことはない。
6、 富への愛(24-25):私には富に対する欲はない。金銭からも、物からも自由である。
7、 偶像崇拝(26-28):照り輝く日や月の光を見ても、唯一神を忘れて拝んだことはない。
8、 復讐(29-30):私は、自分を憎む者に下される災いを喜んだこともなければ、その命を求めたこともない。
9、 差別(31-32):私は異国の人を差別し、天幕の戸口を閉めることなく開放している。
10、 罪の隠蔽(33):私はアダムのように罪を犯し、それを隠蔽したことはない。
11、 人への恐れ(34):私はピラトのように群衆の怒りを恐れ、自分の意志曲げてイエスに死刑判決を下したような罪は犯してはいない。
12、 神に対する罪(35-40):私に対する告訴状があれば、それを身に着け、全能者に近づきたい。罪咎があるなら、その裁きを受けたい。しかし私の良心は潔白である。着服の罪もない。
 これでヨブのことばは終わった。
3人の友人は口を閉ざします。ヨブに抗弁できなかったのです。
 「主はサタンに仰せられた。『お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいないのだが』(ヨブ記1:8)」と。このようにヨブは最初から救われており、目に見える形をとって「無実の立証」を行ったのです。
令和3年12月7日(火)報告者 守武 戢 楽庵会
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ヨブ記7 25~29章

2022年06月03日 | Weblog
ヨブ記7 25章~29章
はじめに:これから25章以下を読んでいきます。25章はシュア人ビルダデの3度目の登場です。わずか6節の短い文章です。この章でヨブと3人の会話は終わります。両者の間にあったのは平行線です。ヨブは「我は義なり」と主張し、3人の友人たちは「災厄は神罰なり」とその応報論を変えようとはしません。ヨブはもはや友人たちの神学を自分に対するあざけりと見做し、これを否定します。その目は神に向かいます。しかし神は沈黙を貫きます。この後、ヨブの長い独白(27~31章)が続きます。ヨブは神への誓いをもって、友人たちに「我が身の潔白」を主張します。「我に罪あればそれを知らせよ」と神に訴えます。3人の友人たちは、ヨブの罪を数え上げました。しかしそれはヨブにとっては身に覚えのないものだったのです。ヨブの独白の後、若きエリフが登場します。彼は3人の友人たちとは別の角度からヨブを責めます。最後に神が登場してめでたしめでたしです。
沈黙は空白ではありません。沈黙によって神はその痛みを分け合う(義人に災厄を与えたことを指す)気持ちや、愛を込めることが出来るのです。そして、それは相手に伝わるものなのです。黙っていても、相手に伝える感情を大切にすることが、相手の気持ちを尊重することになるのです。それが証拠にヨブは言います。「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10B)」と。そして、その唇をもって罪を犯さなかったのです。ヨブは神の沈黙の中にその意思を読み取っていたのです。神が、痛みを分け合うには、痛む心の近くにいることが必要です。神は、永遠に、痛みを分け合った者(ヨブ)に寄り添い、慰め、励まし、その苦しみを共にし、見守っておられるのです。神はわれと共にあり。

25章:シュアハ人ビルダデの登場
 「聖書」における「ヨブ記」の存在価値とは何か。そのことを25章のビルダデのことばと、26章のヨブのことばを通して探ってみたいと思います。結論を先に言えば、ヨブ記の存在価値は「キリストの出現」を予定していることの中にあります。
25章はわずか6節からなる短い文章です。
その主張は、神と人との2元論です。その間の断絶を語ります。「主権と恐れは神のもの、神はその高き所で平和を作る。その軍勢の数ほどのものが、ほかにあろうか、その光に照らされない者が、ほかにあろうか(25:2~3)」。
人はどうして神の前に正しくあり得ようか。女から生まれたものが、どうして清くあり得ようか。ああ、神の目には、月さえも輝きがなく、星も清くない。まして人間は蛆虫で、人の子は虫けらだ(25:4~6)」。前半は神について、後半は人について語っています。
この考えの基本は、グノーシス主義です。人間やその他の物質は、基本的には、悪であり、汚れているのです。人は蛆虫であり、虫けらなのです。神は光であるから、そのような世界には介入しないのです。それゆえ光であるイエスは、肉体(汚れ)を宿しているのではなく、実態を持たない仮像に過ぎないのです。神であるキリストは人であってはならないのです。三位一体の神(父と子と聖霊)は否定されます。
主キリストがお生まれになった時、「インマニュエル」と呼ばれました。「神は、我らと共にあり」という意味です。主はわれらと離れた存在ではなく、常に共にいる存在です。ビルダデの言うように主は単に人に対して超越的な存在ではなく、慈愛に満ち満ちておられます。人は、罪びとであっても、決して蛆虫でもなければ、虫けらでもないのです。ビルダデのように、ヨブの受けた災厄を神罰とみなすのは、神の御業を否定することになるのです。主の本質は、愛だからです。主は良いお方です。
26章:ヨブはビルダデに言います。「あなたは無力の者をどのようにして助けたか、力のない腕をどのように救ったか、知恵の無い者をどのようにいさめ、豊かな優れた知性を示したのか。あなたは誰に対してことばを告げているのか、だれの息があなたから出たのか(26:3~4)」と。無力な者、力のない腕、知恵の無い者とは、ヨブ自身を指しています。ヨブ自身が彼らのことばを代弁しているのです。その私(ヨブ)に対してあなたがたはどのような豊かな、優れた知性を示されましたか、と皮肉を込めてヨブは苦言を呈します。そしてあなたのことば(知恵)は神から出たものでなく、あなた自身の知恵(独りよがり)ではないかとあざ笑っているのです。その証拠にあなたがたの知恵など何一つ私には役には立っていないと、ヨブはその知恵の浅薄さを処断しているのです。神の叡智に較べれば、あなたの知恵など取るに足りないほど小さなものだと語っているのです。
この後、ヨブは、人の知恵に較べて極めて大きな創造主の御業と摂理について語っていきます。創造主の御業を見て探求するとき創造主の無限の叡智、豊かさ、深さを知ることが出来ます。創造主は、宇宙を創造し、その一環として地球を創造されました。
3000年以上も前に、ガリレオもニュートンも存在していなかった昔に、ヨブが宇宙の摂理を知っていたことは驚くべきことです。地球は宇宙空間に浮いており(26:7)、地軸は傾いており、さらに球体であること(26:10)を知る叡智を、また、神に敵対する「海」「ラハブ(海獣)」「逃げる蛇」を神は収めていることを知る智慧をヨブは持っていたのです。
しかし、これだけでも神の万能性を知るに十分なのに、これは神の外側の理解に過ぎないのです。外側があるということは内側があるということです。それこそ、愛であり親しみです。人はこんな神を敬慕し、信仰します。これはイエスキリストの出現によって完成します。イエス・キリストはヨブの時代には存在していません。しかし、メシアとしては存在しています。「アバ父よ」と親しまれ愛されている存在です。
先にも述べましたが、聖書における「ヨブ記の存在意義」とはキリストの存在を予定していたことです。
27章:ヨブは確固とした信念をもって「我は義なり」と叫びます。それは神も認めていたことなのです。だからヨブの受けた災厄は、彼にとっては、不条理なものだったのです。だから、彼はなぜ、なぜと問い続けたのです。それにもかかわらず神に対する信仰をヨブは捨てませんでした。ヨブの主張から学ぶべきことは「ゆるぎなさ」です。
1、良心による誓い(27:1~7):ヨブはまた自分の格言を取り上げて言った。
ヨブの格言的主張:へブル詩特有の美しい修辞法である「パラレリズム」を通してヨブの主張を見ていきたいと思います。ちなみに、パラレリズムには3つのパターンがあります。
① 同義的パラレリズム:ある文節と同じ意味する内容を、別の語彙を使って言い表します。
② 反意的パラレリズム:ある文節とは反対の意味の内容を次節で言い表します。
③ 総合的パラレリズム:ある文節を次節ではそれを補足する形で言いあらわします。
27章2~7節の個所では「同義的パラレリズム」と「総合的パラレリズム」が使われています。以下にその例文を挙げます。
1,同義的パラレリズム
2節;私の権利を取り去った神
   私のたましいを苦しめた全能者を指して誓う
   神=全能者
 「私の権利を取り去った」、とは、自分の潔白さを訴える権利が神から与えられていたとしても、それに対する神の沈黙は、その権利が取り去られたのと同じことで、それがヨブの魂を苦しめているのです。
3節:私の息が私のうちにあり
   神の霊が私の鼻にある限り
   息=霊
4節:私の唇は不正を言わず
私の舌は決して欺きを告げない
唇=舌
不正=欺き
 7節:私の敵は不正をするようなものになれ
    私に立ち向かうものは、よこしまな者のようになれ
    私の敵=私に立ち向かう者
    不正=よこしま
 2、総合的パラレリズム
    5節:あなたがたを義と認めることは、私には絶対に出来ない
       私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。
  友人を義と認めることは自分の罪を認めることになる。
    6節:私は自分の義を堅く保って、手放さない
       私の良心は生涯私を責めはしない
反意的パラレリズムの例文は27章には出て来ません。
「私は、神に誓って言う。私は息絶えるまで、自分の潔白を主張する。それゆえ、私を罪に定めようとする、あなたがた3人の義を認めることは決して出来ない」、あなたたちこそ私には敵であり、よこしまな者たちである」。  3人の友は、今や、ヨブの敵にまでなり下がったのです。
格言:深い経験を踏まえ、簡潔に表現した戒めのことば、金言、箴言を云う。ヨブが神への誓いをもって語ったのでこの言葉が使われた。
2,聞かれない叫び(27:8~12):そんな人を神は顧みられない。彼らが苦しんでも、彼らの声を神は聞かれない。「私は、神のみ手にあるものを、すべてあなたがたに教えた。それにもかかわらず、なぜあなたがたはそれを悟らず、空しいことを言うのか」と、ヨブに対する無理解を暴き立てます。
3、相続財産(27:13~23):悪人は罰せられ裁かれても、子孫ややもめにまでは害は及ばない。富者の蓄えた財は、正しい罪のない者が引き継ぎ、富者が自ら建てた家に寝ても、目を覚ませば、その家は取り払われている。恐怖が彼らを襲い、御手からのがれようとするが、東風(神)が彼を吹き払う。人々は彼に向かって手をたたき、彼をあざけって、そのいるところから追い払う。その限りにおいて因果応報論は正しい。悪人は滅ぼされる。しかし私は違う。私は悪人ではない。「我は義なり」。
28章:次にヨブは「知恵」と「悟り」について語ります。
「知恵はどこから見出されるか、悟りのあるところはどこか(28:12)」。
これがこの章の中心課題です。
ヨブによる神の「知恵」と「悟り」を得ることの学びが、鉱石(金、銀、銅、鉄、しまめのう、サファイヤ、水晶、トパーズ等)を得るために地中深く穴を掘っていくことに例えられています。単に掘り出すだけでなく、掘り出されたものを純化するために製錬することも言及されています。その価値の高さと、それを得ることの難しさも併せて述べられています。
人はこの世では貴重な宝(知恵と悟り)を、見出すことが出来ないからです。いかなる宝石も尊すぎてそれと比較することが出来ないのです。
「では知恵はどこから来るのか、悟りのあるところはどこか(28:20)」。それは地上のすべての生き物には隠されていて、うわさに聞いているのみなのす。そして神のみがそれをわきまえておられ、そのある所を知っておられるのです。その時、神は知恵を見て、これを見積り、これを定めて、調べ上げられた。こうして、神は人に仰せられた。「見よ、主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである(28:28)」と。「主を恐れることは「主を信じる」ことと同義であり、これが「知恵」だと神が語っています。また「悪から離れる」ためには、神にとって何が良いことであり、何が悪いことかを識別できる能力がなければなりません。これが「悟り」だと神は語っているのです。神こそ「知恵」と「悟り」の源泉なのです。
29章:ヨブはまた自分の格言を取り上げて言います。「ああ、できれば昔日のごとくであればよいのに」と。昔日とは災厄以前の神に守られていた日々を指しています。この時、ヨブは一つの共同体の長(首長)であり、政治、経済、福祉、風俗などのすべての分野を統治していました。その統治は知恵と悟りに導かれており、神の前で何一つ恥ずかしくないものだったのです。ヨブは全能者と共にあり、悪者に対しては威厳をもって、これを厳しくさばき、さらに、貧しき者、みなし児、やもめ、障碍者などには手を差し伸べてこれを助けるなど、弱き者の父となり、民に対するより良き統治と福祉に努めていたのです。それゆえ、その信用は厚く、慕われ、その言葉に逆らうものはなく、逆にその言葉は日照りの時の雨のように待ち望まれていました。当然、この共同体が子々孫々までに伝えられ、その栄光が、日々新しくなることをヨブは期待していたのです。このとき、ヨブに災厄が訪れ、この素晴らしい共同体が破壊されると、だれが想定できたでしょうか。
ヨブは言います。「私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆くものを慰める者のようであった(29:25)」と。
ヨブは偉大な権威者であり、さらに穏やかで優しい、嘆くものを慰める存在でした。やさしさに満ち「アバ父よ」と呼ばれるに値する人であり、これがヨブの自負心だったのです。その彼に不条理な災厄が訪れたのです。
>令和3年11月9日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会




























ヨブ記6 21~24章

2022年05月29日 | Weblog
ヨブ記6 21章~24章
 はじめに
 神の支配は、人の世界を含め、自然界と宇宙の秩序の維持にまで及んでいます。その中で人は。創世記に見られるように生物界の支配を神によって許されました(創世記:1:26)。しかし、その統治において失敗しています。その統治は神の支配のもと、限定的に行われているにすぎません。
 人の世界の周りには外部世界(天体、気象、野生動物等々)と、内部世界とがあります。外部世界は神の領域であり、内部世界のみが人の領域です。
 外部世界の一つに野生動物の世界があります。本来なら人の支配すべき領域ですが、その支配に失敗しています。神の支配領域に移されたのです。
 野生動物の生態、種の保存の仕組みを見る時、生物界の生の秩序維持とはいかなるものかを知ることが出来ます。そこには道徳はありません。弱肉強食の世界です。それが彼らの秩序なのです。しかし、バランスは保たれています。循環型の世界を形作っています。獅子も狼もその最低必要限度以上のものを食することはありません。その食欲は限定的です。彼らはこのバランスを崩すことは自然の秩序の崩壊につながると本能的に理解しているのです。人も弱肉強食の世界に生きています。犠牲動物(牛、豚、鳥、魚等々)の存在なしには、生きていけません。神がこの道徳の無い弱肉強食の世界を支配しておられるのです。これが神の摂理です。
 しかし、人の欲望は野生動物とは異なって、その欲望には限度がありません。神の統治に反逆しています。この反逆は人の内部世界にも及んでいます。悪者(強者)は安らかにその生を享受しています。何の苦しみもなく黄泉に下るのです。これが人の現実生活なのです。善は栄、悪は滅ぶという応報論に対して、ヨブは反論するのです。神に対して潔癖であり、義なる自分が、なぜ滅びの際に立たなければならないのか。神に問うているのです。
 21章、 3人の友の神学は、ヨブにとっては彼の疑問に対する無益なあざけりにすぎません。それゆえ、彼の目は神に向きます。「なぜ」と問います。しかし、神からの応答はありません。ヨブはいらだちます(21:4参照)。神のヨブの肉体に対する攻撃はやみません。ヨブは恐れ、悲しみ、おののきます。
 ヨブ記の記す「悪者」とは、現実社会の「犯罪者」ではありません。神を敬わない者たちです。その神を敬わない者たちが、この世を謳歌し、支配し、幸せのうちにその生を全うしているのです。この姿は数千年の昔から続き、さらにこれからも続くと思われます。友人たちが言うように「悪者」の繁栄は、決して「束の間」ではないのです。このことは、逆に言えば、正しい信仰者が虐げられているということを意味します。これがヨブの生きた時代だけでなくすべての時代に当てはまる弱肉強食の現実です。彼らは、神に対して言います「私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者が何者なので私たちは彼に仕えなければならないのか。私たちが祈って、どんな利益があるのか(21:14~15)」と。これは神に対する高ぶりです。神の最も嫌われることです。悪人の神に対する自信です。人は神を必要としていません。神から離れて自立しています。これは「応報論」に対する反論です。ここには正しいものが受ける災厄が語られています。しかし正しいものが受ける災厄は神の御業なのです。「神の杖は彼らの上には下されないのです(21:9)」。このように、正しいものが受ける災厄は救済のために通らねばならない道なのです。迫害のあるところ聖霊ありです。
 次に「聖霊」の働きが語られます。聖霊は、悪人を無罪放免にはしません。「見よ。彼らの繁栄はその手にはない。幾たび、悪者の火が消え、災いが彼らの上に下り、神が怒って彼らに滅びを与えることか(21:16~17)」。このように神は最終的には悪者を滅ぼし、正しい者に恵みを与えるのです。正しい者は元気盛りの時に平穏のうちに死に、悪しきものは、苦悩のもとに死に、何の幸いも味あうことはありません。彼らは「ともに塵に伏し、蛆が彼らを覆うのです(21:26)」。悪人も善人も人は、共に生まれた場所:塵に帰るのです。
 ヨブは言います「ああ、私はあなたがたの計画を知っている。私を損なおうとするたくらみを(21:27)」。ヨブは3人の友人を全く信用していません。彼らは、ヨブを神の前に出してその罪を認めさせようとする告訴人です。
 彼らは「権門の家、悪人の住んだ天幕はどこにあるのか」とヨブに問います。この両者はともに悪者の家を象徴しています。そしてこれらの存在はありえないと、いうのです。応報論によれば「悪者の繁栄は束の間に過ぎない」からです。ヨブは反論します。「彼らは厳然として存在しており、そこの住民は、その罪を逃れている」と。彼らは力のある権力者であり、面と向ってその罪に報いる者がいるだろうか」と。それがヨブの生きた時代の現実なのです。いや、現代までも続いています。悪者の繁栄は、決して束の間ではないのです。その墓は壮麗であり、高価な埋葬品にあふれています。死者にとって住みやすく、盗掘を恐れて見張り人がたつほどです。彼らの後を継ぐ者の数は後を絶たない、と悪者の繁栄を語っています。悪者が栄え、正しいものが滅びる現実を示し、友人たちの応報論の甘さを指摘し、自分に対する警告を見当違いと拒否するのです。ここにはヨブの生きた時代の、神と友人とヨブの相関関係が示されています。
 22章:今回はエリファズが登場します。
 ヨブはこれまで一貫として自分の潔白を主張し続けてきました。この章はそれに対するエリファズの応答です。その趣旨は、次のようなものです。神は人と較べたとき、とてつもなく大きな存在です。だからその神と比較して極めて小さな存在であるヨブがどんなに自分の正しさを主張したところで、神にとって何一つ益にならない、というのです。小さすぎて気づかれることもないというのです。神と人との断絶を語っています。ヨブを含めて3人の友人は、天上における神とサタンとの会話を知りません。ヨブは神も認める義人なのです。ヨブが自分の潔白を主張したのは、「なぜ、義なる自分が苦しまねばならないのか」と神に問うことにあったのです。悪人は、その罪ゆえに苦しみます(エリファズの主張)。しかし善人もまた苦しむことがあるのです。試練とは喜びであり信仰が試されているのです。これがヨブ記の主張です。神はヨブに試練として苦しみを与えたのです。神は、ヨブが「いかなることが、あろうとも、耐え抜く、義人であり続けて欲しい」と、心から願っていたのです。そこにはヨブに対する愛がありました。エリファズの考えとは全く逆です。神の真意を知らないまま、ヨブは、神に疑いを持ちつつも、その信念を貫きます。しかし、エリファズは、「あなたが裁かれるのはあなたの犯した罪ゆえではないか」と、ヨブを責め、悔い改めを要求します。相も変らぬ応報論です。
 そのうえでヨブの罪状を列挙します(22:6~9)。その結果、あなたは罰せられているのだ、とヨブを謗ります。
 友人たちの考え方は「因果応報論」という一つの「型」に凝り固まっており、その枠から抜け出ることはなかったのです。その考えの基本は「苦難は、悪しき行いに対する神罰である」という信念でした。それは必ずしも過ちではありません。ある種の人には当てはまっても、普遍性は持ちません。勿論ヨブにも当てはまりません。しかし、彼らが必要としたことは、どうしたらヨブを罪に定め、悔い改めに導くか、ということだけでした。ヨブの言う「我は義なり」という主張に寄り添い、共に立ち、語り合うという柔軟性に欠けていました。また、ヨブも彼らとの論争をあきらめ、直ちに神に目を向けるのではなく、彼らに気づきを与え、共通の価値観を探し出し、友人たちの心の向きを正しい方向へと変えていく努力が必要だったのです。しかし両者は、その知恵に欠けていました。お互いがお互いの主張を繰り返すだけでした。これではいつまでたっても平行線です。神はヨブの呼びかけには沈黙をもって応えます。
 エリファズはヨブの言葉として次のように述べます。「天(神)と地(人)の境には濃い雲が覆っているので神は地上を見ることが出来ず(2:13)、地上では人は神を見ることが出来ない(22:14)」と。ヨブは神と人との間には断絶があると言い、それゆえ神は私(ヨブ)の苦しみを理解できず、私(ヨブ)は神の意図を理解できない、と。しかしエリファズはそれをヨブの神に対する高ぶりと判断し、昔からの悪人が行った神を侮辱する道を踏襲しているのではないか(2:15)と、主張します。そのような悪人は、束の間の繁栄を享受しても、結局は滅びるのだとヨブの栄枯盛衰を語ります(22:16)。
 悪人たちは言う「私たちから離れよ、全能者が私たちに何ができようか(22:17)」と。このような神に対する高ぶり、侮辱に対して、神は、彼らの家を良いもので満たされた。だが悪者の図り事は私と何の関係もない(2:18)」。神に逆らうものの家が富で満たされている事実を示して、あなたは応報論に反論する。しかし、あなたは自らを省みよ。「彼らの財産は、確かに無に帰し、残ったものは火でなめ尽くされ(22:19~20)」たではないか。と、応報論の正しさを強調します。
 このような神学を前提としてエリファズは強調します。「神と和解せよ」と「そうすれば平和が訪れ、幸いが来よう」と。
 ヨブは、人は、結局は罪びとであると強調します。21章では悪人の繁栄が語られて、善人の苦しむ姿が示されます。応報論の基礎には、律法があります。律法を犯す者は悪人であり、守るものは善人です。その境にあるものが悔い改めです。律法は、罪を犯したものは神に裁かれる、という罪と死の法則を語ります。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活の事実により、罪あるものがそのまま救われるという罪と死の法則を超えた新しい法則、命をもたらす霊の法則が出現しました。その生ける神に向かい「アバ、父よ(お父ちゃん)」と親しみを込めて呼ぶ。ここに真の信仰があります。
 23章:23章はエリファズに対するヨブの3度目の応答ですが、この時のヨブは頼りにならないエリファズではなく神に目を向けています。神は、これまでヨブの呼びかけには無視を貫き続けてきました。それで直接に出会い、その真意を悟りたいと思います。
 「今日もまた私は背く心でうめき、私の手は自分の嘆きのために重い(23:2)」。神を思い巡らしつつも、ヨブの感じる不条理な災厄は、神に反逆する思いを生みます。それが、今のヨブのアンビバレント(相反する)な精神状況なのです。精神的、肉体的苦しみは、ヨブの気持ちをなえさせ、ヨブの信仰心を曇らせるのです。
 しかし、彼は神を求めます。神のみ前で自分の訴えを並び立て、言葉の限り討論したい。そして自分の正しさを証明し、さばきを免れたいと願うのです。そして神を求めて前後左右に動きます。しかし、神の姿は見ることは出来ません。相も変わらず神はヨブを無視続けます。「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出てくる(23:10)」。私は金のように純真無垢だとヨブは言いたいのです。そして、私は自分よりも常に神を優先してきたと、その信仰を誇ります。それにもかかわらず、神は私に不条理な災厄を与えた。「しかし、御心は一つである。誰がそれを翻すことが出来ようか。神は心の欲することを行われる。神は私について定めたことを、成し遂げられるからだ。このような多くの定めが神のうちにある(23:13~14)」。こうして神の主権性(超越性)と、不可侵性(神秘性)が示されます。「だから私は神の前でおびえ、これをもって神を畏れているのだ(23:15)」とヨブは述べます。しかし、ヨブは神の真意を知ることは出来ません。神はヨブを無視しているからです。「神を知らずして、神を知る」これこそ真の信仰です。
 この信仰によって、「私は闇によって消されず、彼(神)が暗黒を私の前から消されたからだ(23:17)」と、ヨブは言います。ヨブは自分の罪を否定して、悔い改めを拒否します。
 24章:ヨブはこの章において、この世に起きている不条理について語ります。神がおり神の日があるのになぜ罪びとは罰せられないのか。「なぜ全能者によって時は隠されていないのに、神を知る者たちがその日を見ないのか(24:1)」と、。その矛盾を指摘します。悪人が滅ぼされず、それどころか、その豊かさを享受し、弱者を虐げてはばからない。この例をヨブは多く示します。この現実を神はどう見るかと問うているのです。「人の住む町からは、うめき声が起こり、傷ついた者の魂は助けを求めて叫ぶ、しかし神はそのうめき声に心を留められない(24:12)」。「しかし、神は力をもって、暴虐の者たちを生き延びるようにされる。彼はいのちがあるとは信じられないときにも立ち上がる(24:22)」、「神が彼に安全を与える。それで彼は休むことが出来る。神の目は彼の道の上に注がれる(24:23)。この現実を示すことによって、ヨブは「善は栄、悪は滅ぶ」という応報論に対峙します。神ですら悪に加担し、放置しているのです。神の意図を理解できないヨブは嘆き、怒ります。深い悲しみがあります。応報論を否定するものの、ヨブが神を否定しているわけではありません。悪は否定されねばならないのです(24:24参照)。しかし否定の仕方が違います。応報論の基本は、律法です。律法を超えるものは、キリストへの信仰であり愛です。人間は神の前に罪を犯し、義を損なってきたのです。人は義に飢え渇く存在です。神との関係を深く結ぶことによって、神との正しい関係を結ぶことが出来ます。それは、神自信が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そのために一人子イエス・キリストお遣わしになりました。キリストはご自分の命をもって、私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子として永遠の命をお与えくださったのです。しかし、それは、まだヨブの目には隠されてぃます(24:1)。だからヨブは悩むのです。だから「なぜ」と神に問い続けるのです。
楽庵会

ヨブ記5 16~20章

2022年05月28日 | Weblog
 ヨブ記 5 16章~20章
 はじめに:
 ヨブ記を読む場合避けて通れない問題は、ユダヤ民族と異邦人の関係です。ヨブ記に登場する人物は、ヨブ、3人の友人、エリフとすべての異邦人です。ヨブの住んでいる地(ウズ)も異邦の地です。このようにユダヤ民族の外の世界に『神を義とするもの』が住んでいたのです。当時としては考えられないことが起きていたのです。なぜなら、旧約聖書の世界は基本的には神とユダヤ民族の世界だからです。
 ヨブ記との関連でいえば、ユダヤ人にとっては苦難の人ヨブが、2倍の恵みを回復するという結末は、選民思想に凝り固まり、唯一神の恵みに預かることのできるのは、我が民のみと、神の律法を堅く信じ、行動する彼らにとっては、我慢のならないことなのです。彼らにとっては、律法をないがしろにする異邦人で、かつ罪びとであるヨブは神の怒りに触れたまま滅びゆく存在であって欲しかったのです。
 このように、「ヨブ記」の作者はユダヤ民族の選民思想に真っ向から対立する存在としてヨブを登場させたと言えます。「ヨブ記」は選民思想を相対化し、神の思想をグローバル化する役目を担っているのです。その意味で、ヨブは異邦人を代表する人物であり、異邦人伝道の初穂(先がけ)といって良いでしょう。
 このことは、ユダヤ民族にとっては、危機的事態だったのです。それに対応するために、彼らは自らを他と区別し、輝かせるために、律法を絶対化し、選民思想に閉じ籠るようになったのです。時代が下って初代教会の時代にキリスト教の信者は、この選民思想と対決しました。
 3人の友人は、異邦人でありながら、その神学の根底には律法主義があります。「律法を犯すことは罪である。罪があるから罰がある。悔い改めて神に帰れ」とヨブを諭します。 厳しい現実に接してヨブは「律法による行いか、神への信仰か」と迷いながらも、神に敵対しつつも,その目を友人たちから離れて神を求めます。孤独地獄にさいなまれていたヨブは、神以外には求めるものはいなかったのです。
 16章:エリファズの神学
 16章からヨブと友人たちとの論争は第2ラウンドを迎えます。第2ラウンドに最初に現れたのはエリファズです。その言葉には、1回目の論争と較べて、何一つ新しいことはありません。ヨブを断罪するだけで、悔い改めの呼びかけすらもありません。ヨブはその言葉に絶望します。そして彼らを「煩わしい慰め手だ」と言い「慰める振りをして苦しめるだけだ」とその苦しい心情を吐露します。そして立場を変えて私が、あなたがたの立場に立つなら、「あなたがたと同じように語るであろう」と彼らに一定の理解を示します。「たとえ私が語っても、その痛みは抑えられない、たとえ私が忍んでもどれだけ私からそれ(痛み)が去るだろう」とエリファズの言葉を「むなしいだけの無駄口に過ぎない」と、あざけり、その災厄のもたらす絶望的状態からの解放を願って、友人から、その目を神に向けます。しかし神からの応答はありません。
ヨブは、友人たちとの不毛な論争と、神が与える終わりのない災厄に疲れ果て、その証拠に、やせ衰え、崩れ落ちた自分のからだを示します。ヨブは自分には理解不能な神の怒りは、自分を責めているものと感じています。それは、ヨブにとっては不条理な神の怒りなのです。ヨブは死を予感しています。その体験はキリストの体験に似ています。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜあなたはわたしをお捨てになるのですか」と叫んでいます。「我は義なり」と確信するヨブの気持ちにも通じるものがあります。
 神の善なる意図を読めないヨブには神の行為は、自分の理解を超えた罪に怒りを燃やし「私を引き裂き、私を攻め立て、私に向かって歯ぎしりした。私の敵は私に向かって目をぎらつかせる(16:9)」と述べ「私を小僧っ子(3人の友)に渡し、悪者どもの手に投げ込まれる(16:11)」と、神なさった、その行為の不当性を訴えます。
 そして、かつて、自分は安らかな身であったのに、神はその自分を貶め、災厄に合わせ、今、自分を死の淵に立たしている、とヨブはその境遇の激変を語り、嘆きます。しかし「私の手には暴虐はなく、私の祈りは清い」と神の前で義なる存在であることを訴えます。そして、「今でも天には私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高いところにおられます。そのかたが人のために神にとりなしてくださいますように、人の子がその友のために」人の子(仲介者、天使、キリスト)が、神と自分(ヨブ)との間を仲介してくれることを、ヨブは切に願っているのです。ヨブはその裁きを忌避し、神の本来の性格、愛に期待を寄せたのです。
 17章:ヨブの反論
 「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私のものは墓場だけ(17:1)」と、すべてを奪われ、苦しむヨブは絶望して、自分に残されているものは墓場だけと、その死を予感しています。「しかも、あざける者らが、私と共におり、私の目は彼らの敵意の中で、夜を過ごす」と、3人の友はもはや友には価しない「煩わしい慰め手」に過ぎないのです。それは神が3人を悟ることのない。愚者に定めたからです。ヨブは四面楚歌の中で孤独です。それゆえ、神に救いを求めます。「どうか私を保証する者を、あなたの傍らにおいてください。ほかに誓ってくれるものがありましょうか(17:3)」と。神が応答しないので、ヨブは、その溝を埋めるための仲裁者を、求めたのです。
 「分け前を得るために、友の告げ口をする者、その子らの目は衰えはてる(17:5)」。告げ口をする者とは金貨30枚でキリストを売ったイスカリオテのユダです。その子らとは3人の友です。彼らの目は真実を見ることが出来ないほどに衰え果てています。キリストも同じです。キリストが磔刑にあったとき弟子たちはすべて連座を恐れて逃げ出しました。その信仰心は衰え果てていたのです。キリストが刑場にひかれていくとき、物笑いされ、唾を吐きかけられました。ヨブも同じです。膿と蛆に犯され、崩れ落ちようとする姿を見て人は、何の同情も示さず、物笑いにし、唾を吐きかけました。「私の目は悲しみのためにかすみ、私の体は影のようだ」。ここには、義なるものが災厄に会うこともあるのだということが語られています。
 「正しい者はこのことに驚き、罪のない者は神を敬わない者に向かって憤る」。ヨブは、自己の正当性を主張しています。そして「義人は、自分の道を保ち、手の清い人は、力を増し加える」。と述べます。このようにヨブは自分の正当性を主張したうえで、あなたがたも義人の道に戻ってきなさい、あざける道を捨てて正しい道に帰りなさい。と説得します。ヨブは彼ら3人の中に一人も知恵ある存在を見出すことが出来なかったからです。
 17章の後半から陰府の思想が展開されます。
 「私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも敗れ去った。『夜は昼に変えられ、闇から光が近づく』というが、もし私が陰府を私の住みかとして臨み、闇に私の寝床をのべ、その穴に向かって『お前は私の父だ』と言い蛆に向かって『私の母、姉妹』というのなら、私の望みは一体どこにあるのか。誰が私の望みを見つけよう。陰府の深みに下っても、あるいはともに塵の上に下りて行っても(17:11~16)」と、自分の死を予知しています。
 陰府とは、罪びとが神の怒りからかくまわれ、神と断絶する場所です。そして2度と現実には戻れない場所と考えられています。そんな場所が自分の落ち着く場所であり、終着駅と考えるならば、どこに自分の人生に望みがあるのだろうか、とヨブは絶望します。しかしこの苦闘は決して無駄ではありません。やがて、ヨブは塵の中にも希望があることを見出すのです。大切なのは使徒信条に語られているように、イエス・キリストが私たちの身代わりに、陰府の国に下っておられるという事実を知ることです。たとえ、ヨブに罪があったとしても、その罪は、聖霊によって、あがなわれているのです。
 18章:ビルダデの神学
 第2ラウンドの2番手として登場したのは、シュアハ人のビルダデです。彼はヨブに対して激しく反論します。「あなたがたは慰めるふりをして、人を苦しめる(16:2)」という言葉に対してです。彼の論難が始まります。「私のことばを理解せよ」と、自分たちのことばを理解しようとせず私たちを獣と見做し、愚か者とする。その誤解を解いたうえで話し合おうと、ヨブに迫ります。そして言います「怒りによって自らを引き裂くものよ、あなたのために地が見捨てられ、岩がその場所から移されるであろうか」と。ヨブの言う「我は義なり」という主張に対し、その言葉を、神に逆らう言葉として攻め立てます。この議論も因果応報論です。ヨブは16章で新しい発見をしています。神との関係に希望を見出しています。神は怒りの神であるだけでなく、憐みの神でもあるのです。ヨブはそれを幻の中で体験しています。しかしビルダデはそれを知りません。ヨブの破滅と滅亡の道を示します。その結果として、悔い改めを求めます。 キリストはその贖いによって、罪びとをお許しになっているのです。勿論、この時代にキリストは存在していません。しかし、 神の中に聖霊としてキリストが隠されているのです。新約聖書の時代、そのキリストが人の姿をして神の中から、現れるのです。
 ビルダデのことばは、さらに激しくなります。ヨブに対することばは、もはや諫言を超えた呪いです。慰め手ではなく、迫害者です。しかしヨブは変えられています。「あなたがたを迫害するもののために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません(ロマ書12;14)」と。
19章:ビルダデに対するヨブの反論
 いつまでも同じ論法(因果応報論)で自分に対応する3人の友人に対して,ヨブは絶望して言います「自分の受けている災厄が自分の内なる罪ゆえであるなら、その罪は、聖霊によって、既に贖われており残ってはいない。それなのに神は、罪のない私に災厄を与えておられる(19:4~6)」、その不条理に対して「これは暴虐だと叫んでも正されず、助けを求めても応答はない」。そればかりでなく、私が正しい道を歩もうと欲しても行く手に闇を置いて阻んでおられる。神は私から栄光をはぎ取り、冠を取り去る。そして自分を敵と見做して、私の天幕の周りに陣を敷く」と、ヨブは、一方で神を信じながらも、信じきれない自分に、苦しみます。ヨブは心と体の二つの苦しみの中で悩み、葛藤しています。
 もはや、ヨブの周りには味方はいません。敵ばかりです。かつて、豊かで、健康であった時には、崇め奉り、愛を示していた人々は、その境遇が激変した今、その手の平を返し、あざけり、唾を吐きかけ敵意すら見せます。ヨブは、痩せ衰えています。友人たちに叫びます「私を哀れめ、私を哀れめ、神のみ手が私を打ったからだ。なぜ、あなたがたは、神のように私を追い詰め、私の肉で満足しないのか」と、ヨブは肉だけでなく、心も病んでいるのです。
 ヨブは神の前で「義なる存在」であることのあかしを残したいと思います。「私の真実のことばが、岩の上に書き留められれば良いのに」と。岩は永遠を意味します。永遠に残されることを祈ったのです。永遠なる神と共にありたいと祈ったのです。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日にちりの上に立たれることを(19:25)」と。主が再臨された時、その姿を見ることが出来るであろうと、高らかに宣言します。そして自分を卑しめ、攻撃するものに対して、再臨の主が「剣をもって裁かれるであろう」と、自分の正当性を主張します。そして、すべて(持ち物、体)を失っても、自分の苦しみが報われて、将来的に、神を見、神と共に生きる時がやってくる。その日を、希望をもって待ち望もう、それがヨブの信仰なのです。
 20章:ツオファルの2度目の登場
 「『私の悟りの霊』が私に対する侮辱に応える」と、ヨブの攻撃に対するツオファルの反論が行われます。そしてヨブの罪と罰が語られます。
 「悪者の繁栄は短く、神を敬わない者の楽しみは、つかの間だ」とこのままだと永遠の滅びがあなた(ヨブ)を待ち構えていると、脅します。あなたは陰府の国に堕とされ、その子は貧乏人対しても憐みを請うようになろう。奪われた財産、損なわれた健康を、取り戻そうと望んでも、その実現は空しい」。「飲み込んだものは毒となり、富を飲み込んでも、神はこれを吐かす」。「蜜と凝乳の流れる川を見ることが出来ず、財産を取り戻しても、それを享受できず、商いによって得た富も、楽しめない」。
 さばきは罪ゆえにあるのです。1、寄るべなきものを見捨てた罪、2,他人の建てた家をかすめ取った罪、3、むさぼりの罪。だから満ち足りたと思っていても、その心は貧しい。と、ツオファルは、ヨブを厳しく責めます。
 次にヨブの行った罪に対する神のさばきをツオファルは語ります。勿論それは彼の独断です。のです
1, 空腹を満たそうとしても神はこれを赦さず
2, 鉄の武器を免れても、青銅の弓が彼を射とおす。きらめく矢じりが腹から出て、恐れが彼を襲う。
3, 全ての闇が彼の宝として隠される。それゆえ、怒りの火が天から下って彼を焼き尽くし、生き残っていた家族をも失う。
 このように、「天は彼の罪をあらわし、地は彼に逆らって立つ。彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消え失せる(20:27~28)」。
 「これが、悪者の神からの分け前、神によって定められた相続財産である(20:29)」。分け前とは、その罰をあらわし、相続財産とは、その裁きを現すのです。
 このように、ツオファルは、ヨブが犯したと思われる罪を暴き出し、その神による裁きを述べるのです。それは、相も変らぬ「因果応報論」であって、ヨブには、到底受け入れることのできない神学なのです。 
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ヨブ記4 12~15章

2022年05月25日 | Weblog
 ヨブ記4 12章~15章
 はじめに
 苦難には内から来る苦難と、外から与えられる苦難との2つがあります。ヨブの3人の友人は内からくる苦難を問題にします。しかし、「我は義なり」と確信しながらもヨブは、自分の内に隠された罪があるのではないかと疑い「我に罪があるならそれを悟らせよ」とそのあかしを神に求めます。しかし神からの応答はありません。人は神に応答を強要してはならないのです。それは、神に対する高ぶりだからです。神は応答すべき時には、自発的に応答してくださる方です。ただ、今はその時にあらずと思っておられるのです。ヨブは、自分と神との間に深い溝を感じています。しかし、天上では神はあなた(ヨブ)を信頼しておられるのです。その信仰が試されているのです。ヨブにはそれがわかっていません。
 ヨブの考えは、基本的には因果応報原理に拘束されています。神と人間との間に因果応報原理を超える自発性と自由がなければ、因果応報原理は、必然の法則に化してしまいます。そこでは決定論が支配し、自由な応答関係が神と人間との間に成立することは出来ないのです。ヨブは、その考えを180度転嫁せねばならないのです。我々が神に期待するのではなく、神が我々に期待するものは何かを知らなければならないのです。その結果、ヨブは不条理の苦難の解決は神の側からなされるべきと考え、人間の側からの合理的な解決を拒否します。ヨブは、神と人間の間の溝を埋める仲裁者の存在を待望しますが、その存在の欠如を嘆いています。
 神から切断された人間の魂の、深い苦しみを描いた書が、この「ヨブ記」なのです。
 12章:ヨブは、ツオファルに応えて言った「確かにあなたがたは人だ。あなたがたが死ぬと、知恵も共に死ぬ。私にもあなたがた同様に悟りがある。私はあなたがたに劣らない。たれか、このくらいのことを知らないものがあろうか(12:1-3)」。ヨブは神の智慧の永遠性と、人の知恵の限定性を比べています。「おまえの淺知恵など永遠無限の神の智慧に較べれば、儚いものだ」「その知恵は人の死と共に消え去ってしまう」とあざけるのです。そして「お前の悟りなんか、常識のうちだ」と叫びます。
 そして今の苦しい境遇を呪います。「私は、神を呼び、神が答えてくださったものであるのに、私は自分の友だちの笑いものになっている。潔白で正しいものが物笑いになっている(Ⅰ2:4)」と、かつての強者が、弱者に変わった途端に、その態度を一変させ、物笑いにする、と彼らを呪います。友人たちは、ヨブの受けた災厄を、その罪ゆえであると考えています。彼らは自分たちこそ義なるものなのです。ヨブは罪びとです。彼らはヨブにその罪を認めて神に帰れと要求します。「安らかだと思っているものは、衰えているものをさげすみ、足のよろめくものを、押し倒すⅠ2:5)」と、溺れるものを、杖で叩くような言葉を発する彼らをヨブは呪います。ヨブは自分の苦しい境遇に何一つ同情を寄せることなく、罪びととして厳しく処遇する友人たちに怒りを発しています。「荒らす者の天幕は栄え、神を怒らせる者は安らかである。神がご自身でそうするものは(Ⅰ2:6)」。すべてのことは善も悪も神の主権の範囲内で起こっているのです。「力と、優れた智性とは神と共にあり、誤って罪を犯す者も、迷わす者も神のものだ(Ⅰ2:16)」と、その万能性を示します。「荒らすもの」「神を怒らすもの」を3人の友人と考えることもできますが、世の中の常識と考える方が良いように思います。世の中では罪を犯すものが栄え、神を怒らせるものが安らかに過ごしています。強者は栄え、弱者は滅ぶのです。友人たちの言う「不義なるものは罰せられ、義なるものは恵まれる」という紋切り型の因果応報論は、ここでは、通用しません。そこには因果応報説を超える何かが存在しているのです。
 「獣に、そして空の鳥に尋ねてみよ。そうすれば、彼らが教え、かつ告げるであろう。地に話しかけよ。それがあなたに教えるであろう。海の魚もあなたに語るであろう(Ⅰ2:7~8参照)」。「これらすべてのうち、主のみ手がこれをなさったことを知らないものがあろうか。すべての生き物の命と、すべての人間の息とは、その御手の内にある(12:9~10)」。ヨブはツオファルに自然界を見なさいと問い質しています。そこには自然界を貫く法則があります。それは弱肉強食の世界です。そこは強者が栄え、弱者が滅びる世界です。これは、人の世界でも同じです。因果応報論は通用しません。これが、神がお造りになった世界の現実です。外から与えられる神の世界です。神の主権の中で起こっていることです。このように、動物と人間の命と息は、その御手の中にあるのです。
「口が食べ物の味を知るように、耳は言葉を聞き分けなないだろうか(Ⅰ2:11)、ヨブは友人たちの信仰を問います。そして「老いた者に知恵があり、年のたけたものに英知があるのか(Ⅰ2:12)」と、経験からくる知恵の有効性に疑問を提示します。そしてさらに言います「知恵と力とは神と共にあり、思慮と英知も神のものだ(Ⅰ2:13)」と。全ては神の主権の範囲内で起こっていることであって人の力ではない、と言います。
 そして言います。人の世を覆う弱肉強食の世界も、取り去らねばならないと。世の中において、勢力を持つ人々、すなわち、議官、裁判官、王や祭司たちを滅ぼし、神を敬ない長老や君子たちの闇(秘密)を明かし、光の中に引き出し、これを糺さねばならない、とヨブは言います。かくしてこの国のかしらたちの悟り(力)は、取り除かれ、平等の世界が現れるのです。そして罪びとたちは道の無い荒れ野をさ迷い歩くのです。それは自然界でも同じです。狼が小山羊とともに住み、獅子は草を食む。それはいつ来るのか。ヨブは応えません。それは神のみ心だからです。
13章:13章は2つの部分に分けることが出来ます。
 1,友人たち(あなたがた)に対する部分(13;1~19)
 2,神(あなた)に対する部分(13:20~28)
 ヨブは言います。「あなたがたが述べることは私の知っていることばかりで何の助けにもならない。あなたたちは能無しの藪医者だ」、と突き放し、その目を神に向けます。
 解決不能な問題に出会ったとき、私たちは人に助言を求めるのではなく、その問題を神への祈りに変えて現す必要があります。
 ヨブは、友人たちとの論争を、今自分の抱えている問題には、無益なものと判断して、その目を神に向けます。その神を、彼らはないがしろにしているのです。「あなたがたは、人が人を欺くように、神をも欺こうとするのか(13:7B)」と、ヨブは怒ります。彼らは自分たちを、神のごとくにみなしヨブに接していたのです。それは、神に対する高ぶりです。人は神の代わりは出来ないのです。謙虚でなければならないのです。ヨブは言います「神は威厳をもってあなたたちを罰するであろう(13:11~12参照)」と。
 ヨブは言います「黙れ。私にかかわりあうな。この私が話そう。何が私に降りかかっても構わない(3:13)」と。ヨブは神の怒りが自らに及ぶことを予測しています。「それゆえ、私は自分の肉を自分の歯に乗せ、私の命を私の手に置こう(13:14)」自分の語ることは命がけであることを示します。「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう(13:15)」と神への信仰は確固たるものゆえ、「我は義なり」という主張を認めよと神に訴えます。「神も私の救いとなってくださる。神を敬わない者は神の前に出ることは出来ないから(13:16)」と。この一連のことばは、「主の御名は褒むべきかな」、神の主権に対するヨブの確固たる信仰があらわされています。
 「あなたがたは、私の言い分をよく聞け、私の述べることをあなたがたの耳に入れよ。今、私は訴えを並び立てる。私が義とされることを私は知っている(13:17~18)」と、ヨブは、自分が潔白で、正しいものだと、確信しています。そして「わたしと論争するものは一体だれか、もしあれば、私は黙って息絶えよう(13:19)」と言います。論争するものは友人たちではありません。神です。今まで見えない存在であった神に出会えるだけで、ヨブは満足して、安んじて死ぬことが出来るのです。
 ヨブは友人から神に目を向けます。しかし、あくまでも謙虚です。
 ただ2つのことをしないで下さいと頼みます。2つのこととは
 あなたの手を私の上から遠ざけてください(肉体)。
 あなたの恐ろしさで私を怯えさせないでください(霊)。
と肉体と心の痛みからの解放を願いつつ(13;21)、神へ問いかけます。
「私の罪と不義とはどれほどでしょうか。私のそむきの罪と咎とを私に知らせて下さい」「私は十分に罰せられています、さらに追い詰めるのですか」と。しかし、応答はありません。「なぜあなたは御顔を隠し私をあなたの敵とみなされるのでしょうか(13:23)」。神は、人に何をしようと、良いお方です」なぜ、なぜと問うてはならないのです。ヨブは肉体的にも精神的にも、腐った着物のようになっています。膿と蛆によって汚されています。
14章:ヨブは膿と蛆によって崩れかけた体に耐えながら、人の命について神に問います。それは人の命の儚さです。美しい花として咲き乱れていても、それはあくまでも一時的で、いつか消え去り、やがて死を迎えます。その儚い命に災厄を加えることによってさらに短くするのですかと、とヨブは神に恨み言を云います。「我は義なり」と確信するヨブは「誰が、清い者を、汚れたものから出せましょう。だれも出せません」と、自分の清さを強調します。人の命は神のみ手にあります。「それなら私から目をそらし。かまわないでください。そうすれば、その一時を日雇い人のように楽しむことが出来るのに」肉体と心の痛みからの解放を求めてヨブは神に訴えます。
 そしてヨブは話を自然界に移します。人間界と比較します。木はたとえ枯れても、環境が整えば再生します(14:7~4参照)。しかし、人は再生しません。それでおしまいです。しかし再生への希望を語ります。「人は死ねば生き返るでしょうか、私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう(14:14)」と。「私の代わりの者」とは再生したヨブのことです。ヨブは、自分の復活を神に求めます。キリストが復活したように。キリストは復活の初穂です。ヨブはそれに続くことを希望します。「あなたが呼んで下されば、私は答えます。あなたはご自身の手で造られたものを慕っておられるでしょう。今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎を覆ってください(14:15~17)」と、ヨブは自分の咎を覆い隠せと神に願います。
 しかし、一転してヨブは神の厳しさを語ります。「しかし、山は倒れて崩れ去り、岩もその所から移される。水は石を穿ち、大水は地の泥を押し流す。そのようにあなたは人の望みを絶ち滅ぼされます。あなたはいつまでも人を打ち負かすので、人は過ぎ去っていきます。あなたは彼(ヨブ)の顔を変えて、彼を追いやられます(14:18~20)」と。このように、復活への希望は、消え失せます。
残っているのは、激しい肉体の痛みと、激しい魂の嘆きだけです。
15章: 14章をもって第1ラウンドは終わります。この章から第2ラウンドが始まります。再び、エリファズが登場します。彼の口調は厳しく、悔い改めを要求するというより、ヨブの滅びを宣言します。
 エリファズは、ヨブのことばを中東に吹く激しい東風に例えます。この風は穀物や植物を枯らすだけで何の益ももたらしません。ヨブのことばはそれと同じで激しいだけの暴論(東風)ときめつけます(15:2~3参照)。ヨブの誠実な神への祈りは、彼にとっては、神に対する捨て台詞に過ぎないのです。「あなたは最初に生まれたのか、あなたは丘より先に生み出されたのか、あなたは神の会議にあずかり、神の奥義を独り占めにするのか」と暗にそんなことはあるまいと揶揄し、お前の知っていることなどで我々が知らないことがあると思うか、我々の中には白髪のものも、老いた者もおり、あなたの父よりはるかに年上だ。とその知識の豊富さを誇ります。しかし、霊的な知識の豊富さは経験の多少で決まるものではないのです。
「なぜあなたは理性を失ったのか、なぜあなたの目はぎらつくのか。あなたが神に向かって苛立ち、口からあのような言葉を吐くとは(15:12~15)」と、厳しく責めます。これは身と心に傷を受け、苦しむヨブには厳しすぎる言葉です。同時に、高みから見下ろす態度であり、そこには同情も憐憫の情もありません。友人には、あるまじき言葉です。さらに言います「人がどうして清くあろうか、女から生まれたものが、どうして正しくあり得ようか。見よ。神はご自身の聖なるものたちをも信頼しない。天も神の目には清くない。まして、忌み嫌う汚れた者、不正を水のように飲むもの(ヨブ)は、なおさらだ(Ⅰ5:14~16)」。サタンは堕天使です。天にもサタンはいます。ヨブはこのサタンから災厄を受けたのです。  この限りではこの言葉は正しい。しかし、ヨブは聖なる者です。神は良いお方です。神によって守られています。
 エリファズは言います「私を聞け」と相変わらず高いところからヨブに語り掛けます「私の見たことを告げよう」と「それは知恵あるものが昔から語ったことで神の奥義だ」と。そしてこの知恵あるものにだけこの地は与えられ他国人には与えられない、と言います。他国人とは罪びとを指しヨブのことです。罪びとは一生もだえ苦しむというのです。それは神に逆らったものの当然の報いなのです。そして最後に言います「実に神を敬わない者の仲間には実りがない。わいろを使うものの天幕は火で焼き尽くされる。彼らは害毒をはらみ、悪意を生みその腹は欺きの備えをしている」と。この限りにおいてはヨブには救いはないのです。16章はヨブの反論です。  楽庵会