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日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

イザヤ書Ⅹ25~26章

2023年02月12日 | Weblog
イザヤ書Ⅹ 25~26章
 はじめに:25章からは歌が始まります。大患難時代が終わり、神の国が立てられたときに、つまり主の救いが完成したときに歌う歌です。主は必ず、私たちに「神の国」を与えてくださいます。それがイスラエルに対する神の契約です。(アブラハム契約)神はアブラハムに「汝が我が前に全きものであるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を約束しよう」、と契約しています。その彼方には、「神の国」があります。しかし「神の国」はイスラエルの民にだけでなく、イスラエルを起点として全世界にまで広げられねばなりません。これが、「昔からの神の不思議なご計画(25:1参照)」なのです。主は語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。しかし、これは、未来完了の世界です。あくまでも預言の世界です。キリスト者にとっては、確信をもって、忍耐をもって待ち望む信仰の世界であっても、非キリスト者とっては神話であり幻にすぎません。異邦の民、異教の民(非キリスト者)に対する福音伝道の難しさが、ここにあります。この難しい伝道の仕事に神はサウロ(パウロ)を選んだのです(「使徒の働き」前半9:15)。回心後、彼は異邦伝道の仕事に励みます。その活躍には目覚ましいものがあります。彼は世界の果てローマにまで足を延ばしています((「使徒の働き」後半部分参照)。当時の民にとっては、世界は狭く、ローマは世界の果てだったのです。文明と野蛮、ローマ以外の地は、当時の民にとっては、野蛮の世界だったのです。
 25章:「「主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を忠実に成し遂げられました(25:1)」。このように、25章は、神への賛美、信仰告白で始まっています。イスラエルの民の滅亡と回復は、主なる神が遠い昔からの揺るがない真実をもって行われた「不思議なご計画」だったのです。このご計画は、創世記から黙示録まで、天地の創造から神の国まで、と、神の壮大なご計画を指しています。
成し遂げられました:しかし、この壮大なご計画は、実際には、成し遂げられていません。あくまでも預言であり、未来完了の世界です。キリストの再臨、千年王国、神の国は預言の世界であって、人が確信をもって待ち望む世界です。未だ来ていません。しかし、主は、語られた言葉を必ず成就してくださるお方です。再臨の主は、エルサレムに戻ってこられて、そこから世界を統治されます。この確信に立つ時、人は生きる望みを回復するのです。
「あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町から失せ、もう、永久に建てられることはありません。それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます(25:2~3)」。あなた:神である主。町、城壁のある都、他国人の宮殿、横暴な国々の都、:新バビロニヤ帝国の都、捕囚の地バビロンを指します。力強い民:残された者。民の多くは神に不従順でしたが、その中のわずかな者=残されたものは神に従順であったのです。神はバビロンを滅ぼします。
「あなたは、弱っている者の砦、貧しい者の悩みのときの砦、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。砂漠の日照りのように、あなたは他国人の歌を抑え、、濃い雲の影になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます(25:4~5)」。主は暴虐な者の勢い、騒ぎを鎮めてくださいます。
「万軍の主はこの山の上で万民のために、油の多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多い油みとよく漉されたぶどう酒の宴会を催される。(25::6)」。千年王国は、大きな宴会で始まります。終末の日,神が準備される宴会の様子が描かれています。地上の酒宴は裁きの日にすべて廃止されますが、天上では豪勢な食事と最上のぶどう酒によって宴会が開かれます。神は自身の正義を示された後に残された者を招いて彼らを祝福してくださるのです。
「この山の上で、(神は)万民の上を覆っている顔覆いと、万国の上にかぶさっている覆いを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ(25:7~8)」。このように、神の祝福は、次の4つの事項によって描かれています。それは、1,顔覆いが取り除かれること(25:7A):罪から解放されて、主の栄光を反映させながら栄光から栄光へと、主と同じ形にその姿を変えていきます。2,永久に死を滅ぼされる(25:7B):復活の祝福が語られています。3,「「神」は涙をぬぐってくださる(25:8A):罪に汚れた人生を歩むことは、涙多き人生です。しかし、その日、神はその嘆きの涙をぬぐい、喜びに変えてくださるのです。4、私たちの恥やそしりを取り除いてくださる(25:8B):これは異教の国、異邦人からの、神の民としての謗り、信仰に対する謗り、神への献身に対する謗り、神の働き人に対する謗りを指します。神、はこれらの辱めや厳しい謗りから解放して下さるのです。これらはイザヤが語った神からの終末時の預言です。神を信じる者にとっては、その日は、待ち望まれるべき日であり、必ず実現される喜びの日なのです。「その日、人は言う。『見よこの方こそ、私たちが待ち望んだ私たちの神この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう』(25::9)」。
神なる主は、我々を救ってくれるだけでなく、我々を苦しめていた異教の民を、裁かれるのです。モアブはその象徴として現れます。モアブはシオンの山、エルサレムの東にある国です。神に逆らい続け、自分を信じて己の力に頼ったがゆえに、主はその高ぶりを低くされ、その城壁を引き倒して、低くし、地に投げつけて塵にされたのです。黙示録に現れる悪魔かもしれません。
26章:『その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。城門をあけて、誠実を守る正しい民を入らせよ。志の堅固な者を、あなたは全く平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから(26:1~4)』。
その日:ユダに敵対したモアブの裁かれた日。「終末の日」。世界が裁かれ、正しい者たちは回復されます。救いの感謝を詠って神に感謝しています。強い町:「終わりの日」ゆえに天上の神の都と考えることが出来ます。千年王国と、その後に続く新天新地のことです。その強い都には誠実で、正しい者(志の堅固な者)が入ることが許されるのです。主はあなたを信頼しており、さらにとこしえの岩だから、あなたは、そこで、全き平安(シャローム)のうちに住むことが出来るのです。いつまでも主を信頼しなさい。
「主は高いところ、そびえたつ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、チリにされる。貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける(26:5~6)」。このような未来に対する見通しのもとに現実の苦難にある者への慰めと、励ましを、ここで、語っています。
「義人の道は平です。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。主よ。まことにあなたの裁きの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちの魂は、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。わたしの魂は、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地で行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らうものをなめ尽くしますように(26:7~11)」。ここには義人について書かれていますが、それとは対照的に悪人についても書かれています。聖書の言う義人とは、イエス・キリストを信じて救われた人です。悪いことをしたことのない完全無欠の人ではありません。主を求める人です。主がこの地に戻って来られてさばきを行われるとき、地上の住民は義を学びます。「その日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます」と言う告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることが求められているのです。それに反して、悪人とは、罪を犯す人ではありません。その罪に対して、神のあわれみが、示されても、悔い改めず、義を学ばずに主に逆らう不信心者です。そのような人には、神は怒りを注がれるのです。
「主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちの成す全ての業も、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。死人は甦りません。死者の霊は甦りません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについての全ての記憶を消し去られました。主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現し、この国の全ての境を広げられました(26:12~15)」。       主は私たちのために平和を備えておられます。それは永遠の平和です。神の 国です。それは必ず成し遂げられる神の預言です。神はこれまでも私たちのためにすべての業(預言)をなし遂げてくださいました。それが証です。
これまでユダヤ人はいろいろな君主たちに支配されてきました。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマです。しかし、ユダヤ人(残された者)は、これらの国々には従わず、神の御名のみを唱えたのです。それゆえ、異邦の異教徒からの激しい迫害に耐えなければなりませんでした。死人は生き返りません。死者の霊は甦りません。これは千年王国の話です。死人や死者の霊とは、自分たちを支配していた君主たちを指します。彼らは甦ることはありません。千年王国が終わって、新天新地が始まるまでの間、死者であった彼らは白いさばきのみ座において復活します。その後、永遠の刑罰を受けるために裁かれます。ですから地上の君主による圧政の記憶を神は私たちに忘れさせてくれます。「エジプトからユーフラテス川」までは、神が、アブラハムに約束した契約の土地です。それ以上の広大な土地を神は、約束通りイスラエルに与えるのです(26:15)。無限かつ永遠の神の国です。これはあくまでも預言の世界で、未来完了の世界であって未だ実現していません。
「主よ。苦難のときに、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。子を産むときが近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。私たちも身ごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません(26:16~18)」。
苦難とは大患のことです。大患の目的は、1,人の罪と、不義を裁くためであると同時に、2,イスラエルを懲らしめるためです。懲らしめると言う言葉を聖書が使うとき併せて救いが目的になっています。この世と共に罪に定めるためではありません。決して滅びを目的にはしていません。ここには神のご計画と、愛情があります。しかし、その苦しみは甘いものではなく、淫婦の産みの苦しみに等しいものがあります。苦難は人を祈りへ導きます。
風:虚しさとか、無を現す。どんなに苦しんでも何も生み出すことはなかったのです。それは大患の目的に反するのでは無いのか。希望はないのか、救いはないのか。
「あなたの死人は生き返り、私の亡骸は蘇ります。さめよ、喜び歌え。塵に住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。(29:19)」。ここにはイスラエルの蘇りが語られています。神はイスラエルの死者を蘇がえらせ、回復してくださいます。ここにはイスラエルの救いがあります。神がイスラエルに降らせる露は、命を生む露であり、死者たちを蘇らせることが出来るのです。
「さあ、我が民よ。あなたの部屋に入り、後ろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ(26:20)」と、主は言います。「わが民」とは、ユダヤ人(残りの者)のことです。彼らは大患難時代の前期の7年間に自分たちが十字架の架けたお方を見て悔い改めます。主は、彼らに部屋を閉じて神の憤りが過ぎるまで、ほんの少し身を隠せと言います。神の民は、守られるのです。しかし、民の多くは罰せられます。神は、イスラエルの民(奴隷)をエジプトから脱出させて救うときに、彼らが子羊を屠って、その血を家々の門柱とか鴨井に塗り付けよ、と命じます。神は言います。『あなたがたのいる家々の血はあなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て,あなたがたの所を、通り過ごそう。わたしがエジプトの地を打つ時、あなたがたには滅びの災いは起こらない(出エジプト12::13)』ためです。同じように、「憤りが過ぎるまで」とは、神の恵みを現わします。反キリストに対する憤りが過ぎるまで戸に鍵をかけてほんのしばらく隠れていなさい」とイザヤは助言しています。神は、私たちがみ怒りに会うようにお定めになったのではなく主イエスキリストにあって救いを得るようにお定めになっているのです。
「見よ。主は自分の住まいから出てきて、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現し、その上で殺された者たちを、もう、覆うことをしない(26:21)」。7年間の艱難時代、地上の人々は反キリスト(偶像)を拝むようになります。その罪びとを裁くために主は天から下りてきます。地上再臨です。これより千年王国が始まります。地はもはや罪びとをかくまいません。一人一人の罪状を明らかにし裁かれます。危機的状況の中で語られています。そこには来るべき日の救いが、希望が、黙示的に示されています。    
  
令和5年2月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会
 


イザヤ書ⅸ 23~24章 「主への褒め歌」

2023年01月07日 | Weblog
イザヤ書ⅸ 23~24章「主への褒め歌」
はじめに:13章から続いて来た諸国民に対する神の宣告は、23章のツロに対する神の宣告で終わります。24章以降は「世の終わりについての預言」が記されています。
 23章:「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった。とキティムの地から、彼らに示されたのだ(23::1)」。
 ツロ:ツロは、地中海東岸にあるフェニキヤ人の都市国家です。彼らの舞台は地中海です。古くから、海洋貿易と工業によって栄え、周辺諸国(キティム、タルシシュ、シドン、エジプト)との交易によって、莫大な富を得ていました。その経済力によって、世界を動かしていたのです。ここでは大金持ちが権力を握っていました。ツロは、富と商業の発祥地です。その経済力は世界貿易の中心にありました。それゆえ、主が最も嫌う物質主義の国になっていたのです。更に、ツロは,経済力においてだけでなく、軍事力においても優れていました。その海軍力によって周辺諸国との交易の安全は守られていました。海を荒らす海賊たちは太刀打ちできなかったのです。このように、ツロは、経済力にも、軍事力にも、アッシリヤやバビロンに匹敵するだけの力を持っていました。 そのツロが、アッシリヤに滅ぼされたのです。当時としては、考えられないことだったのです。主の御力が働いておられたのです。ツロは破壊されました。そこでツロとの交易によって利益を受けていた周辺の諸国が、キティムをはじめとして、その損失は、大きく、ツロの滅亡を嘆き、悲しんでいるのです。
 タルシシュ:今の南スペインです。当時、地の果てとおもわれていました。タルシシュの船は、当時の豪華商船のことで、地中海東のツロから最西端のタルシシュまで航行できる、世界で最も遠くまで航行できる力を持っていました。この船団もツロの軍事力によって守られていました。ツロの滅びは、彼らから商売相手を奪い、大きな損害を与えたのです。
 キティム:周辺諸国の一つ、現在のキプロスです。地中海に浮かぶツロの近くにある島です。ツロとの交易で富を蓄積していました。アッシリヤがツロを攻め、ツロの町を破壊しました。ツロが破壊され、ツロによって収益を得ていたキティムも、その損失を嘆き、泣き喚いているのです。
 「海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人は、あなたを富ませていた。大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。シドンよ、恥を見よ。と海が言う。海の砦がこう言っている。『私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。』エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう(23:2~5)」
 地中海貿易でツロはシドンの扱う商品や、エジプトの商品(シホルの穀物やナイルで刈り入れた物)などを扱うなどと国際貿易に励んでいました。
 妊娠を知らない女が、産みの苦しみを知らないように、ツロもその交易において何の苦労もなく富を蓄積していたのです。世界に誇る軍事力も使われ、略奪に近い形で、植民都市では、商売が行われていたかもしれません。しかし、子を持たない不妊の女に将来がないように、ツロもアッシリヤによって滅ぼされていくのです。主はアッシリヤを使って、ツロを滅ぼしたのです。恐るべきことはアッシリヤではなく、主であることを知らなければなりません。ツロを相手に交易を図っていた地中海沿岸諸国も同じように神(アッシリヤ)の裁きを受けるのです。
 黙せ:ツロの破滅は神の意志ゆえ、黙って受け入れよ、という意味。
あなた、海、海の砦:ツロを指します。
 海辺の住民:ツロが築き上げた多くの地中海沿岸の植民都市を指します。
 シドン:ツロの北にある国。ツロと共に、フェニキヤ人、あるいは、カナン人の都市国家として栄えていたところです。
 エジプト:ナイル川の沿岸に位置します。エジプトもツロとの交易によって利益を得ていた国です。ツロの滅びによって、その利益を失いました。それを苦しみ悲しんでいます。
 「海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣き喚け。これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。誰が王冠を抱くツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどとは世界で最も尊ばれていたのに。万軍の主がそれ(ツロの破滅)を計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた(23:6~9)」のです。ツロと共にアッシリヤによって滅ぼされた海辺の住民が、避難民として、タルシシュに押し寄せたのです。そこで「泣きわめけ」とイザヤは言います。
これが:海辺の住民たちの住んだフェニキヤ人の町。
おごった町:あくまでも神の視点から見た町であり、物欲に支配された海辺の住民の町を指します。この町は、BC2,500年~BC2,300年に建てられた古い町です。貿易が盛んで、彼らの商売は世界一、超一流と称賛されていました。世界で最も尊ばれていたのです。しかし彼らは、神を捨てていました。そこで神は怒り、この町の持つ「すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれて者を卑しめられた」のです。「万軍の主がそれを計り」とイザヤが語るように、そこには神の御計画があったのです。神は自分に逆らうものをお赦しになりません。主はアッシリヤを使って。カナンを滅ぼし、カルデヤ人の国をアッシリヤに引き渡し、獣の住む荒野(廃墟)にしたのです。
 「タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だがもうこれを制する者はいない。主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンの砦を滅ぼした(23:10~11)」。イザヤはタルシシュにツロ崩壊後の何らかの方策を求めます。しかし、タルシシュを具体的に治める(制する)者はいなかったのです。主がその御手を、海の諸都市に伸ばして、これを戦かせ、滅ぼしたからです。「そして仰せられた。『もう二度と小躍りをして喜ぶな。虐げられた乙女。シドンの娘よ。立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。』見よ、カルデヤ人の国を。――この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住むところとした。――。彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟とした。タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたの砦が荒らされたからだ」(23:12~14)」。
シドンの娘:シドンは神のさばきを受けました。隆盛を誇ったシドンにイザヤは「小躍りをして喜ぶな」と、警告を発します。そして、キティムに渡れといいます。しかし地中海の沿岸の諸都市は破壊されていて、どこにも安心して過ごせる場所はありません。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住むところにしたからです。
 ツロがアッシリヤに滅ぼされて70年、その間ツロはアッシリヤの支配下にありました。アッシリヤが滅びツロは再興し、商業都市として回復します。この時ツロは、変化していました。商取引(淫行)によって得た利益は、これまでのように投資されたり貯えられたりして私的に使用されるのではなく主の目的のために使われるように変わっていたのです。将来的には、この世のすべてのものは、主の支配下に置かれるのです。
 24章: 24章から27章までは「イザヤの黙示録」と言われ、「ヨハネの黙示録」の内容とWっています。特に「ヨハネの黙示録」の6~19章の知識がないと読み解くことが難しいと言われています。
 「ヨハネの黙示録」の概要:今は苦しくとも、必ず報われる時が来ます。そして、その後に死も悲しみもない新天新地が訪れることが預言されています。 天国とは、絶え間なく神への礼拝が捧げられる場所であり、神の偉大さが、表現されています。聖書の語る神のご計画について真剣に学び、常に神の視点をもって、現在、起きている事態を検証していく力を身につけなければならない時代に、今、私たちの前には来ています。
 24章から大患難時代に関する預言が始まります。大艱難時代の特徴とは天体と地球に大異変が生じ、この世に大災害が起こることです。天体と地球に大異変が生じるだけでなく、全世界の政治、宗教、社会システム等々の崩壊も明らかになります。その背後には、神の警告と、怒りがあることが明らかにされます。大地震などの災害は、社会の上下関係、身分、財産の有無、多寡に関係なく平等に訪れます。そこには差別はありません。その原因は、『地は住民によって汚され、彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからです(24:5)』。かくして、地の住民の多くは罪ある者とされ、神のさばきを受けたのです。神に従順な住民は減り、わずかな信仰の人のみが生き残るのです。「イザヤ書」の重要な思想の一つである「残りの者」です。。その結果「新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむものはみな、ため息をつく(24:7)」。のです。
 新しいぶどう酒:神に従順な人。ぶどうの木:イスラエルの民。心楽しむもの:神の恵みを受けている者。
 「陽気なタンバリンンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な竪琴の音も終わる。歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。都は壊されて荒れ地のようになり、すべての家は閉ざされて、入れない。巷には、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。町はただ荒れ果てたままに残され城門は打ち砕かれて荒れ果てる。それは世界の真ん中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取入れが終わって,取り残しの実を集めるときのようになるからだ(24:8~13)」。大患難の時代、神は人々を平等に罰するのです。
けでなく、世の楽しみもなくします。人びとは喜びを取り除かれます。都は壊され、荒れ地とされます。これが大患難時代の現実です。神のいない世界です。しかし、こんな世界にもぶどうの実の取り残しがあるように、わずかではあっても主は生き残るものを残しておられるのです。神の特別な計らいによって艱難時代を耐え忍んで、生き延びる者たちです。たとえ、殉教して死んだとしても、やがてメシアの再臨後のメシア王国(千年王国)のときには死からよみがえります。「彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。それゆえ東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。私たちは、「正しいものに誉あれと言う。地の果てからの褒め歌を聞く(24:14~16B)」。ここには「残りの者」がいます。主は、多くの罪ある者を裁かれますが、その中にわずかではあっても神によって残される信仰の人がいるのです。彼らとは、そのわずかの者を指します。彼らは、あらゆる国、民族、集団から来たもので、主を信じたがゆえに、異教の国の、異教徒に迫害され、苦しみ、殺されて天に召された人々です。彼らは甦り、その甦りを、「声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ」のです。更に、「正しい者たちに誉れあれ」という褒め歌を聞くのです。このように大患難を抜け出た「残りの者」が大喜びで主を賛美している姿を見ることが出来ます。「しかし、私は言った。『私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切る者は裏切り、裏切った。』」。私とはイザヤを指します。「残りの者」は霊的に救われますが、現実の世界では多くの民は、自らを省みて主に立ち返ろうとはしません。彼らはイザヤを裏切ります。イザヤは自分の力不足を嘆き、「私はだめだ」と叫びます。主は怒ります。その結果、イザヤはこの世に下る罪びとに対する裁きの姿を見ることになります。「地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、罠とがあなたにかけられ、その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴から這い上がる者は、その罠に捕らえられる(24:17~18)」のです。主以外に彼らを救う者はいないのです。どんなにもがき、努力しても、自分で自分を救うことは出来ません。その彼らに艱難が襲います。ものすごい規模の地震が彼らを襲い、地は基から揺るぎます。「そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない(24:20B)」。のです。次に、「その日」に起こることが語られます。その日とは、この世の終わりの日です。神に逆らう人間だけでなく、サタンとそのしもべである悪霊たちに対する裁きが行われる日です。イザヤは、これを「その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる(24:21)」と表現しています。続いて「彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる(24:22)」」黙示録20章1~3節には、これを、地上に堕とされたサタンが。み使いによって捕縛され、千年王国の間中、底知れぬ穴の中に閉じ込められ、千年後に開放されると語ります。解放されたサタンは、多くの人たちを惑わし、自分の陣営に誘い込み、そしてハルマゲドンにおいてサタンによる神に対する最後の戦いが行われます。けれども天から猛火が下りサタンとその仲間を焼き尽くします。その後、彼らは、永遠の火、ゲヘナに投げ込まれ、もがき、苦しみます。「月は辱めを受け、日も恥を見る。万軍の主が、シオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである(24:23)」。月や、太陽の光に負けないくらいに主の栄光が明るく輝いていることが強調されています。再臨の主がエルサレムに戻ってこられて、世界を統治される姿が、イザヤによって預言されています。イザヤはその生涯をエルサレムで過ごした人ですが、全世界的展望と、全歴史的展望をもって神のことばを預言した預言者です。神のご計画を知り尽くした預言者と言えるでしょう。
令和5年1月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

絶望からの解放

2022年12月09日 | Weblog
 絶望からの回復
 11月27日(日)、日野キリスト教会にゲスト講師として「畠中一郎さん(64歳)」が紹介されました。彼は、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病の患者で、2021年8月にALSと診断され、現在に至っています。筋委縮という言葉とおり体を動かす筋肉が徐々に痩せていき、力が弱くなって思うように動かせなくなる病気です。日本における患者数は約1万人とされ、その発症はやや男性に多い傾向にあります。中年以降に発症することがほとんどで、特に60~70歳代に多く見られます。筋力の低下が主な症状ですが、筋肉の病気ではなく、筋肉を動かしている脳や、脊髄の神経(運動ニューロン)がダメージを受けることで発症します。脳から筋肉に指令が伝わらなくことで手足や喉,舌の筋肉や呼吸筋が徐々に痩せていきます。呼吸筋が弱まると呼吸困難に陥り人工呼吸器が必要になります。一般的に症状の進行は速く、個人差はあっても、人工呼吸器を使用しなければ発症から2~5年で死に至ることが多いと言われています。認知症の合併も見られます。現在では、ALSの根本的治療はなく、症状に応じた薬の投与などと適切な延命処置が行われています。進行は避けられないものの視力や聴力、内臓機能、体の感覚など、ほかの機能に異常をきたすことはありません。
 この不治の病に直面して畠中さんは絶望したと言います。。ALSの患者は病と闘っていると同時に、絶望とも闘っているのです。ALSの患者は、その苦しみに耐えきれず、病で死ぬ前に、自死するものが多いと言います。絶望とは死への恐怖です。死は誰にも訪れます。しかし、人は天寿を全うしたいのです。畠中さんは、苦しみもがいた結果、絶望を希望に変えるものは何かと探求し始めたのです。その結果、キリスト教にたどり着いたのです。死とは何か。現実の死は無です。しかし、来世において、永遠の命が与えるなら、この世の苦しみを耐えることが出来ます。キリスト教は多くの宗教が教えているように。永遠の命を保証しています。しかし、そのためには真摯な信仰が必要です。自分を信じる者にだけ神は恵みを与えます。神に委ねて生きることが必要です。しかし、多くの人にとって神は無です。無からは希望は生まれません。
 と同時に、畠中さんは、この世の人です。この世での救いの道も探求したのです。絶望とうまく闘えれば、絶望から脱却して希望のメカニズムを造ることが出来ると考えたのです。そこで、患者に寄り添う「命を守る受け皿としての財団」を設立したのです。現在、団には80人程度のALSの団員がおり、それぞれ働けるものは働きながら、相互扶助に立って団の運営に携わっていると言います。運営の費用は、篤志家の寄付などに頼っています。その目的は、、寄り添うこと、②、支えること、、乗り越えるお手伝いと自立支援、等々、現実を乗り越えていくために財団が代わって伝え、必要な器具を得られるようにしたのです。神は自らを助くる者を助けられるのです。畠中さんは意識していなくても彼の背景には、神の御手が働いておられるのです。


井イザヤ書Ⅷ 21~22章 朝の来ない夜はない

2022年11月28日 | Weblog
イザヤ書Ⅷ 21~22章 朝の来ない夜はない
 はじめに:今回は21章から、再びバビロンとそれを破壊するメディア・ペルシャからです。そのタイトルは、「朝の来ない夜はない」です。
21章:21章は3つの民族に対する主の戒めの宣告です。
1、海の荒野(バビロン):バビロンについては、既に13章と14章で語られましたが、ここで再び語られます(21:1~10)。砂漠の中の民族です。アッシリヤに滅ぼされます。
,ドマ:エドムの別名。アッシリヤに滅ぼされる。エドムは、ヤコブとエサウの双子の兄弟のうち、兄のエサウを先祖とします。ヤコブを先祖とするのはイスラエルです。
,アラビヤ:今のソウジアラビヤ。その意味は「砂漠」です。イシュマエルを先祖とします。彼はアブラハムの長男。アブラハムの女奴隷ハガルの子。アラブ人はイシュマエルを先祖とします。ちなみに、ユダヤ人はイサクを先祖とします。この預言は、アッシリヤの王サルゴンがアラビヤを攻めたときの話です。この節には2つの町が出て来ます。デタンとテマです。デタン人は避難民でテマは避難民を助ける避難所です。テマは豊かなオアシスの中の清らかな地下水に恵まれた町です。
1,海の荒野に対する宣告:ーフラテスと言う水量の海の荒野とはバビロンを指します。バビロンは広大な砂漠地帯に位置します。この砂漠地帯にはティグリス・ユーフラテスという水量の多い海のような大河が流れており、この大地を潤しています。この砂漠のオアシスの中に生まれたのがバビロンだったのです。そのため、バビロンは「海の荒野」と呼ばれていました。バビロンは堅牢な城壁に守られていました。バビロンの首長たちは、その堅牢さに高をくくり、高慢になり、油断して無防備だったのです。彼らは、「食卓を整え、座席を並べて、飲み食いをしていた」のです。乱痴気騒ぎをしていたのです。メディア・ペルシャの連合軍が目の前に迫っていました。この事態にイザヤは、恐れ、おののき、事態の深刻さを理解しない首長たちに「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ」と。出陣の呼びかけを行ったのです。メディア・ペルシャの連合軍は、バビロンに迫っていました。主はイザヤに告げます。「見張りを立たせて見たことを告げさせよ。ペルシャの大群の影を見たら、よくよく注意してそれに備えさせよ」と。すると見張りの兵士(獅子)はこれに応答して言ったのです。「私は昼夜を問わず物見の塔で見張っていました(21:8参照)」。「ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。倒れた。バビロンは倒れた。その神々全ての刻まれた像も、地に打ち砕かれた」と。見張りは、その偶像と共にバビロンが砕かれた姿を見せつけられたのです。預言者イザヤは、バビロンの民に言います。「踏みにじられた私の民、打場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ(21:10)」と。真の神・主に逆らう神を信じる者は、どんなに繁栄を謳歌していても、滅びる運命にあることを、イザヤは語っているのです。
 バビロンは偶像崇拝の発祥地、この世の偽りの宗教の発祥地です。「バベルの塔」を思い出してください。バビロンの民は、神をまねて、天にも届く塔を築こうとしました。まさに偶像です。神は怒りこれを砕き、その民を散らしました。この時以来、人は真の神を忘れ自分の神を造ろうとしています。この世の歴史は、神と偽の神の戦いであり、その繰り返しです。
2,ドマに対する宣告:イザヤが預言を行っている時期はアッシリヤが勢力を拡大していた時期です。ドマの一つの民セイルは、アッシリヤの侵攻を受け、その圧政に苦しんでいました。夜回り(イザヤ)はこれを、夜に例えています。セイルの民はイザヤに問います。「アッシリヤから解放されて朝になるのはいつか」と。イザヤは応じます。「朝が来た、また夜が来る。―――」と。アッシリヤが滅びてもその後にはバビロンが控えているのだ、と預言しているのです。彼らは異国に住む異教の民です。彼らの神を捨て真の神に立ち帰らない限り朝は来ないよ」と諫めているのです。
3,アラビヤに対する宣告:「デタン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。テマの地の住民よ。渇いている者に会って水をやれ。のがれてきたものにパンを与えてやれ。彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれてきたのだから(21:13~15)」。「だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲なさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる(ヨハネの福音書7:38)」と。キリストは生ける水だと言われています。キリストの与える水を飲むものは決して渇くことないのです。
 22章:22章は、主の「幻の谷」に対する宣告です。幻の谷とは、エルサレムのことです。「これはいったいどうしたことか。お前たちは皆、屋根に上って」。下を見下ろせ、そこには「喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都」エルサレムがある。「おまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく戦死したのでもない」。アッシリヤやバビロンに攻撃され、なすべき術を持たず、戦わずして、殺されたり、捕らえられて殺されたり、捕囚の民になったりしたのです。「なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るから(22:5)」です。エルサレムは契約の民です。その民に主の宣告が下ったのです。主は「えこひいき」をなさらないお方です。契約の民であろうとなかろうと、各人の行いに応じて報いられるのです。契約の民(エルサレム)は、主からの幻を受け取り御前にひれ伏さねばならないのです。しかし、エルサレムは、そうではなかったのです。主は怒り、お裁きをお与えになったのです。イザヤは己の民イスラエルが裁かれるのを見て、その心は張り裂けんばかりの悲しみでした。
 幻の谷(エルサレム)に対するアッシリヤの侵攻が始まります。イザヤはエルサレムの城壁の崩壊を預言します。シオンの山に祈り、天に向かって叫んだのです。アッシリヤの軍隊(エラムとキル)は戦闘体制に入り、エルサレムの美しい谷を取り囲んだのです。
 こうして、ユダの覆い(城壁)は、崩壊の危機にあったのです。このような状況に接し、ユダの王ヒデキヤは、かつてのソロモンの武器庫に目を向けます。アッシリヤを迎え撃つためには武器の準備は不可欠だからです。さらにヒデキヤとその民は、無防備なダビデの町の補強に乗り出します。城壁を補強し、水源を確保したのです。これらをなした背後には、神の御手が働いていたことを、彼らは知ろうともしなかったのです。神に救いを求めながらも、真の救いとは何かを知らず、目に見える武器や水源の確保、城壁の修復といった、物に頼ろうとしたのです。しかし、最終的に私たちは、主の前にひざまずいて、へりくだって、主に祈り求めなければならないのです。 悔い改めて神に求めましょう。
 アッシリヤの侵攻を前にして、万軍の神、主は、悔い改めを呼びかけられたのに、なんとお前たちは、絶望して、やけっぱちになって飲んだくれ、『どうせ、明日は死ぬのだから』と言ってその場限りの楽しみにうつつを抜かしている。絶望を希望に変えることのできる主に立ち返ろうとはしなかった。そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。『この罪は、お前たちが死ぬまでは決して赦されない』と、主は仰せられた(22:12~14)。これが神を信じない者の姿です。彼らに取ってこの世がすべてです。地上にいる間に、楽しめる限り楽しもうというのです。死者の復活、永遠の命は、彼らにとっては単なる神話に過ぎないのです。お伽噺なのです。しかし、信仰に生きる者にとってはこの希望があるからこそ、艱難辛苦に耐えることが出来るのです。キリストの十字架上での死と、復活、初臨。再臨への希望。これが永遠の命の証なのです。主は今もわれらと共に生きておらます。
 これから後半(15~25節)に入ります。後半では具体的にユダの指導者(シェブナとエルヤキム)を取り上げ、その政策と指導について主の言葉を伝えます。シェブナもエルヤキムもユダの王ヒデキヤの下で働く宮内庁の議官でした。シェブナはその権力を利用して高いところに墓を造り、豪華な建物に住んでいました。しかし主のもと、へりくだる心に欠いていました。それゆえ、主の怒りを買い、その職を解かれたのです。反面。エルヤキムは主がシェブナの職を彼に継がしたように、主に対して敬虔で忠実なしもべでした。かくして、彼はエルサレムの民と、ユダの家との父となったのです(22:22B)」。権力の上にあぐらをかき、権力を個人的欲望のために使用したシェブナは、さばかれ、主に対して敬虔に、忠実に生きたエルヤキムは、主の守りと祝福を受けたのです。  主はイスラエルのことを「確かな場所に打ち込まれた釘」とのべています。契約の民を指しています。その民がキリストを認めなかったのです。それゆえ、彼らは神によって抜き取られ折られてしまったのです。旧約聖書ではイスラエルと神の間には和解は成立していません。和解はキリストの出現(新約聖書)まで待たねばならないのです
>令和4年12月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


イザヤ書Ⅶ 19~20章 諸国に及ぶ主の救い

2022年10月08日 | Weblog
 イザヤ書Ⅶ 19~20章 諸国に及ぶ主の救い
 はじめに:19章から20章で、主はイスラエルとユダの周辺諸国のうちクシュ(エチオピヤ)とエジプトに対してその懲らしめの宣告を行います。この宣告によって13章から始まった周辺諸国に対する懲らしめの宣告は終了します。その目的は決して懲らしめることではないのです。主は、苦しめ、試し、ついには、彼らを幸せにすることが、目的だったのです。勿論、そのためには、彼らの、悔い改めと、主への立ち返りが条件でした。
 19章:1、おののくエジプトの神々 19章はエジプトに対する主の宣告です。時代は、アッシリヤがイスラエル、モアブ、ペリシテの地偽の神々域を超えて南進しているときの事です。主は、アッシリヤを通してエジプトを打たれたことを「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言われています。そして、エジプトの「「偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底しなえる」のです。当時のエジプトは、偶像(偽りの神)礼拝の国でした。主はアッシリヤを通じて彼らの偶像を打たれたのです。当時のエジプトは、その栄光の時代は過ぎ国力は弱まっていました。それをさらに推し進めていたものが、分裂と内紛でした。「兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と相逆らって争う」「エジプトの霊は、その中で衰える」のです。エジプトの衰えは主の裁きでした。しかし。悔い改めを知らないエジプトの民は、その救いを「偽りの神々や、死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てて」いたのです。結果、主は怒りエジプト人を厳しい主人(アッシリヤ)の手に引き渡す」のです。「力ある(アッシリヤ)の王が彼らを治める」ようになるのです。
 これは万軍の主、主の御告げなのです。
 2、干上がるナイル 次に主によるエジプトに対するさばきの内容が語られます。「海から水が干され、川は干上がり、枯れる。多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない(19:5~7)」。世界で最古かつ最長の文明がエジプトで発達したのは、ナイル川のおかげです。ナイル川の氾濫によって土壌は新しく生まれ変わり、豊かな農地が再生されていたのです。豊かな実りは氾濫前に刈り取られていたので、農民には恵みがあるだけで、氾濫による被害はなかったのです。
そのナイル川が干上がるのです。その影響は大きなものがあります。農民だけでなく、漁民も、また、葦の繊維を加工して生まれる産業も、そこで働く労働者にも、多大な影響を与えたのです。経済全体が大きな打撃を蒙ったのです。エジプトは、その罪ゆえに過酷な試練に会わざるを得なかったのです。しかし、この試練は、主の恵みであったことが後に分かります。
3,愚かな知者:この言葉は形容矛盾です。知者は決して愚か者ではないからです。彼らはこの世的に見れば、知者であり、賢者であり、権威者です。大学で学問を教えているかもしれません。しかし、主の目から見れば愚か者なのです。なぜならば、彼らは、「万軍の主がエジプトに何を計られたかを」知らないし、知ろうともしないからです。「ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって『私は、知恵あるものの子、昔の王たちの子です』と言えようか(19:11)」。彼ら(エジプト人)の目は自分自身に向けられていて主を見上げようとはしていません。その限りにおいて、パロと変わりません。パロの知恵はアッシリヤの侵攻を前にして何一つ役には立たないのです。我々の進むべき道は、神のご計画の中にあります。この国の知者たちはそれを知りません。彼らは、だから愚か者なのです。だから、道を誤るのです。だから、主は、怒って、エジプトによろめく霊を吹き込まれたので「頭も尾もナツメヤシの葉も葦もエジプト人のためになすべきわざを持たないのです」。頭とは知者や政治指導者のことです。尾とは一般民衆のことです。主は彼らを迷わせ、よろめかせるのです。主は、エジプト人のために裁き以外なすべきわざを持たないのです。すなわち、国全体が酔いどれのように何をなすべきかわからない状態に陥っているのです。これが、世の終わりを目の前にしているエジプトの姿なのです。
4、主への捧げもの:次からは、主が、エジプトに対して、裁きではなく、救いの働きかけをなされる部分です。
「その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分に向かって振り上げる御手を見て恐れおののく」のです。その日とは、アッシリヤ侵攻の日ではなく、エジプトが終わりを迎える究極のときを現しています。「女のようになる」の女とは弱さの象徴です。アッシリヤに攻められてからのエジプトの歴史は衰退の歴史です。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、と攻められ、弱くされ、滅亡は回避したものの国としての形は失ったのです。このようにエジプトは、女のように弱くなり、そのプライドを失ったのです。「万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手」とは、アッシリヤを含め、エジプトに侵攻した国々を指します。このように、主は、自分に反抗する国々さえも裁きのために利用されるのです。エジプトはこれに恐れおののきます。同時に、これは、主イエスの再臨の姿をも現わしています。このようにイザヤは、一つの事件を主の視点と、人の視点の二つの視点で見ているのです。
「ユダの地は、エジプトにとって恐れとなる。これを思い出すものはみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとに対しておののく(19:17)」。ユダの地には主・イエスが再臨されて強くされます。エジプトに対する主のはかりごととは、強くされたユダによって、エジプトが女のように弱くされることです。この預言によってエジプトは恐れおののくのです。エジプトの弱さは強さの逆表現です。弱くなった時、人は神に救いを求めます。神は悔い改めを条件としてこれを助けます。「彼らが虐げられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる(19:20B)」。「そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は、主を知り、生贄と、ささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす(19:21)」。これとは主を知ること(悔い改め)を指します。「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる(19:22)」のです。「その日、エジプトからアッシリヤへの大路が出来、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人と共に主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける(19:23~24)」のです。エジプトだけでなくアッシリヤも主に仕えるようになるのです。
5、アッシリヤとエジブト間の大路:エジプトとアッシリヤの間には、王の道と呼ばれる幹線道路がありました。いわゆる、大路です。貿易、政治、経済、文化、戦争にも使われました。この大路が、福音宣教のためにも使われるのです。異邦人宣教が行われることが示されています。この結果、エジプトだけでなく悪の代表とみなされていたアッシリヤさえも悔い改め主のあわれみを受けるに値する民に変わるのです。これはあくまでも主の預言です。いまだ実現していません。しかし、主の預言は必ず実現するのです。「万軍の主は祝福して言われる。『わたしの民エジプト、わたしの手で造ったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように』(19:25)」。イスラエルから始まって全世界へ福音宣教の行いが拡大することへの希望が語られています。これは主のご計画なのです。
20章:クシュ(エチオピヤ)とエジプトの捕囚:イザヤは再び、アッシリヤ、エジプト、クシュついての預言を始めます。
「アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来てアシュドデを攻め、これを取った年―――。そのとき主はアモツの子イザヤによって(アシュドデに)語られたのである。『行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足の履物を脱げ。』それで彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた」。腰に荒布をまき、はだしで歩くということは、悲しみと、悔い改めを現しています。実はイザヤ自身も、かつて、その罪を贖うために「3年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いた」経験を持つのです。「アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若いものも年寄りも、裸にし、はだしにして、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れていく」のです。これは主が、自分に従わないこの二つの国を、アッシリヤを使って罰したことを意味します。エジプトもクシュもかつては、共に強大な国でした。政治的に見て頼りがいのある国だったのです。「人々(ユダヤ人)は、クシュを頼みとし、エジプトを栄としていたので、おののき恥じる。その日、この海辺の住民は言う。『見よ、アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げてきた私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうして逃れることが出来ようか』」。ユダの民は求めるものを誤っていたのです。本来求めるべきものは、主以外には存在しないのです。
令和4年10月18日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


イザヤ書Ⅵ 15~18章 諸国に及ぶ主の救い

2022年08月22日 | Weblog
 イザヤ書Ⅵ 15~18章 諸国に及ぶ主の救い1
 はじめに:今回は15章から始めます。イザヤは13章からイスラエルを取り囲む周辺諸国に対する主からの警告の言葉を語ります。バビロン、アッシリヤ、ペリシテと続き、今回はモアブに対する主の警告の預言です。
 モアブ:死海ヨルダン東岸の高地に住んでいた民族。肥沃なモアブ平野から、ネボ、ピスカの峰を持つアバリム山脈に至る領土を擁す。首都はキル・・ハラセテ、他にアロエル、メデバ、ネボ、ヘシュボン、エルアル、ヤハツなどの町を有す。ダビデからアハブの時代、イスラエルの属国となり、アッシリヤの脅威がパレスチナを襲うと、これに屈服する。捕囚期にはバビロニアの属州となる。そしてBC1世紀にマカべア家アレクサンドロス・ヤンエウス王によって完全に滅び去ります。イスラエル人はモアブ人を血縁の民族とみなしていました。宗教はバアル宗教で神の名は、バル・ペオルです。(関根清三訳、岩波書店、「イザヤ書」より)。
 15章:15章と16章は主によるモアブの罪に対するさばきです。
1,モアブの滅亡、そして泣き叫びⅠ
 「モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅び失せた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅び失せた。モアブは宮に、ディポンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。その巷では、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。その魂はわななく(15:1~4)」。主はアッシリヤを道具として、主に反抗するモアブを一夜のうちに滅ぼします。その時のモアブの状況がこの部分に預言されています。神のさばきは突然にして起こります。「アル」とか「キル・モアブ」と言うのはモアブの中心的な大きな町です。その町が滅びるということはモアブ自身の滅びを意味します。このようにモアブはアッシリヤによって滅ぼされます。その後、アッシリヤが滅亡すると一時的には回復を果たしますが、やがて復活した大バビロンによって征服されます。そしてBC1世紀に復活したユダヤの王朝マカベア家によって完全に滅ぼされます。それはともかくとして、アッシリヤの侵攻を受けて滅亡に瀕したモアブの民は自分たちの偶像ケモシュ(ディポンと言う町の高き所に置かれていた)のまつられている宮にのぼり助けを求めますが、ケモシュはモアブを助けることが出来なかったのです。偶像ゆえの限界です。侵入したアッシリヤは、モアブの男性の頭髪をそり落とし、ひげも切り取って、その尊厳を貶めて、屈辱と、耐えがたい苦痛を与えたのです。その結果、モアブの民は、荒布を腰にまとい、みな涙を流し、嘆きや悲しみを現したのです。その叫び声は遠くヤハツまで届いたのです。この時、モアアブの兵士たちは恐れと恐怖に包まれ、まったく士気を失い、泣き喚いたのです。
 2,私の心は叫ぶ「悔い改めよ」と。「私の心はモアブのために叫ぶ(15:5)」モアブはケモシュと言う偶像を造りこれを拝んでいた民です。当然罰せられるべき民であり、実際に、主はアッシリヤをその裁きの杖として用い、モアブを罰せられたのです。悔い改めよと叫んだのです。モアブはアッシリヤにその祖国を追われ、ツオアルからエグラテ・シェリシャまでのがれ、ルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で破滅の叫びをあげるのです。アッシリヤは他の民を侵略するときに水源を塞ぐという方法を用いました。「ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった(15:6)」のです。水を絶たれた民の悲惨さが語られています。
3.主はのがれた者と残りの者とに獅子を向ける。
 モアブの民は戦乱によって荒廃した大地から避難を余儀なくされます。水を絶たれ、生活の糧を失った民は国外へと逃亡します。彼らは「残していたものや、貯えていたものを、アラム川を越えて運んでいく(15:7)」のです。避難中や、避難先での生活を支えるためです。
 アッシリヤの侵攻は、厳しいものであったと言われています。制圧して支配するのではなく破壊しつくすのです。人は殺さず、傷つけたまま放置するのです。「ああ、叫ぶ声がモアブ領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた(15:8)」のです。主は、アッシリヤを用いてここまでするだけでなく「ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンに災いを増し加え、モアブの逃れた者と、その土地の残りの者とに獅子(アッシリヤ)を向けよう(15:9)」と語ります。主は、モアブのすべての民(逃れた者、残ったもの)に、獅子を差し向けて滅ぼす、と言うのです。ディモンとは、モアブの偶像ケモシュの祭られている場所です。その場所でモアブの民は虐殺されたのです。主は、異教の民と、異邦の民には厳しい方です。いつまでも主に歯向かい、悔い改めのない者は厳しく罰せられるのです。しかし、人はすべて主の創造物です。平等に主の恵みを受けることが出来るはずです。主は、隣り人を愛せよと言っています。一人でも滅びる者の出ることをお赦しにならないお方です、しかし、ダビデ契約は律法です。
 16章:主は「モアブの逃れた者と、その土地(ディモン)の残りの者とに獅子(アッシリヤ)を向けよう」と、アッシリヤがモアブを徹底的に荒らすのをお許しになりました。しかし、主は決して裁くだけのお方ではないのです。救いの道も用意しておられるのです。さばきと救い、その間には悔い改めがあります。アッシリヤは悔い改めの道具なのです。主はモアブをその裁きからのがれる道をも用意しておられるのです。『子羊をこの国の支配者に送れ、セラから荒野を経てシオンの娘の山に(16:1)』と、主は言います。シオンの娘の山とは、ユダでありエルサレムのことです。このエルサレムに小羊(貢物)を送り、助けを求めよと言っているのです。この時モアブの民はアッシリヤに追われて逃げまどっていたのです。他方、主はエルサレムに対しては、「逃れてくるものを見つからないようにかくまい、アッシリヤに渡すな、隠れ家になれと、と進言しています。そして、虐げる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消え失せるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられ、裁きをなし、公正を求め、正義を速やかに行うものが、ダビデの天幕で、真実をもって、そこに座る(16::4B~5)」。ここには艱難時代の終了と、メシアの出現が語られ、神の国の到来が預言されています。しかし、この預言が実現するのは、はるか遠い将来のことです。多くの困難を解決しなければならないのです。その証拠にモアブは、神に立ち返らず、主に逆らったのです。「我々はモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない(16:6)」。モアブはせっかくの主の忠告に対して聞く耳を持たず逆らったのです。主は怒りをもってモアブを裁かれるのです(16:7~11参照)。モアブが悔い改め、「高き所に詣でて身を疲れさしても、祈るためにその聖所に入っていっても、もう無駄(16:12)」なのです。主に逆らうものは滅びが運命づけられているのです。
 17章:ダマスコの崩壊。17章はダマスコに対する宣告です。ダマスコとはシリアの首都であり、聖書の時代には、アラムと呼ばれていました。サウロ(パウロ)がキリストに出会い回心した都市です。「みよ、ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。アロエル(シリアの町)の町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこにふすが、それを脅かすものもいなくなる(17:2)」と主は言います。しかし、歴史的に見た場合、ダマスコ(シリア)はこれまで一度も廃墟になったことはありません。現存しています。廃墟になるとしたら将来のことです。しかし、主の預言は必ず実現します。「ダマスコは王国を失います」。
 アラムの残りの者:主の裁きの中で多くの者が罰せられた中に、わずかではあるが、主に忠実な者が残されていたのです。彼らは、信仰深きイスラエル人のように扱われるのです。
 その日:その日とは、具体的にはアラムの滅びの日であり、霊的には世界の終わりの日です。「その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。刈り入れ人が立ち穂を集め、その腕が刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。オリーブを打ち落とすときのように取り残された実が残される。二つ三つの熟れた実が梢に、四つ五つが実りある枝に残される。(17:4-6)」主は、刈り入れ時として、「立穂のとき」と、オリーブを打ち落とすとき」の二つを挙げています。この収穫のときにわずかではあっても残る実があります。これと同じように、裁きを受けたアラムの民中にも残りの者が存在するのです。主はアラムの中にも主を信じ従う敬虔な民を残しておられるのです。アラムの教会はこのような残りの者によって守られ、支えられ、前進していくのです。
 救いの神を忘れるな:主はその日シリアの民を2つに区別します。一つは救われる人々であり(17::7~8)であり、もう一つは滅びる人々です。救われる人々とは「人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシュラ像(女神)や香の台を見もしない。(17:7~8)」。ここには真の神に対する信仰と偶像礼拝に対する否定があります。それに対して滅びの民とは「その堅固な町々は森の中の見捨てれられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになりそこは荒れ果てた地のようになる。(17:9)」その原因は「あなたが救いの神を忘れて、あなたの力の岩を覚えていないからだ(17:10)」。それだけでなく、偶像(好ましい植木、他国のぶどうの蔓)を崇拝しそれを続ける限り救いはありえないのです。
 「ああ。多くの国がざわめき―――海のざわめきのようにざわめいている。ああ、国民の騒ぎ―――大水の騒ぐように騒いでいる。国民は、大水が騒ぐように騒いでいる(17:12~13)」。アッシリヤは、多国籍の軍隊からなる巨大な軍力でした。この軍隊の侵攻を前にして、イスラエルを含め、周辺諸国は恐れおののいたのです。おそらくアッシリヤは、占領地の軍隊を統合し、拡大して多国籍軍を形成したものと思われます。「しかし、それを叱ると遠くへ逃げる」「山の上で風に吹かれる籾殻のように、つむじ風の前で渦巻く塵のように、彼らは吹き飛ばされる(17:13)」。叱るのは誰だろうか。それは主である。しかし主は、決して自らの手を汚さない。道具を使います。。アッシリヤを滅ぼしたのは具体的にはバビロンです。「夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明け前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ乳母会う者たちの割り当て(17::14)」これがアッシリヤに包囲されたエルサレムが見た光景です。エルサレムの民が起きてみるとアッシリヤの陣営の18万5千人が、みな、死体になっていたのです。主は終わりの日に起きることを預言しているのです。
 18章:ああ。クシュのかなたにある羽こうろぎの国。この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民の所に。あちこちで恐れられている民の所に。多くの川の流れる国。力の強い踏みにじる国に(18:1~2)」、クシュ;現在のエチオピヤを指す。クシュの川々:ナイル川の支流。この羽こうろぎの国から海路使いを送れとイザヤは言う。一体、どこへ、何の目的で。それはイスラエル=南ユダです。この当時、アッシリヤが隆盛を極めており、シリヤ、北イスラエル、ペリシテ、ヨルダン、モアブ、アラビアを支配し、さらに南下してエジプトにまで迫っていました。そこでクシュはこのアッシリヤに対抗するために南王国に使いを送り同盟を結ぼうと画策したのです。しかし信仰深い南ユダは、この誘いには乗らず「世界のすべての住民よ、地に住むすべての者よ。山に旗が掲るときは見よ。角笛が吹き鳴らされた時は聞け。主が私にこう仰せられたからだ『わたしは静まってわたしのところから眺めよう―――(18:3~4)』」と。クシュは人に頼って苦難を乗り越えようとしましたが、イザヤは主により頼むことが事態を打開する最善の道だと悟っていたのです。
「刈り入れ前に蕾が開き、花房が育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、その弦を取り去り、切り除くからだ(18:5)」「それらは一緒にして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし。野獣はみなその上で冬を過ごす(18:6)」。酸いぶどうは食用には適しません。弦ごと刈り取られて猛禽や野獣のえさになります。この酸いぶどうの刈り入れは、主のアッシリヤに対するさばきを現します。南ユダの軍隊を取り囲んでいた18万5000人のアッシリヤの軍隊は翌日死体となって倒れていました。彼らは猛禽や野獣のえさになったのです。
 「そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国。力の強い踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る(18:7)」。この国とはアッシリヤかクシュか迷ったが、この章がクシュに対する主からの宣告である以上、この国とは、クシュ(エチオピヤ)と考えるのが妥当であろう。クシュはアッシリヤの侵攻を前にして、主に頼るのではなく、人に頼り南ユダに同盟を求めている。それは、明らかに主に反抗する態度であり、それゆえに、主の怒りにふれ、アッシリヤに滅ぼされている。イザヤは、そんなクシュに対して最大限の賛辞を送っている。この国はかつてはエジプトと並んで強大な力を持ち、周辺諸国に恐れられていたのである。この文章は、クシュの悔い改めの表明である。シオンの山エルサレムに送られた物とは悔い改めの心と、敬虔な主に対する信仰心といって良いであろう。悔い改める者を主は喜んで受け入れるのです。この大文章は、異邦人に対する救いの一つの形を現しています。
令和4年9月13日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

イザヤ書Ⅴ バビロンの裁きと滅亡の預言 13~14章

2022年07月16日 | Weblog
 イザヤ書Ⅴバビロンの裁きと滅亡の預言 13~14章
 はじめに: イザヤ書1~12章まではエルサレムとユダに対する主の戒めが語られていました。それに対して13章からは、諸外国への警告が記されています(13~23章は諸外国に対する神の託宣集です)。その 最初に現れるのがバビロンです。13章には、バビロンとそれを滅ぼすペルシャが描かれています。しかし、イザヤの生きた時代には、バビロンは崩壊どころか存在すらしていません。歴史的に見ればアッシリアの方が先です。しかし、創世記を見た場合、「バベルの塔」に見られるように、バビロンは、神に反抗した最初の民です。神が怒り、言葉は散らされ、多くの国が生まれました。まとまって主に反抗することを主は恐れたのです。
 ここに現れるバビロンは、単に一つの国としてのバビロンではなく、神に敵対する象徴として現れます。まさにサタンの化身です。それゆえ、バビロンは、聖書の中では特別な位置を占めています。そのバビロンに対する主のさばきが預言されています。まさに「アモツの子イザヤの見た(神)の宣告(13:1)」なのです。サタンは滅ぼされなければならないのです。
 難攻不落を誇った、さしものバビロンも滅びたのです。主はあらゆるものを使って自分の目的を達成します。たとえ、それが「反キリスト」であっても、です。神はアッシリア、ペルシャを使って、北イスラエル、バビロンを滅ぼしました。さらに、主は、ペルシャのクロス王を使って、捕囚の民を開放しています。その神の目的は何だったのでしょうか。それは神が、その威厳と尊厳を民に示し、自分に従わすことにあったのです。畏れ敬うことを要求するのです。神は全く清く正しい方であられるので不義、汚れを赦すことが出来ないのです。正しくさばかれるのです。当然、神=愛ではないのかと言う疑問が起こります。神は「アバ父(お父ちゃん)よ」と呼ばれたいのです。しかし、この時、神とイスラエルの民との間には和解は生じていません。イスラエルは、神を拒否したのです。問題は神の側ではなく、イスラエルの側にあるのです。真の救い(愛)は、新約聖書の神=主イエス・キリストの出現まで待たねばならないのです。主は、その一人子をこの世に送ってくださったのです。そこに神の愛を見ることが出来ます。
 13章:「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告」と、あるようにバビロンは、他の罪に満ちた諸国に先立って、最初に神のさばきを受けます。
「はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声を上げ、手を振れ、そうすれば彼らは貴族の門に入るであろう(13:2)」。彼らとは主の全軍(メディア・ペルシャの連合軍)のことです。貴族の門とはバビロンの宮殿のことです。この文章は主の全軍のバビロンに対する宣戦布告を現しています。バビロンに対して、メディア・ペルシャの連合軍の侵入が預言されています。「私は怒りを晴らすため、わたしに聖別された者たちに命じて、またわたしの勇士、私の勝利を誇る者たちを呼び集めた(13:3)」。「聞け、おびただしい民にも似た山々の轟を。聞け、寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の主が、軍隊を招集しておられるのだ。彼らは遠い国から、天の果てからやってくる。彼らは全世界を滅ぼすための主とその憤りの器だ(13:4~5)」。この彼=遠い国、天の果てからやって来るものとは誰のことか。彼とは神の支配下にある全軍を指します。彼らは神のさばきを司る裁判官です。ついで、「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破滅が来る(13:⑹)」主の日とは終末の神のさばきの日です。世の終わりの艱難時代を指します。神のさばきが、キリストを拒絶した世界に注がれます。全能者から破壊が来ます。極めて重要な日です。
 次に「主の日」について語られています。主の日とは新・旧約共に、世の終わりのときを現しています。13章の6~10節には、主の日に起こることが記されています。主の日は残酷な日です。神は「憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪びとたちを地上から根絶やしにする。天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く月も光を放たない。(13:9~10)」。主の日とはこのように天変地異の襲い掛かる日です。「その日は盗人のようにやって来ます。その日には天は大きな響きをたてて、消え失せ、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地のいろいろの業は、焼き尽くされます(Ⅱペテロ3:9~10)」。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に大地はその基から揺れ動くのです。
 主はバビロンに言います「「私は、その悪のため世(バビロン)を罰し、その悪のため悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。わたしは人間を純金よりまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする(13:11~12)」。主はバビロンの滅びを預言しています。16節からはバビロンに与えられた悲惨な状況が語られています。祖国から逃亡する者、侵略者ペルシャによる市民の殺害、幼児の虐待、家の略奪、強姦、等々、今のウクライナの悲惨さを見るようです。「こうして王国の誉れカルディア人誇らかな栄であったバビロンは、神がソドムとゴモラを滅ぼしたときのようになる(13:19)」のです。その結果、バビロンの地は、荒れ野となり、そこには人は済まず獣の住まいになり下がるのです。まさに、主の日の到来をみるようです。「その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない(13:22B)」。バビロンの崩壊の預言がイザヤによってなされています。
 14章:「まことに、主はヤコブを哀れみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異邦人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。国々の民は彼らを迎え彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちを虜にしたものを虜にして、自分たちを虐げたものを支配するようになる(14:1~2)」。
主はペルシャのクロス王を使ってバビロンの捕囚によって、虐げられていたイスラエル人を祖国イスラエルに戻します。主は、イスラエルをこのまま滅ぼしてしまうわけにはいかなかったのです。そこには、イスラエルの民を「子々孫々」まで増大繁栄させると言うアブラハム契約があったからです。11章では「主はユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(11::12)」と記述されているように、主は各地(アッシリア、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々)に散らされていたイスラエルの民を集め、祖国に帰還させたのです。更に、主は、今までイスラエルを支配していた国(ペリシテ、エドム、モアブ、アモン)を逆に支配し、イスラエルをバビロンのくびきから解放したのです。(14:3)」。その日(バビロンの滅びた日)イスラエルは、敗れたバビロンの王をあざけって歌を歌います。その歌はイスラエルの勝利宣言でした。
「彼(バビロン)は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って国々を容赦なく虐げて支配したのだが(14:6)」主はこれをお許しにはならなかったのです。「虐げる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ(14:4~5)」。このように、主は虐げる者を虐げられたのです。この結果、「全地は安らかにいこい喜びの歌声を挙げている。もみの木も、レバノンの杉もあなたのことをよろこんでいう。『あなたが倒れ伏したので、もう私たちを切る者は上ってこない』(14:7~8)」と。神のさばきは、このように、この世のバビロンに下るだけでなく、黄泉の国に堕とされたバビロンにも、以下のように、下るのです。黄泉の国とは死者の行く場所であって、その人の善悪には関係がありません。この国で支配者の霊は言います。「あなたもまた私たちのように弱くされ、私たちに似たものになってしまった。あなたの誇り、あなたの琴の声は黄泉に堕とされ、あなたの下には、蛆が敷かれ、虫けらがあなたの覆いとなる(14:10~11)」と。あの豪華絢爛を誇ったバビロンの王の転落の姿が,この世とあの世の両方において下るのです。
イザヤはバビロンの王にあなたと呼びかけ、己を神と同じ立場に置き、主の一番嫌われることを行ったと、その高慢と、高ぶりをいさめます。それゆえ、主の怒りを買い、黄泉の国に落とされたのだ(14:13~15参照)、とあざけります。以下、主はバビロンの悪を暴き、その裁きを語ります。「あなたはほかの王たちのようには己の墓では眠れず、墓の外に投げ出され、踏みつけられる」。あなたの子らは先祖の罪ゆえに赦されることはない。これは「世界の面を、(汚れた)バビロンの町々で満たさないためなのです(14:21B)」。
次に主はバビロンばかりでなく汚れた大国アッシリア、ペリシテと主に反抗してイスラエルに侵攻した国々を罰し、その子孫までも滅ぼすと預言します。それゆえに、これらの国々に虐げられていた国の軛は取り除かれ、その重荷は彼らの肩からなくなります。「これは主のご計画の一つです。誰がこれを破れようか。御手が延ばされた、誰がこれを戻し得ようか(14::27)」」。
「異邦の使徒たちに何と答えようか。「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちはこれに身を避ける(14:22)」。ここには「神の国」の到来が預言されています。彼らは、最終的には、ここに憩うのです。
ペリシテ:「アシュケロン」「アシュドデ」「ガザ」、「エクロン」「ガテ」のう五つの町、五人の王によって統合された国をさします。ペリシテ人はユダの低地にある町々に侵攻し、これを取り、そこに住んだのです。
令和4年7月12日 報告者 守武 戢 楽庵会




イザヤ書Ⅳ 9~12章

2022年06月12日 | Weblog

イザヤ書 Ⅳ 9~12章
はじめに




9章: 「しかし、苦しみのあったところに、闇がなくなる。先にはセルブンの地とナフタリの地は、辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、光栄を受けた。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が照った(9:1~2)」。セブルンの地、ナフタリの地とはともに北イスラエルの地です。その地がアッシリヤによって辱めを受けたのです。アッシリヤによる侵入を指します。しかし、アッシリヤを用いたのは、主ご自身でした。セブルン、ナフタリの地は、ガリラヤの地と言い換えられています。この地は先には、辱めを受けますが、後には光栄を受けるのです。腐敗堕落したユダヤ民族は、主の裁きを受けますが、後に、主によって贖われるのです。6節から7節にかけて、その状況が預言されています。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(9:6)」のです。このみどりご(インマニュエル)、こそが、ダビデの末裔、新約聖書の神の子イエス・キリスト(メシア)なのです。イエスはガリラヤで生まれ、その活動の拠点をこの地においています。「今よりとこしえまで、万軍の主の熱心さがこれを成し遂げるのです(9:7B)」。預言的完了形で書かれています。未来において確実に起こることが語られています。
民の悔い改めを求める主の怒り
主は3つの定型句を用いて主の怒りを現しています。その定型句とは「それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている」と言うものです。9章の12,17,21節に示されています。この定型句は5章25節、10章4節にもあります。汚れた民は充分に罰せられているのに、それでも神の怒りは収まらないのです。
1,8~12節;民の虚勢に対するさばき:主がヤコブ(イスラエル)に一つの言葉を送られた。それはイスラエルに落ちた。この民エフライムとサマリヤに住む者たちは皆、それを知り、高ぶり、思いあがった。そこで主はレツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちを煽り立てる。東からはアラムが、西からは、ペリシテ人が、イスラエルを頬張って食らう。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
2,13~17節:イスラエルの指導者に対するさばき:しかし、この民は、自分を打った方に立ち帰らず、万軍の主を求めなかった。そこで主は、イスラエルから、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。この民の指導者は、迷わすものとなり、彼らに導かれるものは惑わされる。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
3,ユダを攻撃しようとするエフライムとマナセに対するさばき:マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らは一緒にユダを襲う。それでも御怒りは去らず、なおも、御手を伸ばされている。
10章 :9章の8節~10章の4節までは、北イスラエルに対して語られた主のことばです。10章の5節からは、アッシリヤについて語られています。
「不義の掟を制定するもの、災いを引き起こす判決を書いている者たち」とは北イスラエルの指導者たちです。この指導者たちが織り成す不義とそれに対する刑罰が、この10章1~4節に描かれています。この指導者たちの行う不義とは、社会的弱者(寄る辺ない者、悩む者、やもめ、みなしご、たち)に対する抑圧です(10:1~2参照)」。主は言います。「刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたはどうするのか。誰に助けを求めて逃げ、どこに栄光を残すのか。ただ、捕らわれ人の足元に膝をつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ(10:3~4A)」と。刑罰の日=主のさばきの日を指す。具体的にはアッシリア(あらし)の侵攻です。このとき、アッシリヤは主のさばきの道具に過ぎません。主を忘れ人に頼るイスラエルは滅びる以外にはないのです。北イスラエルは、この時アッシリヤに屈し捕囚の民となり辱めを受けるのです。それでも御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている(10:4B)。主の怒りの激しさが現わされています。
北イスラエルは滅亡し、以後アッシリヤに関して語られていきます。アッシリヤはアラム(シリア)イスラエル連合を打ち破り南王国ユダにまで迫ってきた国ですが、このアッシリヤについて3つのことが語られています。
1,アッシリヤの高ぶり(10:5~15)
2,高ぶるものへの裁き(10:16~19)
3,頼れるものは主以外になし(10:20~34)
1,アッシリヤの高ぶり:主は、様々なものを用いて、罰や恵みを与えます。今回は、アッシリヤを用いてエルサレムやサマリヤを罰しています。「ああ。アッシリヤ、あなたは怒りの杖。彼らの手にあるわたしの憤りのむち。わたしはこれを、神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる(10;5~6)」。このように、あくまでもアッシリヤは罪深き民を裁くための、主の道具にすぎません。しかしアッシリヤはこれを理解しません。「私は自分の手の力でやった、私の知恵でやった、私は賢いからだ(10:13A)」と。すべては自分の力で成し遂げたものであり、これに抵抗するものなしと誇り高ぶります。「斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることが出来ようか。のこぎりは、それを引くものに向かって、おごることが出来ようか。それは人が、それを振り上げる人を動かし、枝が木でない人を持ち上げるようなものではないか(10:15)」と、神の前では謙虚であれと警告しています。
2,高ぶるものへの裁き:「主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する(10:12)。「イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上って、そのおどろと、いばら(アッシリヤ)を、一日のうちになめ尽くす(10:17)」。「主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいもからだも滅び尽くす。それは病人が痩せ衰えるようになる(10:18)」。アッシリヤの衰えが語られています。 
3,ただ主のみを頼れ:「その日になると、イスラエルの残りのもの、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つものに頼らず、イスラエルの聖なる方、主にまことをもって、たよる。残りのもの、ヤコブの残りのものは、力ある神に立ち帰る。たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りのものだけが立ち帰る。壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:20~22)」。
 その日:アッシリヤが倒れた日であると同時に世の終わりを指す。
 残りのもの:海の砂のように、多くのものは主に従わぬ者たちであったが、その中にあってわずかではあるが主に従うものが見られた。彼らを残りの者と呼んでいる。「壊滅は定められており、義があふれようとしている(10:22)」壊滅するのはアッシリヤであり、残りの者の義はあふれんばかりだったのです。主は一人でも自分に義なるものがいる場合、これを救います。だから主は言います「アッシリヤを恐れるな」と。アッシリヤが主の道具としての役割を果たして、イスラエルの民が悔い改めて主に立ち返った日に、道具としての立場を忘れ、高慢になったアッシリヤを主は滅ぼすのです。勿論主は自分の手は汚しません。復興した新バビロニアを使います。「その日になると、彼(アッシリヤ)の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首からのぞかれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる(10:27)」のです。その日とは、アッシリヤの滅びを指すと同時に、サタンの滅びの日でもあるのです、神の国の到来を告げています。主は自分を頼るものには恵みを与え、より高い場所へと引き上げてくださるのです。
 11章:エッサイの根 アッシリヤによってイスラエルと言う木は切り倒されます。しかし根こそぎにされたわけではありません。切り株は残されイの根たのです。ここに主の恵みを見ることが出来ます。切り株がある限り、そこから新芽が生まれ、美しい花を咲かせるからです。この花こそ、エッサイの子ダビデの子孫イエス・キリストです。「その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目と耳によってさばかず、正義と、公正をもって寄る辺なきものや、貧しきもののために判決を下す(11:2~4参照)」のです。ダビデの世継ぎの子イエスがメシア(キリスト)になるのです。ここには、神との契約があります。アブラハム契約です。この契約は片務契約であって、無条件契約です。イスラエルに大地を与え、子々孫々に渡って、その増大繁栄を約束しています。この契約がある限り、イスラエルは多くの困難を乗り越えることが出来、それゆえ、神は、彼を保護されるのです。
 そして次に、千年王国の平和と平安が預言されています(11:6~9参照)。猛獣(獅子、豹、熊、コプラ)と、犠牲獣(子羊、小山羊、雌牛、子牛、肥えた家畜)の共生が語られます。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、損なわない。幼子は何の危険も感じず大地を飛び跳ねます。以上のように、主の知識(信仰)が海を覆う水のように、行きわたると、完全な平和が訪れるのです。
 国々の旗:「その日(キリストの再臨の日)、エッサイの根(キリスト)は国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼の憩う所は栄光に輝く(11:10)」。世界の人々がキリストを自分の避け所、栄光とします。
 二度目の帰還:一度目は、11:16B参照。出エジプトを指します。「その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、海の島々から買い取られる。主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる(11:11~12)」のです。いわゆる捕囚からの解放です。主のさばきは、ユダヤ人を諸国に散らすことで終わりますが、主の回復は、ユダヤ人を帰還させるところから始まります。「エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない(11;13)」。同じ民族、同じキリスト教徒は、和解するが、異民族、異教徒に対しては、主は、厳しく対処します。イスラエルは西のペリシテ人を襲い、東の人々をかすめ奪い、エドムとモアブにも手を出し、アモン人も従わせます。かつて、自分たちを苦しめていた異教の国々を逆に支配します。
残りの者:歴史的に見る時、破局の後に生き残って、その民族の将来を担う数少ない者と言うより、神の救いと選びに預かった数少ない信仰の人と言う意味付けが強い。終末的文脈で語られることが多い。「残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上ってきた日に(主)がイスラエルのために備えられたように(11:16)大路が備えられたことと、エジプトの川が浅くなったことは、捕囚の民の帰還を容易にし、妨げる者がいないことを現しています。
12章:主の救い: 1、賛美:「その日、あなたは言おう。『主よ、感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくだいさいました』(Ⅰ2:1)」。主の怒りは、イスラエルを滅ぼすためではありません。主はイスラエルを愛しています。そのイスラエルが自分を裏切ったのです。その悲しみからくる怒りです。その怒りは去ります。しかしその条件として「悔い改め」を要求していません。すでにキリストの十字架の死によって、贖われているからです。さらに、そこには無条件の契約があります。子々孫々の増大繁栄が約束されています(アブラハム契約)。イスラエルの民は言います。「見よ。神はわたしの救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私の褒め歌。私のために救いとなられた(12:2)」と。救いは主に対する「信頼」から生まれます。これはイザヤ書が一貫として掲げている教えです。ただ主にのみより頼むとき、すべての恐れは消え失せ、平安が与えられます。主は私のために救いとなられたのです。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水をくむ(Ⅰ2:3)」。私たちの喜びの源は、主の救いから出て来ます。私たちは罪人であるにもかかわらず、神が一方的にあわれんでくださり、キリストの贖罪によって私たちを救ってくださったのです。この事実からくる喜びです。
2:宣教:賛美の呼びかけの声から、宣教への呼びかけになります。
「その日、あなたがたは言う『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。その御業を、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主を誉め歌え。主は素晴らしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる。大いなる方。』(12:4~6)」。主は素晴らしいことをされた:我々の罪を贖ったことを指します。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる:主は、常に。われらと共にあります。
令和4年6月21日(火)報告者守武 戢 楽庵会
 

 

イザヤ書Ⅲ 苦しみの所に 6~8章

2022年06月11日 | Weblog
  
イザヤ書Ⅲ 苦しみの所に 6~8章
 はじめに:アッシリヤ:「北部メソポタミアのティグリス河の中・上流を中心とし、全オリエントにわたる統一帝国を築いた民族。前2,000年紀初めに勃興し前612年に滅びるが、特に第1イザヤの時代に最盛期を迎え、残忍な征服者として恐れられた。ティグラト・ピレセル3世の治世(前744~721)に、シリア・パレスティナへの遠征を繰り返し、これを侵略して貢物を取り立てた。従わなかったアラムを前732年に、北イスラエルを前722年に滅ぼす。サルゴン2世の時代(前721~705)には、ペリシテ諸都市を中心とする反アッシリヤ連合を粉砕する。さらにセンナケリブの治世(前704~681年)では、バビロニアの反乱を鎮圧し、この時代に初めて表立ってアッシリヤに反旗を翻したユダには、前701年に来寇し、多額の賠償金を課す。こうした歴史の諸段階を反映した記述がイザヤ書の随所にみられる。首都はアシュル、カラハ、ニネベと変わった。なお王宮や神殿を飾ったレリーフや彫刻は、芸術的にも歴史的にも価値が高い」。関根清三訳 岩波書店「イザヤ書」より。
 6章: ウジヤ王の死んだ年に、イザヤは高く上げられた王座に座しておられる主を見た。主は天使の一人セラフム(人の罪を清める天使)に守られて章:いた。セラフィムとは、天使の一人であり、天使の9つの階級のうち最上位とされています。彼らはそれぞれ6つの翼をもち、おのおのその2つで顔を覆い、2つで両足を覆い、残りの2つで羽ばたく、と言われています。
彼らの歌う合唱によって、神殿は土台から揺らぎ、たちまち煙でいっぱいになります。イザヤは怖くなって叫んだ。「ああ。私は、もう駄目だ。私は唇の汚れたもので、唇の汚れた民の中に住んでいる。しかも万軍の王である主をこの目で見たのだから」と。イザヤは自分の罪を自覚し、絶望します。このイザヤ罪をセラフィムの一人が救ったのです。このセラフィムは言います。「あなたの不義は取り去られ、あなたの罪は贖われたのです(6:7B)」と。      次に、主によって罪を贖われたイザヤへ召命が下ります。イザヤは主の召命の呼びかけに積極的に応じます。イザヤの本格的な預言活動はこれより始まります。それまでの活動は準備段階であったのです。
 しかし主がイザヤに与えた民への言葉は「聞き続けよ、だが悟るな、見続けよ、だが知るな」と言うものでした。ここには主の民に対する不信が語られています。民との接触を勧めながらも彼らの過ちに影響されるなと、主は、イザヤに警告しているのです。しかし、主は、イザヤに対して、こんな民に「悔い改めを求めよ」とは言っていません。逆に、「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くさせ、その目を堅く閉ざさせ、自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返って癒されることのないように(6:10)」せよ、と命じます。非常に奇妙な命令です。いわゆる頑迷預言と言われるものです。民を頑迷にするために主によって、預言者(イザヤ)が遣わされたのです。イザヤの意図は一貫として民の救済を探求し、同時に罪の悔い改めを実現することによって、頑迷預言の撤回を主に期待したのです。それゆえ、「主よ、いつまでですか」と、問うているのです。これに対して、主は「すべてが滅びるまで(6:11~12参照)」と応じています。しかし、「すべてが滅びるまで」ということは頑迷預言の撤回ではなく、成就を意味します。しかし、すべての木が切り倒されても「切り株」は残るのです。「聖なるすえこそ、その切り株(6:13B)」この切り株から新しい若芽が生えてくるのです。主はこの若芽に期待したのです。若芽とはメシアです。主は。頑迷預言のかなたにメシア(イエス・キリスト)を見ていたのです。
 7章: 7章には、主によるイスラエルに対する審判預言が語られています。BC734年のこと、アハズ王の時代。北の大国アッシリヤが攻めてくると言う報告に接し、脅威にさらされたアラムと北イスラエルはパレスチナの諸国を糾合して連合を造り、南ユダにも参加を求めました。しかし、南ユダはこれを拒否します。これに怒った諸国連合は南を攻めたのです。しかし、勝つことは出来なかったが、負けてはいなかったのです。エフライムの地にとどまって南を窺っているという報告を受けます。アハズ王もその民も動揺します。主はイザヤに言います。『息子シェアル・ヤシュブと共にアハズ王に会え。そして言え「気を付けて静かにせよ、恐れるな、彼らは煙る、燃えさしに過ぎない。だから心を弱らすな」と。主は彼らの滅びを預言しています。しかし、「彼らは言う『我々はユダに攻め入り、占領し、タベアルの子を擁して傀儡政権を造ろう』と」それに対して主は言う「そのことは起こらないし、ありえない。それどころか65年のうちにエフライムは粉砕されて民ではなくなる」と。主は彼らがアッシリヤの大軍に滅ぼされることをいみじくも預言したのです。それは現実のものとなったのです。しかしこの言葉はあくまでも65年後の預言です。主は再びイザヤを通じてアハズこう言われた。「「あなたの神、主から、しるしを求めよ。黄泉の深み、あるいは、上の高いところから」と。アハズは応えて言います。「『私は求めません。主を試みません』と。アハズ王は厳しい現実の前に立ち、主を信じることが出来なかったのです。「主を試みません」と一見信仰的姿を示しますが、実際には、アハズは主を拒否したのです。婉曲に断ったのです。救いを神に求めるよりも、人に求めたのです。その人とはアッシリヤ帝国だったのです。アハズはアッシリヤの助けを借りて、当面の敵アラム(シリヤ)・エフライム連合には打ち勝ちます。しかし、その後、アッシリヤの脅威にさらされます(7:16参照)。「昨日の友は、今日の敵」、なのです。
そんなアハズ王に対してイザヤは言います。「「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を生み、その名を「インマニュエル」と、名付ける―――」。インマニュエルはイエス・キリストの呼び名の一つです。「主は、われらと共にあり」と言う意味であり、救いのしるしを現しています。人に頼るアハズに対して、「真の救いは主のほかになし」。と、イザヤは言っているのです。
「この子(インマニュエル)は、悪を退け、善を選ぶころまで、凝乳と蜂蜜を食べる(7:15)」。キリストは、その贖いの死まで、主に対して義なる存在であったことを示しています。更に、貴重な食べ物である凝乳や蜂蜜を食することのできる平和な環境(神の国)が生まれてくることも預言しています。それはメシアの到来の日です。そしてこの子がキリストとして成長する以前に、アハズ王に敵対していた二人の王(レッィンとペカ)は、滅びます。残るは、アッシリヤの脅威です。
 18節以降、イザヤは、「その日(7:18,20,21,23)になると」と言う言葉を用いて、主の審判を語ります。救済預言(16節以前=インマニュエル預言)と審判預言(18~25)の間にアッシリヤ来寇預言(7:17)があります。アッシリヤの来寇は、エルサレムの罪に対する神の審判なのです。
 「その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあの蠅、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。すると彼らはやって来て、みな険しい谷、岩の割れ目、すべての茨の茂み、すべての牧場に巣くう(7:18~19)」。地上のどんなに巨大なものも神の掌中にあります。エジプトであれ、アッシリヤであれ、その支配から免れることは出来ないのです。イスラエルの罪を裁くために主は彼らを使ったのです。主はアッシリヤを使って、その日、残酷の限りを尽くし、その尊厳を傷つけます(7:20参照)。また、「その日になると、一人の人がやって来て雌の小牛一頭と羊二頭を飼う。これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる(7:21~22)」。イエスは、5個のパンと2匹の魚で男だけで5000人の人の食欲を満たします(マタイの福音書14:14~19)。同様に、イザヤも、わずか、雌の小牛一頭と羊二頭で、国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食するようにしたのです(7:21~22)」。主の恵みは人の意識を超えて偉大なのです。審判預言の中でこの部分だけは救済預言です。審判の中に救済もあることを、この部分は語っています。
 次も審判預言です。「その日になると、ぶどう千株もある銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろ(藪)のものとなるのです。全土がいばらとおどろになるので、耕作地は捨てられ、人は弓をとり、狩人になり獣を狩る以外にないのです。そこは牛の放牧地、羊の踏みつけるところとなる(7:23~25参照)。これは、主がないがしろにされ、人の力があがめられた結果なのです。
 8章:1、神が共におられる
 この章の初めに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と言う言葉が出て来ます。これはイザヤが主から与えられた第二子の名前です。その意味は「分捕り物を急ぎ、戦利品を速やかに」と言う意味です。略奪者(アッシリヤ)が来てアラムとエフライムを滅ぼし、財宝を奪っていくことを、この子を通して預言しているのです。事実まだこの子が小さいうちに、この預言は実現しアハズに敵対するシリヤ(アラム)と北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされ、その財宝は略奪されたのです。アハズはこれを喜びます。しかし皮肉なことに、今度は自らが、アッシリヤに攻められることになるのです。しかし、アッシリヤは、多くの死者(18万5千人)を出し、その包囲網を解き退散したのです(37:36~37参照)。そこには神の恵みがあったのです。
 主はイザヤに言います。「この民は、ゆるやかに流れるシロハの流れをないがしろにしてレッインとレマルヤの子を喜んでいる」と。シロハの流れとは、エルサレム東方の丘にあるギボンの泉から湧き出た水を、エルサレムの町に沿って運ぶ水道であり、住民にとってはいのちの水なのです。主の守りと導きの象徴です。この水(主)をないがしろにし、レツィンとレマルヤの子の滅亡を喜んでいる民に対して主は怒ります。ユーフラテス(アッシルヤ)を溢れさせ、ユダに流れ込ませ、洪水をおこし、民を溺死させるのです。ユダは、陥落寸前にまで追い込まれます。
 「インマニュエル。その広げた翼は、あなたの国一杯に広がる(8:8B)」。インマニュエルと言う言葉があります。それゆえ「その広げた翼」とは主を指します。「国々の民よ。うち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯して、わななけ。わななけ。図り事を立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それはならない。神が、私たちと共におられるからだ(インマニュエル)」。どんなに主に逆らっても、主は契約の民を守られるのです。「国々の民」とは、アッシリヤ、アラム、北イスラエルをさします。
 2、主が、聖所となられる(8:11~16)
 私たちは絶えず主を恐れるか、人を恐れるかの選択に迫られます。私たちが恐れなければならないのは「万軍の主」なのです。この方を恐れ、この方をおののきとしなければならないのです。
 「この民の道に歩まないように(主)はわたしを諌めて仰せられた。『この民が謀反と呼ぶことを謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを、恐れるな、おののくな』」この民の道とは、アハズおよび、その民の歩んだ道を指します。彼らは主をないがしろにして、裏切られるのも知らず、アッシリヤを選んだのです。その道を歩むなと言うのです。そして助言します「万軍の主。この方を、聖なる方とし、この方をあなたがたの恐れ、おののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまづきの岩、エルサレムの住人には罠となり、落とし穴となる。多くのものがそれにつまずき、倒れて砕かれ、罠にかけられて捕らえられる」。
 聖所:主が共におられる場所。主の臨在する安全な場所。
 イスラエルの二つの家:アマルとエフライム(シリヤと北イスラエル)。
 この同じ方(主)が聖所になったり、つまずきの石になったりします。信仰するものか、不信仰のものかによって分かれます。
「このあかしを束ねよ。この教えを、わたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ」主のあかしと教えを心に束ねて、しっかり蓄えておくようにと、イザヤは言います。主の、御言葉のみが私たちの道を照らし進むべき道を導いてくださるのです。聖書の言葉を、確信をもって、また聖霊をもって受け入れ、信じていくときにこそ、私たちは自分が主に愛され、選ばれた者であることの確信を得ることが出来るのです。
 3,主を待ち望め(8:17~22)
 ヤコブの家から身を隠しておられるお方:当時のイスラエルの状況を現しています。ヤコブの家=イスラエルは不信仰者に満ちていました。主は、怒って地上から身をお隠しになったのです。それゆえに、イザヤは主の恵みを求めます。この方を待ち望み期待をかけたのです。「見よ。私と主が私に下さった子供たちとは、シオンの山に住む万軍の主からの、イスラエルでのしるしとなり不思議となっている(8:18)」と語ります。主が私に下さった子供たちとはシェアル・ヤシュブ(7:3)とマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(8:3)を指します。彼らは不信仰者で満ちたイスラエルにおいては信仰のあかしであり、また不思議な存在だったのです。「人々があなたがたに『霊媒や、さえずり、口寄せ、を尋ねよ』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか(8:19)」と主は仰せられます。霊媒、さえずり、口寄せ、とは、あくまでも偶像であって、これらに尋ねよということは、死んだ神を崇拝する偶像崇拝になるのです。それに対して人は教えと、証し、を尋ねなければならないのです。「この言葉に従って語らなければ、その人には夜明けがない(8:20)」のです。「彼は迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神を呪う。地を見ると、見よ、苦難と闇、苦悩の暗闇、暗黒、追放された者(8:21~22)」。主をないがしろにする者は厳しく裁かれるのです。     
 
令和4年6月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会












イザヤ書Ⅱ イザヤの檄文2 3~5章

2022年06月11日 | Weblog

イザヤ書2 イザヤの檄文2 3~5章
はじめに: 5章の8~9節は、宗教界の外に。まったく別の世界が生まれてきたことが語られています。それは貨幣経済の浸透です。ウジヤの時代、近隣諸国からの貢物と、王の支配下にあった大土地所有者のもたらす富でユダ王国は富んでいました。王自身も大土地所有者の一人でした。小農は収奪され、その土地は大土地所有者の手に集められました(5~8参照)。大土地所有から生み出す富は自給を超え、余剰を生み出します。分業が促進され、その余剰が商品化されたのです。貨幣経済が始まります。成金たちは土地を買い占め、富を蓄積します。その富で。交通網は整備され、拠点には問屋が出来、商品交換を促進します。海外貿易も盛んになります。ぜいたく品が、国に流入します。小農は、土地を失い、没落し、農奴となったり、都会に出て、職を求めます。失業者が巷に溢れます。階層分化が進みます。一方に富が蓄積し、他方に貧困が増大します。その富に目を付けたのがバビロンでありアッシリアだったのです(5:26)。貨幣経済のおおもとは大土地所有にあります。これは、土地は神のものであるという旧約聖書の宗教理念に反し、また、同胞間の平等の精神にも悖るものでした。
3章: エルサレムがつまずきユダが倒れたとき、すなわち、アッシリヤやバビロンによって分裂したイスラエルが滅亡に瀕したとき、主はこれを「彼らの舌と行いとが主に背き、主のご意向に逆らったからである(3:8)」と結論しました。そしてアッシリヤやバビロンが彼らの生活から支えと頼りを取り除いたことを、神の怒りの現れと示されたのです。責任のすべてを、彼らの主に対する不信仰に帰しました。2章の終わりに主は「鼻で、息する人間を頼りにするな、そんなものに何の値打ちがあろうか(2:22)」と、彼らの受けた災厄を神をないがしろにした結果であると結論付けます。主は論争するために立ちあがり、民を裁くために立つ(3~13)」のです。「わが民よ、あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す(3:12B)」、「なぜあなたがたは、我が民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか(3:15参照)」「まことに見よ、万軍の主、主はエルサレムとユダから支えと頼り(パンや水、軍人、預言者、裁判官、占い師、長老、等々)を除かれる。これらは、民にとって必要不可欠なものです。主は、なぜ、これら必要なものを取り除いて、その生存を脅かそうとするのでしょうか。「イスラエルの民は、主が守り、保護すべき契約の民ではないのか」と言う疑問は当然起こってきます。しかし、この契約には、「我に対して全きものであるなら」と言う条件付きであることを忘れてはならないのです。イスラエルの民は、今迄、見てきたように、主に対して罪を犯し続けてきました。その状況がこの章に語られています。主は、罪に満ちた民に、「わたしは、若い者たちを彼らの司とし、気まぐれものに彼らを収めさせる(3:4)」と述べています。さらに「わが民よ、幼子が彼を虐げ、女たちが彼を収める(3:12)」。とも言っています。若いものや気まぐれもの、幼子や女は、統治能力のないものを象徴しています。主はこの状況を「わが民よ。あなたの指導者は迷わすもの。あなたの歩む道をかき乱す(3:12B)」者と見做します。ここには、その生活を人に頼り、神をないがしろにするイスラエルの民(彼)の罪(悲劇)が語られています。本来、国のリーダーたる者は、人々の繁栄のために、しもべとなって、仕えなければならないのです(サーバントリーダー)。
その日、主は、もろもろの飾り(足飾り、神の輪飾り、三日月型の飾り物、耳輪、腕輪、ベール、礼服、羽織、外套、財布等々)を、イスラエルの民から取り除く、侵略者による略奪を意味します。さらに「あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ(3:25)」、さらに、人々は捕囚としてバビロンに連れ去られたのです。「その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す(3:26)」のです。イスラエルの被った災厄を、主はその不信仰に帰しています。主は、心から民が信仰に戻り自分と共にあってほしいと願っておられるのです。
4章: 「その日、7人の女が1人の男に縋り付いて言う『私たちは、自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちを、あなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください』(4:1)」と。戦場で多くの男性は死んでいきました。1人の男性を求めて多くの女性(7人の女)が群がります。彼女たちの生活は、何とか安定しています。彼女たちが求めるのは男性です。しかも、同じ名前で呼ばれることを願っています。人妻になりたいという願望です。寡婦となって奴隷的な保護を男に求める卑屈さ(世間のそしり)を拒否します。しかし、本来、彼女たちが求めなければならないのは、主であって男(人)ではないのです。
「その日、主の若枝は麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる(4:2)」。
ここに「主の若枝」が登場します。7人の女を民衆と見做すならば、主の若枝とは、民衆が心から求めているメシアを指します。「主の若枝」とは、数あるメシアの呼び名の一つです。
地の実とはエルサレムを指します。
のがれた者とは侵略者と戦って生き残ったものを指します。主を信じています。「シオンに残された者、エルサレムに残ったものは、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である(4:3)」。
「いのちの書」:天国に導かれるための救いの書です。「イエス様は、悪霊を追い出して戻ってきた弟子たちに対して『ただあなたの名が天に書き記されることを喜びなさい』と言われました(ルカ、10:20)」。
「主が裁きの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき(4:4)」、
焼き尽くす火:主の審判は「焼き尽くす火」で、象徴されることが多い。
シオンの娘の汚れ:女性の出血(月経)を現す。当時出血する女性は不浄な者と見做されました。
エルサレムの血を洗い清めるとき:エルサレムの罪(不浄)が解放される時。
 「主はシオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、覆いとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける影となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ(4:5~6)」。
昼は雲、夜は燃える火:出エジプトのとき以来、昼は雲が、夜は燃える火が、主の臨在と庇護を象徴したのです。
5章:5章は次の言葉から始まります。「さあ、我が愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑について、わが愛の歌を。我が愛するものは良く肥えた山腹にぶどう畑を持っていた(5:1)」我が愛するぶどう畑とは、イスラエルのことです。主はイスラエルをこよなく愛していました。主は良いぶどうを造るために精魂込めて土づくりをし、良いぶどうの種を植え、監視のためのやぐらを立て、ぶどう酒を造るために酒舟まで用意したのです。良いぶどうが出来るのが期待されました。しかし、実ったのは酸いぶどうでした。酸いぶどうの実った責任はどこにあるのか。主は自分の作業に誤りがあるなら、「わたしを裁け」と言います。主の成されることに誤りはありえないのです。わたしに、その責任が無いならは、あなたがたにあるのだ、と怒りをあらわにします。主はその後のぶどう畑に対する面倒を一切見ず、荒れるに任したのです。「まことに万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び(5:7)」。ここには主とイスラエルの民との間の葛藤が描かれています。和解は成立していません。侵略者の成すに任せます。
次に6つの忌まわしい罪が「ああ、」と言う言葉とともに始まります。
1, 富に安住する罪(5;8~10)
2, 道楽にふける罪(5:11~17)
3, 公然と主を侮辱する罪(5:18~19)
4, 価値観を逆転する罪(5:20)
5, 悪の正当化と、その理論武装の罪(5:21)
6, 大酒飲みの罪、強い酒を混合させる罪、賄賂をとって公正な裁判を行わない罪(5:22~23)
 3つ目から6つ目までの忌まわしい罪は、みな、道徳的、また霊的な忌まわしさです。これらはみな「み教え」をないがしろにして、聖なる方の、み言葉を侮ったゆえの罪になるのです。
 このように、彼らが、万軍の主の御教えをないがしろにし、イスラエルの聖なる方を侮ったゆえに、そこに主が裁きをもって介入されるのは至極当然なことなのです。主の怒りは大地震を起こしてその罪を裁かれます。それでも主の怒りは収まりません。主が、遠く離れた国(バビロン)に地の果てから来るように合図すると、彼らは速やかに来ます。そして、イスラエルの地を蹂躙します。救おうとしても救い出す者はいません。「地を見やると、見よ、闇と苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる(5:30B)」。のです。
楽庵会