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日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨブ記3 9~11章

2022年01月31日 | Weblog
  ヨブ記 3、9章~11章
  はじめに
 3人の友人は言う「罪があるから、罰があるのだ」、「だから悔い改めよ」と、それに対してヨブは言う「罪がなければ、罰はない」、「我は義なり」と。3人の神学が「因果応報論」ならば、まったくの真逆であっても、ヨブの考えも、また「因果応報論」です。それゆえ、罪がないのに災厄(罰)に会うことをヨブは理解できません。ヨブにとってはあくまでも、それは不条理の世界なのです。ヨブは「なぜ」、「なぜ」と神に問います。それは、ヨブの神の意図の無理解から来ています。因果応報論に立つ限り神の応答はありません。救いはないのです。
 9章 9章ではビルダデの神学に対するヨブの反論が示されます。
 8章ではビルダデは「神は公義を曲げるであろうか、全能者は義を曲げるであろうか(8:3)」と述べています。これは、罪があるから、罰がある。という因果応報論です。ヨブはこのような神学に対して「まことにそのようである」と答えています。一般論としてのこの規定を否定していません。しかし自分の真実は別にある、と言って語り始めますが、しかし、「どうして自分の正しさを神に訴えることが出来ようか(9:4)」と、人の小ささを示し、神の偉大さの前に、恐れおののき、自分の正しさを主張することが出来ないでいます。「たとえ神と言い争うと思っても、千に一つも答えはあるまい(9:3)」「神は、人に較べて超越的、絶対的に正しいのだから、神の前に己をかたくなにして、誰がそのままで済むだろうか(9:4)」と神を畏れます。その後、神の偉大さが数々示されます。「神は大いなることを行って測り知れず、その奇しき御業は数えきれない」と賛美します。神は霊的な、目に見えない存在です。「ああ神が奪い取ろうとするとき、誰がこれを引き止めることが出来よう。だれが神に向かって『何をなされるのか』と言えよう」。奪うものとは、ヨブの財産と命のことです。ヨブは苦しみの中にあって、自分は正しくても、何もできず、ただ、あわれみを請うだけだと、神を受け入れます。それにもかかわらず、神は容赦なくヨブを打ち砕き、理由もないのに彼の傷を増し加え、彼に息もつかせず、苦しみで満たします。ヨブは言います。「私は、潔白だと叫んでも、神は、私を罪人に定める。私には自分自身がわからない。自分は神に義なる人間だと確信していても、なぜ罪びととして裁かれねばならないのか。私は苦しみの中で死を望む。神は罪のない者の受ける試練をあざ笑う」。ヨブには神の行為の意図が全く見当がつかないのです。
神はヨブが潔癖な人間と知っていながら、サタンに災厄を与えることをお許しになったのです。その信仰をお試しになったのです。だから、どんなにヨブが自分の正しさを証明したところで、神がその苦しみを取り除くことはないのです。神とヨブの溝は決して埋まることはないのです。いや、ヨブが勝手に溝を作っていたのです。ヨブは神の意図することを全く理解することが出来なかったのです。
「我は義なり」と確信しながらも、自分の知らないところで罪を犯しているかもしれない。ヨブは叫びます「「罪があるなら、それを我に知らせよ」と。しかし神は沈黙を守り応答はしません。神は霊的な存在で、目に見ることのできない存在です。直接に接することのできない存在です。そこでヨブは神と自分との間の溝を埋める、目に見える形の「仲裁者」を、望みます。その存在こそ、目に見える形の、贖い主としてのイエス・キリストです。イエスは100%神であると同時に100%人間なのです。ヨブはこの「仲裁者」によって救われることを望んだのです。「罪と、さばき(教育的訓練)と、救い」、この考えは一般論としては正しくても、ヨブには当てはまりません。この考えも、基本的には、「因果応報論」です。
「神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私を怯えさせないように。そうすれば私は語り掛け、神を畏れまい。今、私はそうでないからだ(9:34-35)」と仲裁者のいないことを嘆いています。
 10章:ビルダデに対するヨブの反論はつづきます。しかしそれはビルダデに対する反論というより。自分の思い(魂の苦しみ)を神に訴えているといって良いでしょう。
 ヨブは神に激しく問います。なぜ、いま私と争われるのですか、と。
 1,悪者の測り事に目を向けるのは良いことなのなのですか(10-3)。
 2,あなたは肉の目を持っておられるのですか(10-4A)。
 3,人が見るように、あなたも私を見られるのですか(10-4B)。
 4,あなたの日々は人の日々と同じなのですか(10-5A)。
 5,あなたの年は人の年と同じなのですか(10-5B)。
ヨブは神が自分の立場を忘れて人の立場に立って自分を裁いている、と見做しています。それは神に義なるヨブには耐えがたきことです。そして言います「それであなたは、私の咎を捜し出し、私の罪を探られるのですか」と。
もはや、ヨブには神の意志が全く分かっていません。自分には罪がないのに重箱の隅をつついて罪を捜し出し、さばいているのだと怒ります。さらに言います「私は、あなたの被造物です。それにもかかわらず、なぜあなたは被造物である私を滅ぼそうとされるのですか。塵に帰そうとするのですか」と、そして「私が、頭を持ち上げると、私に対して恐るべき力を振るわれるでしょう」と怒り心頭です。「あなた(神)は、私の前に新しい証人たち(3人の友人)をたて、私に向かって、あなたの怒りを増し、私をいよいよ苦しめられるでしょう」。罪なき者に罪を着せ、それを怒れば報復する。それが神のすることか。ヨブは苦しみに耐えかねて、神に恨み言を云います。
ヨブは神を完全に誤解しています。ヨブがその災厄に耐え、その信仰を守り抜き、神にひれ伏さない限り、ヨブには救いはないのです。しかしヨブは、それを知りません。苦しさに耐えかね死を望みます。自分の懐妊、出産を呪います。余命いくばくもない体なのだから、せめて、その期間だけでも、私にかまわないで欲しい。黄泉に行く前だけでも明るくなりたい、と神に願います。ヨブは、自分の死を予感して、絶望的になっています。
黄泉:いったん落とされると再び帰れないところです。闇と死の影に行く前に通らねばならぬ場所です。そこは暗闇のように真っ暗な地。死の影があり、秩序がなく、光も暗闇のようです。
11章:エリファズ、ビルダデの後にツオファルが登場します。これで3人の友人とヨブの討論は一巡します。
ツオファルは、ヨブについて、その口先で、人の口を封じようとしている、恥じ知らずだ、とその態度は極めて不遜です。
彼は、頭からヨブの「私の主張は純粋だ、あなたの目にも清い(1Ⅰ-4)」という従来からの基本的な主張を否定します。そして言います「もし、神があなたに語り掛け、唇を開いてくださったなら、神は知恵の奥義をあなたに告げ、優れた知性を倍にしてくださるものを、知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださるものを(11:5-6)」と。ツオファルの神学も前の2人と同じく「因果応報論」です。神の超越性を語り、その罪を認め悔い改めるならば、その奥義で、あなたの知性を倍にしてくださるものをと語ります。ツオファルにとってもヨブは罪びとなのです。その罪びとであるヨブには、神の深さを、その極限を知ることは出来ないというのです。ヨブは神の真の意図を知りたいと思います。「なぜ」「なぜ」とその真意を探ります。しかし、神の智慧は、人の知恵では測り知れないほど、広く、深く、高く、長いのです。あなたに何ができ、何が知ることが出来るのかとツオファルはヨブに問います。万能な神のなさること(ヨブの災厄)をだれが引き止めることが出来ようか、と。神のなさることはすべて良きことなのです。ツオファルは神がヨブに与えた災厄を、ヨブの抱える罪ゆえだと断定し、「神は不真実な者どもを知っておられる。神はその悪意を見て、これに気がつかないであろうか(11:11)」と語ります。神の奥義が分かれば、「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる(11:12)」のです。「無知な人間も、野ろばの子も共にヨブを指しています。無知な人間も、野ろばの子も悔い改めて生まれ変わり、「心を定めて、あなたの手を神に向かって差し伸べるならば――あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな――そうすれば、あなたは必ず、汚れの無いあなたの顔を挙げることが出来、堅く立って恐れることがない(11:13-15)」と語ります。
その結果、「こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう(11:16)」。あなたの一生は、光輝き、暗くても朝のように輝き、栄光に満ち、あなたは安らかに休む。あなたが横たわっても、悪夢や幻に脅かされることはない。日々是好日である。生活は回復し、人々は災厄以前のようにあなたに好意を求めるようになると、ツオファルは言います。
「しかし、悪者どもの目は衰えはて、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みはあえぐ息に等しい(11:20)」。ヨブよ、悔い改めて神に帰れ、さもなくば、このようになるのだと、ツオファルはヨブに警告を発しているのです。当然ヨブは、これに反応して、怒りをツオファルにぶつけます。それが12章において語られます。                      
楽庵会

ヨブ記2 1~8章

2021年10月19日 | Weblog
ヨブ記2  1章~8章
 はじめに
 「ヨブ記」を読んで感じたことは、神はヨブの自分への信仰を試されたのだということです。3人の友人との論争は、結局は「戒律」か「信仰」かの選択なのだと理解しました。新約聖書の「パウロの書簡集」の大部分は「戒律」から「信仰」への導きでした。勿論「パウロ」は戒律を全面的には否定していません。「養育係」とみています。ヨブ記では3人の友人はヨブの内在的罪を問題として、教育効果として悔い改めと神への立ち返りを要求しています。戒律は「内における罪」からの解放を目指しています。パウロが否定したのは「戒律主義」であって「戒律」ではありません。3人の友人の思想はあくまでも「戒律主義」であって、ヨブのもつ神への信仰に目を向けることはなかったのです。そこに議論のすれ違いがありました。そこでヨブは、彼らとの論争を断念して、直接神に目を向けたのです。しかし、ヨブの信仰にも問題がありました。それは後に問題にします。
このことを前提にして、この書を読むとき、極めて分かりやすくなります。
 1~2章:ヨブとは
 1章でヨブの人となりが紹介されます。彼はウヅという土地に生まれ、神を畏れ、正しく、悪から離れている人でした。彼には男の子が7人と、女の子が3人おり、その家畜は、羊7千頭、牛500軛、雌ろば500頭で、しもべも非常に多く、東の人々の中で一番の富豪と呼ばれていました。彼は家族のために定期的に贖罪の生贄を捧げるほど敬虔な人でした。こんな敬虔な人に災厄が訪れたのです。それは天における神とサタンの談合の結果訪れたものだったのです。神はサタンにヨブの信仰の深さを誇ります。それに対してサタンは応じます。「ヨブのもつすべての財産を取り上げよ」と。そうすれば彼はあなたを呪うであろう、と。ヨブの信仰を信じて疑わない神は、それを行えとサタンに命じます。「しかしそのからだを犯すな」と制限を加えます。ヨブは一夜にしてそのすべての財産を失います。しかしヨブはそれによって神を呪うことをしませんでした。「私は裸で母の胎から出てきた。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」とその試練を受け入れます。天におけるサタンの挑戦は続きます。「しかし、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉を撃ってごらんなさい。彼はあなたを呪うでしょう」、と開き直ります。ヨブの自分に対する信仰を確信する神は、それも許します。「しかし命までは取るな」と命じます。ヨブの全身は腫物によって醜く傷つきます。彼は痛み苦しみます。この時、彼の妻は「あなたはなおも硬く保って、自分を全うするのですか。神を呪って死になさい」と。この妻はまさにサタンの心をもってヨブに接したのです。エバに接した蛇のように。ヨブは彼女に言います。「あなたの語ることはおろかな女の語ることと同じだ、『われわれは神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか』と。すべての財を失い、身は犯され、死を望みながらも、ヨブは神を呪うという罪を犯しませんでした。神から与えられた災厄を素直に受け入れ、忍耐をもって耐えたのです。神のなすことはすべて良きこと、その災厄がどんなに厳しくても、信仰をもって、耐えた者には、神は、最終的にはよき結果をもたらすのです。
この後3人の友人(テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダテ、ナアマ人ツオファル)がヨブを訪れ、腫物で崩れ落ちた体を見て、驚き悲しみます。
この後この3人とヨブとの間に神学論争が始まります。
 3章:心の痛み
ヨブは、全財産を失い、身は腫れ物によって崩れ落ちています。苦しみは頂点に達しています。しかし神に義なる彼は、それでも神を呪いません。生まれた日を呪い、出生後嬰児のうちに死ななかったことを呪います。そして死を望みます。しかし、死もかないません。それは天上における神とサタンの談合の時、「その命まで取るな」と神がサタンに命令していたことを知らなかったからです。
ここでヨブは最も基本的な問いかけをしています。「なぜ、自分は生まれたのか」「なぜ自分は生きているのか」「死とは何か」と、「生きる」ことの意味を問うているのです。
ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理な災厄を「なぜ」と神に問うているのです。次章より、この基本的な問題に関して、3人の友人と神学論争が展開していきます。
 4~5章:ヨブの災厄に対する、エリファズの神学
ヨブと3人の友人との論争の最初に現れたのはエリファズです。ここで彼の「苦難の神学」が明確に提示されます。
3章でのヨブの独白(なぜ、自分は生まれてすぐ死ななかったのか、なぜ、神は自分を生かしておられるのか)は、これから展開されるエリファズの「苦難の神学」の動機付けであるとみなすことが出来ます。エリファズが「私たち」と述べているように、その「苦難の神学」は、基本的には3人の友人の「共通の見解」と見做すことが出来ます。その一つは「因果応報論」です。原因と結果の法則であり、罪があるから罰があるのです。二つ目は、「神の愛に基づく教育的災厄論」です。その罪を悔い改めて、神に立ち返るなら、神はその優しさを発揮して、赦してくれるであろうというものです。
エリファズは言います。「1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか、どこに正しい者で絶たれたものがあるか。(4:7)」。2、「私の見るところでは、不幸を耕し、害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」と。
1、も2、も共に因果応報論です。ここには一面の真理はあっても、全面的真理はありません。誤りがあります。神の前では完全に義なる人物でも、正しい人でも、災厄にあって死んだ人物はいます。例えばイエス・キリストであり、アベルです。共に神が認めた義人です。イエスも、アベルも義なるゆえに殺されます。アベルの場合、カインは罰せられてもアベルを、神は救いませんでした。ヨブも神が認めた義人です。ヨブには「因果応報論」は、当てはまりません。しかし「災厄」に会います。ヨブは「なぜ」と問います。
次に第2の間違いです。エリファズは、「私の見るところでは」と自分の意見を神と同格に置いています。それは神に対する高ぶりです。神の最も嫌う行いです。長々と自分の神秘的体験を述べ、自分の意見を権威付け、ヨブに悔い改めを迫ります。しかしヨブには悔い改めるべき内なる罪は存在していません。それは神も認めるところです。神がヨブに与えた「災厄」は、神への信仰に対する試練であって、教育的訓練ではありません。しかし、ヨブも、エリファズもそのことを知りません。「苦しみは、塵から起こるものでなく、
悩みは土から生ずるものではない(5:6)」。不幸や、苦しみは、チリや土のような、外的環境から生ずるものでなく、人間の内側から生ずるものだと言います。「しかし、私であるならば、神に求め、神に私のことを任せる(5:8)」。自分の罪を素直に認め、悔い改め、後の処置は神に任せよ。そうすれば「神は傷つけ、また包み、またその手をもって癒される(5:18)」。その結果、元の生活は復活し、子々孫々の増大繁栄は保障される、とエリファズはヨブに説きます。「見よ、われわれの尋ね窮めたところは、この通りだ。あなたは、これを聞いて自らを知るがよい(5:27)」。
  6章:6章ではヨブはエリファズに反論します
 ヨブが受けた災厄に対して「我は義なり」と確信するヨブは「なぜ義なる自分が災厄に会わねばならないのか」と神に問います。その災厄はヨブにとっては「不条理な災厄」なのです。意味不明な災厄は甘受することは出来ないのです。ただ、その災厄は神からのものと理解はしています。「全能者の矢が、私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅しが私に備えられている(6-4)」と。エリファズの言うように罪の当然の結果としての災厄(罪)ではなく、直接に神の毒矢が自分に刺さり、その毒により身は崩れ落ちている、と嘆きます。そして言います「私に教えよ。そうすれば、私は、黙ろう。私がどんな過ちを犯したというのか、私に悟らせよ(6-24)」「正しい言葉はいかに力のあるものか。しかし、あなたがたの戒めは何を戒めるのか(6-25)」と、ヨブは3人の友人の見当違いを指摘します。「どうぞ思い直せ、間違ってはならない。更に思い直せ、私の義は、なお私のうちにある(6-29)。「私の舌に不義があるか。私の口は災いをわきまえることが出来ぬであろうか(6-30)」。ヨブは自分の内に「内なる罪」のあることを否定しています。
エリファズの神学は一般論としては正しくても、ヨブには当てはまりません。ヨブは言います「どうか私の求めるものが、得られるように。どうか、神が私の望む者をくださるように(6:8)」と。ヨブは自分の苦しみに、何一つ同情も、考慮もせず、見当違いの説教を披瀝するエリファズに失望し、神に目を向けます。しかし。神は、最後まで、沈黙を守っておられます。その論争を見守っておられるのです。しかたなくヨブはエリファズとの論争を続けます。
 7章:
 ヨブは自分に与えられた災厄対して「いつも苦しむ日雇いや奴隷のように、私は、日々苦しい夜を過ごしている」と、その過酷な災厄を呪っています。彼は痛みが激しく眠ることもできません。「私の肉はウジと土くれをまとい、私の皮は固まってはまた崩れる」と、その状態を嘆きます。彼には、なぜこのような災厄が自分に降りかかったのかわからず「望みもなく」日々は過ぎ去っていきます。そして言います「私の命は、ただの息である」と。ただ生きているだけだというのです。そして慰めに訪れた3人の友人の忠告は全く的外れなのです。「私を見る者の目は、重ねて私を見ることがなく、あなたが私に目を向けられても、私はいない」重ねてみることはない、とは汚れて崩れ落ちた自分を見ることはあっても、真実の自分(霊的存在)を見ることはない、いや見ることは出来ない。と嘆きます。「それゆえ、私はわが口を押えず、私の霊の悶えによって語り、わたしのたましいの苦しさによって嘆く」と自分の真の姿を見ようとしないエリファズたちに失望し、彼らから離れ、その目は神に向きます。しかし神の試練は続きます。眠った時だけは、苦しみから逃れることが出来ると思っても、悪夢が幻が訪れ、決して癒されることがないのです。その苦しみに耐えかねてヨブは死を望みます。
 なぜ、これほどにまで神はヨブに心をとどめられ試練に合わせられるのか。それは神がヨブを義人として、またその信仰の深さを認めておられるからです。その災厄には、聖霊が宿っていることを知らしたいからです。ヨブは2章ではっきりと言っています。「我々は、神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか」と。ヨブはすべての痛みを神にあって受け止めているのです。すべてのことは神から来ているという信仰が大切なのです。しかしヨブは言います。「私が罪を犯したと言っても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、あなたは、私を的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか(7:20)「どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私は塵の中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません(7:21)」ヨブは、神が彼の信仰を試されたのだということを知りません。上のことばによって、その不条理な災厄を呪っているのです。自分が、こんなに苦しんでいる本当の理由をヨブは判っていないのです。
 8章:エリファズの後にヨブの前にビルダデが登場します
 エリファズが人間の罪深さを強調したのに対して、ビルダテは神の公義を強調します。「神は公義を曲げるだろうか、全能者は義を曲げられるだろうか」とビルダデは言います。先に述べたようにビルダデの神学もまた「因果応報論」です。ヨブに罪があるから神は公義によってヨブを裁かれるのだと言います。エリファズと違うところは、その罪をヨブの家族にまで広げているところです。ヨブの子が、神に背いたがゆえに罰せられたのだと言います。そして言います「もし、あなたが熱心に神を求め、全能者にあわれみを請うなら、神に立ち返るならば、神は立ち上がり、あなたの義の住まいを回復される。あなたの初めは小さくとも、その終わりは甚だ大きくなれる(8:3-7)」。と、ビルダデは神の恵みをヨブに示して説得しているのです。
 さらに、ビルダテはヨブの先代が神に対して義なるものであったことを示し、その探求心に学べ、と勧めています。ビルダテの神話の特徴は、ヨブだけではなく、家族縁者にまで、その幅を広げていることです。
 さらに、パピルスや葦が育つためにはそれなりの環境を必要とします。それ無くしては若芽のうちに枯れてしまうからです。「神を忘れるものの道はこのようだ」「神を敬わない者の望みは消え失せる」と、ヨブの人生にも神への信仰が不可欠であることを示します。そしてビルダテはヨブの言う「我は義なり」という確信を、蜘蛛の巣に例え、その頼りなさを強調します。しかし彼はヨブを霊的な目で見ることはなかったのです。神に義なるものの上にも災厄は起こりうるのです。しかし、ビルダデもヨブもこの時はそれを理解することは出来なかったのです。
ビルダデは、さらに強調します。「彼(ヨブ=神を敬わないもの)が日にあたって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は「私はあなたを見たことがない」と否む(8:16-18)」。このように不敬虔なものの繁栄は一時的なものであり、後から湧いても、うたかたのように消え去っていくのです。それに反して、「見よ、神は潔白の人を退けない。悪を行うものの手を取らない」と、ヨブに神への立ち返りを要求するのです。しかし、それはヨブにとっては、見当違いの要求だったのです。
楽庵会

ヨブ記(不条理の世界)

2021年10月02日 | Weblog
  >ヨブ記(不条理の世界) 
 はじめに
 旧約聖書には4つの区分があります。それは、トーラ((モーセ5書)、歴史書、諸書、預言書の4つです。「ヨブ記」は、諸書に含まれ、文学的には「知恵文学」に属します。それは人間から神に問いかけるという特質を持っています。「知恵文学」の中で重要な地位を占めているのがこの「ヨブ記」です。「知恵」とは人生の本質をはっきりと見定めて振る舞うということです。「ヨブ記」はそうした知恵の視点から、神に問いかけるものとして語られています。ヨブは3人の友人と1人の賢者との論争を通じて神に問いかけます。「なぜ」「どうして」「いつまで」と。この問いかけこそ、真理を求めようとする者にとって、きわめて必須な条件です。「ヨブ記」は、真理への探究心を研ぎ澄ます最高のテキストと言えます。
 「ヨブ記」の概略
 神を敬うことこの上なく、道徳的にも、信仰的にも非の打ちどころのない暮らしを続けていた富裕の人ヨブに、神は2度にわたる過酷な試練を下します。1度目ではヨブはすべての財産を奪われ、2度目で身は皮膚病に犯され、苦しめられます。これは天上における神とサタンの話し合いの結果だったのです。神はヨブをお試しになったのです。これは神のご計画の一つでした。しかし、ヨブはそのことを知りません。ヨブはこの2度にわたる災厄に対しても神を呪うことはしませんでした。1度目の災厄に対しては「私は裸で母の胎から出てきた。また、私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:2)」と、言い、2度目の災厄に対しても「我々は神から幸いを受けるのだから、災いも受けるべきではないか(2:10)」と、ヨブは神への信仰を守り抜いたのです。その災厄には、聖霊が宿っていると理解できたからです。ヨブは神がサタンを通じて与えた艱難に見事に応えたのです。神はサタンに勝ち、サタンは去り、この後の展開には出て来ません。消え失せたのです。
 この後、3人の友人(エリファス、ビルダテ、ツオファル)が見舞いに訪れたときから神学論争が、始まります。罪なくして受けねばならぬこの重荷の意味を問うてヨブは苦悩します。肉体の苦しみと、心の苦しみという二重の苦しみに会います。ヨブは死を望み、自分が生まれたことを呪います。訪れた3人の友人と論争し一人の賢者(エリフ)の意見を聞きます。神の義(信仰)に人間の義(戒律)を対決させて問い詰める本書は、旧約聖書の中でも際立った特色を持ちキルケゴール、ドストエフスキーなどの、哲学者、文学者などに与えた影響は強いものがあります。
義人がゆえなくして苦しむのはなぜか。ヨブは果たして義人なのか。
 ここで押さえておかねばならないことは、ヨブは、神ご自身が認め、ヨブ自身も認めるように、神に対して完全に義なる存在なのです(1:8)。ヨブの受けた災厄は、3人の友人が言うような「内なる罪」ゆえではなく、天上における神とサタンの談合ゆえの災厄だったのです。試練だったのです。「戒律」か「信仰」かの問題だったのです。神は彼の信仰を試されたのです。議論はかみ合うわけがないのです。神の答は別のところにあるからです。
 見舞いに訪れた3人の友人はヨブの、「自分は、義人なり」という主張を否定します。神が義なる人を罰するわけがない、罪があるから罰するのだ、と。その結果、その罪を悔い改め、神に立ち返らない限り救いはない、と諭します。その理論的根拠は因果応報説です。ヨブは、「自分は義人なり」と反論します。災厄に対しても神への信仰を崩さず。自分の出世を呪い、嬰児のうちに死ななかったこと呪い、死を望みます。自分は神に対して義なる人間である。それなのになぜ罰せられるのか。なぜ、なぜと問います。ヨブの目は3人の友人から離れ、神に向きます。議論には解決がなかったからです。義人である自分が災厄に会う理由を、「なぜ、なぜ」と、神に問います。神はこれを無視します。
 4人目の登場人物は、エリフです。エリフはヨブが義人であることを認めています。それゆえ因果応報説をとりません。その上で「義人の受ける災厄」について語ります。この災厄は神がヨブに与えた訓練だと、語ります。「この災厄に耐え、神をあがめよ、と言います。しかし、彼はヨブを罪びとと断罪します。ヨブはエリフの言葉には反論しません。神も無視します。
 この後、ヨブは神と対面します。しかしその大きさ、偉大さに恐れおののき、己の高ぶり、小ささを自覚して神の前にひれ伏します。
神は、ヨブの「なぜ」には応答しません。神ご自身が、自らを至現されない限り、私たちは神の世界の神秘を知ることは出来ないのです。人は、与えられた運命に抗い、自分の正しさを信じて、なぜ、なぜと問うのは神に対する高ぶりです。そうではなく、神によって与えられた運命を、素直に受け入れ、ひたすら神を信じ神の前で、いかに生きるべきかと問うことこそ真の信仰だと自覚します。神はそれを知ります。神は私たちの思いをはるかに超えて導いてくださる、聖なるお方です。神は、いかなる場合でも主権者であり、ご自身の行動について人に説明する必要はないし、人はそれを「なぜ」と、求めてはならないのです。人は神のすべてを知ることは出来ません。しかし、信者にいかなる災厄が訪れようとも、神は、最終的には、最善の結果を用意されておられるお方です。人はそれを信じ、忍耐をもって待ち望む必要があります。「見なさい、耐え忍んだものは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結果を見たのです。主は、慈愛に富み、あわれみに満ちておられるお方だということです(ヤコブ5:11)」。ヨブは健康を回復し2倍の財が与えられました。ヨブは苦しみを通して神をより深く知り、愛をもって交流できるようになります。ヨブは霊的にも肉的にも救われたのです。「そして、ヨブは自分の子と。その子の子たちを4代目まで見たのです。そして、その長寿(140歳+α)を全うされたのです(42:16~17参照)」。
米村英二氏は、その著「地の塩(中)16ページ」の中で「神が、我々に求めておられるものは『我々のうちに、どれだけ神を慕う思いがあるかである』」と述べています。この言葉は「ヨブ記」の結論と考えてよいでしょう。
 なぜ今「ヨブ記」なのか
「黙示録」の勉強を終え、「マタイ」と「ルカ」の福音書を残して聖書の勉強は一応終わりました。しかし、あくまでも一応であって判らないところだらけです。そこで、難解ではあっても興味を持ったものを振り返ってみることにしました。その第1に選んだものが「ヨブ記」です。副題を「不条理の世界」としました。神も認める義なる人「ヨブ」がなぜ、神から災厄を受けねばならならなかったのか、これが「ヨブ記」のテーマです。
神については、今でもわかりません。永遠無限の神を、ちっぽけで有限の私が知ることは出来ないのです。人の「知」は、神の「智」に勝ることは出来ません。神の「智」を素直に認め受け入れることです。それが信仰です。
★ヨブ記の内容構成★
 1章:ヨブについて、神とサタンの対話、ヨブの災難1
 2章:神とサタンの対話2、ヨブの災難2
 3章:ヨブの独白(神への問いかけ)
№ 章・節    内 容            回
4 4:1~5:27 苦難に対するエリファズの神話 1
5 6:1~7:21 エリファズに対するヨブの反論 1
6 8:1~8:22 苦難に対するビルダテの神話 1
7 9:1~10:22 ビルダテに対するヨブの反論 1
8 11:1~20 苦難に対するツオファルの神学 1
9 12:1~14:22 ツオファルに対するヨブの反論 1
10 15:1~35 エリファズのヨブに対する反論2 2
11 16:~17: エリファズに対するヨブの反論 2
12 18:1~21 ビルダテのヨブに対する反論2 2
13 Ⅰ9:1~29 ビルダテに対するヨブの反論 2
14 20:1~29 ツオファルのヨブに対する反論2 2
15 21:1~34 ツオファルに対するヨブの反論 2
16 22:1~30 エリファズのヨブに対する反論3 3
17 23:~24: エリファズに対するヨブの反論 3
18 25:~26: ビルダテのヨブに対する反論3 3
19 27:1~23 ヨブの最後の弁論Ⅰ 1
20 28:1~28 ヨブの最後の弁論2「知恵の賛歌」 2
21 29:~30: ヨブの最後の弁論3「ヨブの昔と今」 3
22 31:1~40 ヨブの最後の弁論4「潔白さの誓い」 4
23 32:~33: エリフの弁論1 1
24 34:~37: エリフの弁論2 2
25 38:~39: 嵐の中から語られる神1 1
26 40:~41 嵐の中から語られる神2 2
27 42:1~6 ヨブ記のエピローグ1、ヨブの「見神」経験 1
 ヨブの苦しみ
 3章から5章にかけては「ヨブの苦しみ」に対する答えが語られます。
 ヨブは全財産を失い、身ははれものにおおわれ苦しみます。ヨブは呪いの言葉を吐きます。しかし神に義なるヨブは決して神を呪いません。「この後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った(3:1)」のです。神ではなく、生まれた日を呪ったのです。ヨブは自分が生まれなかったら、こんな苦しみはなかった、とその身を嘆き、悲しみます。次に、生まれたとき、なぜ嬰児のうちに死ななかったのかと、その出生を恨みます。生を受け成人した今、自死したいと望みます。しかしこれも果たせません。これは、天において神とサタンが談合したとき、神はサタンに「その命までは取るな」と命じたからです。しかし、ヨブは、それを知りません。際限のない、いつ終わるかわからない災厄に苦しめられます。ヨブはすべてを奪われ、「私は安らかでなく、また、穏やかでない。私は休みを得ない。ただ悩みのみが来る(3:26)」と、その不条理を神に問います。
 ここでヨブは人生における最も基本的な問いかけをしています。「出生」と「生存」と「死」です。生きるということの意味を神に問うているのです。
 次の章からは、この基本的な問題に関して3人の友人との間に議論が展開していきます。
4章~5章:3人の友人のうち第1に登場するのがエリファズです。
彼は2つの点で決定的な過ちを犯しています。
1、誰が罪がないのに滅びたものがあるか。どこに正しい者で絶たれた者があるか(4:7)」。
2 私の見るところでは、不幸を耕し害毒をまくものが、それを刈り取るのだ(4:8)」。
1,2ともに言わんとすることは「因果応報説」です。
1に関して言えば、イエス・キリストも、アベルも神に対して義なる人でした。しかし、二人とも義なる人ゆえに断たれています。ヨブも神が認めた義人です。ヨブは「われは義人なり」と主張します。エリファズの意見(因果応報節)はヨブには当てはまりません。
楽庵会


書簡集21 ユダの手紙 背教とは

2020年09月21日 | Weblog
書簡集21 ユダの手紙 背教とは
 「ユダ書」は新約聖書の正典中の、公道書簡に分類される手紙の一つです。わずか25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開する(本書簡は、その内容のすべてが、背教について書かれている聖書中の唯一の書です)と共に、聖徒に正しい信仰を守ることを勧めています。書簡集の最後を飾ります。
 はじめに:
1、誰が書いたのか:イエス・キリストの異父兄弟である、ユダ(1節、マタイ13:55、マルコ:6:3)であると理解されています。これには疑問を提出するものも多くいます。
2、誰に対して書かれたのか:「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている召された方々へ(1節)」。
 3、いつ書かれたのか:本書簡は「Ⅱペテロ2章」と強い関連性を持っています。したがって本書簡の執筆年代は、本書簡が「Ⅱペテロ2章」を引用したのか、それとも、その反対なのかによって変わってきます。それゆえ、AD60-80年の間と、その幅は広がります。
 4、なぜ書かれたのか:ユダはこの手紙を書く理由を「ある人々がひそかに忍び込んできたからです(4節)」と述べています。ある人々とは「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです(4節)」要するに反キリストのことです。それゆえにユダは信仰のために戦えと「召された人々」に、命じています。召された人々であり、すべてのことを知っているとはいえ、「私は、あなたがたに思い出させたいことがあるのです(5節)」とユダは信仰に立ち返れと強く勧めています。それがこの書簡が書かれた理由です。
 5、書かれた背景:西暦1世紀以来キリストの教えは聖書に相反する教えや、偽りの教えに脅かされ続けていました。教会の内部では、背教が、外部では異端がキリストの教えと敵対していたのです。教会はこの誤った教えと戦うことが運命づけられていました。なぜなら異端(背教)はキリストの基本的な教えと異なることを教えながら、自らをキリスト者であると主張していたからです。
 6、偽教師たちがしていることと、その裁き:ユダは現在の背教について語る前に、過去に起こった背教を思い出せと旧約聖書の中からその例を示します(5-7)。
① エジプトからイスラエルの民を救い出した神はそのつながりでモーセにシナイの丘で戒律を与えます。しかしその間にアロンは地上で偶像を作り神に逆らいます。偶像を作った人々は神によって滅ぼされます。
② 天使のかしらであったルシファーは、神に逆らい、地上に堕とされ悪魔となります(堕天使)。神はこれを大いなる裁きをもって、暗闇の中に閉じ込めます。
③ 好色にふけり、肉欲を追い求めたソドムとゴモラの町は、焼かれて、後の世の見せしめにされました。
このように、旧約聖書で示された背教は、すべて滅ぼされ、見せしめにされました。それにも拘わらず、その滅びの見本は生かされることなく、続いています(8-16)。今日の背教者を「この人たち」とユダは呼んでいます。今日の背教を語る場合もユダは旧約聖書の背教者の名を挙げて語ります。モーセが、カインが、バラムが、コラが今日の背教者の滅びの見本として語られています。「この人たち」は愛餐のしみと語られています。真っ暗な闇が彼らに永遠に用意されています。これらの背教者は、結局は罪が定められ、さばかれることになります。
上記と同じことが「Ⅱペテロ2章」で語られています。
 7、概 説:この書簡は、ユダから「召された人々」に宛てて書かれました。教会の中に反キリストが忍び込み、本来の信仰の妨害を図っていたからです。旧約聖書に現れた背教、新約聖書に現れた背教が語られます。「召された人々=ユダヤ人キリスト者」に信仰と従順の大切さを教えています。「終わりの時」に主をあざけるものが現れます。教会に混乱をもたらします。これに対抗するものは主のあわれみだけです。それゆえに、ユダは聖徒たち(召された人)に正しい信仰を守るように勧めています。主に栄光あれ。
 ユダ書の重要個所:
 3-4節:「愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしてきましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うように、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。ある人々がひそんできたからです」。
 17-19節:「愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことを思い出してください。彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には自分の不敬虔な欲望のままに振る舞うあざける者どもが現れる』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です」。
 14-15節:「アダムから7代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れてこられる。すべてのものに裁きを行い、不敬虔の者たちの、神を恐れずに犯した行為のいっさいと、また神を恐れない罪びとどもが主に言い逆らった無礼のいっさいとについて彼らを罪に定めるためである』」。
 20-21節:しかし、愛する人々よ、あなたがたは、自分のもっている最も聖い信仰の上に、自分自信を築き上げ聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
 24-25節:「あなたがたをつまずかないように守ることが出来、傷の無い者として、大きな喜びをもって栄光のみ前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に栄光・尊厳・支配・権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々世限りなくありますように。  アーメン
 言 葉
 グノーシス主義:グノーシス主義はキリスト教の異端思想の一つとして考えられています。しかしその具体的名前は本書間にも「ヨハネ書1,2,3」にも出てきません。おそらく、異端思想としてその名前は、定着していなかったものと思われます。しかしその内容は具体的です。 グノーシス主義とは、善と悪、真の神と偽の神、霊魂と物質、という二元論が、その基本的な世界観です。悪の世界は物質から構成されているので、物質は悪と判断されます。物質で造られている肉体もしかりです。他方、「霊」あるいは「イデア―」は真の存在であり、真の世界であるとみなされます。その結果人として遣わされたイエスは神ではなくなります。イエス・キリストの2性(神であり、人である)は否定されます。イエスは創造者ではなく、被造物です。イエスの十字架上での死は、我々の罪の贖いではなくなります。3位1体の神は否定され、それゆえキリストの教えは否定されます。
 物質からなる肉体を悪とする結果、道徳に関して二つの対極的な立場が現れます。一つは禁欲的な生き方であり、二つは、放縦となって現れます。霊は肉体とは別存在なので、肉体において犯した罪悪の影響を受けない、という論理のもとに不道徳をほしいままにするタイプです。ユダはこの不道徳者を指し「私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者たるイエス・キリストを否定する人たちです」と述べています。また「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな神からのものです」「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。今それが世に来ているのです(ヨハネⅠ,4:2-3)」。グノーシス主義者の存在に対してユダは警告を発しています。
 愛餐について:本書簡には「愛餐のしみ」という言葉が出てきます。
 愛餐とはイエス・キリストを信じる者同士が、信仰と愛と希望とを分ちあいつつ、共にした食事のことを指します。特に初代教会の時代には、聖餐式と密接に関係を保ちつつ盛んにおこなわれたと言われています。また、これは、貧しい人々や、やもめたちに対する援助も念頭に置いた食事でもあったのです。この美しく、愛に満ちた慣習は、旧約聖書の時代、新約聖書の時代にも盛んに行われていました。それは、愛のもてなしであり、また神への感謝の気持ちの表れでした。
 時代の経過に連れて聖餐式と結びついていた愛餐は、最終的には分離し、個別に行われるようになります。また不純な要素が入り込み愛餐が愛餐ではなくなり、これが、過食、酩酊、自己中心になるという、愛餐を破壊する偽教師の出現を見るという否定的要素が現れます。現代においても、様々な形態をとりながらも、愛餐は続いています。我が日野教会においても食事会、「子ども食堂」などの愛餐は行われています。神の恵みが、この愛餐の上に豊かに注がれますようにイエス・キリストの名のもとに祈ります。
令和2年9月8日 報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集18・19・20 ヨハネの手紙

2020年09月20日 | Weblog
 書簡集18ヨハネの手紙第1グノーシス主義者との戦い
はじめに:
 「ヨハネの手紙」には、第1、第2、第3と3通あります。手紙とあるものの、「パウロの書簡」のように差出人、宛名、挨拶の言葉はありません。しかしこの3通の書簡は伝統的にヨハネの作と見做されています。内容および文章のスタイルが「ヨハネの福音書」に似ているからです。
 この手紙は、特定の状況下にある人々(グノーシス主義者)を意識した司牧的説教ともいわれるもので、愛と恵みに満ちたものです。ヨハネによれば、この手紙の書かれた理由は「神の子を信じるあなたがたが永遠のいのちを得ていることを知るためであり(5:18)、さらにその目的は、(あなたがたに)いのちのことばを宣べ伝えることにあり、これによって「あなたがたは父なる神と、子なるキリストとの交わりの中に入ることが出来るのです」と、述べています。
 ヨハネは、自分に託されていたアジアの諸教会とその聖徒たちを愛し、これら3通の手紙を送ったのです。しかし、特定の教会に送られたものではなく、教会一般に送られているので「公同書簡」と定義されています。
 キリストの死後、最初のころ、キリスト者は生き生きとしていましたが、紀元1世紀ごろになると、キリスト教の規範は緩み始め様々な異端や偽教師が現れてきたのです。そのうちの一つの強大な勢力が「グノーシス主義」でした。教会の内部に発生し、多くの混乱を聖徒たちに与え、教会の外へと離れていきました。
 この「グノーシス主義」とはギリシャ哲学に起源をもち霊・肉二元論を説き、精神のみが善であり、からだを含める物質は悪であるとみなしていました。人の霊、精神、知性は、肉体という物体の中に閉じ込められているので、それらが、肉体から解放されねば救いはありえないと信じていたのです。また、救いは、神の奥義に関する特別な知識(グノーシス)によって得られるものと信じていました。この思想のもとでは、神が人になってこの世に現れてきたという思想は、あってはならないのです。結果、「受肉」は否定され、「三位一体」の考え方も否定されます。
 同様に、ユダヤの偽教師たちもイエスがメシアであることを否定しました。エルサレムの神殿が崩壊したことは、彼らには、神殿の守護者である万能の神の否定でした。
 これらのことからいえることは、キリスト教の存在そのものが、当時、危機に瀕していたということです。そこでヨハネは司牧的な愛をもって愛してやまない教会を守ろうとして、この手紙を書いたのです。ヨハネは愛の使徒でありこの書簡で何度も「愛」について語っています。また、正統的キリスト教とはいかなるものかも語ります。それが異端や、偽教師に対する反論となるからです。しかし、この偽りの教えは、絶えることなく教会員の間に広まりました。
 本書簡はイエス・キリストがどのようなお方であったかを語っています。人間として、この世にお遣わされになったイエスは当時も今も神なのです。この書簡は人としてのイエスを否定する「グノーシス主義者」や「偽教師」に対する反論を通して、キリストの教えの基本を述べたものと考えてよいでしょう。
 誰がこの書簡を書いたのか:この3つの書簡はだれが書いたかは、当書簡には明らかにされていません。イエスの12使徒の1人ヨハネの作と見做されています。彼はこの3つの書簡のほかに「ヨハネの福音書」、「ヨハネの黙示録」の著者として有名です。
 いつ、どこで書かれたのか:この書簡の書かれた正確な時期も場所も分っていません。AD85年から90年の間にエフェゾで書かれたと言われています。
 誰に向けて、なぜ書かれたのか:ヨハネが、誰に向けて書いたかもはっきりしていません。歴史的資料によれば紀元1世紀後半にヨハネが居住し教え導いたとされる小アジア(現在のトルコ)の諸教会に向けて、偽りの教えに反論するために書かれたものと、思われます。
 この書の特徴:当書簡には「グノーシス」という言葉は出てきません。しかし「人となって来たイエス・キリストを告白する霊は、みな神からのものです」と、イエスの受肉を否定するグノーシス主義者を批判しています。さらに「それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊は、どれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたは、それが来ることを聞いていたのです。今、それが世にきているのです(4:3)」。彼らに従うなと、ヨハネは聖徒たちに命じます。
 ヨハネはキリストに仕えた12使徒の一人です。復活したイエス・キリストにも出会い、見、聞き、触れています。ヨハネは聖徒たちに「「御父、並びに御子イエス・キリストとの交わり」にあずかるように勧めました(1:3)。「ヨハネ1」のテーマは「愛」です。「神を愛するものは兄弟をも愛すべきです。私たちは、この命令をキリストから受けています(4:21)」。 ヨハネは人となって現れたキリストの教えに忠実であれと聖徒たちに諭します。
 新約聖書の世界とは
 新約聖書の世界とは旧約聖書の世界に較べて極めて短く、キリストの生誕から、わずか100年にも満たない世界です。その間、キリストの使徒たちは、キリストの教えに力を注いだのです。その福音宣教の過程は決して楽ではなく、辛酸辛苦の連続でした。その宣教は、反キリスト(グノーシス主義者、偽教師)との戦いでした。彼らは「神」はともかくとして、受肉したキリストを認めようとはしなかったのです。特にグノーシス主義者が教えていたのは、キリストの体は実態を持たない、霊的存在であって(4:2-3)彼らは、イエスの十字架上の死に贖罪の意義を付与するのは間違いであると(1:7-8)考えていたのです。
 これと戦うためには、キリストの教えの基本を、徹底的に聖徒たちに教える必要があったのです。これがパウロ、ペテロ、ヨハネの手紙なのです。
 ヨハネは神との合一の意義を探っています。まず、キリストについて探り、次に人について探ります。
 キリストについていえば(その罪の贖い)
1、1:7 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は、すべての罪から私たちを清めます。
2、2:2 「この方こそ、私たちの罪のため―――私たちの罪のためだけでなく、世界全体のための―――なだめの供え物です。
3、3:3 「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。
4、4:10-14 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のため
に、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、たがいに愛し合うべきです。
 いまだ、かつて神を見たものはありません。もし私たちがたがいに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が、私たちのうちに全うされるのです。
 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって私たちが、神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。
 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今、その証をしています。
5、5:11-12 「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。御子を持つものは、いのちを持っており、神の御子を持たない者は、いのちを持っていません。
 人についていえば:
1、 聖性: 1:6 「もし、私たちが神と交わりがあると言っていながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを云っているのであって真理を行っていません。
2、 神の弁護者: 2:1 「私たちの子供たち、私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには御父の前で弁護する方がおります。義なるイエス・キリストです。
3、 おきてに従うこと:2:3 「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
4、 清め;3:3 「キリストに対するこの望みを抱くものは、みなキリストが清くあられるように、自分を清くします。
5、 信仰:3:23 「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられた通り、私たちが互いに愛し合うことです。
  4:3 「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたは、それが来ることを聞いていたのです。今、それが世に来ているのです。
  5:5 「世に勝つものとは誰でしょう。イエスを神の子と信じるものでは、ありませんか。
ヨハネの手紙第1 内容構成

概 説
 第1章:ヨハネは、最初にイエス・キリストについて語ります。
「この方こそ、御父と共にあって私たちに遣わされた永遠のいのちなのです。この方と私たちの交わりこそ、私たちの喜びを全きものとするのです。神は光であって、闇を持ちません。これらが、私たちがキリストから聞いて、あなたがた聖徒に伝えたいことなのです」。
ヨハネは、神の絶対性と我々聖徒の相対性を説きます。そして、我々が罪ある存在であることを証し、します。しかし、イエスが十字架上で流された血によって、我々の罪は贖われたのです。「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます(1:9)」。
主は人の悔い改めと、神への立ち返りによって、私たちの犯したすべての罪を赦すのです。人として遣わされた神の御子イエスを認めない反キリストの存在をヨハネは批判しているのです。
 第2章:ヨハネはこの手紙を送った理由を「あなたがたが罪を犯さないようになるためです(2:1参照)」と述べています。聖徒たちを誘惑する反キリストの存在を警戒していたからです。「もし誰かが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです(2:1-2)」。
この章には真の神を知ることの意味が描かれています。
この章には、罪を赦されたものへの新しい命令が描かれています。
ヨハネは神からの古い命令を新しい命令として聖徒たちに伝えます。
その命令は時代を超えて、場所を超えて真実だからです。その一つは「神を知れ」という命令であり、もう一つは「兄弟を愛せよ」という命令です。この二つは共に神がモーセに与えた命令(戒律)です。キリストとその弟子はこの命令を福音宣教の基本に置いています。神の命令は「愛」だからです。神の命令を守るなら、神を知るものになるのです。世に打ち勝つものになるのです。ヨハネは神の家族(子供たち、父たち、若者たち、小さな者たち)が、神を知ったが故に救われたと、述べています(2:12-14参照)。
神の権威に敵対するものに「世」があります。愛してはならないものです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、この世から出たものです。世と、世の欲は滅びます。しかし神の世界は永遠です。
更に神の権威に逆らうものに反キリストがいます。「偽りもの(反キリスト)とは、イエスがキリストであることを否定する者たちです。御父と御子を否認するものです。
神が正しい方であると知っているなら、義を行うものがみな神から生まれたのです。
 第3章:私たちは神の子供です。キリストが再臨された時、キリストに似たものとされます。だからその時に備えて身を清くしていなさい。とヨハネは言う。
誰でも神から生まれたものは、罪を犯しません。なぜならば神の種(精霊)がその人のうちにとどまっているからです。神から生まれたものは罪を犯すことは出来ないのです。神の子と悪魔の子の違いはその身のうちに神の種を宿しているか否かによって決まるのです。神の義を行わないもの、兄弟を愛さないものは神の子ではありません。悪魔の子です。兄弟たちは互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。
神の義に生きよ、ということと、兄弟は互いに愛し合いなさいという2つの命令は盾の両面であって、切り離すことのできないものです。兄弟を愛するということは。神を愛するということと同義なのです。
私たち聖徒は永遠のいのちを得ています。兄弟(神)を愛しているからです。愛さないものには永遠のいのちは与えられません。世の死で終わりです。
カインは弟アベルを殺しました。自分の行いは悪く、アベルの行いは正しかったからです。アベルに嫉妬していたのです。逆にイエスは、自分は何一つ罪を犯していなかったにもかかわらず、我々の罪を一身に背負って死んでいかれました。「兄弟たち」を愛していたからです。
私たちは、神の命令を守り神の喜ぶことをしなければなりません。「神の命令とは、私たちが御子イエスキリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちがたがいに愛し合うことです(3:23)」。
 4章:ヨハネは反キリストの教えが、この世に蔓延しているとき、偽りの教えと真実の教えを区別せよと聖徒たちに命じます(4:5)。その区別の基本は、人として遣わされたイエス・キリストを認めるか否かに置いています。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして、神から出たものでありません。それは反キリストの霊です(4:5)。このことばは、人として遣わされたイエス・キリストの神性を否定するグノーシス主義者に対する批判と考えてよいでしょう。
それでは、神の御子イエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
イエス・キリストは、神が我々を救うために遣わされた「ひとり子」です。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し私たちの罪のために、なだめの供え物として御子を遣わされました(4:10)」。十字架による贖いの死を現しています。そこには愛があります。ヨハネは言います「神が私たちを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。私たちがたがいに愛し合うなら、神が私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。キリストは神の御子であり、愛そのものです。そこには完全の愛(アガペー)があります。
神は見ることのできない霊的な存在です。その霊を内に宿して人として遣わされたのがイエス・キリストです(4:124)。イエス・キリストこそ見ることのできない神の見える姿です。そこには愛があります。神は愛です。愛のうちにいるものは、神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。
全き愛は恐れを締め出します。最後の審判に大胆さをもって、望むことが出来ます。最終的な救いが約束されています。
 5章:1、救いの確信(5:1-5)1、イエスがキリストであると信じる者は神によって生まれたものです。2、神を愛するとは神の命令を守ることです。その命令は重荷にはなりません。私たちの信仰は世に打ち勝った証です。3、世に勝つものとは誰でしょうイエスを神の御子と信じるものです。
2、救いを証しするもの(5:6-13)1、イエス・キリストは水と血によって来られ、それを証しするものが御霊です。2、証しするものは3つあります。御霊と水と血です。この3つが1つになるのです。水:ヨハネのバプテスマ、血:十字架で流された血、御霊:聖霊と考えるなら、この3つは、イエスが肉として来られた神の御子であることを証ししています。いわゆる3位1体です。この3位1体の神を内に持つものが、神を証しするものであり、御子を信じるものです。その証しの意味は、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。神の名を信じているあなたがたに、この手紙を書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを判らせるためです。
3、神に対する確信と、それに対する応答(5:14-15)1、何事でも神のみ心にかなう願い事をするなら、神はその願いを聞いてくださります。これこそ神に対する確信です。ここで重要なことは「神のみ心にかなう」という条件が付けられていることです。しかし信仰深きものの願いは、おのずから神の意志にかなっているのです。そのような願いを、神は、決してNOとは言われないのです。願ったときすでに叶えられているのです。
4、死に至る罪と至らない罪(5:16-17)ここでいう罪とは世にはびこる罪ではありません。霊的な罪です。赦される罪とは、悔い改め神に立ち返る罪です。しかし、イエス・キリストを否定する罪は死に至る罪です。ここでは、反キリストの罪を指しています。ユダヤ教やグノーシス主義者です。
5、神の守り(5:16-21)神の子は、誰も罪を犯しません。守ってくださる方がいるからです。だから悪人は彼に触れることすらできません。しかし、世全体は悪い者の支配下にあります。神の御子は私たちに善・悪を見分ける力を与えてくださいました。それで私たちは真実の方すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、真の神、永遠のいのちです。
子供たちよ、偶像に警戒しなさい。
これで、「ヨハネの手紙1」を終わります。ここで語られたことは「いのちのことば」であり「御子について」でした。ヨハネは、一方にイエスを救い主として告白すると同時に、その彼方に「反キリスト」の霊を告白する者を対峙させます。イエスはキリストであり、神の御子であり、私たちのいのちです。これを信じるものこそ、世に打ち勝つ勝利です。他方、反キリストは世にはびこり、偽の教えを語っています。これらの偽の教えに対して、ヨハネはキリストの教えを擁護します。

 書簡集19:ヨハネの手紙Ⅱ選ばれた夫人と、その子供たちへ
 この書簡の特徴:この書簡は、全1章、13節からなり、旧約、新約を通じて最も短い書です。本書簡は「選ばれた夫人とその子供たち」とその仲間たちに宛てられているので、個人的書簡とみることが出来ます。
 長老であるヨハネは、手紙の受取人「選ばれた夫人とその子供たち」に対し、その信仰の深さを称賛し、キリスト教の核心である「真理と愛」の大切さを説き、偽教師に警戒するよう勧めています。
誰が書いたのか:「長老から」と書かれているだけで、ヨハネであるとは、書かれていません。伝承的に12使徒の一人ヨハネであるとみなされています。
 書かれた年代と場所:AD90年ごろ、ヨハネ1が書かれたと同じころ、エペソにて。
何のために書かれたのか:人を惑わすもの、すなわちイエス・キリストが、人として、この世に来られたことを告白しないものに惑わされず、聖徒たちがキリストの教えに従って歩むようにと書かれました。
 概 説:ヨハネのことばには、主に対して信仰深くあり続けた教会員「選ばれた夫人と、その子供たち」とその仲間たちに感じたヨハネの喜びや感謝の気持ちが現れています。彼らが愛のうちに歩んでいるからです。だからこそ、これらの信仰深き者が、誤った教えを広めている異端の巡回伝道師に惑わされないように、気を付けよと命じたのです。家に受け入れても、あいさつを交わしてもならない。と命じています。そのような行いをすることによって、異端と同じになるからです。
巡回伝道師に対する、挨拶や宿舎の提供は、当時のオリエントにおいては、仲間や連帯を現す行為だったのです。勿論、異端の伝道師に対して、これらの行為は禁じられていました。ここで攻撃されているのは反キリスト(グノーシス主義者やユダヤ教徒)です。この時代偽教師たちは教会内外において勢力を伸ばしており、ヨハネたちの福音宣教の前に立ちはだかっていました。「彼らはイエス・キリストが人として来られた」ことを告白しない者たちです。彼らは教会内部で生まれ、教会の外に出ていきました。キリストの教えのうちに留まらない者たちです。神を持っていません。滅びを運命づけられています。
 主要な聖句:「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです(1:6)」。

 書簡集20 ヨハネの手紙Ⅲ 愛するガイオ
 はじめに
 誰から誰へかかれたのか:長老ヨハネ(12使徒の一人)からガイオへ。
 いつ、どこで書かれたのか:AD85-95ころ、長年住んでいたエペソで書かれたと言われています。
執筆の目的:3つあります。1、巡回伝道師をもてなすという働きをしていた同労者であり奉仕者でもあるガイオにねぎらいの言葉をかけること。2、アジアにある教会でかしらになりたがっている、その行動がキリストの福音に反しているデオテレペスを非難し、警告すること。いつも悪の道を歩むものは、神様から遠く離れていることを、自ら証明しているのです。ヨハネはデオテレペスを反キリストと断定します。3、聖徒たちの模範であり、良い証となっているデメテリオ褒めることの3つです。
 重要個所:4節「私の子供たちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません」。
11節:「愛する者よ、悪を見習わないで善を見習いなさい。善を行うものは神から出たものであり、悪を行うものは、神を見たことのない者です」。
 巡回伝道師とは:「ヨハネ2」では、異端の巡回伝道師についての言及がありました。彼らに対しては、警戒せよと、ヨハネは言います。しかし、当時、異端の伝道師のほかに、善良な伝道師もいたのです。彼らは定まった教会を持たず、巡回伝道師として生きていました。当然、定期的な収入源を持たず、伝導の途中に出会う奉仕者の施しを受けて生計を立てていました。ガイオはその奉仕者の一人でした。彼は巡回伝道師を温かく迎え、無償で宿舎や、食物や衣服を与え、時には金銭までも与え、彼らの伝道の仕事を援助していたのです。彼らの仕事は主を伝える仕事で、未信者を教え導くことに主力を置いていました。ガイオはそれらの伝道師を温かく迎え、彼らから喜びと感謝の気持ちを受けていたのです。それを伝え聞いたヨハネは「私の子供たちが真理に歩んでいることを聞くほど、大きな喜びはありません(4節)」とガイオを称賛したのです。それに反して先に挙げたデオテレペスは兄弟たち(巡回伝道師)を受け入れないばかりか、教会から追い出しているのです。ヨハネは「愛する者よ。悪を見習わないで、善を見習いなさい。善を行うものは神から出たものであり、悪を行うものは神を見たことのない者です(11節)」と、悪を行うものとしてデオテレペスの背教を挙げ、善を行うものとしてデメテリオの真理を挙げています。
 見知らぬ人々をもてなすという慣習は、この時ばかりでなく旧約聖書の中にも見ることが出来ます。イスラエルでのもてなしの歴史を見ると、人々がへりくだり、あわれみをもって、見慣れない人々を家に迎え、食事、宿泊、そして保護を与えていたことがわかります(創世記18:2-8,19:1-8)。さらにイスラエルの民がエジプトから出て、荒野をさまよっていた時、神が彼らにマナと水を与え、彼らの必要を満たしていたことが描かれています(出エジプト16章:申命記8:2-5)。イスラエルは神によって選ばれた民です。その民を神は保護し、励まし、おのずからの壮大なご計画を達成しようとしているのです。彼らは神の家のお客様になるのです。
 福音の真実の一環としてイエス・キリストも他のキリスト者に対して、もてなし、サポート、励まし、をするようにと聖徒たちに勧めています。

 最近、猛威を振るっている新設コロナ・ウイルス肺炎は、私たちの生活に大きな影響を与えています。わが教会には幸いにも感染者はいません。この災厄は、神が我々に与えられた試練かもしれません。試練ならそれに打ち勝ちましょう。
 我々の上に神の豊かな御恵みが下されますよう、イエス・キリストの御名のもとに祈ります。   アーメン

和2年9月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会


書簡集17 ペテロの手紙第2 なぜ「再臨」は遅れるのか★

2020年07月09日 | Weblog
  書簡集17 ペテロの手紙第2 なぜ「再臨」は遅れるのか
はじめに

 この書簡は、この書を読むすべての人に別れのあいさつとして書かれています(1:14-15)。彼はローマのネロ帝の時代にパウロと共に殉教死しています。
本書は、新約聖書中の公同書簡の一書です。公道書簡とは特定の民ではなく一般の聖徒に宛てたものなのでこう呼ばれます。
ペテロは、イエスの再臨を否定する偽教師たちに対抗して、再臨の必然性を説きます。彼らは言う「再臨は遅れているのではなく、ありえないのだ」、と。これに対してペテロは「再臨(終末)の遅延」の合理的根拠を明らかにします。「神は、罪びとが悔い改め、一人も滅びるものの無いように忍耐をして待っておられるのだ」と、偽教師に反論します。他方聖徒たちに対しては、「終わりの日」はいつ来るかわからないから、いつ来てもよいように身を清くして準備していなさいと諭します。
 神によって選らばれた者が、神を信仰するのであって、信仰するものが選ばれるのではない。選びは神の選任事項です。しかし原石として選ばれているのであって、磨かれなければ宝石にはなりません。宝石になるためには、まず第1に、イエス・キリストを知ることです。
 イエス・キリストを知ることによって
1、 神に従うものにとって、必要なものはすべて与えられます。
2、 主は自分と聖徒たちの約束を、必ず成し遂げてくださいます。
「キリストを知れば知るほど、その偉大な力を通して、主に従う正しい生活を送るために必要なすべてのものがいただけるのです。そればかりか、キリストは自分の栄光と、みがかれた品性をも、私たちに与えてくださるのです(1:3)」。
 この約束が与えられているがゆえに、我々は、肉欲や腐敗から守られているのです。そのためには、神を信仰し、喜ばすために一生懸命信仰に励む必要があります。主の望むことをなさねばなりません。
 ペテロはこの書簡において、偽教師の危険性を説く前に、イエス・キリストの偉大さを語ります。イエスの偉大さを知った者には、偽りの神は、会った瞬間に、違和感を覚えます。
 誰から誰に書かれたのか:「イエス・キリストのしもべであり、使徒でもあるシモン・ペテロから、私たちの神であり、救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方に(1:1-2)」このようにあて先は具体的には示されてはいません。世界に広がるキリスト者に宛てたものと考えられます(公同書簡に)。また作者は、ペテロとなっていますが、疑問をさしはさむものは多くいます。
 いつどこで書かれたのか:この書簡の書かれた正確な時期と場所はわかっていません。第1の手紙の後に、ローマで書かれたと言われています。
 なぜ書かれたのか: 教会内部の背教について語られています。偽預言者と偽教師は「異端をひそかに教会内部に持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を否定しました」。これに対してペテロは主についての知識をはぐくみ、自分たちの受けた「召しと選びとを確かなものに」することによって偽者たちに対抗するよう、この書簡を書いたのです。
 内容構成

 概 説
 1章:反キリストの勢力が力を持ち、キリスト者を迫害しているとき、ペテロは自分の死の近いことを悟り、殉教を前にしての遺訓であることを示しています(1:5-7)。そこには自分の死後の聖徒たちに対する信仰に対する危機感がありました。2章において偽教師に対する誤りを指摘する前に、本物の神・主イエス・キリスト知るようにと聖徒たちに勧めています。神の力によって「いのち」の真実を知ることが出来るからです。イエス・キリストを深く知ること(信仰の成長)こそ偽教師に対する最高の武器だからです。ペテロはイエス・キリストを知るために必要な徳目として「信仰」「徳」「節制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」を挙げています(1:5-7)。これを守っている限り、偽教師の偽の教えに惑わされることはないのです。聖徒たちは神によって「召し」と「選び」を確実なものにする必要があるのです。そのことを思い出し神に帰れと、聖徒たちを励まします。
 ペテロは、キリストの再臨の約束は、反キリストが言うように、決して作り話ではなく、この私たちは、キリストの威光の目撃者であるがゆえに事実なりと証しします。勿論、再臨は将来起こるべき話であって、今、現在目撃することは不可能です。しかし、ペテロは主の再臨のみことばを実際に聞き、それを信じたのです。聖書の預言は神のみ言葉として必ず実現するからです。預言は決して人間の意志によってもたらされるものではなく。聖霊に動かされた預言者たちが、神の言葉として語ったものだからです。
 2章:預言とは、預言者が神の言葉として語ったものです。「しかし、イスラエルの中には、偽預言者が出ました。また、あなたがたの中にも偽教師が現れるようになります。彼らは滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自らをお救いになった主を否定し、結局は、滅びを招くのです(2:1)」。なぜなら、彼らのために真理の道が「そしり」を受けるからです。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われています。彼らが滅ぼされないわけがないのです。
 聖書は、過去のおける、神の裁きとして次の事象を挙げています。
1、天使ルシエルが、神に逆らい地上に堕されました。
2、神は自分に義なるノアの家族を保護し、不敬虔な世界を大洪水を起こして滅ぼされました。
3、義人ロト以外の不敬虔の民の集まり「ソドム」と「ゴモラ」の町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔なものへの見せしめとされました。
このように、主は、敬虔な者たちを救い、不義なる者を懲罰のもとに置かれたのです。
反キリストは、キリスト者を攻撃しました。しかしみ使い者は勢いにも、力においても彼らに勝っているにも拘らず、主のみ前に、彼らをそしり、訴えることをしませんでした。さばきは神の専任事項だからです。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたと一般に宴席に連なるとき、自分たちのだましごとを楽しんでいます。彼らは罪に満ちています。心の定まらない、揺るぎの民を誘惑しています。「呪いの子」です。彼らに用意されているのは真っ暗闇です。
 あなたがたは、神より選ばれた救われた民です。どんな理由があろうとサタンの誘惑に負けてはいけません。義の道を知っていながら、自分に伝えられた聖なる命令に背くなら、その真理を知らなかったほうが良いのです。「犬は自分の吐いたものの上に戻る」とか「豚は身を洗って、また泥の中に転がる」とかいう、ことわざのとおりです。
 バラム:バラムは神の代弁者から、偽預言者に転落した典型例として挙げられています。バラムについては民数記の22章から24章に書き記されています。出エジプトを果たしたイスラエルの民がモアブの荒野に野営したとき、モアブの王バラクは、この存在を恐れ、預言者バラムに使者を送り、「イスラエルの民を呪ってほしい」と、高い地位と富を約束して依頼しました。彼に祝福されたものは祝福され、呪われるものは呪われるという、言い伝えがあったからです。主に忠実なバラムは神に伺いを立て、この依頼を拒否します。呪う代わりに、3度祝福したのです。しかし最後までその義を貫くことは出来なかったのです。ヨハネの黙示録には、こうあります「………あなたのうちにバラムの教えを奉じている者がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前につまずきの石を置き、偶像の神に捧げたものを食べさせ、また不品行を行わせた(黙2:14)」とあります。バラムは神の代弁者から偽預言者に転落したのです。
 3章:ペテロは「第2の手紙」を揺るぎの聖徒たちに向かって書いています。彼らは神によって選ばれた民です。ペテロにしてもパウロにしても、その宣教の過程は反キリストとの戦いでした。彼らは巧みな戦術をもって聖徒たちに近づきます。まだ霊的に幼い聖徒たちは「確信の民」から「揺るぎの民へと転化していきます。「第2の手紙」はそんな民に対して書かれたものです。この章においては反キリストは、キリストの再臨を問題にします。「キリストの来臨の約束は、どこにあるのか。父祖たちが眠ったときからこの方、何事も創造の初めからのままではないか。(3:4)」と。再臨の遅れをあざ笑う。ペテロはこれに対して彼らの歴史認識の誤りを指摘する。過去においては、世界はその罪ゆえに「大洪水」によって滅びたが、今の天と地は不敬虔な者どもが、火によって焼かれるために、取っておかれるのだ、と反論する。過去、現在、未来、へと時代はダイナミックに動いていることを示す。ここには、神とサタンの戦いに勝利するには時間がかることが示されている。再臨は遅れるのです。
他方、聖徒たちに対しては、「あなたたちが悔い改めて、すべての人が神に立ち返るのを、神は忍耐強く待っておられるのだ」と「再臨」の遅れを神学的に解き明かしする。神は一人でも救われない人がいることに耐えられないのです。
 このようにペテロは、罪の立場から、また救いの立場から「再臨」の遅れを説明をします。しかし神にとって再臨の遅れなど一瞬のことかもしれません。「主のみ前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。永遠かつ万象を支配する主にとっては、再臨の遅れなど一瞬のことなのかもしれない。我々は、それを、ひたすら待てばよいのです。神は必ず来ると約束しています。主の再臨への希望は、揺るぎの聖徒たちを神に帰させる唯一の希望になるのです。
 主の日はいつ来るかわかりません。そのためには、いつ来てもよいように準備する必要があります、。この日万物万象は崩れ去ります。この世は崩れ落ちても、主との約束に従って、信仰熱き者には、「新しい天と、新しい地」とが用意されています。この世と共に崩れ去らぬように、身を清めて、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるよう信仰に励む必要があります。我々を救うために主は限界まで忍耐されました。主の言葉を理解せず、曲解し偽りを教えるものを、主は、決して容赦なさいません。彼らには滅びが待っています。ですから、無節操な者たちにだまされて」、自分たちの信仰を失うことのないように、絶えず主と向き合い、絶えず成長しなさい、とペテロは揺るぎの民に警告する。
この終末への希望は、キリスト者が迫害に耐えて信仰を固守する根拠となっているのです。
令和2年7月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に

2020年05月15日 | Weblog
 書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
 この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
 はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
 この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
 著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
 時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
 この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
 この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
 人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
 内容構成

 登場人物
 ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
 シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
 マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
 だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
誰に宛てて書かれたのか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
 概 説
 1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
 次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
 「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
 3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
 後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
 4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
 行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
 神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
 降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
 世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
 あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。           
 ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
 5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
 1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
 2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
 3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
 4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
 主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
 この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
平成2年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に

2020年05月15日 | Weblog
 書簡集16 ペテロの手紙第1 選ばれた人々に
 「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れたくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。どうか、神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン(5:10~11)」。
 この言葉は「ペテロの手紙1,2」の要約といって良いでしょう。
 はじめに:イエス・キリストの使徒ペテロから、この手紙は、現代トルコに位置する5つのローマの属州(ポント、ガラテヤ、カバトキヤ、アジア、ビテニヤ)に散って寄留している選ばれた人々、すなわち父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、また、その血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々に宛てて書かれたものです(1:1~2)。
 この時、聖徒たちの信仰は試されていました(1:6~7)。彼らを強め、励ますために、彼らに、降りかかっている「火のような試練」に対応できるようにと、ペテロは、この書を、書いたのです。試練に対応する方法を、彼らに教え、導いています。
 著者は、この書簡において、散らされた人々が、迫害に耐えること(1:2~10)、聖なる生活を送ること(2:11~3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14~4:19)、最後は長老や若い人たちへの助言(勧め)によって締めくくっています(5章)
 時代背景:ペテロがこの手紙を書いたその時期(62~64年ころ)は、まさに聖徒たちに迫害が、ローマの皇帝ネロ(37~68年自殺、在位54~68年)によって行われていた時代でした。この時期までは、まだローマ帝国はキリスト教の存在を容認していたのです。その意味では本書簡は時宜にかなっていたのです。ペテロのメッセージは迫害に対応する方法を教えています。ネロ帝の統治下、ローマ帝国では、いたるところで聖徒たちに対する迫害が起こりました。特にローマに大火災が起こった時、その容疑がキリスト者に向けられたのです。完全に冤罪でしたが、市民たちは、この冤罪を信じませんでした。市民を巻き込んだ迫害に発展したのです。いたるところでキリスト者は、その信仰ゆえに拷問されたり殺されたりしたのです。ペテロもそのうちの1人でした(逆さ吊りの刑)。聖徒たちの多くはやむなく各地へ散っていかざるを得なかったのです。
 この書簡の特徴:この書簡を受け取った聖徒たちは、当時の激動の状況下で生活し、様々な困難に遭遇していました。この書簡は彼らに希望を与え、助言し、力づけ、勇気づけ、慰めるために書かれた公開書簡です。素晴らしい生き方とはどのようなものかを語っています。この書簡は、今日、あまり注目されていませんが、その内容は、読者の称賛を受けるに値する貴重な宝石であると言われています。この書簡からは愛と平和の雰囲気が漂って来ます。
 この書簡は、キリストを信仰するがゆえに迫害にあっている人に対して、「肉の欲を遠ざけること」「立派な生き方を示し続けること」の2つを、教えています。それは、自分たちを迫害するものに対して喜んで赦すという態度です。彼らに対して祝福を静かに願うと、言う態度です。憎むのではなく、愛すること。それこそ神を喜ばすということなのです。神の真理に忠実であり続ける、と言うことです。
 人はすべて罪びとです。キリストは十字架の贖いによって人々を赦したのです。
 内容構成

 登場人物
 ペテロ:長老の一人。キリストの苦難の証人。やがて現れる栄光にあずかる者(5:1)。キリストのⅠ2使徒の筆頭格。原名はシモンあるいはシメオンとして知られています。ベッサイダの漁師で、妻とカメナウムで暮らしていました。ペテロは兄弟アンデレと共にイエス・キリストの弟子として召されました。12使徒の筆頭格でありながら「イエスを知らない」と3度言ったという話は有名です。イエスの召天後、人が変わり、伝導に尽くし、晩年ローマでネロ帝の迫害を受け殉教しました。カトリック教会では、ペテロを初代ローマの司教(教皇)とみなし、各教皇がキリストからペテロに授けられた天国のカギを継承していると言います。
 シルノア:この手紙の筆記者。この書簡は実際にはシルノアの作だという人もいます。「使徒行伝」におけるシラスのことです。パウロの第2宣教旅行に随伴した奉仕者です。ペテロはこの手紙をシルノアに託し小アジアの教会に送ったと言われてます。
 マルコ:ヨハネ・マルコのことです。パウロの第1回伝道旅行に随伴しています。伝承では「マルコの福音書」の著者とされています。ペテロはマルコを「私の子」と呼んでいます(5:13)。霊的な子を意味するのでしょう。その福音書の中で、イエス様が捕らえられた時、裸のまま逃げた青年として登場します(マルコ:14:51~52)。
 だれが書いたか:イエス・キリストの使徒ペテロ。
 誰に宛てて書かれたか: エルサレムから各地に散らされ、その地に寄留した、選ばれた人々=ユダヤ人キリスト者に宛てて書かれました。
 概 説
 1章:この手紙は反キリストの勢力に迫害され各地に散らされたユダヤ人キリスト者に宛てて書かれたものです。ペテロは信仰の揺るぎの中にある彼らを、慰め、力づけ、神に立ち帰ることを願って、真の信仰とは何かを教え、導いています。
 次の言葉は1章全体のまとめといって良いでしょう。「神様は超自然的力によって、あなたがたが、間違いなく天で永遠の命を頂けるよう、守ってくださいます。あなたがたが、神様を信じているからです。やがて来る終わりの日に、この永遠の命は、あなたがたのものとして、誰の目にも、はっきり示されるでしょう。ですから、心から喜びなさい。今しばらくの間、地上での苦しみが続きますが、行く手には、素晴らしい喜びが待ち受けているからです。これらの試練は、あなたがたの信仰をテストするためにあるのです。それによって信仰がどれほど強く、純粋であるかが量られます(1:5~7)」。
 「神は公平なお方です。さばきは公平です。天に行くその日まで、主を恐れ、慎み深く生活しなさい。この世の罪にまみれ、もがき苦しんでいるあなたがたを見て、神様は一点の曇りのないキリスト様を遣わしてその血によって、あなたがたの罪を贖ってくれたのです。この神様を心から信仰しなさい。両親から受け継いだ肉体はいつかは滅びます。しかし、あなたがたには新しい命があります。そのいのちは永遠に滅びることがありません。このいのちはキリスト様を通じて語られる神の言葉です。主の言葉は、永遠に続きます。これこそ、あなたがたへの良い知らせです(1:17~25参照)」。
2章:1章でも述べたようにペテロは揺るぎの民にいかに生きるべきかを説いています。あなたがたは既に選ばれた人間なのだから、キリストの教えに従い,模範にして生きなさいと。説いています。「熱心に救いの完成を祈り求めなさい。神に近づきなさい(2:3)」。「見よ。わたしはキリストを教会の尊い土台石にするために、特に選んで遣わした。彼に信頼するものは決して失望しない(2:6)。主はキリストの神性を説き、反キリストの悪魔性を説きます。悪魔はいずれ滅びます。だから、今の揺るぎから立ち直りなさい、と説くのです。あなたがたは、主によって変えられのです。再び主の慈しみを求めなさい。
この時キリスト者は迫害されていました。ペテロは言います。「迫害を喜びをもって迎えなさい。喜びをもって、耐えなさい」と、この苦しみは、神様が与えてくださった務めです。キリスト様がその模範です。その彼方に救いがあります。「あなたがたは神様から離れて、迷子の羊のように、さまよっていました。しかし今は、どんな敵の攻撃からも、たましいを安全に守ってくださる羊飼いのもとに帰ったのです(3:25)」。まだ実現していない事実を、このように述べるのは揺るぎの民が救われることを確信をもって信じていることを、示しています。
 3章: 3章は前半(1~17)と後半(18~22)に分かれます。前半では、ペテロは一見この章とは関係のない夫婦関係の在り方を述べることによって、主と聖徒の関係はどうあらねばならないかを語ります。どんな悪い夫にも従いなさいとペテロは言います。これは反キリストの勢力に苦しめられていても、対峙するのではなく愛をもって彼らと接しなさい、と言います。「かえって、その人のために、神の助けを祈り求めなさい。だれに対しても親切にしなさい。そうすれば神様から祝福していただけます(3:9)」と、ペテロは言う。これはペテロが反キリストに対しても、憎しみではなく、愛をもって接しよ、と言っているのです。あなたがたのなすべきことは神を尊び、祈ることです。神を喜ばすために、ひたすら、善を行いなさい。「裁きは、神の選任事項」だからです。
 後半部分は、次の言葉を引用すれば、事足りるででしょう「私たちの受けるバプテスマは、キリスト様の復活による、死と滅びの運命からの救出を意味します。それは、からだが水でキレイに洗われるからではなく、バプテスマを受けることによって、神様に立ち返った私たちが、心が罪から清められるように願うからです。今、キリスト様は天で、神様の次に名誉ある右の座につき、すべての、み使いと天の軍勢を従えておられます(3:21~22)」。神の偉大さにあなたがたは従いなさいと、ペテロは聖徒たちに宣べています。
 4章:神は、あなたがたをダイヤの原石として選ばれたのです。磨かれねばならないのです。あなたがたは、神より選ばれ、救われた民です。救われているからと言って、何をしてもよいのではありません。救われているからこそ、神の前でへりくだり、高慢になってはいけません。善を行わなければならないのです。人間的欲望から解放されなさい。このようにして、磨かれた原石は宝石として光り輝きます。
 行動なき信仰は、無です。信仰とは、愛であり、愛とは行いです。(4:7-9参照)。
 神は、様々な人に様々な能力をお与えになりました。人は、愛をもってその能力を行使せねばならないのです。その能力を世の人々と分かち合いなさい。神様の下さる力とエネルギーに満たされて、人々を助けなさい。それは、イエス・キリストを通して、神様がほめたたえられるためです(4:10-11)」。
 降りかかる迫害を嘆き悲しんではいけません。この迫害は、神様がお与えになった試練なのです。この試練を耐え忍ぶことによって救いへと導かれます。神様は、常にあなたがたと共にあります。それを確信して、試練に耐えなさい。キリスト者であることで迫害を受けるなら喜びなさい。キリスト様の家族の一員となるからです。
 世の終わりが近づいています。この時、キリスト者であろうと、反キリスト者であろうと平等に裁かれます。しかし、その裁きには軽重があります。神に選ばれ、救われる人となりなさい。神の国が待っています。
 あなたがたが受けている迫害が、神様を信じることによって、なされているなら、神にすべてをゆだねなさい。神様は決してあなたがたを見捨てることはないからです。           
 ここにはローマの圧政下にあって、散らされた民が、その揺るぎから解放され、神に立ち返るには何をなすべきかが語られています。神と共にあることによって、肉的な苦しみから、霊的な救いを受け、神の国に入ることが出来るのです。神を信じる信仰によってのみ達成される救いです。迫害に苦しみ、揺るぎの中にあった彼らが神に立ち返ったかどうかは、少なくとも聖書には語られていません。
 5章: 散らされた民の長老たちへ、ペテロは、次の4つのことを願っています。
 1、神様の羊の群れ(散らされた民)を養いなさい。強制でなく喜びをもって、その務めに、当たりなさい。利を求めるのではなく、心を込めて、行動しなさい。
 2、支配でなく、模範となりなさい。ワンマンとしてではなく、優しく指導しなさい。キリストが再臨される時、永遠に朽ちない栄光の冠を褒美として頂けるからです。
 3、若者よ、長老たちに従いなさい。長老たちを模範として、謙遜を身に着け、へりくだりなさい。神は高慢を最も嫌われるからです。
 4、獲物を求めて歩き回っている、悪魔に備えなさい。主を信じて、堅く信仰に立って、悪魔の攻撃に立ち向かいなさい。悪魔と反キリストは結び付いています。
 主は、あなたがたにしばらくの間,苦しみを、与えたのち、永遠の栄光を与えてくださいます。絶対的な力が、永遠に神様にありますように。
 この力への信仰が、救いへの確信となるのです。
平成2年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である

2020年05月02日 | Weblog
 書簡集15 ヤコブの手紙 「実行」なき「信仰」は無である   
 はじめに
 「ヤコブの手紙」の宛先は「国外に散っている12の部族です(1~1)」。その散らされた民にヤコブは言います。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いが無いなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことが出来るでしょうか(2:1~14)」。「人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのでないことがわかるでしょう(2:24)」。「魂を離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです(2:26)」。「さらに、こういう人もいるでしょう『あなたは信仰を持っているが、私は行いをもっています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます(2:18)』」。
 神様を信じる信仰には、自然と行動が伴うはずです。「信仰」と「生活(行動)」を分けるのは本物ではなく、「信仰生活」と言う一つのものとして、生活が新しくされることこそ理想であり、神様もそれを願っておられれるのです。信仰生活とは、勿論、神のみ心を生活の中に生かすことです。人生における実際の生活に、それを反映させなければならないのです。信仰を実際に持っているかどうかは、私たちの人生が変わることによって証明されるのです。しかし、キリスト者は赦されたものであっても、必ずしも完ぺきではありません。神を信頼していると言いながら、その行動はみ心を行うのではなく、この世とこの世の価値観に堅くしがみついているWスタンダードの人を多く見かけます。自分を騙しているだけでなく、神様をもだましているのです。神様のみ心からは遠く離れているのです。言っていることと行っていることが異なっているのです。このような人は霊的初心者と呼ばれます。ヤコブはこの書簡の中でこの矛盾を激しく追及しています(2:1~12)。この書簡のテーマは「み心を聞く」ことではなく「み心を行うこと」であり、「教理」ではなく「行動」です。
 ヤコブは本書簡で、矛盾に満ちたこれらの人々に、知恵に従って生きる方法を具体的に説明しています。救い主に喜んでいただけるように、その言動に気を付け、悪口、高慢、ぜいたく、社会的差別を、排し、社会的貢献に励み、人を傷つける言葉を避け、神がお喜びになる言葉を使うことこそが神に近づく最善の方法であると諭します。
 今の生活は苦難に満ちたものであっても、救いは必ず訪ずれ(イエスの再臨)、すべての不義は正されるがゆえに、忍耐をもって、清く、正しく生き抜き、「その日」の到来を待ち望みなさい、と教えています。「霊的初心者」から霊的成熟者」へと、進みましょう。。
 「ヤコブの手紙」から次のような教えを見出すことが出来ます。
1、 「ヤコブ書」は、キリスト者の生活の指南書です。
2、 信仰を行動に移し、御言葉を行いなさい。
3、 本物の信仰は、生活を一変させます。
4、 真の信仰は、愛のある行動を生み出します。
 「へブル人への手紙」の中で述べたように、地中海沿岸地域の隅々に、散らされた民は、引き続き反キリストの迫害下にあり、正しい行いをしたくてもできない状態にあったものと思われます。真の信仰に生きる者は、迫害を、避けるのではなく、嘆くのではなく、喜びと忍耐をもって迎え、主のみ心を行う必要があります。それが成熟した聖徒の務めなのです。信仰の初心者から、成熟した聖徒へ、これこそヤコブの意図だったのです。真のキリスト者として生きていく決意をヤコブは彼らに望んだのです。
 この書簡を読んだ方は、併せて「「山上の垂訓(マタイ5:1~7:28)」も読んでください。この書は、旧約聖書の律法の代わりに、その義に勝るべき新しい秩序(キリスト教的律法)を提示しようとしたものです。神の国の「正義」と「愛」について述べています。イエスの教えの集大成であることがわかります。その内容は、「地の塩・世の光」、「空の鳥・野の花」「豚に真珠」「求めよ、さらば与えられん」「狭き門」などです。一般によく知られた主題や句を含んでおり、文化の諸領域に大きな影響を与えてきたのです。ここではユダヤ教の倫理が批判されていますが、最終的には、それは決して廃棄されるものではなく、むしろ徹底化されています。イエスの意図は、人間が道徳的理想(律法)を達成しうるかのように考える楽観主義を超えて、神の要求の徹底的性格を明らかにすることでした。この書「山上の垂訓」の中にある多くの言葉が、「ヤコブの手紙」の各章にちりばめられています。両者の底流には共通したもの=それは、「神の国と神の義を求めなさい」が流れています。。
 「ヤコブの手紙」は「藁」の書か
 宗教改革の時代一部の神学者たち、特にマルティン・ルターは「ヤコブ書」を、あまり価値のあるものとは認めず、「藁の書」と呼んで蔑視し、この書を正典から外そうとしました。彼はヤコブが「行い」を重視するあまり「信仰義認(信仰によって、義とされる)」と言うパウロの基本的な思想を否定するもの、と考えたのです。「信仰による義、恵み、による救い」の観点から読むとき、ヤコブの思想は「律法の行いによる義」と見えたのでしょう。しかし、今日、この考え方は否定され、正典から外されることなく、聖書の中で重要な位置を占めています。
 パウロは、「律法の行いによって救われる」と教えるユダヤ主義者と戦っていました。彼の強調点は「人は信仰により、神の恵みによって救われる」と言うものであり、彼にとっては「行い」とは「律法を守り行う」ことであり、否定的にとらえていたのです。彼の関心は「救いの教理を」を展開することにあったのです。
 これに反して、ヤコブは、無律法主義者と戦っていました。恵みによって救われた者は、いかなる道徳律(人によって造られた律法)にも支配されないと教えていました。彼にとって「行い」とは「愛と信仰に基づく善行」をさし、彼の関心は「実践的な側面」を教えることだったのです。
 このように、パウロは救いの方法について論じ、ヤコブは救われた証拠(救われたら当然、良い行いをする)について論じていました。
 両者は、矛盾しているのではなく、互いに、補完しあっているのです。
 言葉の意味
 義、義認:
 義とは、神の正しさ、または、人の、神の前での正しさを指します。
 義認とは、罪びとである人が、神から義と認められること(キリストの十字架の贖いによる)を指します。
 誓いとは
1. あることを将来必ず履行することを他人や自分自身に堅く約束することです。
2. 神にあることを、そむくまいと約束することです。
3. 「誓う」という行為は言った通りに実行するということです。「私はこれをします、あれをしますと言っておきながら、それをしないのは罪になります。本当に実行するなら、ことさら実行することを神に対して、また人に対して言うことはないのです。行いに対する返事は、「はい」であり、できない場合は「いいえ」です。
 試練、忍耐、救い、とは:
 試練と忍耐と救いとはセットで現れます。5章に「ヨブ」の忍耐の話が出てきます(5:11後半)。これを神のご計画の観点から見る時、ヨブはイスラエルの民を現し、ヨブに与えられた試練は、神がイスラエルの民に与えた試練を現しています。ヨブは神に対しては完全な人間であり、罪なき人間だと主張し、その試練の不条理さを叫び続けます。しかし、最後には、罪を認めないことが罪なのだと、後悔したとき、神はその罪を赦し、奪った物の数倍の恵みでお返しになったのです。神はイスラエルの民に試練を与え、忍耐によってその信仰を守り続けるなら、その時、主が再来されて「究極の救い」=神の国(数倍の恵み)をお与えになると約束をしました。「ヨブ記」は聖書そのものです。
 「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それを、この上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない成長を遂げた、完全なものになります(1:2~4)」。
 「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しとされた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです(1:12)」。
 「苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい、耐え忍んだ人は幸いであると、私たちは考えます。主は慈愛に富み、あわれみに満ちたお方です。救いの恵みをお与えになります(5:10~11参照)」。預言者は人々に神のみ言葉を語るために存在しています。神の真理を語り、そして、その預言のゆえに苦しみに会いました。しかし、その忍耐ゆえに主が来られた時に救われるのです。 試練の中にある「兄弟たち。主が来られ時まで耐え忍びなさい(5:7前半)」。「主が来られる日は近いからです(5:8)」。
 >知恵とは:
 物事の理を悟り、適切に処理する能力をさします(「広辞苑」)
単なる霊的洞察力のことではありません。実践生活において、義なる行為を行うために必要とされるものです。日々の生活の中で、神様を仰いで、善悪を見分ける知恵、適切な判断を下す知恵を頂けるように努めたいものです。
 「知恵のある、賢い人は誰でしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを良い生き方によって示しなさい(3:13)」。
 「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、哀れみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばせる種は、平和を作る人(キリスト)によって平和の裡に蒔かれます(3:17~18参照)」。
この書の作者は:神と主イエス・キリストのしもべヤコブ(1:1)」です。イエスとヤコブはともに母マリヤから生まれました。二人は異父兄弟です。ヤコブは弟です。マリヤの夫はヨセフであり、それゆえヨセフはイエスにとっては義父であり、実父は神の聖霊です。ヤコブにとって実父は、ヨセフです。それゆえ、ヤコブとイエスの間には肉体的なつながりはなく、霊的にのみ繋がっています。ヤコブは自分をイエスの弟としてではなく、主の「しもべ」として紹介することで謙遜さを示したのです。
パウロはヤコブをペテロと並んでエルサレムの教会の柱として重んじ指導的役割を与えています。ヤコブは西暦66年ころに殉教の死(祭司アンナスによる石打の刑)を遂げています。
 宛 先:迫害のために地中海沿岸地域の隅々に散らされたユダヤ人キリスト者=12部族に宛てて書かれました。彼らは必ずしも「失われた部族」ではなく、その一部は、それぞれ散らされた地において「選民」として、あるいは「」として、部族ごとに、自らのアイデンティーを失うことなく一つの共同体を作っていたと思われます。彼らは自分がどの部族出身であるかを知っていました。イスラエルの12部族は決して失われてはいなかったのです。しかし、彼らも他の異邦人と同様に反キリスト者に迫害されていました。その12部族に対してヤコブは彼らを励ますためにこの手紙を書いたのです。
 ヤコブの手紙の内容構成

 執筆年代:西暦45~48年の間に書かれたらしい。。
 執筆された場所;ヤコブはエルサレムに住んでおり、エルサレムの教会の諸事を管理していたことから、おそらくこの地から本書簡を書いたと思われます。しかし、確定することは出来ません。
 時代的背景:ヤコブが殉教死した60年代は特に迫害の厳しい時代でした。皇帝ネロは62,63年ごろ現れ、キリスト者を迫害しました。各地に散らされたへブル人・キリスト者は散らされた地でも厳しい迫害に苦しみ、貧困にあえいでいました。この苦しさから、信仰を捨てる者、離れる者がいました。この人たちに迫害者の偽善性を暴露し、信仰に堅く立つようにと願って書かれたものが、この「ヤコブ書」だったのです。試練を喜んで耐え忍べ、その結果、救いは必ず訪れる(キリストの再臨)と励ましています。。
 この書の特徴:
1. 偽善的な慣例を暴露し、キリスト者としての正しいあり方が語られます。
2. キリスト者として生きるべき指標が示されます。
3. キリスト者が直面しなければならない様々なことが書かれており、正真正銘のキリスト者として、いかに生きるべきかが主張されています。
4. キリスト者としての生活のための原則が短い言葉で簡潔に述べられています。
5. この書の特徴を見る時、信仰と実践を深く結びつけた書である、ことが良くわかります。つまり、主を信じる者は、そのみ言葉によって、いかに生きるべきか、行動するべきかを考え、行動しなければならないのです。その結果、実行なき信仰は無であるという結論に導かれます。
 各章ごとの概説:
 第1~2章:ヤコブはその手紙を「離散した12部族に向けて書きました。彼らは迫害下にあって、その信仰に揺るぎを感じていたからです。彼は言う「忍耐によって試練に耐えよ、知恵を求めて信仰に見合った生活をし、サタンからの誘惑を拒否せよ」と。「神のみ言葉を聞き、また行え」と。「そのことによって完全なものとなれ」。「その証として孤児や、やもめの世話をし、自らを清め、罪から解放せよ」と勧告する。
 聖徒たちは隣人を愛し、自らの行いを通して信仰を示しなさい。
 第3~4章:ヤコブは言います「皆が教師(みことばを取り次ぐ聖職者)になるな」と。語ることの多い務めだからです。人は言葉で失敗します。言葉で失敗しない人がいたら、その人は体全体を制御できる人です。舌(言葉)は小さな器官ですが大きなことを誇ります。舌は父である主をほめたたえ、同じ舌が主を呪います。このような矛盾を主は嫌います。言葉(舌)を制することは内側に良いもので満たすということです。言葉(舌)を制して知恵にふさわしく生きなさい。悪魔の誘惑を拒否しなさい。
あなたに願いが生じたら、神に願いなさい。その願いが正しいものなら、叶えられます。世を愛するものなら拒否されます。それは、戦争や争いの原因となるからです。
 ヤコブは言います「人をさばくな」と。さばくことのできるお方は、主のみです。主は言います「復讐は我にあり」と。
 主のみ心ならば、あなたの願いを行いなさい。「なすべき正しいことを行わないのは、その人の罪」だからです。」。
 第5章:不当に富を蓄えることに対する警告が語られます。この世の富は一時的で最終的には消え去る空しいものです。彼らは、罪びとで、「終わりの日」が来るまで、それを理解できずに、民を搾取して肥え太っています。これらの富裕層が、主の再来によって滅ぼされ、あなたがたが救われる「その日」がくるまで、忍耐をもって待ち望みなさい。さばきは主の務めです。その日は近いのです。主は慈愛とあわれみに満ちた優しいお方です。約束は必ず守られるお方です。とヤコブは散らされ、迫害下にあった人たちを励まします。しかし神に対して「誓い」と言う言葉を軽々しく言ってはならないのです。人の言う「誓い」ほどあてにならないものはないからです。神に対する応答は「YES」か「NO」です。罪びとを、迷いの道から救い出すものは、罪びとのたましいを死から救い出し、多くの罪をおおうのです。
平成2平年5月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集14-2 へブル人への手紙

2020年05月01日 | Weblog
 書簡集14の2へブル人への手紙
 はじめに
 これからへブル人への手紙の後半に入ります。
 その前にすでに述べた前半について述べてみます。前半ではキリストの教えに疑いを持ち、揺るぎの中にあった同族のへブル人に対して、その回帰を願って、この書の著者が手紙を書きます。彼らをキリストの教えに回帰させるために必要なことは、神の子キリストが、いかに優れた方であり、あらゆる神に対して至高の存在であるかを証明することでした。そのためには、ユダヤ教徒が大切にしている、み使い=天使、モーセの律法、レビ的祭司の3つのものよりも、キリストの教えは卓越したものであると証明することでした。御子はみ使いよりも優れた存在であり、優れた救いの道を備えられ、またアロン(モーセの兄)の祭司職よりも偉大なメルキゼデク(キリストの型=象徴)が祭司となられたことが述べられています。もともと祭司職には二つの流れがあり、一つはアロンに代表されるレビ族の流れであり、もう一つはキリストに繋がるメルキゼデクの流れの二つです。これまで、キリストに繋がる流れは、レビ族の流れの背後に隠されていました。しかし、レビ族の流れは破綻し、キリストに繋がる流れが表に出てきたのです。こうしてモーセを通して与えられた「古い契約」は、キリストと神との「新しい契約」に取って代わられたのです。キリストは祭司職として霊的に再生したのです。キリストは神の真理のすべてを宣べ伝え、人と神の仲介役になられました。このように、古い契約に立つユダヤ教に対して、新しいキリストの教えの優位性を証しすることによって、揺るぎの民(へブル人)の悔い改めと、キリストへの回帰を、著者は促したのです。
 これまでが前半のあらすじです。 
へブル人への手紙の内容構成
 
 神が思い、キリストから民に伝えられた真理=救いの国=神の国(神のご計画の完成)はいまだ実現していません。未来完了の世界です。その実現を保証する根拠はどこにもありません。災厄の中にあります。しかし、ここに希望と信頼と愛の道が備えられています。「信仰」が生まれる余地があるのです。信仰とは、まず、神の存在を認めること。神が言われること、願っていることを素直に受け止め、何の疑問も提示せず「しかり」と、納得し、確信し、行動に移すことです。行動なき信仰は無です。揺るぎの民=へブル人はこのことを知って悔い改め、神に立ち返らねばならないのです。
 信仰とは
 神の言われることを「そのとおりである(信頼)」と受け入れることが信仰であり、信仰の結果、その目に見えないことが自分の中に体験されることになります。パウロは言います「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」と、この言葉が自分の中で現実となるとき、私たちはどんな境遇においても、力強く歩み、また神の栄光を、自分の身を通して豊かに表していくことが出来るのです。
1.信仰がなければ神に喜ばれることはありません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求める者には報いてくださることを信じなければならないのです。
2.信仰は、私たちが今まで聞いてきたキリストについての教えを自分のものとする媒体であり、清められた良心とともに、神を知り、神に近づくことのできる唯一の方法です。
3.「私の兄弟たち。様々な試練に会うときは、これをこの上もない喜びと思いなさい。信仰が試されると忍耐が生ずるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全なものとなります(ヤコブ1:2~4)」。
 キリスト教の信仰は神と人との信頼関係によって成立しています。それは赤ん坊と親との関係に似ています。赤ん坊はすべてを親に依存しなければ生きていけません。そこには自分はありません。他者にゆだねきっています。これは神と人との関係においても同じです。人は自分を捨て、神を信頼してすべてをゆだねたとき、救われるのです。イエスは、唯一絶対者である神を遠いものとしてではなく、父親のように最も近い存在として、「アッバ」と呼びました。「アッバ」とは、ごく幼い子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの表現です。「パパ」とか「お父ちゃん」とか言う感じでしょう。ここが旧約聖書の神と異なる点です。旧約聖書では「罪は死」を意味していました。恐れの存在であっても親しい関係など抱くことは出来ませんでした。キリスト教の信仰においては「アッバ」と呼ぶ幼い子供のように神への信頼が何よりも先にあります。どんな絶望的状況にあっても、希望を持つことが出来ます。それはやがてキリストが再び来られ、その救いを完成してくださるという望みです。「キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を捧げられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです(9:28)」。神への信頼により包み込まれ、乗り越え行動に移すことが出来るのです。
 11章では、信仰によって神の恵みを受けたものの具体的な名前が挙げられています。これらすべてについて説明することは時間と紙面の関係上できません。アベルとカインの捧げもの、とノアの信仰の二つを述べたいと思います。
 カインは野の作物を神にささげ、アベルは子羊の肉を神に捧げました。共に最上のものを捧げたはずです。神はアベルを用い、カインを退けられました。何故か。アベルは、信仰によって神の望まれるものを捧げたのです。しかしカインの捧げたものは神によって「呪われた土地」の作物だったのです。アダムはその罪によってその土地は「呪われたもの」になっていたのです。この事情をアダムの子であるカインは知っていたはずです。カインにあったものは「我」であって神に逆らうものだったのです。
 次にノアについて述べたいと思います。「信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続するものになりました。(11:7)」。ノアは神から「これから地上に生きている者を消し去ろう。あなたは箱船を造りなさい」とノアに命じられました。ノアは、洪水が起こることを知らされていなかったにもかかわらず、それが起こることを前提にして箱舟を造ったのです。この時、人々は悪いことばかりに傾き、良いものがない状態でした。神がお怒りになっておられることをノアは知っていたのです。ノアは家族とともに箱舟に入りました。洪水が起こり、罪にまみれた人々はおぼれ死んだのです。ノアは、箱舟の中で家族とともに救われました。ノアは信仰に生きた人だったのです。神はそれを知って彼をお救いになったのです。
 この書の著者は、この二人のほかに信仰に生きた人々について語っていますが「この人々は、みなその信仰によって証しされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのためにさらにすぐれたものをあらかじめ用意されておられたので、彼らが私たちと別に全うされることはなかったのです(11:39~40)。間もなくこの世に終わりの日が訪れます。神の怒りが下る日です。その日に備えて我々は信仰に生きなければならないのです。この書の著者は、信仰に揺るぎのあるヘブル人に信仰に生きることの意義を教えています。
 契約とは:
 新しい契約を結ぶにあたって、この書の著者は次のように言う「もし、あの初めの契約(古い契約)が欠けのないものであったなら、後のもの(新しい契約)が必要になる余地はなかったでしょう(8:7参照)。はじめのものとは「あなたがたが主の教えに聞き従うなら、あなたがたは宝の民となる」。と言うものである。この契約は双務契約であって、一方が破れば、他方はこれを守る必要はない。しかし、人は主の教えに聞き従うものではなかった。神が言われたように、そこには欠けるものがあった。神はイスラエルの民が契約を守り通せないのを見て、新しい契約を結ばれたのである。神は人には期待しなかった。人が変わることが出来ないなら、自らが変わろうと考えたのである。神はノアにこう言っている。「わたしは、決して、人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心を思い計ることは、初めから悪だからだ(創世記8:21)」と。神は人の罪に対する対処を罰ではなく、赦しとあわれみを提供することによって解決することにしたのです。神の側で罪の問題を決着されたのです。「主が言われる。見よ、日が来る。わたしがイスラエルの家や、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が(8:8)」「私は私の律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」「彼らは、みな私を知るようになる」「わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い出さないからである(8:10~12参照)」。しかしこの言葉はあくまでも神の意志であって人とは関係はない。人には、神は遠い存在であった。そこで神と人との仲介役を務めたのが神の子=イエス・キリストであった。
 それではイエス・キリストとはどんなお方なのでしょうか。
 「私たちの大祭司(キリスト)は、天におられる大能者(神)の、み座の右の座に着座された方であり人間が設けたのではなくて、主が設けた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です(8:1-2)」そこから地上をご覧になり、執り成しをしておられます。             
一方、律法に従って捧げものをする祭司たちがいます。その人たちは、天にある幕屋の写しと影である幕屋に仕えています。その幕屋は神がモーセに命じて作らせたもので、天にある「真の幕屋」の写しであり影なのです。それは、完全な似姿です。
 ここでは神は「真の幕屋の姿」を示していません。写しと影から想像するのみです。9章の初めにその似姿が具体的に示されています。神は決して自分のみ姿を直接にはお示しになりません。その似姿を示し、その姿から、我々は、真の姿を知るのです。
 律法に従って捧げものをする祭司たちは写しであり影である幕屋に捧げものをしていました。幕屋は垂れ幕によって前後に分けられ、前の幕屋は、聖所と呼ばれ、後ろの幕屋は至聖所と呼ばれていました。聖所には祭司が入り礼拝をおこない、至聖所には大祭司のみが年に一度だけ入ります。その時、動物の血を携えて入ります。「律法によれば、すべてのものは血によって清められる。また血をそそぎだすことがなければ、罪の赦しはない(9:22)」のです。大祭司の捧げる血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のために捧げるものです。血と同時に、いろいろな捧げものと、いけにえ、とが捧げられます。しかし、それらのものは礼拝する者の良心を完全にすることは出来ませんでした。なぜなら、彼らは霊的には実体のないもの(写しと影)を礼拝したからです。無なるものを礼拝しても救いはありません。ここから人は、実体のあるもの天にある真の幕屋へと導かれていくのです。「キリストは、この世界にきてこう言われるのです。『あなたは、いけにえや捧げものを望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと、罪のためのいけにえとで、満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、私は来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみ心を行うために』(9:5~7)」。イエスはこの段階で、十字架上での死をはっきりと理解していたのです。自分の死と復活がなければ、イスラエルを、いや全世界を救うことは出来ないのだと。イエスは十字架上で「完成した」と叫んでいます。「しかし、キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造ったものでない、言い換えれば、この造られたものとは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子羊との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです(9:11~12)」。このようにしてキリストは天に上り、神の右の座にお座りになったのです。
 この著作の著者は言う「私たちの前の置かれている競争を、忍耐を持って走り続けようでありませんか」と迫害の中にあり、揺るぎのへブル人に対して、忍耐をもって、信仰の創始者であり、完成者でもあるイエスから目を離すなと警告する。そして言う「「主の懲らしめを軽んじるな」と。それは、信じることの苦しさに背信の心を起こそうとするへブル人に対して、懲らしめは父親の愛であり、主へ導くための訓練だと励ます。
 「へブル書」を読むとき、必ず、古い教えと新しい教えが対比されて語られていることに気づきます。それは新しい教えが、古い教えに卓越していることを証しするためです。古い教えは「戒めと畏れ」の教えであり、罪を生むものであるとするなら、新しい教えは愛と恵の教えであり、罪からの解放を目的としているからです。このことによって、揺るぎの中にあるへブル人に勇気を与え、迫害に耐え、キリストの教えに戻ることを、この書の著者は、心の底から望んだのです。
 これから本書の最後の13章を読みます。ここでのテーマは「宿営の外に」です。私たちはこれまで、この書簡の背景になっていた、信仰に揺るぎを感じていたへブル人のことを念頭に入れて読んできました。これからはこの書簡のハイライトです。彼らは、迫害や圧迫の中にあって、神に疑いを持ちその神への信仰に躊躇し迷いの中にありました。この書簡の著書は、これらの人々に対して、どのように生きていかねばならないかを教え、諭し(13:1~9)、その結論として「宿営の外に出て、御許に行こうではありませんか」と語っています。宿営の中には幕屋があります。大祭司は至聖所の中に、動物の贖いの血をもって入り、それを自分と、民の救いのために捧げました。しかし動物の体は幕屋の外で焼かれました。同様にイエスもご自分の血で、民を聖なるものとするために、そのからだは門の外で十字架の苦しみを受けられたのです。
 「私は、あなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神=主があなたの行くところ、どこにでも、あなたと共にあるからである(ヨシヤ1;9)」。これはへブル人に対する励ましの言葉である
令和2年4月14日(火) 報告者守武 戢 楽庵会