奈良大和路水彩スケッチ散策

奈良・大和路の風景を寺社仏閣中心に水彩スケッチ探訪

菊屋

2012-08-30 06:08:39 | スケッチ
菊屋/F3
 和菓子の老舗「菊屋」です。各地にお店がありますが、ここが本店、後のビルが本社で、銀行風にいえば、本店営業部でしょうか。創業は、なんと秀長入城と同じ天正十三(1585)年。城主御用達の菓子司として店を構え、現在二十五代目。名物は「御城ノロ餅」店が、ちょうどお城の入り口だったことから名付けられたそうです。
餅の名を「城の口」てふ 花の茶屋  牛歩
 一ロサイズの鶯餅は、秀長が催した茶席で、秀吉ら客人にふるまわれたのが始まりといいます。
 この店は百六十年前の町家を復元したもので、店先で一休みできる縁側もあります。

和田徳

2012-08-27 07:17:30 | スケッチ
和田徳/F3
 柳丁四丁目、この店は閉めていますが呉服屋「和田徳」。ここから一丁目までは街の中心的商店街でしたが今では雨戸を下ろす店が多くなっています。手前は郡山八幡神社。郡山鎮護の神社として城主の保護を受けてきました。

紺屋町

2012-08-22 05:05:47 | スケッチ
郡山の街並み:豊臣秀長の多少強引ですが立派な街造りと柳沢藩に名君が続いた事により、立派な街並みが残っています。街は職業別に「魚町」「塩町」「雑穀町」「豆腐町」「茶町」…。商業都市、郡山らしいこれらの地各の由来は、秀長の時代に各種の職人が集まって形成された地域を商工業種別に街編成したものです。
紺屋町/F3
 ここは「紺屋町」。中央の紺屋川と名付けられた小川の両側に当時は、十三軒の染め物やさんがあって、染め物をさらしたところ。一時は穢いドブ川でしたが、時の市長が「金魚の住める川にする」(金魚は郡山の名産)と宣言しました。あれから十年以上たって、金魚は泳いでいませんが、きれいな小川になっています。
 両側の街並みは昔は染物屋さんだったのでしょう。 「箱本館」と呼ばれる老舗に資料や染め物の体験も楽しめます。

柳沢神社

2012-08-20 08:45:52 | スケッチ
柳沢神社/F3
 柳沢家の初代藩主吉保を祀っています。この近くの郡山城の二の丸址にある旧制郡山中学(現郡山高校)の生徒にお参りするよう強いたことがあったようです。「将軍綱吉の腰巾着になぜ頭を下げる?」との疑問もあたようですが、学校の前身が郡山藩の藩校であったこともあるのでしょうが、吉保は甲府で三百石の小身から平時では異例の12万石まで出世、「出世の神様」として、今も参詣者が絶えません。

永慶寺

2012-08-15 05:40:26 | スケッチ
永慶寺/F3
 郡山城主柳澤家の菩提寺で、柳澤吉里が甲府から国替の際、当地に移築したものです、山門は幕末に郡山城城門を移築したもので、郡山城の遺構としての唯一の建造物です。句碑があります
秋雨や 車無ければ 歩くまで        虚子
 山門と言えば、名城高取城も取り壊されましたが、山門が小嶋寺に移築され、高取城の唯一の遺構となっています。

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2012-08-13 05:33:11 | Weblog
郡山:奈良時代にはこの辺りは東大寺領に属し、寺領「郡山」と呼ばれていました。中世末期の混乱を経て、織田信長と組んだ筒井順慶が、大和を統一、筒井から郡山に移り、城郭の整備にかかりました。
 山崎の合戦で政権を握った秀吉の弟秀長が、紀伊、和泉、大和三ケ国で百万余石を領し、郡山城に入り、本格的な築城を始めました。紀州根来寺の大門を城門にしたり、周辺の神社、仏閣から仏石、墓石、羅城門の基礎石等、あるいは春日奥山から大石を切り出し運んで、城郭の大増築と城下町の建設をしました。奈良は石が少ないこともあって、相当強引な築城があったようです。本丸の石垣には地蔵菩薩が積み込まれ、今は“逆さ地蔵”として祀られています。南都仏教への見せしめの意味もあったのかもしれません。
 江戸時代には享保九年(1724)五代将軍徳川綱吉の側用人をつとめた柳澤吉保の子、吉里が甲府より転じ十五万石をもって入部しました。二代目信鴻以降常に文治に秀でた藩主に恵まれ、城下を中心として栄えました。残念ながら明治になって“廃城令”により取り壊されました。廃仏毀釈”と共に、日本の文化遺産を壊した明治政府の大きな失政でしょう。

郡山城跡大手門/F3
 戦後再興された郡山城大手門と大手門櫓です。
なの花の 中に城あり 郡山       許六
十五萬石の 城下へ 花の坂       青畝

登彌神社参道

2012-08-10 05:10:58 | スケッチ
登彌神社
 日本書紀では熊野から大和に入った神武天皇の軍がナガスネヒコと交戦したとき、金色の霊鵄(とび)が天皇の弓のとまり、その輝きによってナガスネヒコの軍勢は目がくらんで戦うことができなくなり、この地を鶏邑(とびむら)と名づけたとあります。

登彌神社参道/F3
 古事記に出てくる登美に由来する登弥(とみ)神社が、大和郡山市に近い冨雄川の東岸にあります。
 平安時代にさかのぼる式内社です。