奈良大和路水彩スケッチ散策

奈良・大和路の風景を寺社仏閣中心に水彩スケッチ探訪

三山地方/橿原神宮拝殿

2009-03-29 06:21:17 | スケッチ
三山地方/橿原神宮拝殿/F3
橿原神宮は明治二十二年の創建で、神武天皇とその皇后を祀られています。書紀のいう国のもなかと定められた橿原宮はこのあたりであろうというので、京都御所の温明殿・神嘉殿をここに移して祀られました。
昭和十五年には何百万という国民の奉仕によって神域は大きく拡張され、社殿も荘麗になりました。その時全国から集った献木は以来七十年、樹木は大きくなり、荘厳な橿原森林遊苑になっています。今年は丑年、上村淳之筆による大きな絵馬が奉納されています。


三山地方/久米寺宝塔

2009-03-26 06:46:43 | スケッチ
広い意味では飛鳥地方ですが、藤原宮跡を中心に畝傍・耳成・香具山に囲まれた地方を「三山地方」とよんでいます。このあたりのスケッチ数枚をご覧ください。

三山地方/久米寺宝塔/F3
久米寺は橿原神宮のすぐ南、古の来目の邑にあり、普段は静かな佇まいを見せています。
聖徳太子の弟、来口王子の創建といい、久米仙人の伝説で名高い寺です。
宝塔のあたり浄めて紅葉焚く 椎幹


八木町/札の辻

2009-03-23 06:12:02 | スケッチ
八木町/札の辻/F3
ここは“札の辻”と呼ばれています。古代、飛鳥地方と大阪を結ぶ道筋であった横大路と、奈良盆地を南北に貫く下ツ道の交差です。その地名は、高札場があったことに由来しています。横大路は、西へ進むと竹ノ内街道経由で大坂へ、東へ進むと初瀬街道を通って伊勢や名古屋へ通じる重要な街道で、江戸時代には大坂方面からの伊勢参りの参拝客でにぎわいました。この建物はかっては旅館で、往時の宿場町を偲ばせてくれます。当時市の立った札の辻の北側は現在も道幅が広くなっています。

八木町/下つ道

2009-03-20 07:52:14 | スケッチ
八木町/下つ道/F3
平城京の東、興福寺からまっすぐ南への古道、下つ道は、ここ八木町を通って藤原京域となります。本薬師寺・軽寺など古代寺院跡や小房観音寺・橿原神宮などがり、最後は見瀬丸山古墳に至ります。古い伝統を守った美しい街並みが続きます。
畝傍山のぞく古町水をうつ 草江

八木町/下つ道

2009-03-17 06:24:15 | スケッチ
八木町/下つ道/F3
八木町はこのあたりを中心に発達しました。中世から「八木市」が開かれ、南大和の物資の集散地として繁栄しており、興福寺に付属した「八木中買座」や「鳥餅座」など多くの座が結成され、市が開かれていました。この建物も、表に折りたたみの床几台を設け、商人の往来がうかがわせます。

八木町/古い街角

2009-03-14 06:05:31 | スケッチ
八木町/古い街角/F3
橿原市八木は今井町と並ぶ古い街並みが残っています。数枚ご覧ください。
ここは街道から少しはなれた街並み。付近には八木氏の八木廃寺跡、礎石が残つっています、また近くに国分寺があります。
相宿と跡先にたつ矢木の町 支考

山辺の道/海拓榴市観音

2009-03-11 21:23:12 | スケッチ
山辺の道/海拓榴市観音/F3
平安時代になると長谷寺参詣の宿泊地として栄えた。そのため観音信仰が盛んとなり、古くからあった観音堂は最近建て替えられました。海柘榴市観音堂には観音仏、が安置されています。
たらちねの母が呼ぶ名をもおせども 道行く人は誰と知りてか 万葉集 3102.

山辺の道/海拓榴市

2009-03-08 07:01:40 | スケッチ
山辺の道/海拓榴市/F3
海柘榴市は、古代から栄えた交易市です。
大陸の使節も大和川の舟運を利用して、この地まで遡りました。
紫草は灰さすもおぞ海柘榴市の 八十のちまたであへる子や誰 万葉集 3101.
王朝以来、ここはまた長谷詣での宿場町として栄え、「枕草子」「源氏物語」などにも登場します。今は普段は人影もまれな静かな旧街道筋です。

山辺の道/平等寺

2009-03-05 07:25:08 | スケッチ
山辺の道/平等寺/F3
山門の左側に、平等寺の説明板があります。この寺は、聖徳太子が賊徒を平定するため、三輪明神に祈願し、賊を平定して後、十一面観音を刻んで寺を建立したのに始まる。鎌倉時代初期大伽藍が建立された。とあります。この寺は、明治の廃仏殿釈で廃されましたが、「翠松庵」として再建し、昭和五〇年に再び平等寺と改称されています。
再建前の句ですが,
今はなき平等寺なり柿熟るゝ 倭文子