本薬師寺跡からの藤原宮跡/F3
本薬師寺跡は、金堂と塔の巨大な礎石が残るのみでちょっと絵にはなりません。しかし北の方向には、特別史跡、藤原京跡が遠望され、鮮やかに耳成の山が望めます。
藤原京は持統天皇によって建設され、694年に遷都しました。以後、文武・元明と三代にわたり、710年の平城京遷都までの16年間、ここに都がおかれました。
春過ぎて 夏来るらし しろたへの 衣乾したり 天の香具山 持統天皇
藤原宮址は最近文化庁で発掘調査のあと、よく整備され気持ちのいい広場になっています。
本薬師寺跡は、金堂と塔の巨大な礎石が残るのみでちょっと絵にはなりません。しかし北の方向には、特別史跡、藤原京跡が遠望され、鮮やかに耳成の山が望めます。
藤原京は持統天皇によって建設され、694年に遷都しました。以後、文武・元明と三代にわたり、710年の平城京遷都までの16年間、ここに都がおかれました。
春過ぎて 夏来るらし しろたへの 衣乾したり 天の香具山 持統天皇
藤原宮址は最近文化庁で発掘調査のあと、よく整備され気持ちのいい広場になっています。
藤原京跡付近から畝傍山/F3
香具山は
畝傍雄々しと 耳梨と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも
嬬をあらそふらしき 中大兄皇子
山の姿を見ると、畝傍山が199㍍一番高く、がっしりとした雄々しい山容。耳成山は148㍍と低く、なだらかな円錐形で、いかにも女性らしい。香久山は151㍍、独立した山でなく峰つづきのやや平坦な丘といった感じで、男性的とはいえない。が、飛鳥時代この畝傍山を女性と見なしました。女性が強く大きな存在だったのでしょうか。
香具山は
畝傍雄々しと 耳梨と
相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔も
然にあれこそ うつせみも
嬬をあらそふらしき 中大兄皇子
山の姿を見ると、畝傍山が199㍍一番高く、がっしりとした雄々しい山容。耳成山は148㍍と低く、なだらかな円錐形で、いかにも女性らしい。香久山は151㍍、独立した山でなく峰つづきのやや平坦な丘といった感じで、男性的とはいえない。が、飛鳥時代この畝傍山を女性と見なしました。女性が強く大きな存在だったのでしょうか。
天香具山神社/F3
香具山の北麓、“北浦集落”には天香久山神社がのこされています。境内には数個の万葉碑があります。中でも自然石に彫ったのが目立ちます。
久方之 天芳山 此夕霞霏 春立下(久方の 天香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも)人麻呂歌集
香具山の北麓、“北浦集落”には天香久山神社がのこされています。境内には数個の万葉碑があります。中でも自然石に彫ったのが目立ちます。
久方之 天芳山 此夕霞霏 春立下(久方の 天香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも)人麻呂歌集
天香具山集落/F3
香具山の南麓の集落“南浦”です。昔ながらの民家が並び、天岩戸神社があります。また山へのハイキング登山の入口となっています。山の高さは一四八メートル、頂きまで木がよく茂っていて眺望はありません。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち… 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉洲 大和の国は 舒明天皇
久山を 負ひて五六戸 干瓢干す 董太
香具山の南麓の集落“南浦”です。昔ながらの民家が並び、天岩戸神社があります。また山へのハイキング登山の入口となっています。山の高さは一四八メートル、頂きまで木がよく茂っていて眺望はありません。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち… 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉洲 大和の国は 舒明天皇
久山を 負ひて五六戸 干瓢干す 董太