奈良大和路水彩スケッチ散策

奈良・大和路の風景を寺社仏閣中心に水彩スケッチ探訪

郡山の街並み/大手門

2010-02-06 08:55:15 | スケッチ
郡山の街並み/大手門/F3
戦後再興された郡山城大手門と大手門櫓です。
奈良時代にはこの辺りに平城京の羅城門があり、東大寺領に属し、寺領「郡山」と呼ばれていました。
中世末期の混乱を経て、織田信長と組んだ筒井順慶が、大和を統一、筒井から郡山に移り、城郭の整備にかかりました。
ところが本能寺の変・山崎の合戦で政権を握った豊臣家は秀吉の弟大和大納言秀長が、紀伊、和泉、大和三ケ国で百万余石を領し、郡山城に入り、本格的な築城を始めました。紀州根来寺の大門を城門にしたり、周辺の神社、仏閣から仏石、墓石、羅城門の基礎石等、あるいは春日奥山から大石を切り出し運んで、城郭の大増築と城下町の建設をしました。奈良は石が少ないこともあって、相当強引な築城があったようです。本丸の石垣には地蔵菩薩が積み込まれ、今は“逆さ地蔵”として祀られています。
江戸時代に一度は解体され、伏見に運ばれたようですが、再びここに戻って親藩の数代の城主の後、享保九年(1724)五代将軍徳川綱吉の側用人をつとめた柳澤吉保の子、吉里が甲府より転じ十五万石を以って入部しました。二代目信鴻以降常に文治に秀でた藩主に恵まれ、城下を中心として栄えました。
数奇な運命がありましたが、築城の基本は豊臣秀長のよるものです。残念ながら明治になって“廃城令”により取り壊されましたが、“廃仏毀釈”と共に、日本の文化遺産を壊した明治政府の大きな失政でしょう。
なの花の 中に城あり 郡山  許六
十五萬石の 城下へ 花の坂  青畝