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瀬戸内海-世界遺産「海の路」の普遍的価値

2008-02-05 22:58:31 | 日記・エッセイ・コラム

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 2月1日、第2回世界遺産フォーラム・瀬戸内in福山に「四国へんろ道文化世界遺産化の会」のメンバーとともに参加した。今回のフォーラムは、高度成長時代の産業都市・福山において、鞆の浦「埋め立て架橋計画」に揺れる緊迫した現実におかれながらも、「海の路」瀬戸内海の普遍的価値を世界へと、その可能性を探る多面的な議論が行われた。Img_0013_edited 昨年世界遺産に登録された石見銀山について、西村幸夫・東京大学教授と中村俊郎・石見銀山資料館長との対談では、「過疎化の中で残るのは文化しかない」という強い思いで50年にわたり続けてきた文化財保存活動が土台にあったこと、「世界遺産というキャンパス」で石見の土地に人を育てることの重要性が語られた。Img_0032_edited

 瀬戸内海には、港町ネットワークがある。世界遺産にむけた「それぞれの挑戦」として福山・鞆の浦・尾道・室津の活動が紹介された。いにしえから中国・朝鮮など大陸との交易の要路として、北前船や朝鮮通信使の寄港地として栄えた歴史・文化遺産が港町には残されている。Img_0090_edited 大波止・雁木・常夜燈・船番所・焚場という近世の港湾遺構をほぼ完璧に残す日本では数少ない港、ICCOMOS(国際記念物遺跡会議)からも世界遺産に匹敵すると高く評価された鞆の浦が、行政の「埋立て架橋計画」によって、世界遺産への可能性を完全に失わせられようとしている。昨年5月には「公有水面埋立免許」の出願がされ、認可が間近だと報告された。現在163名による免許差し止めの裁判も起こされているが情勢は厳しいという。Img_0040_edited NPO鞆まちづくり工房代表・松居秀子さんは、埋立架橋後のイメージを示し、その愚かさを訴えていた。「開発か保全か」という二者択一ではなく、山側トンネル案によって鞆の浦の景観と歴史遺産の価値を継承する道こそが、次世代へのわれわれの責任と訴える。フォーラムを受けて、瀬戸内海の歴史的・文化的資源と「海の路」の普遍的な価値を世界に発信するために挑戦する瀬戸内海宣言とともに、鞆の浦「埋立て架橋計画」中止を求める緊急アピールが採択された。Img_0125_edited

 鞆の浦と郡中は坂本竜馬の「いろは丸」でつながっている。幕末の慶応3(1867)年におきた「いろは丸」事件。大洲藩が土佐藩・亀山社中に「いろは丸」を貸し出し、鞆の浦沖で紀州藩の明光船と衝突し沈没した。賠償をめぐって万国航法にもとづき談判をしたのが坂本竜馬である。長崎で「いろは丸」を購入した郡中奉行所・国島六佐衛門。同行した豊川渉は『いろは丸終始顛末』を残し、「いろは丸」事件を世に伝えた。豊川渉は明治維新のあと郡中町5代目町長となった。Img_0080_edited この談判の舞台となった「町役人・魚屋満蔵宅」をNPO鞆まちつ゛くり工房が全国からの支援やWMF(世界文化遺産財団)設立スポンサーの助成を得て購入。2007年11月に修復・再現した。真新しい町家再生事業「御船宿いろは」を見学させてもらったが、6組が宿泊できる竜馬ゆかりの宿である。松居さんにも、いつか鞆の浦と郡中・長浜の「いろは丸」ネットワークをと伝えておいた。余談ではあるが、最近出版された澄田恭一『大洲・内子を掘る』(アトラス出版)では、謎とされた「いろは丸」の賠償金は土佐藩から大洲藩に支払われたという史料が紹介されていて興味深い。Img_0096_edited

 後藤太栄・高野町長が来賓挨拶でのべた言葉。「500年後に何が残せるか。気がつかないうちに変わってきた自然や文化と人間の関係が問われている」。鞆の浦の町並みを歩きながら、かけがえのない瀬戸内海の「海の路」世界遺産化の行方と懲りない日本の「官」害を思い浮かべていた。