本当は49日も納骨も
ちゃんと身内や親戚をよんだりして
しなければいけないのだと思うのだけど。
この時期、稲刈りその他で忙しいのである。
身内といっても兄が一人だし、病気をかかえていて
歩くのがやっとなのだ。
というわけで、変則だとは思ったが
僕一人で納骨してきた。
墓は昔からのもので修繕などもしていないので
あちこち傾いたり、ひび割れたりしている。
なんとか動かすことが出来た。
14年前に死んだ父の骨か、大きな脊椎が見えたが、
もしかしたら、ずっと前の土葬された先祖の骨かもしれない。
出来なかったのかも知れないが、
自分も歳をとって、それも親の骨ということで
なんということもなく作業を終えた。
般若心経と大悲心陀羅尼をちょっとだけ
つぶやいて終了した。
親不孝な罰当たりの息子でございます。
私が生まれたとき、貴女は23。
幼い私を見て、貴女は幸せだったか。
遠い未来に大きな夢を見たか。
幸せな家族の始まりだったはずだ。
それが今、貴女はベッドの上で幼子のように声を出す。
あれから56年。
幸せも知らず、私も忘れて眠りにつこうとするのか。
・・・
今朝、偶然見たカーナビの地デジで「手紙」という詩を知った。
老いていく親が子に宛てた手紙。
時が過ぎていくのは自然なことだが・・・
月曜日から母が帰ってきている。 ベッドにエアマット、経管栄養に導尿管、
痰を吸引するための吸引器など、一通りの装備を従えて帰ってきたのは
良いけれど、昨日おとといは毎晩痰のつまりがひどく、やむなく見よう見まねで
痰を吸引するはめになり、それでも、「ジュルジュルズルズルジョボジョボ・・・」
とうまく吸い出すことが出来たときは、母の苦しさなどおかまいなく爽快な気分に
なる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
というわけで、おたんこナースならぬとんでもナースになったりしている今日この頃
なのである。それでも、今日の朝は少しは会話が通じたりして驚いた。まあ、「寒く
ないか・・・」「寒くない・・・」程度の事なんだけどね。
それにしても、痰の吸引などは看護師のやっているのをみると、けっこう手荒くとか
乱暴にやっているように見えるのだけれど、あれも慣れなんでしょうか。
こっちは傷つけるのが恐くて、おっかなびっくりやっているのですが、なにごとも
おもいきり、というのが必要なのかもしれません。
というところで、経管栄養の管から水を入れているので、その落ち方を確認して
こようと思います。・・・なんだか点滴を見回るナースになったような気分です。
行ってすぐに帰ってくるのが出戻りなのに、
母は30日に帰ってきて、1日にまた戻っていった。
来たときは落ち着いていたのだが、昨日、痰がのどにつまって
苦しがり、吸引してもなかなか回復しなかった。
やはり家で看るのは無理がある・・・
ということで帰すことにしたのだ。
辱創もだいぶ良くなってきて、もう少しのようだ。
径管栄養が効いて栄養状態が良くなったからだろう。
ときどき起こる痰のつまりが無ければ、
家で看ることも出来なくはないのだが・・・
なんといっても、いつもだれかそばにいるという環境では
ないのが問題だ。
今日の読売新聞に、寝たきりで食べ物が食べられなくなった患者に
点滴や栄養をとらせることは「おぼれ死にさせるようなものだ」
ということが書いてあった。
動物は食べ物が食べられなくなると、苦しまずに死ぬらしい・・・
ホントかどうかは知らないが。
人も動物と同じで、枯れて楽に死ぬらしい。
点滴や管で強制的に栄養を入れられることは、もしかしたら
何もされずに死を迎えることより、よっぽど辛いことなのかもしれない。
食べ物を与えられずに虐待をされたとか、医者に診せずに
虐待したとか、よく聞く話だが、強制的に生かすことは
はたして虐待ではないのかと・・・
この記事を何度も読み返して考えてしまった。
月末には母が帰ってくる。
鼻から通した管から栄養を入れるやり方も、痰を吸飲する方法も
聞いてはきたが、母よ、アンタは・・・どうしてほしいのだ。
その身体で何を言おうとしているのか。