内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

心の学問と宗教の違い

2021-02-18 00:44:18 | ビジネス境界線
精神医学や心理学のような
心のメカニズムを研究する学問も
様々な宗教も

心の恐怖や苦しみなどを
解決するという一つの目的の上では
一致している

ただそのアプローチが
全く逆であるところが面白い

それは自我についての
捉え方である


心の学問は
自我の問題を
自我を中心として
解決することを試みる

自我が捉えられない領域について
存在を認めているが
その制御不能な不思議の領域と
自我がどう折り合いをつけていくか

あくまで主体を自我において
考えていくのである

そこには「心」という
一つの概念の存在を
明確に認めている考え方が
前提にあるからだ

命は存在するし心も存在する

だから心の学問である



それに対して
宗教的なアプローチは
もっとダイナミックな捉え方であり

命も心も自我も幻であり
存在しないという

自我が捉えられない領域の方に
真実があるという


どちらも自我が苦しみを生んでいる
要因であると考えるところは同じだが
スタンスが全く違うのである



私は精神病を経験したおかげで
どちらの考え方も
言っている意味が
何となくわかるようになれた


共通して言えることは
人間が社会で生きていくためには
この自我という道具の手入れは
大事だということである

自我の矯正が行われ
私の症状は全くなくなった

同じ環境下でも
捉え方が変わっていて
まるでパラレルワールドに
自分がいるかのごとく
前の自我から見た世界との違いが
面白いほどよく分かる

自我の手入れを数年続けて
この結果が生まれたのだが

心の学問と宗教的アプローチの
それぞれの立場から考えると
この変化への考え方が
大きく変わってくる


心の学問から考えてみれば
私は「治療に成功した者」になる

成功パターンの
自我の一つの矯正例として
学問対象になるかもしれない

人間社会で前と同じ
いやむしろ生きやすくなって
生活できるようになったからである

心の学問の目指すところは
恐らくここだろう



それに対して
宗教的アプローチから考えると
私はむしろ「遠ざかった」とも言える

精神的に問題を抱えていた状態の方が
自我機能が壊れている分
自我が捉えられない謎領域を
身近に感じられる位置関係に
あったと言えるかもしれない

ただあくまで道具である自我自体が
矯正され生きやすくなったとしても
それを否定する訳でもない

この立場からすれば
自我がどんな形をしてようが
そのことは関係ない

大事なのは苦しみが
自我から生まれている事を
体感として分かっているかどうかが
大事になる

分かっている主体は
勿論その自我なのだが
その自我自体が
幻であることも
自我自体がそれを体感として
分かっていることが大事になる


私のケースで言えば
症状などがなくなり生きやすくなって
また普通に生活出きるようになったが
苦しかった時も今の生きやすい状態も
本当は存在しない幻である自我が
どちらも生んでいるに過ぎない

ということを
この自我本人が理解している
という状態を
宗教的アプローチは求めている

これを踏まえると

私は私だという
きれいで強力な自己一致は
精神病から健康状態を作り出すが
宗教的アプローチからいえば
綺麗であろうが歪であろうが
強かろうが弱かろうが
この私が私という
アイデンティティ自体が
最終的なラスボスとなるのである


恐らく目指している
苦しみからときはなれた状態とは

そう思う自分自体がいない
主体がなくなった世界なのであろう


瞑想とは
死のシミュレーションだと言われると
なるほどと思う


私には
まだまだ分からないことだらけだが
瞑想を続けることで
自我が幻である片鱗や
その隙間から
この「主体のない領域」を
体感することができるのかもしれない

と昔であれば
全く信じられないような
こういった方向の話を
私の自我が随分と素直に
受けいられるようになったと感じる


それでも今は
私は自我のメカニズムの方が
興味がある

すなわち学問的アプローチの領域から
心を自我を捉えることを
今は選んでいる

そういう時期ではあるが
いつかこの自我が幻であることも
体感してみたいとも思う







字の綺麗さ

2021-02-12 21:33:17 | ビジネス境界線
習字について

小学校で習字の授業があると
とても違和感を感じていたのを
少し覚えています

先生が下手だから
採点や指導を受けたくない
そう思うのです

いや
「な」
「る」
はこっちの方が美しいだろ
お前偉そうに何言ってるんだ

とこう思うわけです


字を綺麗と思うのは
どういうメカニズムなのか

よくわかりませんが

人間自体が決まって好む
線と空白の空間を含む全体の感覚と

育ってきた環境で培われる
自我の境界線のタイプによって
感じる感覚


のブレンドなのではないかと思います


この二つの基準軸を言い換えると

①生まれもってきた
ある程度大人数に共通する判断軸と

②環境から手にいれた判断軸

の二つとどうやら言えると思います


小さな頃は
②について自分が選択することは
難しく
自分を育てている誰かの思惑に
随分と左右されます


私は比較的絵にかいたような
上級階級の幻を抱いた
親に育てられたので
何となく上品な教養を醸し出す文化に
ちょっとだけぶちこまれる
という幼少期を過ごしてきました


自分が少し興味があるものも
ありましたが
大多数は苦行意外の何者でも
ありませんでした


私はよく分からず静かにしていなければ
ならない音楽のコンサートが
とても退屈でした

だからプロのピアニストが
一つの曲で何回間違えるか
そこだけをいつも数えていました

私が
「今間違えた」
といっても誰もそれに気づかないことに
苛立ちも持っていました


私にとってもともと音楽というものは
それくらいなものでした

確かに面白いと感じる要素は
色々とあるにはありますが
「間違えてはいけない」
という圧倒的なプレッシャーと戦う修行
「感情は表現しなければならない」
という感情への圧倒的な強制感

この最悪な信念は音楽から
植え付けられたといっても
過言ではない

勿論音楽から得た大きな財産もあり
「出来ないものは細かく分けて
繰り返し練習すると
いつかできるようになる」
という練習法が身に付いたことは
あります

ここで大事なのは
強制されたものは
決して本当の意味で
自分の基準とはならないということです


私はピアノの先生が
「この感情表現を表すために
こう弾きましょう」
という部分に何度も心のなかで
反論してきました

「おれはこう弾きたい」
「こう弾いた時の音を自分に聴かせてあげたい」

そう思っているのに
それを強要される

これは控えめに言って地獄でした

だから今でもそのピアノの先生に
反論したところの基準は
教わったものには合わせない

例えばペダルで音が汚なくなるから
ここはいっそのこと全部ペダルは
踏まない

私はコンクールで入賞しようとはひとつも思っていない
この地獄から逃げられないのであれば
せめてただ自分が気持ちいいと
思う音にさせてくれ
という状態

私はアンビエントのように
音同士の輪郭がはっきりしなかろうが
ペダルを踏んで
爆発的に「盛る」演出を
常に吐き出したかったのだ

私が小学生の時に
表現したかった感情は
「怒り」であり「暴力」である


私は中学くらいになってから
課題曲を決める際に
その気持ちを一回先生に
打ち明けた事があります

「長調の曲は無理
短調でとても激しい曲しか
弾きたくないし聞きたくない」


私にとっては
「どれだけ暴力的か」
音楽については
美しさの基準であった
ということです

そしてその基準は今でも変わりません
デスメタルなど
最も美しいと感じます



話を戻すと今思い出すと
色々な強制的な習い事をさせられ
いい思い出がない中でも
一つだけ
「ああ、あの人の感覚は素敵だったな」
と感じる人がいました



ボロボロの一軒家で
突然どこからか移動してきた
習字の先生

その頃でもう60くらいに見えました

白髪と髭を生やしっぱなしで
いつもその和室で和服で
ちょんと座って待っている

まさに仙人


何もしゃべらない
何も怒らない

その日の書くお題が決まっていて
確か好きな時間にいって
好きなだけ書いて
見てもらって
「ここがいいね」
とかいって何も言わず
手本の字をそっと書いてくれて
返してくれる
全ての先生の字が凄いと思わない時も
あったが
いつも「はらい」の部分の美しさには
目の前で
すっとそれが出来上がっていく様に
見とれていた

何度自分で試しても同じ魔法のような現象は起こらないのです

今でもその時の朱色を
しっかり覚えているくらい
私はあの先生に心底
憧れていたんだなと思い出した

それは先生の字に対しての
憧れというより

「人間としての接し方」
にあるんじゃないかと思う

人間として憧れが起こると
自然とその基準が自分の中に
入ってくる


私は確か小3くらいで
人見知りも激しかったので
書いている人が少なくなると
照れくさくてすぐに帰っていた

でもとにかく
居心地がよかった
ということは覚えている



こうやって私の美意識は
作られてくる


結局人だ


この人がいいと思えば
その人の基準は美の一部になる


これが②の要素だとしみじみ思う










修羅場の決断をした「私」

2021-02-10 21:05:12 | ビジネス境界線
決断のとき

決断は体がどうなっていようと
着実に行われる


どうしてその決断が起こったかを
自分が理解する方が
私は時間がかかってしまう

それ自体が
私が私と思っているこの主体が
「決断をした私」
の事を分からないという証


修羅場で「決断をした私」には

いつにたっても追い付けない


私はその「私」を日々
追いかけている

そんな生活に変わってしまった



私の決断のとき

私は自分にとって
かなり重要な飯の種を切り捨て
違う選択をした

その違う選択の延長戦で
今日も何年も生きている


毎日不平不満を垂れ流しながら
でも後悔は全くない


それが重要な選択だったのは
明白だが

それも大きな意味で
飯の種まきであったかもしれない


だからこれは
やはり生命の自我が主体であり
自分が生きるための選択だった
のかもしれない


でもより自分にとって大事であることは
確実である


それがまだ言語化できない

でも中枢を捉えている感覚はある




退職理由

2021-02-10 20:47:34 | ビジネス境界線
人間関係が上位に上がる退職理由

転職の際には必ずきかれる質問

「この人がどうしても駄目」

という理由は
それを知らない人が聞くと
全く理解できません

「上司はこんな時に
こんな風にするんです
こんな人間なんです
どうしても耐えられない」


こんな説明になっても
その人や環境が分からない人が聞くと
全く理解できない

それどころか感情の捌け口に
されている気もするし
そこから逃避するための
当て付けでここにきたわけだ
と思われるでしょう


でもやっぱり
本当に人間関係が理由であることは
実に多いのです


拡大解釈してしまえば
どんな理由も
人間関係という言葉に
当てはまってしまいます


同じ理由でも
自分に合った転職先を
見つけられるかどうかは
転職をするタイミングだと
私は思います

何のタイミングかといったら
自分の心の調査の進捗ということです


人間関係の問題を
誰かに何とか聞いてほしい
というような心の状態は
恐らく先に挙げた例のように
なってしまう


もっともっとじっくり考察をして
「どうしてこの人が耐えられないのか」
「今までの感情は自分の何と相手の何がぶつかっているのか」
この辺りを明確にしていかなければ
自分が中心に動ける状態
すなわち主体が
自分に戻ってこないのである


人間関係が発端であったことが
突き詰めていけば
自分の中の問題に自然と
落ち着いてくる

ここで人間は
主体を取り戻すのである


私の場合は

ある恐怖症が自分にあり
それをもたらすのが
それを知らない相手であり
なおかつそれを告白すれば
それを利用されてしまう状況
であったとか

→恐怖症がなければ問題は起こらない

自分のビジネスと相手のビジネスの
商品同士の相性がとにかく合わない
とか

→ここだけはどうしても譲れない飯の種同士がぶつかっているからどちらかが退場するしかない
自分の飯の種が変われば問題は解決する

信念同士が正反対だとか

→この信念がなければ
問題は起きていない


この辺りまで分かってくると
それはもう人に説明するときには
「人間関係」が理由ではなくなる


むしろ自分は
こういう思いや信念を大事にしている
ということが
敵がいることで
よりはっきりしている

その主体を持った自分は
自然と外に目を向け始める

そして自分の思いと似てそうな会社を
探して応募する

ここまでいくともう勝手に出会うべき
会社にであるのである

反対に自分の中に問題をおとしこめて
いない状態では

宝くじのようにさまようことになる


それを面接する方はすぐにわかる


だから不採用にする


ただこれは幸せな結末だ


その会社はきちんと判断の上で
はじいてくれているということは
採用してくれたと等しいほど幸せだ


腐った組織ではこう思うだろう

奴隷として雇うに最適だ


もしくは人間という要素を全く意識
しない会社では能力やキャリアのみで
判断され採用

入社後にまた人間的な要素で
苦しむことを繰り返す


サラリーマン目線であっても
自分に主体があるかどうかは
自分の飯のミチを切り開く上で
最も大事だと思います

それは悩みの問題の要素を
自分の中に発見できるかどうかに
かかっていると思います










言語化について

2021-02-09 21:07:01 | ビジネス境界線
言語化というのは
向き不向きがある


ここで言っているのは
感情の言語化のこと


tft
タッピングというものがある


科学的な根拠はないが効果抜群!
という心理療法です


私はある本を読み

最初に
効く人と
効かない人がいる

効く人は超ラッキー
ただですから

という
最初の部分をよく覚えています


私は「超効く人」でした
だからラッキーでした


「自分の感情を書きなぐる」
というのでもある程度
効果がでるというか
自然にそれをやっていました


電車のなかで
毎日毎日
仕事のアイデアを書きなぐって
生活していた習慣もあり

感情を「書く」という行為が
自分にあっていました



私は極限状態の時
とんでもない怒りを持っていました

初めて人を殺したい

と当たり前に思う殺意が
私の中にずっとあり
それが随分自分を苦しめていました


私はその時
読んだ本に従い
怒りの発端の現場を
思い出しながら
このタッピングを試みたのでした

このタッピングは
自分の感情を言語化し
体の色々なツボ?をトントンしながら
その感情を何回も口に出していく
そういうものですが

とにかく
「より正確な感情を表せる
言葉を見つける事が出来るか」

そこが90%くらい大事だと
本にも書いてありました



今でも鮮明に覚えていますが
みぞおち辺りの最凶な苦しさが
「私はーーーーーーーーー」
と感情の文章を作って
トントンしただけで

スーっと
引いていった衝撃体験がありました



これは一体何なんだ?
魔法なのか?

その時は本当に不思議で
理由も分からず
藁にもすがる思いで
あらゆる感情を言語化することを
試みて
ひたすらタッピングを繰り返す
という時代になりましたが
あの瞬間ほど効果があったことは
その後はありませんでした


ですが一度でも衝撃体験をした私は
いわゆる
「怪しい心理療法」
という見方は完全になくなり
逆にこれがあるから
大丈夫と思えるほど
お守り的存在にまでなりました



しかし
今この現象をあらためて考えてみると
「当たり前」
という感覚しかありません


私は心の病気を経て
随分と心の領域に詳しくなりました

それからその現象を考えると
とても理由はうまく説明出来ませんが「当たり前」なのです


それだけ「言語化できること」
というのは
人間社会を生きている人間にとっては
パワフルな効果を持っているといえます




何故か?



今ならすらっと持論が言えます


自我が「それ」を認識します
認識したものは自我にとっての
「事実」になります

ただしその自我が認識した事実が
どう社会のなかで処理されるかが
一番の問題なのです


社会とは
他人を含んだ世界だけではありません

自分の中にも社会を持っている人が
ほとんどをしめるでしょう


その社会の中で
一つの自我が認識した事実が
「本当の事実」になるかは
その事実を共有出来るかどうかに
かかっているのです


私はこれが心の領域の問題のすべての
根源だと言ってもいいと思っています



事実を共有するために
最も最強の能力を持っているのが
言葉なのです


「私は○○と感じている」

この私は一体誰でしょうか?

今こう感じていたのに
仕事をし始めるとその私は
いつの間にかいなくなっている

その時は私2なのです

私が私2に対して

「私は○○と感じている」

と言語化することで
私2が私1の自我を認識してくれることに
繋がる


結果私1と私2の葛藤が
手を取り合う方向へ進んだりする



それが「言語化」の効果




ただ始めに書いたとおり
「言語化」が効かない人もいる


色んな自我があるのです
そりゃ
「言葉では伝わらないよ」
と言う自我もいるでしょうね


私はそんな時
ギターを使います


昔から音楽は自分にとって
人に聞かせるためではなく
自分に聞かせるために存在していました


事実を伝える道具は言語以外にも
無数にあるのです


本来カウンセラーは
言語以外にも
その人(自我達)に一番適した
コミュニケーション手段を
用意できることが
理想なのだと思います


自分は一つの組織であることを
常に意識して
存在を
事実を
認めてあげなければ
一つの生命の体と
自我の境界を
仲良くコーディネートすることは
出来ないのでしょう