内と外

中性よりの人間から見える世界から
「境界線」の性質を探ります

言葉は音

2021-02-18 09:44:26 | ビジネス境界線
足がかじかんでいる

この感覚を意識した瞬間に

「足がさむい」

と心の中で呟く


心の中の思考は
言葉で表現されていることが多いが

この心の中で現れる言葉は
何なのかを真剣に考えてみると

「音の記憶」

であることがわかった


アシガサムイ

と口に出した時の音声を
記憶から想像して
頭のなかで再生しているのである

文字の読み書きができない人も
思考は普通にするわけで
大多数の人はこの「音」を
使っていると思われる


すなわち音声の記憶がないと
言葉の思考は行えない
ということになる

ただしこれは耳が聞こえる人の場合の
一般的に落ち着く思考の言語化
メカニズムであり

耳が聞こえない人の場合は
参照する記憶としては

点字の触覚の記憶なのか
音ではない体内の振動の触覚の記憶なのか

私には分からない

しかし人は見直し何らかの
五感の一部の記憶を使って
思考を行っていることは
恐らく間違いないだろう



英語が話せる人は
心の中の思考も英語だという

この状態になるためには
「英語の音の記憶」と
その対象を結びつければいいことが
よく分かる


記憶は感情によって冷凍保存される

英語を覚えるには

①英語を聞いて
②その英語を真似して話しながら
③その意味の対象と五感で向き合い
④その感情を同時に意識する

このセットで練習すれば
いいのかもしれない





心の学問と宗教の違い

2021-02-18 00:44:18 | ビジネス境界線
精神医学や心理学のような
心のメカニズムを研究する学問も
様々な宗教も

心の恐怖や苦しみなどを
解決するという一つの目的の上では
一致している

ただそのアプローチが
全く逆であるところが面白い

それは自我についての
捉え方である


心の学問は
自我の問題を
自我を中心として
解決することを試みる

自我が捉えられない領域について
存在を認めているが
その制御不能な不思議の領域と
自我がどう折り合いをつけていくか

あくまで主体を自我において
考えていくのである

そこには「心」という
一つの概念の存在を
明確に認めている考え方が
前提にあるからだ

命は存在するし心も存在する

だから心の学問である



それに対して
宗教的なアプローチは
もっとダイナミックな捉え方であり

命も心も自我も幻であり
存在しないという

自我が捉えられない領域の方に
真実があるという


どちらも自我が苦しみを生んでいる
要因であると考えるところは同じだが
スタンスが全く違うのである



私は精神病を経験したおかげで
どちらの考え方も
言っている意味が
何となくわかるようになれた


共通して言えることは
人間が社会で生きていくためには
この自我という道具の手入れは
大事だということである

自我の矯正が行われ
私の症状は全くなくなった

同じ環境下でも
捉え方が変わっていて
まるでパラレルワールドに
自分がいるかのごとく
前の自我から見た世界との違いが
面白いほどよく分かる

自我の手入れを数年続けて
この結果が生まれたのだが

心の学問と宗教的アプローチの
それぞれの立場から考えると
この変化への考え方が
大きく変わってくる


心の学問から考えてみれば
私は「治療に成功した者」になる

成功パターンの
自我の一つの矯正例として
学問対象になるかもしれない

人間社会で前と同じ
いやむしろ生きやすくなって
生活できるようになったからである

心の学問の目指すところは
恐らくここだろう



それに対して
宗教的アプローチから考えると
私はむしろ「遠ざかった」とも言える

精神的に問題を抱えていた状態の方が
自我機能が壊れている分
自我が捉えられない謎領域を
身近に感じられる位置関係に
あったと言えるかもしれない

ただあくまで道具である自我自体が
矯正され生きやすくなったとしても
それを否定する訳でもない

この立場からすれば
自我がどんな形をしてようが
そのことは関係ない

大事なのは苦しみが
自我から生まれている事を
体感として分かっているかどうかが
大事になる

分かっている主体は
勿論その自我なのだが
その自我自体が
幻であることも
自我自体がそれを体感として
分かっていることが大事になる


私のケースで言えば
症状などがなくなり生きやすくなって
また普通に生活出きるようになったが
苦しかった時も今の生きやすい状態も
本当は存在しない幻である自我が
どちらも生んでいるに過ぎない

ということを
この自我本人が理解している
という状態を
宗教的アプローチは求めている

これを踏まえると

私は私だという
きれいで強力な自己一致は
精神病から健康状態を作り出すが
宗教的アプローチからいえば
綺麗であろうが歪であろうが
強かろうが弱かろうが
この私が私という
アイデンティティ自体が
最終的なラスボスとなるのである


恐らく目指している
苦しみからときはなれた状態とは

そう思う自分自体がいない
主体がなくなった世界なのであろう


瞑想とは
死のシミュレーションだと言われると
なるほどと思う


私には
まだまだ分からないことだらけだが
瞑想を続けることで
自我が幻である片鱗や
その隙間から
この「主体のない領域」を
体感することができるのかもしれない

と昔であれば
全く信じられないような
こういった方向の話を
私の自我が随分と素直に
受けいられるようになったと感じる


それでも今は
私は自我のメカニズムの方が
興味がある

すなわち学問的アプローチの領域から
心を自我を捉えることを
今は選んでいる

そういう時期ではあるが
いつかこの自我が幻であることも
体感してみたいとも思う