
「コミュ障」という言葉を、最近よく耳にするようになりました。
一般には「コミュニケーション障害」の略称として理解されていますが、勿論、対人関係の困難性から医学的な治療が必要となるようないわゆる「障害者」を指すような言葉ではありません。
「コミュ障」は、人づきあいが苦手な若者が自らを自虐的に評する際に用いることが多いいわゆる「ネットスラング」のひとつですが、まれに人とまともに話すことができない極度の人見知りや、どもり、対人恐怖症など本格的な症状を伴う場合もあるようです。
これは余談ですが、こうした「コミュ障」と呼ばれる症状の中には、自分の意見は活発に言うが他人の意見は全く聞かない「アッパー系コミュ障」というものや、他人の意見だけを聞き、自分の意見を持たない「ダウナー系コミュ障」というものもあるのだそうです。
さて、Googleで「コミュニケーション能力」を検索してみると、「ビジネスに必要なコミュニケーション能力とは?」とか、「コミュニケーション能力を高める方法」とか、この能力が生きて(成功して)いく上でいかに重要かを示す若者向けのサイトがそれこそ「嫌というほど」ディスプレイ上に現れてきます。
社会はそれほどに日本の現代の若者にコミュニケーション能力を求めている。そして若者にとってコミュニケーション能力は、それゆえに人生を左右するような重要な能力だと理解され、彼らにプレッシャーを与えているということになるのかもしれません。
11月15日のHaffington Post(日本版)では、精神科医でブロガーの熊代亨氏が、「テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの? 」と題し、コミュニケーション能力をこのように過大評価する現代社会の風潮に鋭い疑問を投げかけています。
最近は、どこの業種に行っても優秀な人ばかりを見かける。コンビニ然り、公務員然り。昭和の頃より皆テキパキ動いていて、愛想も良くて、意外と応用も利いている。 時々、これが空恐ろしいことのように思えることがあると熊代氏はこの論評で述べています。
そうとすれば、以前は普通にその辺にいたテキパキしてない人達、愛想の悪い人達は一体どこへ行ってしまったのか?これが熊代氏の疑問であり、この論評における問題意識と言えます。
コンビニやホームセンターの店員ばかりでなく、昔は相当評判の悪かった市役所の職員人や若い警察官の対応も、気が付けばえらくスムーズでソツがなくなっていると熊代氏は言います。今の若い人と話す限り、ネットスラングでいう「コミュ障」の兆候を読み取れる人にはなかなか出会わないというのが、最近の若者に対する熊代氏の認識です。
スポーツ選手から大学生のアルバイトまで、それぞれなかなかコミュニケーションも達者で、「ぎこちなく頑張って喋ってます」的な人や「真面目に働いているけれども超スロー」な人などは稀になったと氏は指摘しています。
思えば昭和の(頃の)時代には、テキパキせず、無愛想な、しかし地道に働き続けてきた人達が沢山いたように記憶していると熊代氏はしています。確かに私の記憶でも、少なくともその時代に街で見かけた(駅員、店員、職人、そして教師などの)男性の多くは、地方出身者が多かったこともあってか、もっと無愛想でもっと融通がきかなくてフレンドリーでない、ある意味もっと無骨な存在であったような気がします。
熊代氏は、こうした人々の変化の背景には「人材教育の効率化」のための例えば「マニュアルの徹底」のようなテクニカルな部分での進歩があり、確かにそうした手法の浸透により新世代の労働者の質が底上げた側面があるだろうとしています。しかし、「本当にそれだけのことなのだろうか?」と、氏はこうした状況への懸念を隠しません。
実のところ、小器用に振る舞える人間、融通の利く人間、汎用性の高い人間以外が、今の社会からは排除されてしまっているのではないか?要領の悪い人間、愛想の悪い人間が働ける場所が失われてきているのではないか?…これが、この論評における熊代氏の問題意識です。
ほんの数十年前までは、日本社会のあちこちに要領が悪い人、無愛想な人が溢れていたはずだ。いくら社員教育が充実したといっても、今の若い世代にだってそういう人が相当数いなければ辻褄が合わないと熊代氏は指摘しています。
老人の常套句に「近時の若者はなっていない…」というのがありますが、氏によれば、少なくともこの点では、「近頃の若者は、不思議なほどよくできている」と感心せざるを得ないということです。
氏は、精神科医としての臨床経験から言って、要領の悪い人や無愛想な人、不器用な人が消えてしまったわけではない(むしろ相当数がこれに悩んでいる)のは明らかだとしています。それにも関わらず、(昔はどこにでもいたような)そうした人達が気持ち良く働ける職場が社会のなかであまり見当たらないのは、見方を変えれば、とても怖ろしいことなのではないかというのが、この問題に対する熊代氏の見解です。
労働者の質が高くなり、サービスの質が向上するのが素晴らしいことなのは間違いないが、そうしたサービスが人間の切り捨てと排除に基づいて成立しているとしたら、それはそれで悲しいことだと思うと熊代氏は自らの見解を述べています。
テキパキしていて愛想や要領が良い人間ばかりが社会の表層に現れる社会とは、裏を返せばゆっくりした人しか持ち得ない妙味、愛想や要領の良さとは無縁の美徳といったものが水面下に消えやすい社会なのではないかと熊代氏は言います。
即応性や汎用性を持ち合わせていないだけで切り捨てられる社会がもしも訪れているとしたら、現代は本当に住みやすい時代と言えるのか。そういう意味では、テキパキしていない人や愛想も要領も悪い人でもとりあえず一人前に働けた昭和時代の方が、現代社会よりもマシだったのかもしれないという指摘がそこにはあります。
それでは、誰がこんな社会をつくったのか? …熊代氏はさらに続けます。
テキパキしてない店員は御免蒙りたい。愛想の悪い対応にはクレームをつけよう。融通の利かない同僚とは働きたくない。そうした現代人の欲望が寄り集まり、競争社会と個人主義の流儀に基づいて具現化したことによって社会全体を覆う淘汰圧が高まり、結局は私達自身に跳ね返ってきたのではないか…これが熊代氏の見解です。
サービスを受ける側としての私達にとって、そうした変化は欲望の具現化そのものだったのかもしれません。しかし、サービスを提供し社会を支える側としての私達にとっては、そうした変化は働くためのハードルを吊り上げ、社会を息苦しくするものでもあったということになるのでしょうか。
こうした高いハードルをクリアした若者だけが社会の最前線に立ち続けることを許されているとすれば、「現代とはなんと過酷な社会であることか」とする熊代氏の視点を、この論評において大変興味深く読んだ次第です。
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