三宅孝治の独り言

税理士三宅孝治の日々の想いを綴ります。

稲盛和夫塾長の記事です。

2014-07-05 16:45:02 | 経営者にちょっといい話
■(証言そのとき)不屈不撓の一心:7 競争相手に借りた回線 稲盛和夫さん


 1982年ごろから、行政改革の目玉として、電電公社の民営化、通信事業
への参入自由化の議論が盛んになりました。でも、誰も参入しようとしない。
当時の公社は売上高4兆円、従業員32万人の巨象でしたから、当然かもしれ
ません。


 ■25社出資し新会社

 当時、東京の経済界の若手メンバーの会合にちょくちょく出ていました。あ
る会合に、ウシオ電機の牛尾治朗さん、セコムの飯田亮さんがいました。私が
「電電公社の独占体制をやぶらないと、通信料金は安くならないと思う。だか
ら対抗する会社をつくろうと考えている」と言った。

 そしたら、牛尾さんが「ええっ、我々も何かしようと考えていた。どこまで
考えているんだ」と言う。私が「技術屋を何人か集めてやっている」と言うと
、彼らは「そこまで進んでいるんなら我々も協力したい。カネもだす」と言う。

 ソニーの盛田昭夫さんも来て「何をしゃべっとんや」と言う。事情を説明し
たら「おれにも出させてくれ」と言う。たちまち出資者が集まった。

 その後、京セラの取締役会で「創業以来、積み立ててきた1500億円の手
持ち資金がある。そのうち1千億円使わせてくれ」と言いました。遠慮してい
るのか、誰も何も言わない。多分「私が言うなら仕方ないか」という感じでし
ょうな。

 《84年、第二電電企画(後の第二電電=DDI)が発足した。京セラのほ
か、ウシオ電機、セコム、ソニー、三菱商事が発起人。25社が出資した。》

 どうやって東京、大阪間に回線を敷くか。光ファイバーを敷くために道路工
事をやったらえらいことになる。ちょっと掘るだけでも当時の建設省の許可が
いる。まして東京―大阪間を掘るなんて。電波は当時の郵政省から割り当てて
もらっても、国土の上は電波が交錯している。米軍、自衛隊、警察、民間。ど
こを飛ばしても他の電波に干渉する。どこを通っているかは国家機密だという。


 ■国鉄総裁に直談判

 困っていたら競争相手が現れた。旧国鉄系の日本テレコム(JT)、旧日本
道路公団とトヨタ自動車系の日本高速通信(TWJ)が手を挙げた。鉄道通信
の技術がある国鉄は新幹線の側溝に、道路公団は高速道路沿いに、それぞれ光
ファイバーを敷けばいい。

 私はすぐに当時の仁杉巌・国鉄総裁に会いに行った。「新幹線の側溝に光フ
ァイバーを敷くのなら、うちのも敷かせてください。賃料は払います」。そし
たら「あんた、何を言ってるんだ。国鉄の敷地を民間企業に貸してくれとはよ
くいうな」と言うわけです。

 面識なんてありませんから、けんもほろろの扱い。それでも言いました。「
国鉄のものは国の財産のはずです。国民に使わすのは当然じゃないですか」っ
て。

 そんなとき、電電公社の真藤恒総裁が「空いている無線ルートを提供してい
い」と言ったという話が新聞に載った。会いに行くと「あんたのところ、光フ
ァイバーが使えないなら無線しか方法はないはず。大阪―東京間に、使ってい
ない無線ルートがある。使わせてあげてもいいよ」と言う。真藤さんも競争相
手がいなければ、民営化も成功しないと思っておられたんですね。

 まさに徒手空拳でした。(国民のために通信料金を下げるという)大義名分
があれば進んでいける。幕末の坂本龍馬みたいなもんです。

(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年05月12日


      ………………………………………

■(証言そのとき)不屈不撓の一心:8 「携帯電話ならいける」 稲盛和夫さん


 通信事業への参入の自由化は続きました。1986年に電波法が改正されて
、NTTが独占していた自動車電話にも参入できるようになった。車から端末
を取り外して持ち歩ける携帯電話への参入も認められた。

 京セラはそのずっと前から、携帯電話の中核部品でもある集積回路(IC)
のチップを保護するパッケージを、米国の半導体メーカーに納めていました。


 当時、ICの進歩の速さ、小型化には、すさまじいものがありました。自動
車電話は難しくても、携帯電話ならいける。そんな予感がありました。車外に
持ち出せるショルダーフォンは3キログラムもあったけど、いずれは手のひら
に乗る電話ができて、一人ひとりが電話番号を持つようになると思っていまし
た。


 ■役員1人除き反対

 そこで、日米通信協議で自動車電話が自由化される見通しになった85年、
第二電電(DDI)の取締役会で「携帯電話に参入したい」と提案した。しか
し、当時のDDIは全国に無線のルートを整備している真っ最中。しかもNT
Tの自動車電話も赤字、米国でも同じような状態でした。

 役員1人を除いて、みんなに反対されました。黒字化まで時間がかかるとい
うわけです。「携帯に参入するのであれば、(普及し始めていた)ポケットベ
ルで利益を上げてからでもいいのでは」という意見もあった。でも、「いや、
最初から携帯。今やらんと後手に回る」と押し切った。反対した彼らも国内外
の事情を調べてみて、「自動車電話は厳しいけれど、携帯電話ならいける」と
いう考えに変わっていったようです。

 次は携帯電話の技術方式をどうするか、という議論でした。

 当時のNTTは自らの端末を設計し、技術を握っていました。メーカーはN
TT以外に端末を販売するには、手数料を支払う必要もあった。圧倒的に不利
です。「NTTの対抗軸となる」という方針を掲げていた我々は、そんなNT
T方式ではなく、米モトローラが開発したTACS(タックス)方式を採用し
ました。このときの判断が、DDIの飛躍につながりました。


 ■「あんこ取られた」

 ただ、それからが厄介でした。そのころ、トヨタ自動車系の日本高速通信(
TWJ)が「自動車電話なら」と手を挙げていた。しかし、周波数には制約が
あるので、当時の郵政省は、同じ地域にはNTTのほかに1社しか認めないと
いう。

 それぞれの地元は、TWJ系の日本移動通信(IDO)が中部圏、我々DD
Iは近畿圏。それでは、最も需要が見込める首都圏はどちらがやるか。これは
両社とも譲れない。首都圏の周波数を分配する案も出ましたが、それでは中途
半端になる。1年経っても調整はつきませんでした。

 膠着(こうちゃく)状態が続けば、NTTの独占が続いて国民の利益になら
ない。結局、首都圏をIDOに譲りました。首都圏と中部圏はIDO、DDI
は残りの地域となりました。我々の市場規模は向こうの半分。社内では「地方
からきっちり数字を伸ばしていけばいい」と言いました。

 ただ、取締役会では社外役員だったセコムの飯田亮(まこと)さんらに「ま
んじゅうのあんこを全部取られて皮だけやないか」と言われました。そのとき
は「皮だけでも食べていたら死ぬことはない。負けるが勝ちという言葉もある
」と言うしかありませんでした。

(聞き手=編集委員・多賀谷克彦)

朝日新聞 2014年05月19日 

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