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熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

『デス博士の島その他の物語』をめぐる物語、またはDeathnaut

2004年10月24日 | Wolfe
『デス博士の島その他の物語』をはじめて読んだのはいつだったか、
今では覚えていない。
その後『20世紀SF』に収録されたのを読んだが、感想としては
地味なファンタジーだな、というくらいでしかなかった。
一見して非常にわかり易く書かれているので、こちらとしては書いてあるとおり
「小説の人物が現実に現れ、ちょっとした大人の秘密を垣間見せる話」だと
受け取っていた。これだけでは、べつに驚くような話ではない。
小説がうまいとか、叙情的だとかいう部分は今ひとつ感じず、
けっこうそっけなくてあっさりした話にしか見えなかったのだ。

今回『ケルベロス』を読み、『アメリカの七夜』を読み、『ショウガパン』を読んで
中短編でのウルフの曲者ぶりを思い知らされた。
さらに若島氏の「デス博士ノート」の中で少し気になるところがあったので、
今回はこれを手がかりに、「デス博士の島」を再び廻って見ようと思う。
(以下、若島氏の記事に関しては「若島ノート」とする。)

若島ノートによれば、主人公タックマン・バブコックの「COCK」は
「子供」の意味を持つという。
またタックマンの母バーバラの愛称も「バブ」であるとのこと。
この点について言えば、Bubcockという姓は「バーバラの子供」の意味を内包しており、
さらに冒頭近くの「ミセス・バブコック」という記述により、この姓は
タックマンの父方のものであることがわかる。
つまり「バブコック」という名は、タックマンの出自を示す記号であり、
子供としての彼の立場を明らかにする証明でもあったわけだ。
冒頭で砂の署名が波に消されていくシーンは、それまでの自己が名前とともに
消失していく様子を表わしている。

母の再婚によって「バブコック」の姓を失うということは、タックマンにとって
「バーバラの子」でなくなることであり、同時に実父との唯一の繋がりをも失うことである。
父母との絆である姓を奪われることは、「子供」としての自我の終焉を意味し、
結果としてタックマンはひとりの「人間」として、世界に向き合うことを余儀なくされる。

これは獣から進化した「獣人」のイメージに重なる。タックマンはまだ「大人」ではないが、
もはや「子供」でもない。
そして、そのように仕向けたのはデス博士の鏡像であるブラック先生である。
彼は母を奪い、姓を奪うことで、タックマンの成長を「促進」させた。
ただし、タックマンの意志とは無関係に。

一方、母であるバーバラは、ブラック先生との関係によって母としての立場を捨てて
一人の女性としてふるまうようになり、さらにラスト近くでは怪しげな注射を受けている。
これはタラーがデス博士によって獣化処置を受けるシーンに対応しており、バーバラは
ブラック先生によって、人から獣へと変えられていっていると読むこともできる。

『デス博士の島』を読みはじめてから、タックマンはまずランサム船長と海岸で出会う。
ランサム船長は島へ漂着してくるのだが、この場面でタックマンは成長した姿に変容しており、
以後ランサムが出てくる場面では、彼はいつも大きくなっている。

外見上からランサムがジェイソンと結ばれているのは明らかだが、同時に彼は
タックマンとも深く結びついた存在であろう。
Tackは帆船における帆の開きの意があり、また針路の意味もある。帆の開きや針路を決めるのは
船長だから、タックマンとランサムの関係は明らかだ。
さらにRansomは語感として「孤独な」という意味のlonesomeに似ているが、
これはまさにタックマンの境遇そのものである。

一方、ジェイソンの名はアルゴ探検隊のリーダーであるイアソンに由来しており、外見以外にも
ランサムと結ばれた存在である。
イアソンは国を得るための条件として金羊毛皮をを要求され、これを盗んだ。
ジェイソンの場合はバーバラの好意を得るため、タックマンに盗んだペーパーバックを与え、
「おじさんがいいことしてくれたとママに話すように」促している。
そしてペーパーバックについては、ケバケバしい表紙が金羊毛皮を思わせ、書物という形態は
「羊皮紙」との関係も伺わせる。

タックマンにとってのランサムは、大人になった自分の姿を託された「男」であり、
一方では母を奪おうとする「男」としてのジェイソンにも重なっている。
そしてこの相反する2者を併せ持つ存在は、もうひとりの「男」であるデス博士にも当てはまる。

デス博士はブラック先生と結ばれているが、同時にタックマンの父の書斎にある胸像を思わせる
顔立ちをしており、また父のようにハンサムである。
ここで結ばれるもう一人の存在は、話の中に登場しないタックマンの父だ。
だからデス博士と会うとき、タックマンは大人にならない。

ここでのタックマンはあくまで子供であり、デス博士は父として彼を励まし、導く存在であり、
その鏡像であるブラック先生は、母を奪おうとする憎い存在である。
その一方で、デス博士はタックマンに母の「秘密」を見せ、結果的に母との別離を迎えさせる。
ここで注意したいのは、近所の人を呼びに行くことを決めたのはタックマン本人だということだ。
デス博士はブラックと違い、タックマンから母を奪い去ったわけではない。
なにをするか、ひとりで決める瞬間を与えただけである。結果が同じであっても、誰が何をしたかは
大きな違いなのだ。

バーバラについては、自らが「母」と「女」の側面を併せ持っているのが明らかで、
これをタラーの「巫女」と「野人」の姿に重ねるのは容易である。
若島ノートでは「タラー」の名は「岬産まれ」を意味しており、バーバラと
結ばれた存在であると指摘されていた。
しかし「バーバラ」の名もまた「野蛮、未開」を意味するbarbarを含んでおり、
その線で読めばバーバラ自身もタラーを象徴する存在であると考えられる。

タックマンと他のキャラクターとの親密さを計るものとして、彼に対する呼称があげられる。
登場順にあげてみよう。

ジェイソン…「ぼく」
ママ、おばさん…「タッキー」
ブラック先生…「坊や」
デス博士…「バブコックくん」「タックマン」「タッキー」
ブルノー…「ご主人様」
ランサム…「タック」
警官…「タックマン」

砕けた呼び方をするのは親族だけで、親密度が下がるにつれてあいまいな代名詞となってくる。
ジェイソンとブラック先生は、明らかにタックマンを疎んじている。もしくは人格のある個人と
見なしていない。
一方で特殊な呼び方をしているキャラクターもいる。特にデス博士はタックマンの全ての呼び名を
使っており、最後には親族と同様の「タッキー」になっている。
なおランサムは唯一「タック」という呼び方をしており、これには自分と同等の存在に対する
呼びかけといったニュアンスを感じる。

ここまで検証をすすめてみて、『デス博士の島その他の物語』という作品に対する感想が
はっきり変わった。
確かに、この物語はタックマンという少年の「心」の物語だ。ただし、この少年は明らかに
青年へと変わる入口に立っており、もうすぐ否応なくひとりで現実と向き合い、そして
やがては大人になっていく。これはその「少年期の終わり」のギリギリの一瞬を、選び抜いた
語彙と緊密な構成で描き出した、恐ろしく手の込んだ作品だったのだ。

デス博士たちはもともと、タックマンの「逃避としての幻想」かもしれない。
だが、彼らはタックマンを少年のままにはしておかない。
彼に自己の未来と今の現実を見せ、そして自分で決断させることによって、
自発的な成長の一歩を踏み出させようとする。現実の大人たちが彼を子供扱いし、
やっかいものと思っているのとは対称的に。
タックマンは自分の針路を進むために、この島を出ていくのだ。父と母を後にして。

一冊の書物、ひとつの物語が、ひとりの少年の父となり教師となる。
この「物語の力」を凝縮した作品が、いともあっさりとした語り口で
書かれているというすさまじさ。
読ませるための技法を超えたレベルで、自分が書こうとすることを
徹底して書き抜くことに全力を注ぐ作家の姿が、そこに垣間見える。
ウルフはやはり恐ろしく意地悪で、悪魔的で、読者に残酷だ。

『デスノート』と書いてみて、これが覚え書きの意味と同時に、『デス博士の島』へと
潜っていく探求者を指すようにも思えてきた。
ここに在るのは、ひとつの「デスノート」である。未読の方、あるいは再びこの物語へ
潜っていこうとする、新たな「Deathnaut」への指針となれば幸いだ。

この作品を旅して、あなたが金羊毛皮を見つけられますように。

ショウガパンの館にて(英名ジンジャークッキー)

2004年10月13日 | Wolfe
『ショウガパンの館にて』を再読してみた。
なるほど、ショウガパンってFFXIで言うところのジンジャークッキーなわけね。
この人型のお菓子、レンジで焼かれる人間の比喩と同時に、元ネタの『ヘンゼルとグレーテル』の
裏返しを示してるのか。人がお菓子で、家がそれを喰うというわけ。

といっても、「家はおまえを食べたりしない、おまえが家を食べるのだ」とあるとおり、
家を食うのは人間のほう。
アランの死因は家に使われたペンキのかけら、ジェリーの
死因はボイラー修理時に吸ったアスベスト。文字通り<家を食わされた>わけだが、
「結果は同じこと」になっている。

この裏返しの構造は子供の性格の悪さと魔女の立場の危うさにもあてはまる。
そして子供にイジメまくられる継母のティナは、もちろん『シンデレラ』。
ただしこのシンデレラは継母なので、変身すると『白雪姫』の魔女となり、見事
逆襲に成功。魔女だから、毒を使って既に2人も殺してるのがその証し。
そして彼女は王子/木こり/警部補であるディックに救われ、彼の子供に次の狙いを
定めるのでした、めでたしめでたし。

ちょっと見には刑事ドラマのような展開から、モダンホラーとサイコサスペンスの
併せ技へと持っていくあたりは、さすがウルフ。
家が焼け落ちた以降は、<喰う側>が<喰われる側>に置き換わっているのも見逃せない。

気になった点として、既に挙げた『シャイニング』(1980)の他に、『サイコ』(1960)、
『ヘルハウス』(1977)、『ポルターガイスト』(1982)などの名作ホラー映画を意識したような
描写が出てくること。
『エンティティー/霊体』(1982)なども同時期に撮られているし、このころって家モノホラーが流行ってたんだな…。
とここまで書いて、やっと初出のアンソロジー名が『The Architecture of Fear』だと思い出した。
ゲゲッと思ってアマゾンで調べると、「このアンソロジーは館モノと憑きものを集めたものです」
とちゃんと書いてある。
いかに英語が苦手でも、気づくのが遅すぎる自分にガックリずる。
というわけで、ウルフ入門にはこの短編が一番わかりやすいかも。

しかし、「館モノでアンソロジー作りますから、1本よろしく」と言われて
これを書いちゃうウルフって、やっぱり怖いと思う。
こうなると未発表だという『Redbeard』すなわち<赤ひげ>がすごく気になるなぁ。
ベースは『青ひげ』なんだろうけど、もしも『赤ずきん』との合体だったら?
狼はいったいどうなっちゃうの?とか、なんだか想像が膨らんでしまう。

ケルベロス第五の首(10首目)

2004年09月22日 | Wolfe
ウルフにしろラファティにしろ(あるいはワトスンもか)、作品中に宗教観が反映されるのは
欧米人のアイデンティティとしてごく当たり前のことなんだと、いまさらながらに思う。
日本人はそういうのが無いのが普通な反面、どんな宗教観やそれに基づくモラルでも「設定」の
一環として受けとめられる側面があるようだ。
それは柔軟性ともとれるし、理解が浅いという見方もできる。ウルフ作品を読んでそのあたりの
難しさを痛感した。

「V.R.T.」にしても、アンナの星でマリア(ウルフの母はメアリー)から産まれ、
(割礼にこだわってるあたり)ユダヤ教徒のようなヨハネ(マーシュ)に取って代わり、
そして十字架の星で捕らえられた男という話を聞けば、すぐにイエスの再話を想起する。
でもその中身の持つ意味合いをどこまで汲めているのかは、非常に心もとない。
「アメリカの七夜」も、なんとなく創世の七日間にも掛けているような気はするが、
双方の対応関係までは読みきれないし。
形式から見ることはできるけど、道徳的な側面が入るとさらにわかりにくくなる。

ただ、宮脇説の「肉体はどうでもうんぬん」は「アメリカの七夜」を読んだ限りでは
逆に思えたんですが。
人肉食を行ったものは、科学的理由であれなんであれ、結果としてツケを払わされてるわけだし。
ここには儀礼的な行動としての人肉食と、栄養学的な人肉食の差が出ているようですが
たとえばキリスト教的なモラル面での差異がどこまでのものなのかは、今ひとつ判断に苦しむところ。
聖体拝領は認めてるから、儀礼的ならOKなんでしょうか?

こういうテーマを裏に持った作品はキツイですな。識者のご意見とかを伺いたいところです。

ジーン・ウルフ特集2(もしくはドープ塗料と古い食器棚は火気厳禁)

2004年09月22日 | Wolfe
SFMの柳下氏発言で「悪魔です、悪魔ですよ」と連呼されたせいで、
ケルベロスの犯人は育ての親、デーモン・ナイトらしいと言うことはわかりました(笑)。

ウルフ特集、残りの掌編2作を一気に読む。
「ラファイエット中隊よ…」は、ウルフらしくないといえばないような、
スッキリとまとまった作品。
実は視覚イメージへのこだわりはかなり強いウルフだが、旧式機オタク風の
微笑ましいウンチクと、幻想的でロマンチックな空の邂逅シーンで綺麗に纏め上げた
印象がある。
とはいえ、出会ったのが旧ドイツの三葉機と南軍の偵察気球
(しかも三葉機はアメリカ人が作った複製)という取り合わせには、
絵的な構図を超えた不思議さを感じさせる。
過ぎ去った時代の奇妙な象徴同士の遭遇は、同時に「裏返しのアメリカ」としての南軍と、
フォッカーに乗った逆ラファイエット中隊との出会いでもあった。
それは「鏡像の存在」、ありえざるもの同士の禁断の邂逅だったのかも知れない。

そしてこの作品に「真に迫った複製は本物である」という、ウルフの
信念めいたものを感じるのは、他の作品の影響のせいなのだろうか。

「ショウガパン」のほうは、なんだか映画版の「シャイニング」を思わせる。
このヘンゼルとグレーテルの語りなおしでは、家ではなく人間がお菓子らしいが。
ここではキングの作風を真似てみようとしたようにも受け取れるが、注目したいのは
ティナのキャラクター。
ウルフ作品は母親が「母性」と「女」を行き来する、ともすれば(子供から見て)
魔物的な両義性を持った存在として現れる場合があるが、ここでは家に潜む狂気と
組み合わさることにより、よりはっきりとその魔性が浮かび上がっている。

特集の総体としてみると、作家性は感じるが「ウルフ好きだー!」と言いたくなる
セレクションだったとは言い難い。
「アメリカの七夜」も含めて「ここまで書ける」という腕自慢的な要素と、
「こういう書き方が好きなんだ」という意思表示が透けて見えるようで、
こりゃどうなんだろうという戸惑いはある。
まあ良し悪しは抜きにして、自己主張はかなり強い部類に入るような。

「ケルベロス第五の首」については、技巧の先に「書いても書いても書き尽くせないような」
ある種の切迫感のようなものを感じ、それが読み手の共感(鏡感)を誘うように思った。
(特にそれ自体が自立した作品である表題作には、そういった印象が強い)
今回の三作にはそこまでの情熱は感じられなかったせいか、「ケルベロス」ほどには
作品にのめりこめなかった。かといって話のスケール感を味わうには短すぎるし。
やはりデビュー作は特別な力を秘めているということを再確認した気分。

てことは、デビュー作が出るワトスンとかラファティなんかには期待しちゃいますな。
ってラファティは既に「パースト・マスター」が出ちゃってるけど、もう読めないしなー。

「アメリカの七夜」を一夜漬けで読む

2004年09月19日 | Wolfe
とりあえず「ケルベロス」は置いといて、SFMのウルフ特集を読み始める。
ウワサの「アメリカの七夜」、予想はしてたけど、やっぱりグダグダ感満点でした。
ウルフは細部にこだわりのある人らしいし、こっちも整理して読むべきなんだろうけど、
だからといって整理すりゃスッキリするわけでもないだろうし。
むしろこのグダグダっぷりがいいんじゃない?と、なかばあきらめ気味。

絵的に見るとなかなか魅力的だが、新味のない近未来SFのような光景。
しかしその風景に別の世界、別の時代の光景を重ね合わせる書き方をすることで、
ウルフはこの「アメリカ」に、なんともいえない眩惑感を与えている。
それはまるで遠近法の狂った絵、あるいは陽炎の向こうの光景のようでもあり、
その距離感と輪郭のあいまいさは、時間と歴史についての感覚にまで及んでいる。
エキゾチックSFの体裁でありながら、その姿は別の姿の二重、三重の鏡像であるという
形式は「ケルベロス」でも見られたが、ここでの表現はよりストレートだ。

とはいうものの、比較的わかりやすく読めるのはこの程度まで。
主人公・ナダンの行動については、やはりよくわからない。
コイツは旅行記を書きに来たのか女を漁りに来たのか。実は「写本絵画」を
盗むのが狙いだったようにも思えるし。
途中で「ネッド・ジェファソン」にもなっちゃうし、彼自身が名乗ってる通りの
人間なのかは誰も保証してくれない。この日記も削除と編集だらけらしいし、
実は本人じゃなく「文書作成機械」が書いてる可能性だってありうる。

日記をそのまま受け取ると、「クスリ入りの卵」をどの時点で食べたか、もしくは
どの時点まで食べていないかがポイントになりそう。
有力候補としては、卵の数が合わないのに気がつく前(その場合、空白の一夜がある)。
でも私の感じだと、ラストの描写が幻覚っぽく思えるんですが。

あと、インタビュー「一匹狼」で、ウルフ夫人がローズマリーだと初めて知った。
ヤースミーンって「ジャスミン」だとするなら、これは奥さんの名に引っかけてるのか?
「メアリー・ローズ」は奥さんと逆の名なので、こちらは売春婦や不義の相手を意味して
いるのかも。

でもお母さんはメアリーなんだよなあ。ウルフ作品にはそこはかとなくマザコンの気配、
もしくは隠れ母子相姦願望のようなものを感じるんだけど、どうでしょう?

ケルベロス第五の首(9首目)

2004年09月15日 | Wolfe
ブラント夫人の話からの検証を続けてみる。

話の順番が前後するが、「移民船と妊婦」の例えから考えると、
フランス人の姿のアボとは逆に、損傷のない身体を持つフランス人と
掠奪される恐れのある若い娘が「彼方の向こう」へと自主的に逃げたという
可能性も浮かび上がってくる。
このとき妊娠していた娘が子を産めば、その子は元フランス人であり、「沼人」であり、
「丘人」であるとも言えるのではないか。
(もちろんここはフランスではないから、フランス人ですらないけれど)
そしてそもそもの「丘人」についても、314ページの記述では、
「沼人」を起源に持つようにもうけとれる。

これは地球から異星を目指して星を渡ってきた移民の姿に重なりはしないだろうか。

極論を承知で言えば、守旧派ではなく、新しい世界を求めてさまよう者こそ
「自由の民」の名にふさわしいのではないだろうか。
そしてどこかの土地に根をおろし、その地の者となった時に「彼ら」は消えてしまう。
後にはその土地を名に持った「現地人」たちが残り、「歴史」はそれを繰り返す。
もうこうなるとルーツもへったくれもなく、世界も歴史もまた循環的であり、自己のコピーを
産み出しつづけているのだという見方もできる。もちろんそこには多くの「バリエーション」も
含まれるわけだが、根本的には同じものなのだ。

余談ですが、百四十三号独房の隣の「文盲で盗癖のある女性」は、ひょっとして
VRTの母ではないかと思ったりして。

ケルベロス第五の首(8首目)

2004年09月14日 | Wolfe
その後に思いついたこと。

「VRT」におけるブラント夫人の証言中で「フランス人は子供以外みんな
手足が欠けていたりひどい傷を」とあるが、これはアボの成人が満足に
道具を使えないことに対する、一種の偽装だった可能性もある。
(子供は不器用でもおかしくないし、変身能力が未熟ともとれる)
だとすれば、成人した「フランス娘」たちが入植者のいい男を奪っていくのは、
ヒトとの混血かアボの子を人間にもぐりこませる(同化させる)目的があったのかもしれない。
結局、アボは人間に「似た」のではなく、自らの意志で人間に「なろうとした」のだろうか。

ルェーヴの公理とはなんだろう。
ヴェールの逆であれば「人間がアボを絶滅した」なのだが、これが鏡像だとしたら?
この場合は、人間もアボも死んでおらず、そしてどちらも見分けがつかなくなっていると
いうことになるのか。トレンチャード父のように、お互いがお互いを真似ているのだろうか。
公理とは自明の理のことだという。確かにもうアボはおらず、入植者もいない。
アンヌに住む者はみなアンヌ人であり、アンヌ人になるのだ。

ケルベロス第五の首(7首目)

2004年09月13日 | Wolfe
ついに「V.R.T.」読了。これが最後の首となるか?

しかしこの話は読んでて苦しかった。
先に出ている話との関係性が非常に強いので、どうしても読みながら
チェックを入れる作業が出てくる。しかもつけ合わせれば合わせるほど
「?」という部分も出たりして。
読みにくいのではなく、文章にぶんぶん振りまわされる感じと言いますか。
あるいはクモの巣に絡まってベタベタになったとか、水草に絡まれて溺れるような。

「V.R.T.」(以下「VRT」は、文体の混在と視点の入れ替えがさらに激しくなり、読み方も
さらに広がりを見せる。(「悪文の再現」と言う荒業も飛び出すし)
基調である三人称の部分から読むと、この話は一話「FHC」の「始末書」みたいな位置付けだが、
実質的には「FHC」の事件への影響はあまり無い。
そして「FHC」が「わたしは誰だ?」という話であったのに対し、「VRT」では
「こいつ(マーシュ)は誰だ?」という視点からの物語になっている。

双方の話をブリッジするのが「ある物語」なのだが、こうなると相互のテキストが
お互いのコピーであり、かつ依存関係であるという形が成立し、さらにややこしくなる。
同じ内容の話を3タイプにわけて書いて、しかもお互いに補足しあってるうえ、どこが
発端なのかわからない。おまけに舞台も姉妹惑星の両方にまたがっていて、ますます
合わせ鏡めいている。

それにしても、「V.R.T.」とは何物なのか。
名前は日記から「ヴィクター・R・トレンチャード」とわかるけど、
「trench」なら堀割だから、マーシュとかぶるところがある。
日記の記述では発端が「事故」か「殺害」なのかはわからないけど、
猫(の姿をしたなにか)を媒介にして両者の合一が行われたように読める。
(犬の反対だから猫?女性であることを示してるのか?)
また、死体(どっちの?)を安置した様子が「ある物語」の
呪い師の洞窟に似ているのも気になるところ。
(ここも「犬の口」のような形状なので、「FHC」の館との類似も見られる。)

しかもこいつ、「ヴェール博士」ともかなり長く話しているらしい。
収監中の存在が「コピー好き」であるならば、ヴェールからの影響も
大きいのではないか。
そこから生まれたのが、三者の融合としての「ある物語」かも知れない。

(ラストで放ったテープは、これの口述の可能性もある。(字がヘタだから、
 もしくは館で録音したもの)2話はだれかがテープを入手して出版したものかも。)

そして獄中で「模倣相手」の無い状態で到達した「ルェーヴの公理」は
「一人の語り手」(少年=老賢者=狼)による、逆の真実の可能性を示す。
でも証拠はどこにも残らない。手で作られたものは後に残らず、
ルェーヴ(liev)はすでに「行ってしまった(left)」あとだから。

これで「わかった」と言えるわけもないが、感触はつかめたような気がする。
やはりテーマは「自己確認」なのだろうかど、追えば追うほどそれはいろいろなものに
溶けこんで、あいまいになっていく。そして「記録」もまた自己の「記録」を持たない限り
オリジナルの証明とはなりえない。結局「真のオリジナル」なんてものは見つからないのだ。

なんか「九百人のお祖母さん」みたいなまとめになりましたが、なにかを表現するのに
別のもので例える繰り返しという「表現の限界と相互による証明」も指摘されていたように
感じてるので、なんとも反省しきり。

話は変わるけれど、この作品全体に様々な形の「支配」「抑圧」が出てくる。
これは暗に相対的な「文明批評」を狙ってるのだろうか。
番号とそれによる固有名詞の代用、場所と個人の同一化など、なんだか
「プリズナーNo.6」っぽいイメージもあるし。
leftって本当に「左派」と読んだら、あまりにやり過ぎですが。

「VRT」では「わたし」の問題を世界や種全体に広げてる部分は見うけられるし、
そこに「アメリカ」を始めとする既知の世界や人種のイメージがダブってくるのは
避けがたいところ。
まあそうだとしても、「批判」ではなく「批評」ということで、善し悪しには
触れないわけですが。搾取なのか共生なのか相互依存なのか、あるいはみんなひっくるめて
同じモノの裏表なのかもしれないし。

あと、ジーンは「精霊」(ジン)の読み替えにもなってたりして。
老賢者と子供は一人になったら「wolf」だって言ってるし、
ジーニー叔母さんも空飛んでましたしね。

他にも細部をバラしてつつきまわすといろいろ出そうですが、それをやると
今の感触を失ってしまいそう。キリもないのでこのくらいでテープを放ります。

これでやっとウルフ特集が読めるけど、また振りまわされるのはちと恐ろしいなあ。

ケルベロス第五の首(6首目)

2004年09月04日 | Wolfe
「V.R.T.」に行く前に、ひとやすみ。

しかしこの本、読めば読むほど痛感させられるのが、
自分のシュミや思考法のクセとか読書傾向。
知識の無さは言うに及ばないとして。

結局どの物語であれ、「解釈」という作業をするにあたっては
読み手の知識や経験や思考パターンが介入してしまうわけですが、
本作ほどそれをいちいち確認させられた作品は無かったように思います。
まさに作品が鏡で、読むことで自分と向き合ってるような感覚。
謎めいた展開、省略や転換による飛躍、さまざまな象徴などが、
物語に安易に流される読み方を許してくれません。

テーマとしては「メタフィクション」や「自己認識」あるいは
「認識そのものの限界性」になると思うし、これらを扱った作品は
他にもあるけれど、ここまで読み手に「わたしという謎」を突きつけた
作品というのは、そう多くは無いんじゃないでしょうか。

読むにしろ書くにしろ、つまるところ自分の理解できる範囲から
抜け出すことはできない。その限界については再三にわたり
作中で触れられているし、読んだ自分も痛感しました。
では、これらの行為はまるっきり無駄なのか、といえば、そうかも知れません。
ただ、無為で無駄であり、同じところで終わってしまうと理解していても、
違う自分、新しい自分になれる可能性をさらに求めてしまうという
宿業めいた衝動についても、作中で書かれているところです。
それが書きつづける理由であり、読みつづける理由なのだとすれば、
どちらの側もこの繰り返しからは逃れられないのではないでしょうか。
それしか「わたし」を見つめる手段は無いのですから。

全部読んでないのに、もう総括っぽいことを書いてますが
いっぺんまとめとかないとどうにも落ちつかなかったもので。
これで腹くくって3話に行けそうです。

ケルベロス第五の首(5首目)

2004年08月30日 | Wolfe
いまさらですが、タイトルなおしました。
漢数字だったのをすっかり忘れてましたよ。

さきほどやっと「『ある物語』ジョン・V・マーシュ作」を読了。
これはもうヤバイ、相当ヤバイです。なんだかよくわかりません。
あんまりアレなので、ちょっとだけネットをカンニングしたら
「マーシュ」は「沼」のもじりとか書いてありました。
うーむなるほどと思う反面で、みんなしてそう思いこまされてるだけかも、
という疑いも出てきてしまったり。これじゃまるっきり作中人物と同じですな。

とはいえ、これをヒントにさせてもらえば「ジョン・V・マーシュ」は
「沼のジョン」なのだと思われますが、気になる点がいくつか。
まず、沼人の間では彼は「空の学び手」と呼ばれていたこと。
また「砂歩き」に「おまえは男じゃない」といわれたこと。
これを考えると、沼人は男に「ジョン」という名をつけないように思います。
だとすれば、「ジョン・V・マーシュ」は「2人のジョン」の合一した姿。
では、「V」とは一体なんでしょう?
私見では「V」は「ヴェール」ではないかと読みました。
(「ヴァーナー」か「ヴィンジ」だったらイヤだけど、可能性ゼロとは言えないなあ)

2話自体が「ヴェールの仮説」を証明するかのような内容であることが理由だけど、
「十字架の聖ヨハネ」が修道名であるように、この『ある物語』の作者名が
ペンネームあるいは偽名である可能性も高いわけです。
しかも、この「マーシュ」が1話の人物かどうかもわからないし。
「Vの女」ってなんかピンチョンっぽくていいなーと思ったのもありますが。
とにかく、ここにもまた「ケルベロス」の3つ首が見えてるように感じられます。

あと、「A Story」って「アボの物語」を暗示してるっぽいけど、
「by」だと採集者じゃなくて語り手がマーシュだという考え方もできる。
そうなってくると、アボ本人が語った話ともとれるし、あるいは人間によるまるっきりの
創作だということにもなりかねない。ますますこんぐらかってきました。
「作」ってそのへんを狙って訳したのかな?ひっかけとか福音書めいた書き方で
「による」としても良さそうだけど、このあたりは柳下氏の「親切さ」かもしれません。

2話全体の印象としては、1話(以下「FHC」)のアボ側からの語りなおしかなと
いう感じです。全体の構成はかなり似てるし。
口承文学風のスタイルを駆使してるあたり、ウルフの文体マニアぶりが伺えるように
思えます。「FHC」では西洋的個人主義を逆手に取ったような書き方でしたが、
ここでは文体の特徴を利用してさらにこんぐらかった世界観を披露して見せています。

ただし、アボの行動や特徴に「西欧から見た未開」のイメージが「あからさまに」
示されていたり、命名法の中に「七人の乙女」のような別の神話からの引用らしき
ものがあったりすること、さらにはアボの意識から容姿に至るまでが「影の子」からの
模倣らしいということを考えると、この「物語」そのもののオリジナリティ自体が
極めてあいまいであるという疑いも出てきます。
彼らの「伝承」も、実は別のものの無自覚なコピーなのではないのか。
そして、「丘人」と「沼人」の対立も、かつて「影の子」同士で「鎖国」と「開国」を
めぐって対立した歴史を模倣しているようにも受け取れます。

そして「影の子」もまた、次の「来訪者」たちにとっては「現地人」となり、
狩られる対象となるのでしょう。
来訪者に同化できなかった「アボ」は絶滅し、生き残った「アボ」はもはや
自分の元の姿すら覚えていない。
そう読むと、これが「FHC」の再話かサブテキストか偽装なんだろうと
感じる一方で、これがアメリカやアフリカや日本だと言われてもおかしくないよなと
思ったりもしたわけです。
まあ社会批判というよりは、これ自体が「FHC」で言う「近似の連続」を
文章化しようという試みなんでしょうね。
でも「キリンヤガ」よりは本質ついてるんじゃないのと言いたくなってしまうのは
私が単にコリバ嫌いだからです。裏でテクノロジー使いまくりの呪術師なんかいらねーて。

ここまでの思いこみが3話でひっくり返るか?
なんだか泥沼にはまってるんじゃないかといういやな予感が。

ケルベロス第5の首(4首目)

2004年08月29日 | Wolfe
この文章も3首を超えました。
首が三つ以上あれば、もうケルベロスじゃあないよな。
あずまんが大王なら「それケルベロスとちゃうで!」とか
大阪に言われそうだ。

よく考えると、やはりケルベロスは3つ首があたりまえ。
この本も3話で構成されてるし、基本の数字は3なんではないかと思う。
これを三位一体、父と子と精霊になぞらえても良いんだろうけど、
そこらへんはあまりよくわからないので流します。
とにかく、この「3の呪縛」から開放され「ケルベロス」ではない者に
なることこそ、「わたし」の究極の目的かもしれません。

ケルベロスから複製されるものもまたケルベロスであるならば、それもまた3つ首のはず。
「わたし」自身と同様に、「3人のわたしの物語」もまた複製されつづけるのであれば、
最初の3人以降の存在は常に「4、5、6番目の首」であり、語り手は常に「第5の首」として
父を殺し、息子に殺されることを繰り返していると読む事もできそうなんですが。
それならば、語り手の名は永遠に「第5号」でありつづけることになるのでしょう。
まあこじつけといわれればそこまでだけど、どうせ本当のことなんかどこにもなさそうだから
いっそこのくらい遊んじゃうのもアリだということで。

ところで、まだ2話から先は読んでません。
したがって「SFマガジン」のウルフ特集も読めません。
なんか危なそうな記事が載ってるらしいから、うかつに手がだせないです。
それよりも、早く2話以降を読まねば。

ケルベロス第5の首(3首目)

2004年08月26日 | Wolfe
1話を読んだ後に少し思いついたことを追加しておきます。

この話、SF的設定やガジェットがなければ、まるっきり
ゴシックホラーですな、っていまさら言うまでもないか。
本作で執拗に取り上げられる「わたし」や、その拠り所である
「システム」への執着、あるいはそれらへの疑念というのは
ゴシックホラーが繰り返し扱ってきたテーマだし。

ウルフはそのあたりを承知の上で書いてるんだろうけど、
このテーマにふさわしいから選んだスタイルなのか、それとも
オマージュというか、ある種の偽作っぽさを狙って書いたのかと
いうのも、妙に気になるところです。
「デス博士」でも、原テキストから新しい物語を作り出すという
ことをやってましたし、この人文章で遊ぶのがかなり好きそうだから。
ただし「ケルベロス」の場合、SFとしての仕掛けが施される事で
なまじホラーよりも複雑怪奇な作品になってるわけですが。

さて、この物語がウルフ自身の物語でもあるということは
明らかですが、だからといってこれが「自伝的小説」として
片付けるわけにはいかないところ。
むしろ本作は「自己」をテキストとしてこれを読み解き、
記録し、あわよくば改変してしまおうとする、作者自身への
「人体実験」の記録と読めないでしょうか。
これこそまさに、作中の「父」と「子」の姿そのもの。
そしてここでは、「言葉・文章」=「メス・鏡」として機能し、
作者はこれによって自分を写し出し、それを切り刻むわけです。

そして書かれる側によって語られた「物語」は、ラストで書く側の
「日記」として再生され、「書き手=登場人物」の合一化を
完成させます。
そしてここの時点で巻き戻された「物語」は、次の「わたし」
によって、再び語られる準備を整えることになるわけです。
そしてこの時、語り手の「わたし」である第5号の眼から物語を
追ってきた読者もまた「書き手」としての「わたし」、すなわち
作者へと合一化され、物語は全てを内に取りこむ形で閉じられます。
こうして読者である「わたし」たちも、ケルベロスのもうひとつの
首となるわけです。

まさに全員犯人で全員が被害者。とんでもない完全犯罪ですな。

「ケルベロス」ならぬウロボロス的な循環構造は、しかし
ディレイニーの『エンパイア・スター』とは違って、始めも
終わりもない物語であり、またその中に無限の広がりを秘めた
宝石でもありません。
むしろそれは終わりのない不完全さの連鎖、永遠の停滞、
「そしてここで終わってしまう」という焦燥と絶望の煉獄です。
「わたし」はその中で永遠に死と再生を繰り返しながら、
今までとは違う「わたし」としての再生を求めて
もがきつづけるのでしょう。
自己を切り刻み、また切り刻まれながら。

これを作家自身の姿に重ねると、ディッシュの『リスの檻』が
思い浮かんできますが、これはちょっと即物的ですか。

それにしてもこの話、やたらと「獣」にまつわるイメージが
出てくるのが気になります。
銅像、666番地、闘犬、4つ腕の奴隷の顔。
「わたし」が獣であるなら、アボは人間か?
あるいはアボが獣であるなら、「わたし」もアボなのか?
このあたり、まだ読みきれてないところがありそうで気になるところ。

ケルベロス第5の首(2首目)

2004年08月22日 | Wolfe
さて、いよいよ本編第1話についてですが。

まず一読してすっかりわかるもんではないけれど、
なんとなく見えてくるものはありますな。
物語の中に別の物語を埋めこむやり方とか、
その物語が全体を反映させるものであったりとか。
出だしの笛の話にしても、
「無くなったと思っていたものはちょっと見えないように
されていただけで、実はずっとそこにありました」という
ヒントめいた例えのようだし。

断片的なエピソードを並べていく手順は時系列に沿っているように見えるけど
実は前後関係も怪しいし、なにしろ「わたし」が最初と最後で同じ人なのかも
わからないといううさんくささ。だって出てくる人間は全部「わたし」だし。
肩にとまった猿の感じで「同じ猿だ」とかわかるのって、長いこと猿飼ってた人しか
わからないんじゃないのか。この「わたし」って、いつのどの「わたし」なんですか?
父殺しをしたのは「わたし」だけど、それは父である「わたし」の記憶かもしれないし
その記憶を持ってるのがだれなのかも定かではない。
なにしろ手記を読んだら書いた本人がびっくりするだろうとか言ってるんだから。
これが循環構造なのか入れ子構造なのか、もっと変な形式なのかはわかりませんが
一番似てるのは冒頭に出てくる図書館の中の様子かもしれません。
無数の物語の迷宮の中をぐるぐる昇っていく螺旋回廊。

そういえばヴィンジの綴りを勘違いして「ドイツ作家」にしちゃったというのも意味深な感じ。
あれは「グリムの世界」にひっかけてるのだろうけど、他にも綴り変えとか別の言語での
読み変えとかやってますよ、と言いたげにも思えてくる。
主人公の苗字はウルフさんらしい、というのはなんとなくわかるけど、本当にそれだけなのか、と
また疑問が湧いてくるわけですよ。

で、ここからは勘違いもいいところの読み変えなんですが、「メゾン・デュ・シャン」について
綴りとは別に「フランス移民」という部分とかけて「デュシャン」という苗字を連想したわけです。
だとすれば、この館もまた「独身者の機械」の系譜に連なる装置かもしれないなと。

この館の存在意義が「性」と「知識」という欲望を満たすメカニズムであり(この両者は
幼いころの「わたし」の覗きシーンで同一化して表わされているような)、それがひとりの
「独身者」の夢想から成り立っていることや、「わたし」という存在自身が
「習作」「失敗作」「複製」「バリエーション」という形で何度も生み出されては
廃棄されたり売られたり合成されたり、またコピーとオリジナルが混在し
入れかわるという状況やら、果ては女性版「わたし」まで登場するに至っては、
どうにもデュシャン的だなぁという感想も出ようというもの。
この作品において「わたし」の基本形はウルフ本人であろうし、「ジーニー伯母さん」の名が
ジーンの女性形をもじってるらしいのもわかりますが、それでも「もうひとりのわたし」が
混在しててもおかしくないんじゃないの、という気持ちは捨てきれないです。
小説版「大ガラス」だと考えれば、やたらと割れモノが出てくるのも納得できるし(?)。

詳細を煮詰めればいろいろ出るんだろうけど、一気読みの感想としてはこんな感じです。
二話以降を読むとどういうことになるか、楽しみなような心配なような。
いや作品に対してじゃなく、「わたし」に不安があるってことですよ、あくまで。

ケルベロス第5の首(1首目)

2004年08月22日 | Wolfe
このところ本を読まない日が続いたが、ここにきて
そうも言っていられない本が出た。
「ケルベロス第5の首」である。

表題作は本来は中篇として発表されたということだし、普通なら
一冊読んでから感想を書くのだろうけど、今回は一話読んだら
その都度感想を書こうかなと思い立つ。
理由としては、オービット初出時の読後感をシミュレーションして
見ようかなと思ったことと、主人公の立場を真似て、話を追うにつれ
わかってきたりわからなかったりの過程を記録して見ようかなという
ちょっとした思いつき。
で、まずは1回読んだだけで再読もせず感想を書きます。

まず最初に感じたのは、「ウルフって元からこうだったのか」というもの。
この人の作品、「デス博士の島その他の物語」と「新しい太陽の書」
くらいしか読んでませんが、成長物語にして教養小説風、どことなく
エキゾチックでなんだか退廃的なムードというところは共通してるんではないかと。
あとフリークもよく出ますな。
「ケルベロス」を読めば、ウールス4部作が「SF作家の書いたファンタジイ」とかじゃなく、
ウルフの向き合ってきたテーマと作風が必然的に書かせたものだということが確認できる。
この人もやはり「ジーン・ウルフ」というジャンルでしか括れないタイプかも。

ウルフの諸作を読むたびに思うのは、実に主観的な文体をしていると
いうこと。こういう「パズル的作風」を駆使する超絶技巧系作家は
他にもいますが、ウルフの場合は人称に関わらず、徹底して
作中人物の視点=意識のレベルから物語を語っているのが、他の
作家と異なる点ではないかと思います。
ライバーにしろディレイニーにしろ、いくらかは客観的な視線が
入ってくるものですが、この人の文からはそういう感じがしない。
人物も世界も、全てが主人公の感覚を通じてのみ成立しているというのは
ある種とんでもないテクニックかも。
ただ、この書き方ゆえに作品が曖昧模糊とした印象を強めるのは事実。
物語に没入するタイプにはうってつけな半面、世界観がはっきりしないと
ダメな人にはどうにもついていけないかもしれない。
極端な例えですが、ゲームで言うと3D酔いする人としない人の違いというか。
世界がグルグル回ると気持ち悪くなっちゃう人には向いてない感じ。

なんか前振りがのびて作品の内容にたどりつかないので、
一度仕切りなおし。次は1話目の感想から書く予定です。