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熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

「ある種の爬虫類の頭」

2006年03月07日 | Wolfe
昨日取り上げた映画のHPを見ながら『アイランド博士の死』を
再読していたら、唐突にニコラスの頭の意味するモノがひらめいた。
あの頭の形は、バブコックくんのエボシ貝が「一皮剥けた」ものなのだ。
さすがは『デス博士』の続編、きっちり「その後」の話になっている。
(ちなみに作中でタックマンは「タック」「タッキー」、ニコラスは
「ニック」「ニッキー」と呼ばれている。この類似にも注目。)
「ある種の爬虫類の頭」ですか。確かにそのとおりだけど。
こう考えると、彼が四六時中カッカといきり立っているのも、頭を左右に
ぶんぶん振り回しているのもよくわかる。若いから元気なわけだ。
なんでも性的シンボルに受け取るのはどうかと言われそうだが、ためしに
例のHPでニコラスの頭をごらんいただきたい。
どう見たって○○○にしか見えないから。

実は私がウルフという作家を「フェアだけど狡い」と思うのは、こういう所だ。
これだけ露骨にシンボルを見せ付けておきながら、それを感じさせないよう
巧妙に読者の裏をかくのである。
ともすれば下世話なギャグになりかねない事をぬけぬけと、しかも
読者の目の前でやっておきながら「コイツはナニをしてるんだ?」と
相手を煙に巻いてみせる芸当には、もはや笑いながら拍手するしかない。
やっぱり解説のとおり、ウルフには3本目の足…もとい、3本目の手が
ついているのだろう。
その3本目が見えないところでナニをやっているかは、実に怪しいけど。

ウルフ群島を漂流中~死の島の博士編

2006年03月04日 | Wolfe
『死の島の博士』を読了。姉妹、じゃなくて島医3部作中では
一番ストーリーラインがわかりやすく、深く突っ込まなくても
面白く読める作品だと思う。

ビジネスパートナーを殺害した罪で服役中の男がガンを患い、
その治療法が確立されるまで冷凍保存されることになった。
彼が目覚めたのは40年後。医療の発展でガンは治ったが
不死療法の確立した世界は、どこか奇妙な変貌を遂げていた。
やがて彼は懐かしい本、そして懐かしい人々と再会する。
しかしそれらもまた、奇妙な姿へと変貌していたのだった…。

『アイランド博士の死』を怒れる=イカれる青春小説とすれば、
こちらはビジネスあり不倫ありの、ほろ苦い大人向けロマンスか。
あるいはネガティブ版『夏への扉』といった趣きもある。
『アイランド博士』とは対照的に、こっちはある程度の歳を
重ねている人のほうが、すんなり共感できる点が多いかも。

本を人に見立てたり、不死と芸術の関係に言及してみたり、
やっぱり主人公の記憶があやふやだったりと、ウルフらしい
仕掛けや目くらまし、隠されたテーマなどはいろいろあるが、
読んでいる間にわずらわしくなるほどのものではない。
これなら一般受けも期待できそうな話である。

ただし前2作を読んできた読者にとっては、これがまたもや
正しい意味での「続編」だということがわかるはず。
ラストを読めば、これが3部作の掉尾を飾る作品だった理由も
納得がいくというものだ。
最後に出てくるのは真の意味での「デス博士」なのだから。

付け加えるなら、ここへ『島の博士の死』を加えることにより、
『The Wolfe Archipelago』はひとつのサイクルを形成する。
3部作だけでは線的な流れだった作品群が、人生の大きな輪を
形作るのである。
3部作読了後にもう一度「まえがき」を読んでみると、改めて
ウルフの巧妙な手口が実感できるというわけだ。

ただし、円環にとらわれて抜け出せなくならないように。
この先にはまだまだ「その他の物語」が控えているのである。

ウルフ群島沖を漂流中~アイランド博士編

2006年02月25日 | Wolfe
「あなたはまだどこかで怒ってるのね、心のずっと奥底で」

『アイランド博士の死』とは『デス博士』を構成する要素にさまざまな操作を加えて
生み出された「姉妹作」であり、『デス博士』と直接の関連は無いものの、テーマ上は
明らかに「続編」にあたる作品である。あらすじについて、以下にまとめてみた。

外科手術で脳を分断されたニコラス少年が送り込まれたのは、景色が囁きかけてくる
不思議な島だった。潮騒も樹の葉擦れも動物の鳴き声も、全て島の語りかける声となって
彼に届くのだ。
自らを「アイランド博士」と名乗るその島で、ニコラスは他の「患者」であるイグナシオや
ダイアンと出会い、彼らの導きで島の本当の姿を目の当たりにしてゆく。
しかしそんなニコラスを待ち受けていたのは、彼らもアイランド博士も決して語らなかった
絶望的なまでに残酷な「真実」であった・・・。

この物語の読後感を率直に言うと、とにかくやるせなくて仕方がない。
SF的らしさたっぷりのキラキラした意匠はそこかしこに現われるものの、
一皮剥けばそこにあるのは過酷な現実だ。
華麗な人工世界を描きながら、そこにはヴァーリィの書くような甘い感傷の
入り込む余地はない。
そこは単に見てくれが美しいだけの、出口のない巨大な水槽である。
主人公はその中に閉じ込められ観察される、一匹の小さな魚。
そして小さな魚には時として、大きな魚の餌としての価値しかない。
もし彼が食われなければ、他のものが代わりに食われるのである。
ニコラスの怒りと悲しみが島に嵐を起こしても、それは所詮コップの中の嵐にすぎない。
後に残るのは風と波の音ばかりである。

砂を噛むような苛立ちとむなしさ、そしてやり場の無い怒り。
この物語を読むときは、自分の中から湧き上がるそれらの気持ちを素直に受け止めたほうがいい。
さもないと、本作のシンプルなメッセージを眼前で見逃すことになりかねないからだ。
(変に理屈をつけようとして首をひねっていたときの私が、まさにその典型例なのだが。)
十代のころに読んでいれば、もっとすんなりと共感できたのかもしれないと思う。
あるいは全然わからなくて投げ出してしまっただろうか。

『アイランド博士の死』というタイトル。それは確かに嘘でも間違いでもない。
しかしその一方、このタイトル自体がひとつの罠であるということも、また事実である。
博士自身が答えを明かす前に、このタイトルが意味するところを正確に把握できた人は
まずいなかっただろうし、その答えに納得できても気持ちの上では釈然としなかったという
読者も、また多かったと思う。
そして読者がこの物語の結末にたどり着いた時、最初にタイトルから想像していた所とは
あまりにも違う場所へ来てしまった事に気づかされたはずだ。

その時に感じた思いは、我々自身の人生に対する思いといささか似てはいないだろうか?
「これはおれの思ってた結末じゃないぞ」
「いっぺんだって、物事がうまくいったためしがねえや」
人生のどこかで、こんなセリフが頭に浮かんだ時はありませんか?

ポール・ニザンを読んだことは無いのだが、『アイランド博士の死』を読んだ後で
「青春が美しいなんて、誰にも言わせない」という有名なセリフを思い出した。
冷静に振り返ってみれば、確かに青春なんてそんなものかもしれない。
うまく立ち回ることに汲々とし、生きるためにへつらい、怒りも悲しみも忘れ、
いつしかそれを思い出すことさえも無くなっていく。
人々はそれを称して、「大人になる」というのだろう。これはそんな物語だ。

・・・でも本当にそれでいいのか?
そんなものは、人間と呼べないんじゃないだろうか?
それはイグナシオのロボットに、あるいはアイランド博士と同じものになると
いうことじゃないのか?
ウルフはこの物語の中で、そんな思いを込めたかのような描写も行っている。

「アイランド博士の死」という言葉を、この作品の中で使われている意味から
さらにひっくり返し、我々がそうあるべきと考える意味へと戻すこと。
ウルフは読者に対し、自らの意思でそれを成し遂げろと呼びかけているようにも思える。
そう、私たちはまだ怒っているはずなのだ、心の奥底で。
だから最後に「アイランド博士」を殺すのは、私たち自身でなくてはならない。

あるいはそれがこの物語の最後に残された、いまだ果たされない結末となるのだろう。

ウルフ群島沖を漂流中~セトラーズ島再訪編

2006年02月22日 | Wolfe
さて、『デス博士の島その他の物語』。もちろん本書の表題作である。

波と風に洗われる半島を舞台に描かれる、少年期の終わりの物語。
静かな日々の下で蠢く獣性、物語と現実が侵食しあう世界の姿。
若島正氏のノートを参考にこの作品を読んだときの驚きと興奮、
見えている世界がガラリとその光景を変えていくときの感動は、
今でも鮮烈に覚えている。
その時の経験については、以前にこのBlogで書いたとおりだ。
小説を通じて感覚や意識の変容、さらには身体的な変化までを
ここまで見事に、しかもこの紙数で書ききっているというのは、
やはり恐るべきことだと思う。

作中でタッキーのママはクスリでトリップしているが、この作品は
読書というものがクスリと同等か、それを超えるトリップなのだと
誇らしげに宣言しているようだ。
そして読書という行為はまさに、その世界への「トリップ(旅)」なわけである。
(ウルフ作品の多くに「旅」が絡んでくるのは、これを意識しているのかも。)
巻末の解説では、柳下氏が本作の読み方についてのヒントを示している。
私はこれに沿って読むことで、物語にまた新たな楽しみを見つけられた。
再読、再々読時にはぜひお試しいただきたい。

「まえがき」にもあるとおり、この年のネビュラ賞短編部門は受賞作なし。
有名なAMEQさんのサイト「翻訳作品集成」によれば、同年の候補作には
ラファティ『完全無欠な貴橄欖石』もあったそうだ。
これか『デス博士』のどちらかが獲ってもおかしくなかっただけに、
「受賞作なし」とは、エリスンでなくても腹が立つというものである。

それにしても、この両者が同じ年の「オービット」に載っていたという事は、
同誌の充実ぶりをよく表していると思う。
(実はハリイ・ハリスンの作品を除けば、ネビュラ賞短編部門候補作は
全部「オービット」掲載作品だったのだが)
『ベスト・フロム・オービット』の再刊もしくは新編集版の登場にも、
ぜひ期待したい。

ウルフ群島沖を漂流中~まえがき編

2006年02月19日 | Wolfe
『未来の文学』第2期の第1回配本、『デス博士の島その他の物語』、ついに刊行。
一時の狂騒は去った気がするが、このところの再刊続きで相変わらず注目度が高い
ジーン・ウルフの、しかも著名な「島医もの」を中心とした傑作集である。

『一角獣・多角獣』の時は品切れ多発で苦い思いをしたので、今回は大急ぎで
購入に走ることにしたのだが、大手書店ではそれなりに数が入っていたらしく、
あっさりと買えてしまったのはちょっと意外だった。
自分の行ったところは結構な平積みがあったけど、本当にあれだけ売れるのか
むしろ心配になってしまうほど。まあ今の勢いなら大丈夫か、一応短編集だし。

せっかく入手できたことだし、読みかけの『新しい太陽の書』はひとまず横に置いて、
こっちを読んでしまうことにした。
まあ分量の1/3くらいは既読(表題作と『アメリカの七夜』)なのだが、再読するたびに
何かが飛び出してくるウルフのこと、さくさく読めるとは到底思えない。
読み終わって時間が経つにつれて、やっと印象がはっきりしてくる作品もあることだし
しばらくはこの作品集に翻弄されるんだろうなという予感、というよりも確信がある。
いつものパターンではあるが、まず読んだ順から感想を書いていき、気づいたところを
後から足したり引いたりしていく感じでまとめていこうと思っている。

そしていま読み終えたのは、本書冒頭の「まえがき」。
島医作品を集めた限定本『The Wolfe Archipelago』からの収録だそうだが、
この作者の家庭的かつユーモラスな一面が微笑ましく、さらに語りの達者さも
楽しめるという逸品だ。(娘さんの作という詩にも注目、この子もタダ者ではない。)
『デス博士の島その他の物語』がネビュラ賞候補に残ったときの逸話などは
読者のほうが泣けてくるほどの悲劇なのだが、それを書くウルフの語り口は
実に洒脱であり、かつてアシモフが『ヒューゴー・ウィナーズ』で書いていた
各作品への序文を思わせる。
そしてこの悲劇には後日譚として見事なまでの復讐劇がついてくるという、
衝撃の二段落ちが待っているのだ。
ウルフの持つ溢れる才能と生来のくせ者ぶりがよくわかる好エピソードであり、
これを収録した編集サイドのセンスもまたすばらしいと思う。
もともと限定本についていたこの「まえがき」を、本書で普通に読むことができるのだから
私も含めた日本のファンは、本当に幸せだ。
さらにつけ加えると、このエピソードの後にはさらなる大仕掛けが用意されているので
序盤だからと油断してはいけない。相手は狼なのですよ。

個人的にこの「まえがき」、星雲賞をあげてもいいくらいに面白かった。
ヒューゴー賞には縁が無く、ネビュラ賞では大恥をかかされた経験のあるウルフに対し、
極東の島国のファン投票によって、「島もの」の作品集の、しかもその「まえがき」に
賞をあげるというのは、かなり魅力的なおもい付きではないだろうか。
星雲賞も結局のところファンの遊びだし、本当に獲らせちゃってもいいと思うのだが
さすがに受賞までは厳しいか。せめて候補作くらいにはあがって欲しいものだ。
もしも「まえがき」は作品に入らないだろうと思う方がいれば、ぜひ実物を読んでいただきたい。
これが見事なまでの「作品」であることは、自信を持って保証する。

余談ながら、「まえがき」を意味する「Foreword」には、原書『The Wolfe Archipelago』を
船に見立てた「船首」の意味も込められているような気がする。
巻末解説の柳下氏の文章も、それを受けてのものではないかと思うのだが、どうだろう。

そしてわたしは失われた道をたどり、この本を見いだした

2006年02月16日 | Wolfe
そう、ようやく私はここへ帰ってきた。
もちろん、『新しい太陽の書』シリーズのことである。
最初に出版されたものを入手したのがいつか、完全記憶など無い自分には
当然思い出せないし、読み終わったという記憶はあっても中身をほとんど
覚えていないので、実は読んでなかったんじゃないかと言う気もしていた。

さて、その『新しい太陽の書』が、長い絶版状態からついに復活。
とはいうものの、流通量とルート(そして購入者)が限られているせいか
スラックスのごとき地方都市はおろか、ネッソスのごとき都の中でも
なぜだか一部の地にしか現われない日々が続いたのである。
そしてこの流浪の書が、ようやく自分の手元に帰ってくる時が来た。

実際に手にした第1巻『拷問者の影』を読んでみると、確かに見た覚えがある。
しかし、以前は全然読めてなかったということにも気が付いてしまった。
今でもこの物語がわかるとか、我を忘れるほど面白いと言える読解力などは
全く無いのだが、はじめて「目を通した」時よりは、経験を積んでいると思う。

ウルフの手管がちょっとでもわかっていれば、本書の序盤に脈絡無く置かれたような
さまざまなエピソードが、ウルフお得意のテーマであることに気づく。
その点に気づけば、物語が進むにしたがってこれらが大きな意味を持ってくることは
容易に予想できるはずだ。
そしてこれらの持つ「意味」もしくは「意図」というものは、作品を一度読み終えてこそ
明らかになるものであり、その点でこの作品は「終わりから書かれた物語」なのだと
いうことができる。
そして終わりまで読み終え、もう一度冒頭からこの書を読む時、物語自身が
自己を語りなおし、自己を作り変えていく姿を見ることができる。
作品自体が輪廻の蛇であり、自己が自己を食って転生させていくのだ。
今になってやっと、自分もその姿をおぼろげに見ることができるようになった。

先述したとおり、この書は「終わりから始まる物語」であり、その始まりの時点もまた
作者自身が恣意的に選んだものでしかないということは、冒頭のセヴェリアンの言葉から
読み取れる部分である。
物語の真の起点は、実はどこにもない。だからどこから始めてもよく、あるいはどこで読み終えても良い。
読み終えれば物語は死に、読み始めれば物語は復活する。読むこと(そして書くこと)は生きることであり、
すなわち「復活と死」の繰り返しなのである。(これはデス博士も語っていた。)
最後まで読み通せば、本は終わる。しかし物語自身は決して終わらない。それはひとつの不死の形である。

何度も書いた気がするが、きっとウルフはわかりにくい作家ではないのだろう。
手ずから読み方を教えてくれていることも多い。
ただし、彼の教え方にはクセがある。そのクセに慣れ、積極的にクセを盗まないことには
教えてくれているヒントにすら気づかない。
たぶんどの作家もそうなのだろうけれど、ウルフは特にそんな傾向が強い気がする。
パリーモン師が作中でスラックスの場所を「川の下流」といい、あわてて「いや上流」と
言い直すくだりもまた、この作家がわざと仕掛けたヒントのように思えてならないのだ。

ウルフはその本性を徹底的に隠す。ただしまるっきり隠しはしない。完全に隠してしまえば
それは存在しなくなってしまうからである。
ないはずのものがでてきたり、そこにあったものがなくなったり、全然違うものになってしまったり。
ウルフは言葉と文章でそれをやってみせる。そしてそのお手本は教典だったり神話だったり星座だったり
あるいは哲学書だったりするようだ。
もちろんその全てが読者にわかるわけでもないし、私も全然わかっていない。
でもそのうちのどれかがわかれば楽しめるということなら、きっといろいろな人が
いろいろな楽しみ方をできるはずである。
たとえば世界で一番読まれているとされる書物、聖書のように。
それがウルフの目指す到達点のひとつということが、今なら漠然と納得できる。

はじめてこの本を読んだときには、これらに気づく視点も、それを面白がる感覚も
持ち合わせてはいなかった。それまでウルフなんか読んだこともなかったから。
そしてウルフ経験がない人の場合、本書の序盤は読んでいてひたすらかったるい。
それは例えば、登山道のない山で山登りをするような感じだ。
読者を世界に馴染ませるための「仕掛け」、お客をもてなすあからさまなサービスなどを
あえて用意していないウルフの場合、登り始めの険しさは特に顕著だと思う。
(その手ごわさが好きだという、真のクライマーもまた存在するわけだが)
とはいえ、藪をかき分けてみれば、こっそりと道がつけられているはずである。
もちろんそれは「けもの道」なのだけれど。

自分の場合は2度目の巡礼にして、やっと道だけは見えてきたように感じている。
後はこの道を辿り、今度こそあの玉座に至るつもりである。

謝辞から読む『ケルベロス第五の首』

2005年12月04日 | Wolfe
なんとなく『ケルベロス第五の首』の謝辞を眺めていたら、
いくつか作品に関連する事柄が浮かび上がってきた。
確証はないのだが、思いついたことをここに書いてみたい。

謝辞の全文は、このようなものである。
「忘れがたき1966年6月のあの夜、わたしを豆から芽ぶかせてくれた
 デーモン・ナイトに」
ここからまず読み取れるのは、次の事柄だ。

・666が獣の数字である。
・BeanとGeneの発音が類似している。
・夜はデーモン・ナイトの名にかけてある。

この謝辞でも、『ケルベロス第五の首』という作品が極めて個人的な
色彩を帯びた作品であることがわかるのだが、さらに踏み込んで
「豆(Bean)」と「遺伝子(Gene)」の関係を考えると、
そこから「遺伝学の父」と呼ばれるメンデルの姿も思い浮かぶ。

さらに発想の飛躍を重ねてみよう。
メンデルと綴りが似ており、仕事の中身も似ていた者を考えると、
かの悪名高いメンゲレ医師の名が挙げられる。
第2次大戦中に双子を使ってさまざまな人体実験を繰り返し、戦後は
まんまと南米に逃げおおせ、事故死までその存在を隠し通した男だ。

メンデルとメンゲレ。遺伝と優生学の研究に力を注いでいたこの二人に
「犬の館」の主人、そして「豆」を芽吹かせた人物の姿が重なって
見えてくるのは、おそらく偶然ではないだろう。
なにしろGeneはEugeneの愛称であり、優生学は英語で書くと
Eugenicsなのだから。
さらに付け加えれば、メンゲレの苗字はヨセフ、つまりイエスの父の名と
同じである。
一方、メンデルの名はヨハン。すなわちこちらはヨハネである。

謝辞なんて普通は読み飛ばすものだが、そこにも物語の本編と
密接に絡んだ仕掛けを施しているあたりは、いかにもウルフらしい。
あるいは、これも作者からのヒントだったのだろうか。
「ほら、ちゃんと最初に書いてあっただろう?」
本人に会ったら、きっとそう言って笑うような気がする。
やっぱりウルフという人は、どこまでも食えない作家なのだ。

掌編ながらウルフらしい『録音』

2005年10月27日 | Wolfe
SFマガジン4月号が手に入ったので、『人間以上』は中断して
ジーン・ウルフの掌編『録音』を読んだ。
なかなか面白かったので、印象が薄れないうちに感想を書いておく。

執拗に語られる一族の共通点、全体に漂う不吉な予兆、そして
軽いけれど意味深長な落ちのつけ方など、ごく短いながらも
ウルフの持ち味が存分に発揮された好篇である。
とにかく短いので、凝ったテーマとかメッセージ性は求めずに
まずはそのスタイルや語り口を素直に楽しめばいいと思う。

ただし、小説を書いた本人はめっぽう食えない人物なので、
怖いところをあえてはぐらかして書いているという点は
読む前に承知しておいたほうがいいだろう。
怖さが前面に出るタイプのホラーが好きな人には、
たぶん向かないと思う。

ゴシックホラーのアンソロジー『恐怖の愉しみ』下巻において、巻頭掲載の
ウォルター・デ・ラ・メアに関する紹介文に、こんな一節があった。
「デ・ラ・メアの心理的怪異小説は、意識の外の怪異が主題になっている。」
「作中の人物は怪異を意識していない立場に置かれている。そこから意識し
 現視する以上の深恐怖が暗示されている。」
デ・ラ・メアをウルフに改めれば、そのまま『録音』の解説に使えそうな文章だ。
「どこが怖いというわけではないが、なにか薄ら寒い感じが残る」というのは
このアンソロジーの編者である平井呈一氏も好んだ作風である。
もし平井氏が『録音』を読んだとしたら、モダン・ゴシック・ホラーの好例として
きっとお気に召したことだろう。

ここから先は、ちょっとだけ突っ込んだ話。
辞書を引いたところ、The Recordingという原題からは
少なくとも3つの意味が読み取れそうである。
ひとつはストレートに「レコード盤」。
もうひとつは一族の「系図」。
最後のひとつは「記録」。これは「手記」と読み替えてもいいだろう。
タイトルひとつで、作品の中身がほぼ全部言い表されているというわけだ。
そしてこの話の本当の結末は、この「手記」の中には「記録」されていない。
それがなぜ書かれなかったのかは、たぶん読者の想像どおりだと思う。

あるいはこの作品をホラーと考えず、人生の苦さと奇妙さを書いた
技巧派の普通小説として読むのも良いだろう。
そこに恐怖を見るかそれ以外のものを見るかも、また読者しだいである。

『録音』というのはまさに直訳だが、あまりにストレートすぎるところは
むしろ訳者による意図的な「はぐらかし」のようにも感じられる。
わざわざウルフを難解に見せようと画策している気もするのだが、
やっぱりそれは考えすぎなのだろう。
個人的に別題をつけるなら、『地下室で発見されたレコード』か。
あるいはもっとシンプルに、ただの『レコード』でも良さそうだ。
日記帳にかけて『思ひ出』というタイトルにすれば、なんとなく
「ゴシックホラー」らしいような、らしくないような。

ヴァチカンからサント・クロワを眺めて

2005年05月21日 | Wolfe
録画しておいたNHKの番組「探検ロマン・世界遺産」を見た。
今回取り上げられたのはヴァチカンである。
ヨハネ・パウロ2世の死去直前から新教皇の選出までの時期に取材された
内容だけに、現場の生々しい雰囲気をとらえた貴重な映像だった。

ヴァチカンが誇る芸術品の数々もすばらしかったが、なんといっても驚いたのは
その地下にあるという歴代教皇の墓所、そして聖ペテロの墓所の存在だった。
ローマ教会は確か「ペテロが建てた家」と言われていると聞いたことがあるが、
映像でそれを見るのは初めてだ。

さてペテロといえば、その名が「石」を意味するということは
よく知られている話である。
今回の番組を見ているうちに、「ケルベロス第五の首」第2部「ある物語」の
冒頭に出てくる「1年が長い石転びの国」という一文を思い出した。
「石転び」をペテロの逆十字と掛けているならば、1年が長いということは
太陽暦もしくはグレゴリウス暦のことを指しているのではないか。
(太陽暦の1年は太陰暦より10日ほど長い)
カトリックへの言及がとみに指摘されるウルフだけに、
これは案外と当たっていそうな気がする。

(しかしこの考えを採用すると、「ある物語」の舞台は
キリスト教(カトリック)の影響下にある物語となり、
単純に「異星人の民話」と考えるわけにはいかなくなるが。)

さらに前述の発想を押し進めていけば、第1部の「娼館」が何の置き換えであり、
また主人公が父の後を襲うというシステムが何を擬したものであるかということも
明らかになってくる。
付け加えるなら、ローマ建国の伝説に「狼に育てられた双子」の物語があること、
教皇の愛称が「Papa」であること、これが英語の「pope」に近いことも、
作品内容との類似点として指摘しておきたい。

ルーツをヨーロッパに持つアメリカ人であるウルフにとって、今の世界が
カトリックの影響の下に形成されてきたという意識は、非常に強いものであろう。
そしてその世界が必ずしも理想の姿とはなっていないことや、他の宗教との
衝突を繰り返してきたこの宗派こそ、実は異文化・異民族の改宗=回収に
もっとも積極的であるという一面なども、十分に承知しているはずだ。
これらを十分に検討し、綿密な取材を経た結果として書かれた作品が
「ケルベロス第五の首」であったのではないかと、私は考える。

幻惑的な筆致で読み手を惑わし、それがあたかも遠い世界の出来事のように
思わせながら、随所に「もうひとつの物語」への手がかりを散りばめるという狡猾さ。
読者がこれに気づくとき、異世界の情景であったはずの物語はいつのまにか
「読者自身が在る世界」の鏡像へと、劇的な変貌を遂げる。
そしてこの「世界の変貌」は、我々の世界もまた「別の物語」の鏡像であり、
「歴史」の中で繰り返される再話でしかない、という可能性をも示唆している。
デス博士がタックマンに語った「君だって同じなんだよ」という言葉は、
まさにこれを指しているのではないだろうか。

番組中に、ヴァチカンの入り口を守る衛兵の映像があった。
その青年の姿に「第五号」の姿がダブって見えたのは、気のせいだったのか。

死せる神と新しい夢、そして夢見るものたち

2005年02月24日 | Wolfe
『探偵、夢を解く』、当初思った以上に引っ張ってしまっている。
最初はなんだかわからないけれど、取っ掛かりができるとだんだんと
形が見えてくるのは、いかにもウルフ作品らしい。
(こういう読み方は『ショウガパンの館にて』で身につけた気がする。)

しかも作中でそれなりに手がかりらしきものを置いてあるあたり、
まったく人を食った作家だと思う。さすがはウルフの名の持ち主。

さて、ホームズとプルーストについての重大な共通点がもうひとつあるのを
見落としていた。どちらも阿片中毒者だったのだ。
とすると、この物語は「阿片中毒者の薬物トリップによる推理物語」の
側面を持っているようにも思われる。

さらに、この「阿片」という要素は、かつてマルクスが唱えた
「宗教は民衆の阿片である」という有名な言葉へと結びつく。
阿片中毒の探偵と、宗教という阿片にまどろむ人々。
夢を見ているのは、果たしてどちらなのか?

そして捜査の中で見え隠れする、新世紀の新たなる神としての「資本」の存在と、
最後に探偵がたどりついた、「夢の主」の正体。
かくして古き夢は滅び、新しい夢が始まる…という読み方も可能ではないだろうか。
この作品は、世界の価値観が大きく転換する「その時」を、文学にまつわる
衒学趣味を散りばめて隠喩たっぷりに描き出した作品のように思う。

西欧文明はこれまでも何度となく自らの神を滅ぼし、新たな神を崇めてきた。
その繰り返しこそがヨーロッパの歴史そのものだということを、この作品は
再確認させてくれる。
まさに「歴史は繰り返す」のだ。
もちろん、それは別にヨーロッパに限ったことではないのだが。

さらに言えば、その価値観すらもかりそめの「夢」にすぎないのかも知れないのだ。

彼氏と彼氏の情事の事情

2005年02月23日 | Wolfe
前回からの続き。

アンドレーってアンドレ・ジッドのことか、と思った時、そういえば
秘書(かどうかは原文を見ないと、なんともいえないが)の性別って、
どこにも書いてなかったことに気づく。
げ、これってもしかして…

と思いまたもやネットを漁ってみると、あっという間に
「ジッドもプルーストも同性愛者である」と判明。
秘書の頬を見て欲情するあたり、どうも怪しいとはにらんでいたが
案の定といったところである。
さらにこの部分は、ホームズとワトソンの関係のパロディにもなっているようだ。
(あるいは二人がそういう関係だったという読みをほのめかしているのか)

さらに、松岡正剛氏の「千夜千冊」における『狭き門』レビューにより、
ジッドの従姉で妻だった女性がマドレーヌという名だとか、その夫婦生活が
異常なものであったこと、またジッドがプロテスタントだったとか、それを
批判した挙句に共産主義に傾倒したということを知ることができた。
こうなると、『探偵、夢を解く』から読み取れるモチーフのオンパレードも
いいところである。

またプルーストの『失われた時を求めて』が、実はゲイ小説の裏返しであったことも
松岡氏のものを含めたいくつかのサイトで、初めて知った。
ジッドとプルーストがそういう関係にあったかは不明だが、その可能性は決して
少なくないと思える。

こう考えると、女性を想定したあの箇所の訳文は見直す必要があるかも。
しかし今回の件は、「ウルフの文章に書き流しなし」という事実を
改めて突きつけられた感がある。

『ケルベロス第五の首』でも疑惑がささやかれたウルフ、かれもやっぱり
ディレイニーやディッシュのようなゲイ人さんなのだろうか。
もしそうなら、彼らこそ「ゲイは身を助ける」という言葉を痔で…もとい、
地で行っている作家たちと考えて良さそうだ。

書くまでも無いほど有名だが、「千夜千冊」はこちら。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html

イはインスブルックのイ(かも)

2005年02月22日 | Wolfe
『探偵、夢を解く』の続き。
ふと気が付いてまたもやネットで調べていくと、どうやらIはドイツの街ではなく、
オーストリアのインスブルックらしい。(わかる人はすぐわかったんだろうな)
アルプスに囲まれた街なので、列車での場面にもぴったり合致する。

なにしろここはかつて神聖ローマ帝国の首都で、ハプスブルグ家ゆかりの地。
王宮やら凱旋門やら黄金葺きのバルコニーがあって、最も大きな通りはその名もズバリ、
マリア・テレジア通りである。
しかも通りの中央あたりには、「聖アンナの塔」なるモニュメントまであるそうだ。
(聖アンナとくれば、サント・アンヌを連想せずにはいられない)
さらに、ここにはヨーロッパで一番高地にあるという動物園まで揃っているのだ。
(クリスタルで有名なスワロフスキーの本社もここだとか。水差しはこれにかけてるのか?)

さらにここでは、宗教改革と対立したカール5世がクーデターまがいの襲撃を
受けた地だということ。本人は危うく難を逃れたらしいけど。
で、この後にアウグスブルグの宗教和議、プロテスタント成立となるそうだから
インスブルックはまさにヨーロッパ史のターニングポイントだったわけである。
付け加えるなら、カールおじさんはフェリペ2世のパパだったそうだ。

はからずもヨーロッパ史の勉強をする羽目になってしまったが、
肝心な現地の教会の様子は、いまひとつわからなかった。
十字架とかレリーフとか、特にステンドグラスの記述を探したのだが
そっちは空振り。
とはいえ、インスブルックがステンドグラスの産地らしいという記述は
見つけることができた。

ついでに、インスブルック製のこんなステンドグラスまで発見。
http://www.museum.msu.edu/museum/msgc/jul01.htm
第一次大戦を記念して作られたものらしいが、こんなところにまで
出てきてるあたりが「やつ」のいつもながらのやり口なのだろうか。

探偵は夢なんか見ないものだ

2005年02月20日 | Wolfe
SFマガジンの特集で、ウルフのエッセイ『一匹狼』を読んで以来探していた
『闇の展覧会』第1巻。
普通に買える当時はホラーに興味なんて無く、キングの『霧』の部分だけ
立ち読みで済ませてしまっていたのだ。
まさかウルフの『探偵、夢を解く』を目当てに、これを探し回る羽目になるとは…。

そして先日、ようやく古本屋で発見。
300円なので即座に買って帰り、さっそく『探偵、夢を解く』を読み始めた。

…いやあ、相変わらずよくわからない話である。

さる筋の関係者から、街の人々に怪しげな夢を見せる「夢の主」なる人物を探すよう
依頼された男(実は探偵とはどこにも書かれていない)が、どことも知れぬ街に行って
聞き込みをし、その居所をつきとめて打ち滅ぼす。これが物語のあらすじだ。

しかし、例によって固有名詞は出てこないわ、話の中にドイツ語とフランス語が
ちゃんぽんで出てくるおかげで、人も舞台も特定できないわというありさま。
ただし、舞台となる街はヨーロッパの、たぶんドイツ周辺であろうという予測は
できるのだが。

本作はホームズもののパロディの形式をとりつつ、プルーストやジッドなどを想起させる
イメージを随所に盛り込んでいる。
(しかも仏文素人の私でもわかるくらいに露骨な引用の仕方をしている)
しかし全編を通して展開される物語は、むしろユングの「夢分析」の小説版といった
内容であり、さらにその夢の下敷きとなっているのは、すでに他でも指摘されている通り、
明らかに「マタイによる福音書」である。

だが、実はこれら以上に頻出し、しかも意外と目に付きにくいのが、
「金」「報酬」「商売」といった、いわゆる「資本主義」に結びつく要素たち。
どうやらウルフは、キリスト教を起源とする「資本主義」を神の姿に見立て、
それらにまつわる思想家たちの姿を、預言者たちの姿にダブらせようとしたらしい。
さらにジッドには『贋金つかい』『贋金つくり』という作品もあったことを考えると
文学とカネの関係も見えてきそうに思える。
(このあたりは全然読んでないので、かなり荒唐無稽な発想かもしれないが)

この作品の登場人物に「カール」という男がいるが、この名から連想される
19世紀末の思想家というと、まず「ユング」と「マルクス」があげられる。
どちらもこの作品のテーマと密接に関係した思想家であることは、言うまでもない。

さらに大風呂敷を広げれば、この話の舞台をドイツ帝国と考えた場合、
カールの名は第一帝国に当たる神聖ローマ帝国の王、ヨーロッパの礎となった
シャルルマーニュにもつながりそうなのである。
また、ドイツ革命に失敗した社会運動家の名は「カール・リープクネヒト」であり、
これがナチス第三帝国の台頭にもつながったとの話もある。
…こうなると、誰も彼もが疑わしい。

ここまでくるとあまりにスケールが大きすぎて、アタマを抱えたくなってくる。
下手をすると、ヨーロッパの歴史と思想史がこの短編に丸ごと入っている可能性も
否定できない。
キリスト教世界の誕生と資本主義社会の形成、絶対王政から帝国主義への変遷、
そして2度の世界大戦。
砕け散るカールの姿は、これから来るヨーロッパの瓦解を暗示しているようにも思えてくる。

ふと思いついてネットなどを調べていたら、ここまで話が広がってしまった。
もしもここに書いたようなことをすべて狙って書いたのならば、ウルフはやっぱり
化け物だと思う。
柳下氏や大森氏がSFMの鼎談で述べていたように、コンピュータもネットもない
時代の作品なのだ。ましてや検索エンジンもウィキペディアもないのである。
単語で芋づる式にネタを探るだけでも大変だというのに…。

この短編、誰か詳細に分析してくれないだろうか。少なくとも私には無理です。
…あと余談ですが、マタイ伝にもちゃんと狼が出てくるんですね。

「世界の選択」ということ、もしくはDeathmask

2004年11月17日 | Wolfe
前回、タックマンは精通を迎えたか、あるいは近々それを迎えるんじゃないかと
考えたわけだが、そうなると「声がわり」や「体毛」といった二次性徴と
「獣人化」の類似性に気付いてなかったのは大きな見落としだった。

実際に性徴が発現しているのか、あるいはこれからそれらが現れる予兆なのかは
わからないが、内分泌の変化による肉体的な変容や、精神の発達と逆行するような
肉体の動物化といった現象はもはや止めようもなく進行中であり、これらがタックマンの
理解の範疇を超えていたか、あるいは受け入れられない事態であったことは想像できる。
母の行状も含め、この異常な状況を理解し、受け入れるためのアイテムとして彼が見いだしたのが、
「デス博士の島」という作品であったとすれば、「大人の都合から成り立った世界」が
一冊のペーパーバックを通して読みかえられていく様子は、まさにタックマンによる
「世界の語りなおし」にほかならない。

しかしこれは、タックマンの側から行われる「子供にとって都合の悪い世界」の隠蔽でもある。
それはタックマン本人でさえ自覚していないか、あるいは巧妙に意識から締め出しているのだろう。
大人の世界の「悪」を、全て「デス博士の島」という作品の中に封じ込めてしまうことで、
一見して静謐で無垢な子供の世界が保たれているわけだ。
ここではタックマンの住む世界と「デス博士の島」という物語は、タックマンの意識の中で
交じり合い、同等の強度を持った現実となっている。
その現実認識が「理解できないものへの意味付け」なのか「恣意的な読み替え」なのかは、
もはやわからない。
あるいはそれらが混在した状態こそ、タックマンにとっての「現実」なのだとも言える。

(セトラーズ島は大西洋に、デス博士の島は太平洋に面しており、両者は鏡像の位置にあると
見られるが、一方が他方をフィクションと断定できないレベルに至った状態では、お互いの世界は
等価のリアリティを備えた、リバーシブルな存在と見なすこともできる。)

ここまでの流れで「デス博士の島」という本の果たした役割を考えるとき、その存在が
「知恵の実」であり同時に「パンドラの箱」でもあったという見方が浮かび上がってくる。
これらのアイテムをめぐる物語が『デス博士の島その他の物語』という作品の結末と
オーバーラップする要素を備えているのは明らかだし、その結末を災厄と救済、あるいは
進化と堕落の両面から読むことができる点も共通していると思う。
(もはや妄想に近い読み方かもしれないが、ここまで狙ってやっているように思わせるのも
ウルフの怖いところなのだ。)

作品全体の意匠は、「少年の孤独で無垢な魂」という外見を前面に押し出しているため、
読者はまずこの『デス博士の島その他の物語』という小説を、疎外された少年の苦悩と
空想の情景を描いた作品として受けとめることになるだろう。
この悲しくて切ない物語を、ストレートに味わうのもいい。一方、その内側で進行している
様々な「その他の物語」を想像し、ナイーブな少年の中に潜む心と身体の「煩悶」に思いを
めぐらすのも、ひとつの読み方だと思う。
また、そこから連想される「物語たち」を思い浮かべることで、語りの原型とでもいうものを
考えて見ることも、また興味深い。
それらの物語は同等のリアリティを持ち、また同じくらいにリアリティがないとも言える。
世界の信憑性なんてものは極めて恣意的なものなのだから、好きなほうを選べば良いのだろう。

タックマンもまた最後に世界を選ばされ、彼は自らの意志と判断でそれを選んだ。
そして彼は自ら選んだ世界を担い、その選択に責任を負いつつ人生を歩んでいくのだと思う。
これもまた「その他の物語」たちの中の、ひとつの物語なのだ。

タックマン自身も大人の都合に翻弄される、か弱い子供という姿を纏ってはいるが、
内面では発達していく精神と肉体の変容にさいなまれる「もう一人の自分」を抱えて苦悩する
「大人」としての意識が芽生えつつある。
そのどちらが真の姿であるというわけでもないように、この『デス博士の島その他の物語』という
作品自体が、いくつもの姿に変容する生き物のようなものだ。
あるいは、様々なマスクをかぶって我々の前に現れるレスラーか。
そのマスクの下にある顔が誰のものなのかは、もはや見るまでもないだろう。

トラックバックをいただきました

2004年11月15日 | Wolfe
『雨の中の猫』のexhumさんからトラックバックをいただいた。
ブログに伺ってみたら、読書会のお題で『デス博士の…』を読まれたらしく、
いろいろと刺激的な読みがなされている。
文学的な素養と英語力を駆使した読解が冴え渡っていて、非常に勉強になりました。
やっぱり英語ができる人はすごい。自分はそっちがダメなので、リズムや響きの持ち味は
すっぱりあきらめて、辞書とネットを参考に、語彙とか引用の部分で読んでいくしかなかった。
そういう点では全然読めてないし、本当の良さも見えてないんだろうなぁ、無念。
exhumさんの後輩の方が、今度はこの島からどんな物語を掘り出してくれるのか、楽しみです。

若島氏のノート自体は積極的に「読み」を見せていくのではなく、
キーポイントの洗い出しと、読み方の方法論を示すことに重点が置かれていました。
その手法を使わせていただいた結果が、前回の「感想」なわけですが、
作者のウルフが『その他の物語』というタイトルをつけてまで読者を挑発し、
若島氏も読み方の手がかりを与えて我々を誘い込もうとしているんだから、
まんまと誘い込まれた自分も誰かの呼び水にでもなればなぁ、というつもりで
ああいう締め方にしてみました。

なにしろ「君だって同じなんだよ」ってのを、やってみたかったわけです。
いくらかでも叩き台になったのなら目的は果たせたわけで、よかったよかった。
これでもうひとつ「その他の物語」がつながったのかなあ。

ほぼSF専門の本読みとしては、出せるネタも弱いしストックもないわけですが、
exhumさんのような攻め=責めの読みを見せられると、こちらも励みになります。
論考中、特に気になったのは「"barnacle"の挿絵を見る限りでは、その形は
ほとんどペニスにしか見えない。」という指摘。
ウルフ作品では、水は性的なシンボルと絡めて扱われるケースが多いので
(『ケルベロス』中、VRTの水浴シーンや奴隷のシャワーシーン、
『アメリカの七夜』の海と精液のたとえなどが代表例)、この「海岸でbarnacleを砕く」
という行為は、物語全体に関わるシンボルかも知れません。

貝を砕いてペニスとしての自己をさらけ出すという読み方をすれば、これは割礼もしくは
性器の発育の隠喩にも読めますし、少し薄いですが母からの別離という受け止め方も
できるでしょう。
ただ、ここに「海」という要素を絡めていくと、これが少年の「精通」を暗示しているようにも
思えます。この線から各シーンを繋げていくと、タックマンの心身の状況や、その行動の意味合いが
より明確になってくると思うのですが。

この手の書き方は、いかにもウルフ好みと言えそうです。『ケルベロス』の中でも、VRTが
暗闇の中で銀食器を磨いて自分の顔を映す場面がありましたが、あれも自慰行為の暗喩として
読むことができますし。

また、ママの「情事」についてですが、タックマンがその声を聞いていたという発想は
すっぽり抜けてました。
なるほど、タックマンの寝室にブルノーが現れたのは「アノ時の声」が原因だったわけか。
獣人が出てくるくらいだから、相当ケダモノじみてたんでしょう。
ママのほうも、少しは自重しなさいよ。

とはいえ、これらの読みも原型から複製された多くの「コピー」のひとつ、別の物語のひとつに
過ぎないのですが、それさえも作品の一部として「あらかじめ」タイトルに含まれている以上、
読む側も積極的に共作者/競作者の立場に加わっていっても許されるんじゃないか、と
都合良く受け取るようにしています。
ウルフ自身もそうやって物語を書いてきたらしいのは、作中で自白ずみですしね。